絵美理と僕と夏のひまわり
僕は二年ぶりに実家へと帰る電車に乗って、窓の外の流れる景色を見ていた。
この路線は、僕の実家の駅までは自然が一切残っていない、鋼管がひしめく工場や無機質なビルや住宅が建ち並ぶ地域を強引に突っ切るように走っている。だから、町の景色の大枠は変化がなくとも、よく観察するとビルに入居している店舗が変わっていたり、建物だった空間が空き地になっていたりしていた。そうした小さな変化の積み重ねが、町の空気や色を少しずつ変えていくものだ。その中で、電車の揺れ方やスピードの落とし方は昔から変わらないままで、懐かしい気持ちになる。
僕が都心の会社に就職したために実家を離れ、一人暮らしを始めてから六年が経った。実家までは電車で二時間もあれば帰ることができるが、年が経つにつれて実家に帰るのが面倒になり、去年は正月すらも帰省しなかった。僕にはホームシックだとか、地元愛だとか、そういったものにはどうやら無縁のようだ。
そんな僕が急に帰ることになったのは、実家の母親から僕宛にアメリカから手紙が届いたという電話があったからだ。アメリカ。僕には馴染みの無い国だ。そもそも外国に一度も行った事が無い人間なのだ。その手紙はロサンゼルスから届いたもので、差出人は「Emilly K. Collins」と記載されているらしい。しかも日本語で「8月20日の14時
に待っています。」とだけ書かれているとのこと。8月20日といえば、直近の土曜日だ。仕事は休みだったので、僕は土曜日の朝に帰ることにした。
僕は母親からその電話を聴いた時、最初は誰のことか解らなかった。「エミリー」僕に外国人の知り合いなどいない筈だ。しかし心の奥深くに仕舞われていた記憶が唐突に煌めき、机の引き出しに仕舞い込んだまま忘れていた宝物を見つけたかのような気持ちになった。
「水瀬だ……」
その手紙の差出人に僕は確信を持った。それは小学校4年の7月、夏休みに入る直前の終業式の日に、僕に別れを告げた水瀬絵美理のことだ。
僕にとって水瀬は初恋の人だと思う。しかし当時、思春期に到達していなかった僕が明確な恋愛感情を持っていた訳ではなかった。いずれにせよ、水瀬は僕にとって、少し特別な女性であることには違いない。その証拠に、僕は水瀬の事を思い出しただけで、今でも心が緩やかに鈍く疼くのだ。
水瀬と同じクラスになったのは、小学校3年からだった。父親がアメリカ人で、母親が日本人のハーフだった彼女は、髪の毛の色こそ黒だったが、琥珀色の目をしており、鼻が高く、透き通るような真っ白な肌の持ち主で、一目で異国の血を引く人間と解る女の子だった。
子供にとって、尋常ではない外見は格好のいじめの対象となった。多様性を排除しがちな日本人の遺伝子がもたらす悪癖だ。それは水瀬も例外ではなかった。一部の子供達から「この白人女」だの、「目の色が気持ち悪い」などと理不尽な口撃を浴びせられていた。子供の悪口は純粋であるが故に鋭利な刃物のように人を傷つけた。水瀬は大人しい性格の女の子だったから、悪意に対して立ち向かうことも出来ず、じっと耐えていることが多いようだった。
しかし、僕は初めて水瀬を見たときから、どうしようもなく彼女の容姿に惹かれた。授業中も、休み時間も、周囲に悟られないようにしながら水瀬を眺めていた。水瀬はただ座っているだけでも西洋絵画のように映った。どうして水瀬の美しさに誰も気づかないのだろうと何度も思った。それとも、美しいからこそ素直になれないのだろうかとも考えた。
素直になれないのは僕も同じであり、僕は小学校4年の別れる日まで数える程しか水瀬と会話したことがなかった。
