詩を作る、というのは
初めに断っておきますが、私は詩人ではありません。
はい。
趣味で詩を書いてはいるけれど、自分は詩人である、などと言うことは畏れ多くてとてもできない。何をして詩人と呼ぶか、ということはここでの趣旨ではないから深く言及することはしませんが、少なくとも、私は自分のことを詩人であるとは露ほども思っていないことを明言しておきます。
どうしてか?
ま、深い理由はありませんよ? 畏れ多いだけでしてね。
というわけで。
私はあくまでも、「趣味で詩を書いている人」です。
では。
詩とは何か、について考えてみましょう。とはいえ、別段のコムズカシイ詩論をこねくりまわすわけではなく、趣味で詩を書く程度の人間が、あーでもないこーでもないと話を転がし、挙げ句にこれといった結論も出ない、という覚書のようなものです。
さて。
詩とは何か、について問うてみれば、巷間に跳梁跋扈する職業詩人・趣味詩人とを問わずそれぞれに思うところがあるでしょう。歴史を翻っても、様々な詩人が名を残してきたわけです。
私が大学で聴講した文学教授は、講義の中でこの「詩とは何か」という命題について次のように語りました。
曰く、詩とは形容し難きものを形容しようとした苦心惨憺の果てに生まれた新たな言葉である。
その傑作のひとつこそ、「タツノオトシゴ」という生き物、その名である。
タツノオトシゴが詩となる物語はこうだ。
あるとき漁師の網に見たこともない奇妙な生き物がかかった。魚ではないが、しかし他の何とも似つかない。漁師は気味悪がってそれを海に捨てた。そして村に帰ると、そのようなものが網に掛かっていたと話す。それはどんなものだったのかと問われても、しかし例えることもできずに漁師は苦悩した。
その後、また別の漁師の網にかかる。この漁師も気味悪く思いそれを捨て、自分も村で語るが、その生き物の説明だけができずにもどかしい。
そんなことが続いていたあるとき、漁師のひとりがはたと閃いた。そうだ、あれは何とも奇妙な格好をしているが、その顔、身体、思えば竜に似ていたかもしれない。しかし竜にしては些か不恰好に過ぎる。きっとあの生き物は、片輪であったために空を往く竜から捨てられた、「竜の落とし子」であったのだ……。
これが、詩の生まれなのだそうな。
乱暴だが、平たく言うとこれは「比喩」ですね。しかし比喩とも異なるものであると、教授は語りました。この話を聞いたとき、成程そのような考え方もあるのかと感動を覚えたものです。確かに、その苦心から生まれ出たものは詩であるに違いない。
ところで往々にして、各々の詩論は衝突し得る。詩人は、いや詩人でなくとも、他の誰かが書いたものを、当然ながら批評しますね。あれがいい、これは悪い、ここは鋭い、はたまたこれは、詩ではない、と。
そこで思うのですが、詩として作られたものに間違ったものなどないのではなかりましょうか。稀に「これは詩ではない」、という論調を見かけたときに、よく考えるのです。
詩とは何か。
形式の話をしましょう。
古今東西、詩というもの、もっと言えば「声に出して詠まれるもの」の歴史は古く、その形・型もまた豊富です。短歌、俳諧、川柳、絶句、律詩、ソネット……現代におけるポップス、その歌詞だって詩と言えましょう。古くは誦み覚えられていたことを思えば、古事記だって詩です。桃太郎は散文詩ではなかったか。斯様に詩の形式というものは多様であります。
しかし、だからといって、このいずれかに必ず倣っていなければならないということもありますまい。
極論、書いた当人が「これは詩である」と宣言すればそれは詩で間違いない、のではないだろうか。
私はそう思うのです。
時に、詩として投稿されたものを見ると、詩にしては文章めいているものがある。私としては、「これは詩か?」と首を傾げはするけれども、詩として書かれたのであればこれは詩なのだろう、と思いながら閉じている。
他者の詩論を批判する、ということもそう。
相手の論の粗に対し、その論がいかに間違っているかを滔々と説くわけですが、しかし。
そもそも、詩論に正しいも正しくないもあるのか?
全ては各人の解釈次第、という言い分は、私は一定の価値はあるとは思います。けれどこれを振りかざすと話が広がらない上に論の放棄とも言えるので、これを額面に飾るつもりはありません。が、しかし事実は事実。
詩は化学や物理学ではないのだから、法則や規則に囚われるのも馬鹿馬鹿しいような気もします。
既存の詩の形式が広く認められているのは、各形式がそれぞれに現時点での完成を見ていて、それが美しいからであって、その型に当てはまらないものを否定する理由にはならない。見たことのない形をしているから、という理由で受け入れないのは、詩に関わらずよく見かける前時代主義、前例主義、保守的、老害、等々と同類ではありませんか。それらが完全なる害悪とは言いませんよ? 各個人の中で完結しているのならば誰も指弾しない。これらが害となるのは、己の主義を他者に押し付け、反論を許さず、力づくで排斥に出たときです。
とはいえ、間違っていると思ったら自分の正しさを説きたくなるのも人情。自分こそが正しいと思うからこそ人は議論したくなる。今の私がまさに語るに落ちているように。ままならないものですな。
と、こんな話でした。