傘
雨です。
朝雨に傘要らずとは言いますが、これほどの雨脚となってしまっては、私たちを求める方々も多く、次々と仲間たちは帰らぬ仕事に出かけていきます。
申し遅れました。私は傘です。
透明なビニールで、何の取り柄もない――あ、白い柄はありますけどね、とにかくごまんといる仲間たちのうちの、これまた何の変哲もない一本です。
人間の皆さんは濡れるのがお嫌いだから、私たちを使うのですよね。そう、私たち傘は、あなた方に使われるために生まれてきたのです。
この時期はとにかく急な雨が多いものですから、ビニール傘は本当に引っ張りだこです。本当は皆さんもお家にこれぞという高級な傘があるのかも知れませんが、今この場になければ何の役にも立てません。そんなときに皆さんをお守りできるのが、私たち安価なビニール傘というものです。
私は生まれてから間もなく、何やら長い旅をした後に少々倉庫で寝かされ、それからこのコンビニにやって来ました。雨の降るたびに減っていく仲間たちを送り出しながら、ああいつ私の番が来るのだろう、と胸をじりじり焦がしていました。
ですが今日、遂に私のハンドルを掴んでくれる方が現れました。体がふわりと浮き、住処であった青いバケツから引き抜かれていきます。私は思います。みんな、行ってきます、と。そしてこの人間の方に、よろしくお願いします、と。
私を手に取った人間の方は、どうやら高校生のようでした。前髪や制服の肩から前面にかけてが少し濡れていますが、背中側はそうではありません。恐らく雨に降られた直後、このコンビニに駆け込んだのでしょう。
「五百円になりまーす。丁度、お預かりします。レシートのお返しです、ありざっしたー」
少々雑で事務的な店員のレジ打ちが終わり、晴れて私はこの方の所有物となりました。私はこの身の全てを以ってあなたをお守りします。出来ればどうか私を、大事に扱ってくださいね。
高校生は自動ドアを潜り、軒下に立って私のバンドをパチンと外します。外は相も変わらずの雨、寧ろどんどん悪化しているような気もします。高校生の溜息も相応に重いものでした。でも大丈夫です、必ず私が送り届けますから。
そして下ハジキを押しこまれた私は、戒めから解き放たれ自由を得た鳥よろしく傘を曇天に向け広げました。傘布であるビニールは六本の親骨と受骨によってピンと弛みなく張られ、庇からはみ出た部分には早くも雨水が当たって、露先から垂れていくのが分かります。
これからが私の仕事です。そう意気込んだのと、手元を握る手からこの方の心の内が伝わってきたのは、ほぼ同時でした。
――まさかこんなに強い雨が降るなんて。家から傘、持ってくれば良かった……。
それは不本意にも傘を買う羽目になってしまったことに対する、憂いの言葉でした。
そう、私は決して望まれて買われたわけではないのです。私を購入するためのお金で、一体何本のジュースが買えたでしょうか。五百円という価格は高校生にとって、安いものではないはずです。
だからこそ、と私は改めて決意します。にも関わらず自分を手にとってくれたこの方に、全身全霊で尽くしましょう、と。
雨の中に一歩踏み出した途端、私は傘であると同時に楽器となりました。大きな雨粒たちは止めどなく私を打ち付け、パーカッションを奏でます。指揮者はこの方。ハイテンポの歩調に合わせて上下する私は、まるでタクトのようでした。
こうして仕事を楽しんでいるうちに、周囲には同じ方へ向かう高校生が増えていきました。そのおよそ半数は色のついた布の傘、残り半数は私のようなビニール傘です。ビニール傘の端くれとしては仲間の活躍は非常に嬉しいのですが、複雑な気持ちもまたあります。
降るのが楽しくて仕方ないのでしょうか、雨は人間を弄ぶように勢いと降る向きを目まぐるしく変えていきます。そのたびに高校生たちは傘の向きを変えることを余儀なくされますが、人波が歩道にあぶれてくると、それすらままならなくなります。ちなみに私の持ち主はせっかちなのか、ここに至るまでに人の隙間をすり抜けつつ、やや早足で歩いていました。が、これ以上の独走は阻まれてしまいました。
――せめて、傘さえなければ。
