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句読点を使うか、とか

本節には縦書きでは正常に読むことのできない表現と、場合によっては不快感をもたらす内容が含まれます。ご容赦くださいませ。


 先に既に話したような気もしますが、詩の形式とか、そういう話の蛇足です。



 蛇足ついでにさらに話は逸れますが、小説を書こうというときの、所謂「原稿用紙の使い方」の話。

 文頭はひとつ空白を置くとか、「!」「?」のあとは空白を置くとか、「……」の置き方とか、そういうレベルの話。世の中にはこの原稿用紙の形式を無視することに美学を持っている人もいると聞きますが、私はこれを常識とする世界で生きてきたので、美学は結構だが見にくい(加えて醜い、ついでに幼い)のでできれば大勢に倣ってほしいとは思ってしまいますね。これについては、私もあまり「個人の自由」と受け入れるには難しい。多分、原稿用紙の使い方というのは、形式とか云々を語る以前の、服の着方とか歩き方とか箸の持ち方とか、「まずはそこから」レベルに思われるからなのではないかと思います。

 ま、私自身、小説の書き始めの頃は「……」を「・・・・」とか「…………」とか「………」と表記していたので、あまり厚顔に言えたものでもありませんがね。



 逸れるというか愚痴になってしまったので話を戻すと、句読点の話でした。まずは句読点。

 これを詩に使うか否か?

 意外と迷っている人が多いような気もするけれど、結論から言うと、これも個人の好みではないかと思います。


 私個人としては、「(とうてん)」はあまり違和感がない。すぐには思い出せないけれども、私も使ったことがあるような気もする。しかし「(くてん)」は何だか落ち着かない。どうしてだかは判然としないけれども、多分、句点がつくと一文の終わりとして、そこで何か・・が閉じてしまって、小説的に見えてしまうからではないだろうかと思う。読点は使っておいて句点は使わないとはいかにも中途半端なようですが、感覚的な話なものでいかんともしがたい。まあ、誰が規制できるものでもありませんね。なに詩の大家たいかが使うなと言った? 関係ないでしょう。大家だろうがひとつの流れのひとつに過ぎないのであって、神でも真理でもないのです。深く気にすることもありません。


 よくわからない熱が入りましたが(笑)、句読点はこれくらいにして、いよいよ本題です。そう、句読点は実のところ、そこまで重大な難題ではないです。

 私が意味もなく考えたいのは、もっと前衛的な話でして。

 強引に突っ込んだのですが、お気付きでしょうか。

 例えば、((かっこわらい))です。

 あるいは前節において「→」を使ってもいました。

 そう、コレなのです。

 コレとは言ったものの、総称して何とするのかがわからない。恐らく、電子メール文明の隆盛とともに出現した表記法ですね。いや、違うかもしれない。原点は寡聞かぶんにして知らない。ともかく、コレです。


 多くはまず、記号ですね。(ほしマーク)(おんぷマーク)、あまり詳しくないけれども「///」とか「www」とか「、、、」とか「。。。」とか、後半から全くわからんがとにかくこういうもの。そしてさらに踏み込んだもので、(´・ω・`かおもじ)。

 コレらを文字作品に使うことの是非。


 コレらについては、否定派が大多数で過激な気もする。強い口調で否定している人、攻撃している人を見かけることもままあります。その気持ちはわからないでもない。私も使えない。

 しかし、これもまた例によって例のごとく、一概に否定されるべきではない、と言いましょう。


 どうしてダメなのか?