水瀬との別れの日は、今でも鮮明に覚えている。梅雨が明けて、太陽がゆっくりと長く空に居座っていて、蝉の喧噪が響き渡る盛夏の日。その日は小学生にとって、楽しい夏休みが始まる一年間で最も心が躍る日だった。
しかし、朝の挨拶が始まっても、水瀬が学校にやって来ない。担任の先生も、水瀬が休むという連絡を聞いていなかったようで、自宅に連絡してみると言って教室を出た。その後教頭や他の教師達と真剣な顔をして話をし始め出した。にわかに教室がざわつき始めた。
「水瀬、家から出たまま行方不明らしいぞ」
クラスの誰かがそう叫んだ。どうやら教室から廊下に出て、教師達の会話を盗み聞きした奴がいたらしい。
担任の先生が「静かにしなさい」とクラス全体を叱りつけ、しばらく待機するように命じた。
その後、担任の先生から、終業式は中止になったと告げられ、夏休みの宿題と連絡事項が忙しなく配られた後、地域毎の分団にわかれて集団下校することになった。
僕らは別の教室に移り、所属する分団の点呼を受け、すぐに帰宅することになった。校門前にはパトカーが二台停まっており、物々しい様子の警官が中庭や職員室の辺りを忙しなくしていたことから、既に大事になっていることが容易に理解出来た。
家への帰途、僕は水瀬のことについて考えた。
水瀬は何かの事件に巻き込まれたのか。それとも自ら学校に行かなかったのか。水瀬が一人で行くとすればどこに行くのか。青々と生い茂った広葉樹が立ち並ぶ道を歩きながら、僕は手掛かりを探すために、水瀬との会話の記憶を辿った。
「大柳君……起きて。大柳君」
ゆさゆさと僕の肩を揺さぶる手の感触に、机に突っ伏して寝ていた僕は意識を取り戻して、ゆっくりと顔を上げた。
薄ぼんやりとした視界の先には、僕の右肩を持ったまま、琥珀色の目をした女の子が瞬きを繰り返して、僕の方を戸惑いがちに見つめていた。
「水瀬……?」
「うん。そうだよ」
壁時計を見ると午後5時を少し過ぎていて、図書室に残っている生徒は僕と水瀬だけになっていた。彼女の真っ白な肌が、窓から射し込む赤みがかった陽射しで染まっていた。その光景は、まるで縁で切り取られた別の世界を見ているようだった。
「ここ閉めないといけないから。私、図書委員なの」
「ああ、そうだね……ごめん」
そう言って僕は両手を高く上げて、うーんと声を上げて伸びをした。
「もうこんな時間か。図書室って、確か夏休み中は4時までだったよね。図書委員の仕事で遅くなったの?」
僕は水瀬に尋ねた。
「うん、そう……大柳君、顔に本の跡がついてるよ」
「えっ、本当?」
僕はペタペタと自分の両手を頬に触れさせてみた。
「うん」
水瀬はそう言ってクスクスと笑った。
それは小学校3年の夏休みのことだった。僕の心は道に捨てられ転がっているアルミ缶のように空っぽで、何をやっても楽しいと感じることが出来ない日々を送っていた。
前年に両親が離婚し、母子家庭となった僕の家は、母親が働きに出かけている間、一人家で留守番をしていることが多かった。当然、家族旅行に行ける時間も遊ぶ金の余裕もなく、僕は1ヶ月半もの間、持て余した日々を過ごさねばならなかった。
終業式の日に、夏休みが暇で仕方ないと先生に言ってみたところ、児童会の集いやらクラブ活動やら、どれも面倒そうなものばかりを薦められたが、「7月中は夏休み中も図書室を開放するから来て良い」と言われたことには興味を惹いた。
そこで夏休みに入って数日たったこの日、僕は昼過ぎに図書室を訪ねた。
図書室には意外にも数人の生徒が本を読んでおり、僕も彼らに倣って本を数冊棚から取り出して読み始めたのだが、いつのまにか眠ってしまっていたようだった。
僕は水瀬が職員室に鍵を返して、校門を出る所まで一緒について行った。