ただでさえ雨の日は歩行速度が落ちるのに、傘が通り抜けるための間隙を埋めてしまっているのです。この方の苛立ちはもっともですが、私たちが職務を果たすためには仕方ないのだと、ご理解いただきたいところです。
校門まであと少しというとき。その風は、唐突にやって来ました。吹き荒れる強烈な向かい風に、多くの人は驚きの短い声と共に一斉に傘を前に倒します。私もこれを真正面から受け、流しきりました。しかし出遅れた、あるいはスペースの問題で対応出来なかった傘たちは容易く煽られてひっくり返り、あられもない姿を晒すことになりました。うち、いくつかは耐え抜いて持ち主を安堵させましたが、残りの傘たちは、露先が外れて布地を翻してしまったり、親骨と受け骨の接合部、いわゆるダボの部分で折れてしまったり――特に後者は致命的です。一度曲がった金属が完全に元通りにはならないのは、誰しもご存知のことと思います。
傘を無理やり閉じて壊れた部分を眺め触り、そして溜息を吐く高校生たちが目につきます。このタイミングで雨脚が弱まったのが不幸中の幸いと言うもので、彼らはずぶ濡れになる前に歩道の列を掻い潜り、校舎へと駆け込んでいきました。
突風の害を被った傘のほとんどは、私と同じビニール傘でした。私たち量産品は材質はチャチで、耐久性は低く、そして安価ですから、必然的に使い捨てられる運命にあるのです。壊れやすいのに壊れたらそれまで。なんというジレンマでしょうか。役に立てなくなった私たちを、持ち主はどう扱うのでしょう。
と、少し感傷的になっているうちに、無事昇降口まで辿り着きました。制服も鞄もほとんど濡らさずに済み、私はホッとします。
「おはようございます」
「おはよう。雨の中ご苦労さん」
私の持ち主は、登校してくる生徒をせり出した屋根の下に立って見守っていた若い男性教員に挨拶をしました。黒い肌とスポーツ刈りが特徴的です。それから主は先生に背を向けて私を下ろし、ストッパーである上ハジキを押し込み、次に逆の手で下ロクロをパチンと下ハジキに引っかかるところまで引き寄せ、傘を閉じました。傘布に乗っていた水滴たちは重力に従って石突に集い、雫となってパタパタとタイルを濡らします。
しかしこのままで屋内に入っては床を水浸しにしてしまいます。そこでこの方は私の手元を逆手に握り、まるで机を叩くような動作で繰り返し水切りをしました。それでも残っている分は、順手に持ち替え、びしょ濡れの犬よろしく遠心力で振り払ってくれたのです。こうして大方の水は落ち、屋内に持ち込んでもほぼ問題はなくなりました。ですがその上主は、懐から取り出したポケットティッシュで丁寧に谷間をなぞってさえくれたのです。
傘は雨に打たれるのが仕事ですが、その骨や軸は水に弱い金属ですし、濡れたまま放置されると生乾きによって臭ってしまうこともあります。ですから本来使用後は水滴を拭き取り、日陰で広げて干していただきたいのです。とは言えここは家ではなく外出先。ティッシュで拭いてくれただけでも、私なんぞには過ぎたお心遣いです。
周囲の高校生たちは当然、ここまでしてくれてはいません。それどころか閉じた傘をブンと大振りするだけであったり、申し訳程度に手首を捻るだけであったりがほとんどで、中には滴り続ける水を一切気にせず中に入ってしまう者も見受けられました。そのズボラさは傘にだけでなく、他の人にも迷惑が掛かります。
それに引き換えこの方は……。バンドでふんわりと巻かれながら、私は心を強く打たれました。
やはり所々に水滴の散っている廊下と階段を進み、主は自分の教室に入ります。数人と軽く言葉を交わし、私を教室後方隅の傘立てに入れました。
傘立ての中にはもちろん先客がいます。様々な個性を持った布の傘、私と同型あるいは柄の黒いビニール傘、あるいはシャフトを伸ばしたままの折り畳み傘まで。多くは濡れたままのため、徐々に水受けに溜まっていってしまうでしょう。他にも、バンドで束ねられてすらおらずスペースを圧迫しているビニール傘もいます。持ち主の傘や他人に対する無頓着さがありありと見て取れます。