 思うにこれは、「文字作品らしからぬ」という言い分で「けしからん」のではないでしょうか。

 それとも、「表現として安易」であるか。

 あるいは、「文学」として「軽薄に過ぎる」とか。


 もしもこの私の浅はかな推測が的を射ているとするなら、これもまた害悪と言えるでしょう。

 確かに、商業作品に記号やら顔文字やらが並んでいたらびっくりしますよね。何だか雰囲気にそぐわないような気持ちにもなるかも。違和感は大きいでしょう。なぜかといえば、今までほとんど使われてこなかったからなわけで。

 あるいは媒体の上での無理もあるでしょう。ウェブ上での小説などは基本的に横書きですが、紙媒体は洋書でもなければ十中八九縦書きです。顔文字など、横書きでなければ崩壊しますよね。

 会話文中に「(笑)」やら「(*’▽’)」が使われていたとして、それ現実にどうやって発音してるんだよ、と気になることもあるのかもしれません。

 そういった、機能的な限界を指摘するのならば納得できる。が、先に挙げた「文学的な」理由、言わばエモーショナルな理由で非難するのならば、そのような人たちこそ非難されるべきではなかろうか、と。


 確かに記号などを使うことは、一朝一夕に浸透しまいし、理解もされまい。しかしそれは、まだ記号等の上手な使い方が確立されていないからに過ぎないのではないかと、思うのです。

 顔文字なんていい例でしょうが、一見全く脈絡のない記号を並べただけで何らかの意味を得られる形になるというのは、ある種の凄い発想であり、ともすれば文学の新たな形、という考え方もできませんか?


 どんどん主題から遠ざかっていきますが、これは「表現とは何か」というお話にもなっていくのかもしれません。そもそも世界を、現実を、空想を文字に起こすということ自体に大きな困難があるのです。既に無理に無理を重ねているのに、これ以上無理を重ねることがどうして攻撃されなければならないのでしょう。受け入れ難きは誰にだってある。私だって梅干しが大方克服できましたが紫蘇しそは未だに受け入れられません。けれど、だからと言って紫蘇が好きな人を排斥したりはしません。「嫌なら見なければいい」という言説は、これはこれで打開策としては安直なので好みませんが、これもこれでアリです。

 新たな表現の萌芽を気に入らないというのならば、無視すればいい。どうしても無視できずに攻撃している言論が気に入らないならば、私もそんな言論を無視すればいい。これも語るに落ちていますが。

 「表現」なんてのは、極論、伝わればいいのですよ。どうにかして何とかして伝えたい、その結果として生まれてきたのが先の「(笑)」やら「(/・ω・)/」やらなのであれば、そしてその末に意味が意図が読み手に伝わっているのであれば、そういった記号を使うことの是非、なんていう表面的なことではなく、表現として一定の価値がある、そう思うことはできませんかね。勿論、使い手としてはそこまでの苦心惨憺の末に仕方なく使っているわけではなく、何の気なしに使っていることも多いでしょうが、これも、そうといって否定されるべきではない。実際どうだったか調べたことはありませんが、なんだったら「」かぎかっこやら句読点だって、使われ始めはセンセーショナルだったかもしれませんから(笑)。どうやって発音してるんだよ、なんて指摘は、そう言いたい気持ちもわかりますが、やっぱり表面的な批判なのではないかと思います。


 新しいものというのは多かれ少なかれ、必ず否定されるものです。強固な、あるいは頑固な否定派論者の排撃を潜り抜け、己の武器として磨き上げることができたならば、その人はきっと新たな時代の先駆者となるのでしょう。

 もしも誰かが、記号や顔文字を使って素晴らしい作品を作り上げたのならば、それが「始まり」となるに違いないのです。始まりとは、「普通化の始まり」です。

 一般化の始まり。

 様々な困難を乗り越え、試行錯誤の果てに新たな技巧として確立し、定着することができたのなら、それはまた、かつて何度となく繰り返されてきた文学の革命なのです。やがて記号等を見下していた人々が蔑まれる時代が来るでありましょう。今はまだ、その時ではないだけなのです!



 なんてね。

 まあ、残念ながら、そして恥ずかしながら私はその革命家にはなれませんが。だって思い付かないもの。

 ただ、見守る度量だけは持ち合わせている。そのつもりですヨ。



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