校門を出てから、帰る方向が一緒だと解り、僕らは同じ道を歩き始めた。僕はどうしてか、水瀬と二人きりで歩いているところを誰にも見られたくないと思った。それと同時に二人きりで歩くことを辞めたくないとも思った。そんな捻れたことを考えていると、水瀬がぽつりと僕に尋ねた。
「大柳君、どうして今日は図書室に来たの? 夏休み中に来るなんて意外だったよ」
ゆっくりと丁寧な口調で水瀬が言葉を紡いだ。とても聞き取り易くて、でもちょっとのんびりしていて、川のせせらぎみたいな心地の良い声だった。
「うちって親が働いてて、暇なんだよ。夏休みだけど旅行とか、全然やることないし。それで先生に尋ねたら、図書館が開いてるって教えてもらったから……」
「そうなんだ。じゃあご両親が共働きなんだね。大変だね」
「ああ、いや……」
僕は言葉に詰まったが、正直に答えた。
「俺お母さんしかいないから。去年の12月にお父さんと別れてさ」
僕は、両親のことを聞かれた時はいつもぶすっとして、強がった態度をとった。
「あ……それはその、ごめんなさい」
申し訳なさそうにして水瀬が謝った。水瀬の瞳は、伏し目がちになっても綺麗だと僕は思った。
「別に良いよ。水瀬が謝ることじゃないし、もう慣れた」
本当は、両親が離婚したことに慣れてなどいなかった。僕は両親がどちらも好きだったし、当時はまた元通りに三人で暮らせるようになれたらいいと思っていた。でも他人には本当の気持ちを打ち明けられずに強がってばかりだった。
水瀬は僕の顔をじっと見て、
「そうだ。大柳君、明日昼から時間ある? もし良かったらデートしようよ」
と、いきなりそんな事を言い出した。水瀬は僕の前を少しだけ先回りして、二、三歩軽い足取りをして、そして正面を向いた。
「デート? えっ、あの、どこに?」
僕はいきなりのことに狼狽えた。
「んー。それは内緒! でも私が一番好きなところなの」
水瀬はそれから僕に背を向けて、十歩くらい駆けて遠ざかった。そして再び僕の方を振り返った。
「大柳君! 明日の昼1時にここで待ち合わせ、いいよね。また、明日ねえ!」
大きく手を振った水瀬は、そのまま走って行ってしまった。僕はそれを茫然と眺めていた。しばらくして通りかかった老人の自転車にベルを幾度も鳴らされて、我に返ってから、家に帰り始めた。
水瀬が自分から居なくなったのならば、あの場所に行ったのだと僕は思った。そしてそこが水瀬のお気に入りの場所であることは、おそらく僕しか知らないことなのだ。
僕は家に帰ることをやめて、自分の直感を確かめようと思った。
僕があの場所を訪れたのは、小学校3年の夏に、水瀬に連れられた一度きりだ。だから必死になってうろ覚えの道順を思い出しながら歩いた。
まず最初に待ち合わせた学校の帰り道の交差点から西に向かって歩く。しばらくして右手の方に公園が見える。そこで最初の十字路を左に曲がり、直進。二階建ての木造住宅が立ち並ぶ道を歩いて行くと、貨物列車専用路線の高架に辿り着く。それを越えると、左手に雑木林があり、その中に小高い丘へ登りゆく未舗装の細道が現れるのだ。
ここまで来れば迷う事は無かった。僕は細道を辿った。夏草の匂いが漂っている。蝉の声が雑木林に鳴り響いている。一年前と同じで、僕は大勢の蝉の声を聴きながら額の汗を拭った。
雑木林は五分も経たずに開けた。
丘の上に広がっている光景。見渡せる限りに植えられた黄色い大輪が青空を元気よく見上げていた。
「ほらっ、見て! ひまわり!」
白いワンピースを着た水瀬がはしゃいで僕の方を振り向いた。僕も目の前の光景に驚いていた。
「うわあ、すごいね……いっぱいだね」
生まれて初めて訪れたひまわり畑は、力強くも穏やかな空気に満ちていた。緑の絨毯に浮かぶ幾百もの花。そこに白い蝶が飛び回っていた。蝉の声と、遠くの列車が線路を走る音が聞こえていた。一面に咲いているひまわり達の真ん中を突っ切るように道があり、僕らはそこをゆっくりと歩いた。地面を踏みしめ、風を受けると夏の匂いがした。