そんな中で私だけが唯一、ほぼ完璧に手入れされていました。ビニール傘のくせに、という高級傘の羨望の眼差しをひしひしと感じて私は、優越感に浸らざるを得ませんでした。それもこれもあの方のおかげ。まだ出会って数十分ですが、私はあの方に手にとっていただけて本当に嬉しく思っています。例えあの方にとっては不本意な出会いだったとしても。
始業時間が迫って登校するものが増えれば、必然傘立てもギュウギュウ詰めとなります。そのせいで私の上半身は、枠から半分押し出されてしまいました。
やがて授業が始まり、生徒は皆席に着きました。持ち主とはだいぶ距離が開いてしまましたが、何とか顔は覗けます。次に私を握ってもらえるのは放課後でしょうか、それまではここで大人しく待っていることにしましょう。大丈夫、待つことには慣れていますから。
雨は未だに止みません。
昼を過ぎて最初の授業。そこで私は見覚えのある顔を目にしました。
「昼休みは終わりだ、席に着けー」
今朝私の持ち主と挨拶をした、健康的な出で立ちのあの先生でした。起立、礼、の号令の後、先生は少し険しい顔で口を開きました。
「今日は朝から大雨で皆大変だったろう。だけど――これは今日の授業の度に言ってるんだがな、校舎内に濡れた傘を持ち込むな。ちゃんと外で水を切らなきゃ、廊下が濡れて滑るだろ」
おお、私が言いたいことをズバリ言ってくれました。頷く首があったら何度も縦に振りたいです。
先生は生徒の反応が薄いことを見た上で、今度は表情を緩めてこう言いました。
「これは今朝昇降口で見たとある生徒の話だ。その生徒は先生に挨拶をした後に傘を何度も降って水を落として、しかもティッシュで綺麗に拭いたんだ。いくら先生でもそこまではしないから、関心してなぁ。きっと昔から家で教わってるんだろうな、と思ったよ」
私がドキリとしたのと、私の持ち主がハッと先生を見たのは同時でした。
教室はざわめきに包まれます。一体誰だろうという詮索の声が時折聞こえる中、主は僅かに赤くなった頬を隠すように俯いていました。間違いなくこれは主のことでしょう。私の中にも誇らしい気持ちが湧き上がってきます。
「先生もそうだが、皆も少しは見習うんだぞ。拭けとまでは言わないが、これからは水を垂らさないように気を配れ。……じゃあ授業を始めるぞ」
その時、私のせり出したハンドルが、何かにグッと押し返されました。犯人は、傘立ての目の前の席の男子の背中でした。椅子を後ろに傾けたときに当たったのです。彼は背中に感じた異物感に眉を顰め、振り返って私をギロリと睨みつけてきました。そして乱暴な手つきで私を骨ごと掴んで引き抜き、ぞんざいに挿し直しました。後先考えない彼の行動により、私は運悪く半開きのビニール傘の内側に入ってしまい、あろうことか石突でそのビニールを貫いてしまったのです。男子は手応えを自覚しながらも確認もせず、机に突っ伏して眠ってしまいました。
全ては私のせいではありません。しかし同じ仲間の大事なビニールを突き破ってしまったことに対し、私は罪悪感を抱かざるを得ませんでした。もう、先程の上機嫌など跡形もなく吹き飛んでしまいました。
チャイムが鳴り響き、一日の授業が全て終了しました。それを丁度狙ったかのように、空は一気に荒れだしました。窓に雨粒が散弾銃のように打ち付けられて、風も相まって割れてしまうのではという恐れさえ抱かせます。それを見て、今すぐ帰るのを躊躇う生徒も少なくはありませんでした。どうしても帰らねばという者は、傘立てから自分の傘を取って行きます。
間もなく私も、貫いてしまったビニール傘から抜かれました。未だ尾を引く後ろめたさは本来の任務とは無関係です。いざ気を引き締めて雨の中へ――と思ったのですが。
私の手元を掴んでいたのは本来の持ち主ではなく、あの傘を壊した男子、その人だったのです。見ると、持ち主はまだ自席で荷物をまとめています。
これはつまり……間違えられている?
確かに私は特徴がないことが特徴の量産品で、あの傘だけでなく他にも数本、九割九分同じデザインのビニール傘が立て掛けられていました。見紛うのも致し方ないのかもしれません。ですが……。
どちらの方でもいい。気付いてください! 私が、あの方の傘であるということを!
しかしそんな私の声にならない叫びは、やはり誰にも届きませんでした。教室を出る際最後に見えたのは、主が傘立てをまさぐって必死に何かを探している姿でした。
こうして私はこの、目付きが鋭く少々ガラの悪そうな男子生徒に使われることになりました。きっとこの方の本来持ってきた傘も、今頃傘立ての中で嘆いているはずです。とは言え、見分けの付かなかった彼を責めても何も始まりません。
彼は外に出てすぐ私を開きました。そして伝わってきた言葉は。
――壊しちまったオレの傘の代わりにパクったけど、まあバレねーだろーな。どうせビニール傘、いっぱいあったし。
私は傘です。人間を雨から守るための、道具です。相手が誰であっても私のすることは変わりません。
そう自分に何度も言い聞かせながら、私は彼に差されました。
そんな豪雨も、長くは続きませんでした。最後のは、半日近く降り続いた雨雲の断末魔のようなものだったのでしょう。今や雨を絞りきった雲の切れ間からは天使の梯子が下りてきています。
――んだよ止んじまったじゃねーか。もうちっと学校で待ってりゃ良かった。
と、濡れたズボンの裾を見下ろして舌打ちする彼に、こればかりは私も同意します。そうすれば今頃私は、あの方に連れられていたはずですから。
男子生徒は私を閉じてギュウっと束ね、杖のように一歩ごとにアスファルトを突いて歩きます。これをされると石突がすり減るばかりか、長期的に見れば衝撃で中棒がたわみかねません。体にダメージが蓄積されていくのを、しかし私には止めることができませんでした。
やがて駅に到着した彼は定期券で構内に入りました。足跡型のシミがそこかしこに付いています。そこをやはり私を杖扱いしながら進み、階段に差し掛かると逆手に持ち替えました。
そのとき発車のアナウンスが鳴り響きました。これを耳にしたこの方は一段飛ばしで階段を駆け上がるのですが――人間はその際必然的に腕を大きく振ります。彼の手には私が握られています。結果、階段中で男子生徒に追い抜かれた方々は、私の切っ先が眼前に迫ってくるという危険に襲われることになったのです。でも、実際に被害を受けた方がいなくて本当に良かったです。もしそのようなことになったら、傘を突き刺したこと以上に心が咎めたでしょうから。
駆け込み乗車という二つ目の危険行動を犯しながらも、男子は息を切らしている以外は平然としていました。しかも、一番端の席が開いていると見るや、滑りこむようにそこに着いてしまいました。すぐ近くにその席に座ろうとした高齢者の方がいたにも関わらず、です。きっと周囲が何も見えていないのでしょう。あの方とは大違いです。
彼は私を脇の手すりに引っ掛けると、スマートフォンを取り出してゲームに没頭しだしました。まあ、他人様に迷惑をかけるよりは何倍もマシです。
手持ち無沙汰となった私は周囲を観察します。電車内は人が多いですが、まだ混雑というほどではありません。真向かいの席には鞄を膝の上に置いてうつらうつらしているスーツ姿の女性がいます。彼女の横の手すりにも、私同様の白手元のビニール傘が提げられていました。そのすぐ脇、ドアの前に立っていたのは恰幅がよく頭頂部が寂しめの中年男性です。彼は窓の外、雲に隠れて見えない夕日を見つめています。
それから目の前で椅子を若者に取られた高齢で背の曲がった女性は、恨みがましそうに男子生徒を睨んでいました。でもそんなことお構いなしに彼は寝そべり、人が一人分立てるだけのスペースまでも奪っているのです。もう見ているこちらが恥ずかしくなってしまいます。
そんな彼は、終点の一つ前の駅に着いたときに立ち上がりました。おばあさんはもういません。男子生徒は停車後、周囲の迷惑など顧みず勢い良く立ち上がると、中年男性の後ろに着いてそのまま両開きのドアをくぐって行きました。
あれ? 私は……。
呆然としているうちに、彼の背中が人混みに紛れて消えてしまいました。数秒後ベルが鳴り、電車は私の身に起きたことなど知る由もなくその駅を出発しました。
「次は、終点。終点――」
一本取り残された私は、慣性に傾きながら思いを巡らせます。仮の持ち主さえ失った私が、これからどうなるのかを。