「本当に大きいね。こんなに」と言って、僕は自分の背丈より倍以上ある高さにまで育ったひまわりを見上げた。飛び跳ねて、手を伸ばしても花には届かなかった。
「ひまわりって、見てると何だか元気が湧くでしょう?」
水瀬が僕の隣を歩きながら言った。
「うん。こんなに大きな花をつけているのに、姿勢がピンとしているもんね」
僕も高揚した気持ちになって同意した。ひまわりの力強さは、空に浮かんで輝いている真夏の太陽のようだと思った。それは大地に深く張られた根っこや、瑞々しく振る舞っている茎や葉で支えられていた。
しばらく歩き、ひまわり畑の端にたどり着いた。そこは地面が隆起していて、一本の大きなケヤキが木陰を作ってくれていた。僕たちは畑から少し高くなったその場所に腰を下ろして、一面の黄色い海を眺めた。
「この場所、お母さんに教えてもらったの。私が、ひまわりが好きだって言ったら見つけてくれて。お母さんもお父さんも、私のことすごく心配するの。学校で嫌なことはないかとか、いじめられてないかとか」
水瀬が景色を見ながらそう言った。
僕はその光景が容易に想像できた。水瀬の両親は、水瀬が普通の日本人の女の子ではない事で奇異の視線を浴びている事を心配しているのだ。
「私は、両親に心配させたくないから、いつも楽しいよって答えてるの。でも嫌なことを言われてやっぱり落ち込むこともある」
世の中は不合理な事で満ちている。水瀬の肌の色も、僕の両親のことも。僕らには決して抗えないことだ。そういう世界の理不尽を僕らは理解出来つつあった。
「楽しくないのに、楽しいって言うのは辛いよね。そういうのって、僕らではどうしようもないよな」
僕は水瀬の気持ちを汲み取ろうと、慎重に言葉を選んでそう言った。
「でも、認めてくれる人がいる限りは頑張らないと。お父さん、お母さん、あと大柳君もね」
「いや、僕はそんな……」
僕は突然そう言われてみっともなく狼狽えたが、水瀬はにこりと悪戯っぽく笑いかけて、すっと立ち上がった。心をくすぐったくさせるような仕草だった。
「じゃあ、帰ろっか」
水瀬の後ろ姿を見て、水瀬は自分よりずっと大人なんだと僕は感じた。僕では消化しきれないような心の痛みも、水瀬は飲み込んでみせた。僕にはそれが少し羨ましかったし、自分の未熟さを感じた。
しかし、僕らはその日以降、一度も二人で会わなかった。夏休み中、僕は遠く離れた母親の実家で過ごすことになったし、二学期になると、まるであの夏の日のことが陽炎みたいに不確かな夢のように感じられて、水瀬と上手く話せなくなっていた。
ひまわり畑は1年後も変わらずに存在し、そこは夏の匂いで満ちていた。
そして畑の端、大きなケヤキの木の下、僕らが1年前に二人で腰を下ろした場所に水瀬は居た。
ランドセルを置いて、それに凭れ掛かるようにして眠っていた。
僕は水瀬の隣に座って、その寝顔を見つめた。鼻が高く、真っ白な肌をした水瀬は、規則正しい呼吸を繰り返している。一つの追憶があった。そういえば僕らが初めて正確に会話をした時、図書館で水瀬が寝ていた僕を起こしたのだ。僕は水瀬を起こした方がいいのかどうか逡巡したが、そのうちゆっくりと水瀬の目が開いた。
「その……おはよう」
僕は緊張しながら水瀬に話しかけた。
水瀬は僕の存在に驚いた表情をしていた。琥珀色の目を真ん丸とさせている。
「大柳君? どうして……」
「水瀬、学校に来なかったから。だからここにいるかなって思ったんだ」
「そう……そっか。去年、一緒に来たもんね」
水瀬がどうして今日は学校に行かず、ここでじっとしていたのか。僕は当然のように質問したいと思ったが、何とか思いとどまった。水瀬が自分から話してくれるだろうと思ったからだ。
僕は水瀬の隣に座って、周りの景色を眺めた。一面のひまわり畑。空は青くて、どこまも続いている。この街も、この国も、そのまた海の向こうまで……。
水瀬はしばらくぼうっとしていたが、ようやく口を開いた。
「私、アメリカで暮らすことになったの」
「アメリカ? って、あのアメリカ?」
僕は思わず聞き返した。アメリカ。外国。その時の僕にとっては、まるで冗談みたいに聞こえた。
「うん。お父さんが海外で働くことになって……家族みんなで付いていくの。お母さんも、絵美理はアメリカの方が色々と楽でしょうって言うの。多分私が日本にいると、やっぱり外国人扱いされちゃうからだと思う。私は学校へ行くのが嫌だなんて言わず我慢してきたけど、隠せてなかったのかもね」
僕はその時初めて、水瀬が本当はずっと学校に行きたくなかったんだと気づいた。水瀬は外見のことで悪口を言われ続けていたのに、どうして解らなかったんだろうか。傷つけられた痛みは、どんどん心に降り積もっていくことに気づかなかったんだろうか。僕は水瀬の気持ちをきちんと考えたことが無かった自分が嫌になった。
「それでね、何か今日に限って、学校に行くのが嫌になったの。最後くらい、行かなくてもいいかなって」
この時、僕は水瀬に何を言えば一番良いを必死になって考えた。色んな思いが一気に混ざり合って、泡になって溢れてくるみたいだった。何を言っても正解のようにも、間違いのようにも思えた。だから僕はいつの間にか、むき出しの感情を単純で馬鹿な言葉で水瀬にぶつけてしまった。
「水瀬、僕は水瀬のこと好きだよ! その……皆がどれだけひどいことを言ってても、でも僕は水瀬がずっと一番可愛いと思ってた!」
水瀬は目を丸くして、ぽかんとした表情をしていた。その瞬間、僕は失敗したと思った。こんなことを言っても遅いのだ。水瀬はずっと苦しんでいた。今更何を言っているんだと思った。それでも引っ込みが付かなかったし、勢いに任せて言葉を続けた。
「そうだ、ねえ、大人になったら結婚しよう! そうしたら外国に行かなくても済むかもしれないから!」
僕は思いつきのまま言葉を放っていた。それは言葉通り子供の我が侭でしかなく、何の脈絡も無い、唐突で浅慮かつ無分別な気まぐれと言っても仕方の無いものだった。水瀬はしばらく茫然としていたが、それから急に笑い出した。
「あははははっ。うわっ、どうしよう。びっくりしすぎて、なんて言ったらいいか解んないよ」
僕はあまりにも恥ずかしくて、俯いて自分の発言を悔いた。しかし、水瀬は笑うのを止めて、しっかりと僕の方を見つめ直してくれた。
「でも……うん、ありがとう大柳君。すごく嬉しいです。でも私がアメリカへ行くのは決まっちゃったから。だからね」
一呼吸を置いて、水瀬が告げた。
「もし私がアメリカから帰ってきて、また逢えた時に、もう一度その言葉を言ってくれたら、ちゃんと返事をします。この場所で」
僕が実家に着くと、母親が出迎えた。元気にしていたか、仕事は順調かなどと言って、僕が帰って来たことについて、とても嬉しそうにしていた。普段母親から連絡がかかることは滅多にないのだが、本当は母は寂しかったのかもしれない。
アメリカから届いたという手紙を見せてもらった。見慣れない文字で「8月20日の14時に待っています。」それだけが日本語で書かれた手紙。ただ、僕はその手紙の背景が、一面のひまわり畑であることは決して偶然ではないと思った。
僕は昼ご飯を食べて、目的地に向かった。