恐らく終着駅に着いた後、点検に来た駅員に遺失物として回収されるのでしょう。聞いた話では駅で数日保管された後、警察へと輸送されるのが普通だとか。ただし持ち主が名乗り出てその手に戻ることは極稀で、残りは結局半年経過によって所有権が鉄道会社に移るのだそうです。そうなってしまえば、いや、忘れ物として回収された時点で、もう傘が傘としての仕事に戻れる望みは絶たれるも同然です。
たった半日。誕生から過ごした時間と比べればあまりに儚いものでした。ですがあの方のお陰で、楽しい思いが出来ました。
心の中でハハ、と乾いた笑いを漏らす私の体が、大きく揺れてから垂直に戻ります。遂に終点に到着です。乗客は見えない列に従っているようで従っていない、そんな流れで降車していきました。しかし、私の正面のOLは、終着駅に着いたことにも気付かずに一人船を漕ぎ続けています。相当お疲れなのでしょうか。
そして遂に隣の車両から、目を光らせている駅員が歩いてきました。その手には既にビニール傘が二本あります。彼は俯くOLを一瞥してから素早く私を回収し、彼女の方に歩み寄りました。
「終点ですよ。起きてください」
声を掛け、肩を揺さぶってようやく目を覚まします。
瞼を擦るOLに駅員は、乗り過ごしではないかなどを訊ね、問題がないことを確認すると私と共に去ろうとしました。しかし今度はそれを、OLが呼び止めました。
「あの、私の傘が無いんですが……それじゃないですか?」
「これですか?」
「白い柄のビニール傘で、手すりに掛けておいたんです」
見ると、彼女の傘があった位置には今、何も掛かってはいませんでした。いつの間に失くなったのか回想すると、少なくともあの男子生徒が降りようとする頃にはまだあった気がします。
それはともかく、私が彼女の傘ではないことは私が知っています。それに駅員も、取得位置の違和感に首を傾げていました。彼は少々逡巡した後、OLに背を向けて私を広げました。
「何か特徴はありますか? 名前が書いてあるとか、傷の位置とか」
「いえ、今日買ったばっかりなので……」
――違う気もするけど、これも新品みたいだしいいか。どうせビニール傘に持ち主なんて来ないし、傘の保管スペースをちょっとでも減らせるなら。
それが、駅員の心の声でした。合理的と言えば聞こえはいいかもしれませんが、その傘本人にとっては煮え切らないものがあります。
彼は私を再び束ね、OLに差し出しました。
「では、お受取りください」
「ありがとうございます」
電車を降り、人混みを掻き分けて辿り着いたのは、一瞬は二度と拝めないと覚悟した空の下でした。雨は降っていないので、皆さん傘を提げて歩いています。OLも歩道の水溜まりを避けてハイヒールを鳴らし続けました。
そのうち大通りを曲がると、大きな建物が見えてきました。その庭では子供たちが楽しげに走り回っています。つまるところ、保育園です。
彼女はママ友と思しき女性や手を振る園児に応え、先生の元へ行きます。そして帰りの準備を終えていた女の子を呼び寄せ、三人で合わせて「さようなら」と間延びした挨拶をしました。
鞄と私を左手にし、右手は弾むように歩く娘さんと手を繋ぎ、彼女は自宅へと帰っていきます。
私は、マンションの共有廊下に面する窓の柵に、バンドを外した状態で掛けられました。本当は広げてもらえたほうがよく乾くのですが。
窓の向こうからは、母娘の会話が聞こえてきます。帰り道だけでは話し足りないのでしょう、小さい娘さんは今日保育園であったことを次から次へと報告していました。
やがて一人の男性が、エレベーターから降りてきました。彼が持っているのは肩掛け鞄と、手元が竹編みで暗色のチェック柄の傘。しかし傘の骨の一本は、残念ながらダボが完全にくの字に曲がっているようです。
鞄からキーホルダーを取り出して私の前を横切り、傘が濡れていないかを確認したその人は……何を隠そう、高校で主を褒めたあの若い教師だったのです。しかも彼がただいまと言って入ったのは、まさに母娘の家でした。
ああ、なんという偶然でしょう。私は縁というものの存在を信じざるを得ませんでした。
風通しの良い場所に一晩もあれば、ビニールに付着した僅かな水分も全て乾いてしまいます。
その間ずっと、この家に辿り着いた私の運命に感謝をしていました。発言から、先生は几帳面な性格で、しつけも厳しいのだろうという想像ができます。そのような人とその家族ならば、私を大事に扱ってくれるのではないか。そんな期待がむくむくと湧いてきました。
同時に、もしかすると再び本来の持ち主と見えることがあるかも知れないと考えると、心が飛び跳ねそうでした。
……そのチャンスは、僅か一週間でやって来ました。
「なあ、この傘使っていいか?」
「あ、この前壊しちゃったんだっけ、あの高いの」
「しょうがなかったんだよ、突風で。で、いいのか?」
「どうぞ。安物だからって雑に使わないでね」
「大丈夫。じゃあ行ってくる」
「いってきまーす!」
朝七時。玄関の傘立てに並べられていた私は、家族のこのような会話を耳にしました。遠くから雨音も聞こえる、ジメジメとした朝でした。
この家では娘さんを保育園から迎えるのは母の、送るのは父の役目のようで、ここで私は毎朝のように二人を送り出してきました。ちなみに会社員の母は遅れること三十分ほどで出発します。
そしてやはりと言ってはなんですが、子供の礼儀作法には大分うるさいのでした。玄関まわりだと「脱いだ靴は揃えるように」などは毎日のように飛び出しますね。
さていざ外に出ますと、ギリギリ傘が必要な程度の雨が迎えてくれました。娘さんはピンクの小傘を、先生は私を庇で広げ、通勤登園を開始します。
――今日は鞄、濡らさないようにしないとな。何と言っても採点した答案が入ってるんだから。
ショルダーバッグを大事に抱え、先生はそう意気込みました。なるほど、それならば私もささやかながら尽力いたします。
彼と手を繋ぐ長靴を履いた少女は、雨にも関わらず大はしゃぎです。全くもう、せめてお父様の鞄だけは濡らさないであげてくださいね。
その心配は杞憂と終わり、保育園に引き取られた娘さんに手を振られ、先生は駅へ向かいました。
以前通った道をぴったり逆に辿って駅に着くと、私に乗っていた雨粒を丁寧に振り払って落としてから、構内に踏み入ります。これならば床を濡らす心配はありません。先生は私を順手で持ち、人にぶつからないように注意しながら進んでいきます。
先生が乗る路線はここが始発駅のため、入った時点で椅子こそ埋まっていましたが、まだまだ余裕はありました。しかし通勤ラッシュの恐ろしさはこの先にあります。駅に止まるたびに一つの乗車口から十人近くが乗り込むため、あっという間にスペースはなくなっていきました。そして問答無用のおしくらまんじゅうが始まるのです。
先生も例に漏れず押し潰されながら、それでも私と鞄だけは決して放しませんでした。鞄を右手に抱え、左手で私を添え木よろしく左脚にくっつけました。これならば周りの人に傘をぶつける心配はかなり減ります。雨の日の傘は、どうしても水滴を垂らしてしまったり、誰かの服に雨水染みを作ってしまうことを避けられません。後者は満員電車であれば尚更です。対策は、先生のように水気を切っておくかカバーをかけるくらいしかありません。
このように満員電車における荷物の中でも、濡れる刺さる通行の邪魔となる傘は特に嫌われてしまっています。先生の腰辺りを石突でグイグイと突いている高級傘とその持ち主も、申し訳無さそうにしています。ポジションを直そうにも体も傘も圧迫されてしまっており、動かすことができないのですから。朝夕の電車を知る者ならば、きっと分かってくれると思います。
「降ります!」
ターミナル駅の一つ前で、先生は声を張り上げました。ほんの僅かながら眉を顰めつつも、乗客たちは先生のために道を開けてくれました。彼は頭を何度も下げながらそこを通り抜けます。
駅から出ると、雨はやや本降りになっていました。この全く止みそうにない気配は、私が買われた日のことを彷彿とさせます。
――さあ行くぞ。
その声に応じ、私は空に傘布を大きく広げ、彼を覆いました。
結論から言うと、私は学校で元の持ち主を、見かけることさえ出来ませんでした。
よく考えれば、先生の傘が生徒とすれ違う可能性のあるタイミングなど、ほとんど無いのです。生徒は教師よりも遅く来て早く帰りますし、先生は授業の教室に行くときに傘なんて持ちません。他に会う機会があるとすれば、生徒の方から職員室に来ることくらいでしょうが、そう上手くいくはずもありません。
結局私は半日、布の傘の多い傘立ての中で肩身の狭い思いをしながら過ごすしかありませんでした。誇れることは先生が、校舎に入るときに私の水滴を主のように拭き取ってくれたことくらいです。ただそれこそが、どんな高級な傘にも選ぶことが出来ない、素晴らしい持ち主の証なのですがね。