水瀬とかつて待ち合わせた学校の帰り道の交差点……角のタバコ屋が一軒家になっていた。あの時の水瀬が大きく手を振っていた光景は今でも覚えている。そこから西に向かって歩く。しばらくして右手の方に公園が見える。この公園はそのままだ。続いて十字路を左に曲がり、直進。二階建ての木造住宅群は所々が空き地に変化し、現存する住宅も老朽化しているように窺えた。線路の高架下に辿り着く。かつては貨物列車専用路線だったが、今は一般の旅客列車が運行している。それを越えると、左手に雑木林があり、その中に小高い丘へ登りゆく未舗装の細道……そこからは変わっていなかった。誰かが時を止めていたみたいに。その誰かが僕を出迎えているように。
蝉達の声が賑やかに聞こえている。雑木林の中は太陽光が遮られていて涼しかった。細道を辿り、夏草の匂いを嗅いだ。
林を抜けると、僕は目の前の景色に、やはり子供の時と同じように感嘆した。
目の前に広がるひまわり畑は記憶通りに存在した。まるで僕の帰りを待っていてくれたかのように。しかし僕自身の身長が伸び、目線が変わったことで、かつては圧倒するような力強さを受けた花達は、むしろその鮮やかさを僕に見せつけるように、誇るように花弁を開かせていた。
畑をしばらく歩くと、ケヤキの木にたどり着いた。その木の幹に寄りかかるようにして、一人の女性が佇んでいた。
「久しぶりね」
真っ黒な髪と、真っ白な肌の水瀬絵美理が僕を見てそう言った。
「ああ、うん」
僕は何を言ったら良いのか解らなかった。言いたい事は沢山ある筈なのに、そのどれもが、今言うべきことではないような気がした。
ただ茫然とするしか無かったのも無理はない。小学生の頃、既に美しいと感じていた女の子が、自身の期待や予測が陳腐だと思えるくらいに麗しい大人へと成長したのだから。
しかし、それと同時に僕は、巻き戻すことの出来ない時間というものの残酷さを感じていた。僕にとって初恋だった水瀬のことを何故いつまでも覚えていたのか。それは決して美しい容姿が理由ではなかったのだと理解した。
僕と水瀬が初めて二人で下校したこと。人生で初めてのデートに誘ってくれたこと。想い出としてはあまりにも短いにも関わらず、そこで触れた水瀬の優しさ。
それを僕は大人になってもずっと心の引き出しの奥に、誰にも触れさせずにしまっておいたのだった。
今、目の前にいる女性は、僕とは明らかに違う世界の住人になっていた。
「ずっと、気になっていたのよ。子供の頃に、少しだけ一緒に遊んだ男の子のこと。何故か解らないけど」
「うん」
「昨日から仕事で日本に来ていてね。今日の夜には帰るんだけど……私、忙しいのよ」
「そうなんだ」
水瀬が饒舌に話しかける。彼女が普段からそうなのか、それとも今が特別なのか。僕には解らず、ただ、相槌を打つ。
「多分、小学生以来ね、日本に来たの。それで、まあ大した思い入れも無いけど、折角だし行きたい所があれば行こうと思って……そうしたら、このひまわり畑とあなたの顔が浮かんだの。だから小学校の時のクラスメイトの住所名簿が幸い残っていて、試しに葉書を送ってみたってわけ。驚かせてごめんなさいね」
水瀬はそう言って一息ついて「もう行かないと……貴方はどうする?」と僕に尋ねた。
僕はもう少しここに居ると言うと、水瀬は解ったと言って歩き出した。
「ありがとう。戻って来てくれて。それだけで充分だ」
お互いに別々の道を歩んで来て、本来であれば二度と交わることのなかった僕らは、水瀬のおかげでこうして再び巡り会えた。
「本当に、今まで生きていて良かった」
不意に僕の口から溢れた言葉に、水瀬が少し立ち止まった。
彼女は何か、僕に伝えたいことがあったのだろうか。それとも、僕が何かを伝えなければいけなかったのだろうか。
しばらくして、再び彼女はゆっくりと歩き出す。
夏のひまわり達が、僕たちに優しい眼差しを送っているようだった。