夕日が赤く染まる頃、先生はちょっと落ち込み気味の私を掴んで帰途に就きました。二時間ほど前に雨は止んでいましたが、この空気の重さ。間もなく夕立が降ると傘の勘が告げています。
そんなことは知る由もない先生は一人、駅への道を歩いていました。左手側の公園からパシンパシンという軽い衝突音が度々聞こえて意識を向けると、そこではランドセルを背負った男の子が二人、自分の傘を剣に見立ててちゃんばらごっこをしていました。音は剣戟によるものだったのです。
私は同じ傘として、彼らの剣に同情せざるを得ませんでした。言わずもがな、傘の細い骨に過度の衝撃は厳禁です。ヒートアップして壊してしまった日には、傘は捨てられ子供は大目玉、誰も得をしないのですから。まあ、傘のフォルムに剣を重ねてワクワクしてしまうこと自体は、私自身も強くなった気分がするので嫌いではありませんが。
私の手元を握る先生の手に、無意識に力がこもります。あそこに加わることだけはやめてくださいよ、と焦ったその瞬間、ポツリと天から雫が落ちてきました。それに気付くなり先生は急いで私を差しました。
「雨か……これで決着を着けてやる!」
「おう、行くぞ! イグナイトインフェルノー!」
「喰らえ! 憤夢真焉斬っ!」
男の子たちはそれでも必殺技の名前を叫んで傘を振りかぶりましたが、その渾身の一撃を思い留まらせるほどの凄まじい雨が、一気に一帯に降り注いだのです。先生は早めの対応で事なきを得たものの、その子供たちや、まだ大丈夫と楽観していた周囲の通行人は、慌てて傘のバンドを外したり屋根のある場所に駆け込みました。
歩道の水を靴で跳ね上げつつ歩く先生は、こんなことを思っていました。
――俺の頃はアッパーストラッシュだったなぁ。時代は変わるもんだ。
いやいやそこで張り合わなくてもいいですから。
分厚い積乱雲に太陽は隠れ、すえた臭いの立ち込める街に降る夕立。それを私は彼の代わりに全身で受け止めます。先生も、私を大切に扱ってくれる人ですから。
その先生は、道の途中でとあるコンビニに立ち寄りました。私が買われた、あのコンビニです。私は今度は商品としてではなく、人の持ち物としてここに来たのです。
私の水を軽く切ると、先生は店の外の傘立てに私を入れました。すぐに戻ってくるつもりなのでしょう。私は黙って、自動ドアの向こうに消える先生の後ろ姿を見送ります。
雨脚は未だに強いままです。傘を持たない方々は駅方面へ駆け抜けていったり、あるいはこのコンビニに入店していきます。今日もまた大勢の仲間たちが活躍し始めると思うと、やはり嬉しくなります。また同時に、仲間たちも私のように良い持ち主に巡りあってほしい、とも。
それは不意の出来事でした。先生は未だ出てきません。にも関わらず、私の手元を持って傘立てから引き抜いた者がいたのです。
何を、と焦る間もなく、その人に下ハジキを押されて傘を開かれてしまいました。手のひらから流れこんできたその心には、
――今日も丁度いいところに使い捨ての傘が置いてあって助かった。
犯した行為とは真逆に、悪意を欠片さえも感じ取ることが出来ませんでした。
よく見ると、その顔に私は覚えがありました。一週間前、あの男子生徒と共に電車を降りた、体格の良い中年のサラリーマンでした。
私は信じられない気持ちでいっぱいとなりました。彼は全く悪びれもせず、誰のとも知れぬ私を自分のものとしてしまったのですから。こんな置き引き行為を平然と行うなんて、この男はどのようなしつけを受けて育ってきたのでしょうか。静かな怒りを滾らせて、私は自ら彼の本心を探りました。
――傘は天下の回りもの。傘はみんなの所有物。
もう、言葉が出ませんでした。私の露先から滴るのは、さながら私の流す涙でしょう。
安価でも、ビニール製でも、使い捨てでも、傘には傘の意地が、プライドがあるのです。こんな奴に使われたくない。守ってやりたくなんかはない。ですがどれだけ強く願っても、私はただの人間の道具でしかありませんでした。
先生のいるコンビニが、どんどん遠のいていきます。本来の持ち主へ繋がる糸が、無理やり引き千切られていきます。私を蔑ろにするような者の手によって。
ああ、もしも。もしも道具という使命に抗うことが許されるならば。
私は……このような人間に使われたくはありません!
豪雨は急激に勢いを増していました。声にならない私の声が仮に声になっていたとしても、ビニールを叩く大粒の雨音に阻まれて、この男にすら届いていないことでしょう。
ここに至って私は、傘という物体に成り果ててしまいたいと思いました。なまじ心があるから辛いのです。傘の形だけ屍のように残して、本当の意味での道具になってしまいたい、と。
するとどうでしょう。轟、という猛烈な唸りが私の願いを一つ、引き連れて来てくれたのです。
背後から刹那に吹き抜けた突風は、上方向を向いていた私の傘の内側に潜り込んで渦巻き、そして前方へ押し倒しました。必然、男の腕もつられて前に持って行かれます。パラシュートのように風を受け止める私をそれでも手放さないのは、塵にも満たない情でしょうか、それとも単に傘を失いたくないからでしょうか。答えはどうせすぐに分かります。
風をモロに受け続けた私の体が、悲鳴を上げだします。親骨が撓み、受骨が軋み、傘布がバババと鳴るのです。そして親骨と傘布を繋ぎとめていたビニールが一箇所、圧に耐え切れず分離すると、続けてその骨にあった露先も外れてしまいました。
風は、ようやく去りました。私の骨を一本情けなく剥き出させ、カバーを一角しわしわにめくれ上げて。
これには流石の男も慌てて、駅へ続くシャッター通りのとある一店の庇の下に避難します。人通りも開いている店も少なく、閑散としている道でした。
男の背中はビショビショに濡れ、傘が覆える面積が狭くなった分、片方の腕も水が染みていました。まさか傘がそれを嘲笑っていようなどとは、全く考えもしないでしょう。
男は黙って私を閉じ、外れた露先を直そうとしましたが、不器用なのでしょうか。何度か挑戦しましたが、嵌る様子はありません。次第に苛立った彼は舌打ちをすると、
「これだから安物は」
そう吐き捨て、なんと私を無造作に投げ捨てたのです。傘布をはためかせて宙を舞うも直後アスファルトに叩きつけられ、ガードレールに引っかかって止まりました。柄が鉄パイプにぶつかり、カァンと甲高い金属音が響きました。剥き出しのものとは別の骨が、衝撃によって僅かに曲がりました。
男が再び雨の中へ踏み出す直前に私に向けてきた眼差しは、私をただのゴミ屑としか認識していないかのような、何の感情もこもっていないものでした。
走り去る背中にどれだけの怨嗟の言葉を投げつけようと、男は振り向きません。奴にとって壊れた私は、用済みでしか無いのです。
形あるものは必ず壊れます。壊れて使い物にならなくなった道具は、ゴミとして捨てられるのが定め。そんなことは分かっています。
ですが今の私は――突風によって外れた露先は欠けてはいませんでしたから、骨を撓らせればさほど労せず嵌め直すことが出来たはずです。なのに使えないとの烙印を押され、故意に投げ捨てられたせいで本当に修復できない破損を負ってしまいました。百歩譲って捨てるにしても、ビニール傘にはビニール傘の捨て方があります。決して道端に投棄していいものではないのです。私は心底驚き、呆れ果てました。こんなに心無い人間が、いるものなのですか。
……ああ、そうですか。今、はっきりしました。私たちビニール傘が、どうしてこんなに量産されているのかを。
この国の人間は、傘を大事にしないのです。特に、ビニール傘は。なまじ安価でどこでも手に入ってしまうから、置き忘れても、壊れても、また買い直せばいい。何なら他人の傘を奪っても、どうせ安いんだからいいだろう、と正当化する人さえも少なからずいるのです。
だから私たちは作られ続けるのです。人間に、使い捨てられるために。
きっとあの男は雨に際し、これまでも誰かの傘を拝借してきたのでしょう。そして傘を盗られた者は、また別の人の傘を奪う。その人は……。
こうして悲劇の連鎖は続いていくのです。そう、良識がある人が止めてくれるまで。
これは希望的観測でしかありませんが、私を掠め取られた先生や本来の持ち主は、決して他人の傘を手に取りはしないでしょう。こんなビニール傘である私をも、ちゃんと取り扱ってくれた人たちですから。そういう方々もこの社会にはいるのだということを知れたからこそ、私は辛うじて人間全体を恨まずに済みます。
でも、出来ることなら。
惨めに地面に横たわり、滝のような雨をその身に受けながら、私は思います。
あの方の元で、使い古されて一生を終えたかった。私を連れ出して、大事にしてくれた、あの方の。
薄闇の中、水はけの悪いこの道を、何者かが早足で歩む音が聞こえました。
よく見るとそれは髪も服もずぶ濡れになった、一人の高校生でした。
その方は地面に転がっている私を発見すると足を止め、手が濡れることも今更厭わぬ様子で、私を掴みました。
露先が外れているのを見て手早く骨に付け直すと、バンドでふんわり私を束ねてから縦に振って水切りをしました。
そしてガードレールに私のJ字状の手元を引っ掛けて、駅へと急いで去って行きました。私はその方の背中を、笑って見送ります。
雨は、もうじき上がりそうです。
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