3.無邪気な妹
眠気をこらえられたのは奇跡だ。<雪山の盗賊>のお店が閉店するのは夜も更けた頃で、いつもなら私もブルーも眠りについているような時間だ。
ひとりの頃は明け方まで野山を駆け回っていたこともあると言っていたブルーだが、ここしばらくは私と一緒に朝まで眠りこけていることも珍しくない。だから、私もブルーも半ばうとうとした状態でお店が閉まるのを待っていたのだ。
ちなみに、閉店まではライオネルやカチナも一緒に待っていてくれたが、私たちと同じくだった。
たぶん、この二人はお酒が入っているためだろう。隠し味・企業秘密の謎は解けなかったが、ライオネルのあの状態を見るに、強い酒の部類だろう。
酔っぱらったライオネルの様子は予想通りだが、カチナのありさまは少し意外だった。マタタビ入りの酒は規制した方がいいのではないだろうか。そう思ってしまうほど、マタタビ酒に酔っていくカチナの姿は素面の時と比べ物にならなかった。
それでも、時間が経てば平静さが力を取り戻してくるもので、一時期のようないつ脱ぎだすか分からなかったほどの高揚さは、閉店時間ごろには消えていた。
いくら体のあちらこちらが猫の毛におおわれているとはいえ、二足歩行の動物たちでさえ服を着ている世の中において、ネコ化した女性が服を脱ぐのは非常にまずい。本当によかったとホッとしていた。
まあ、それをいえば、お喋りをするブルーがパンツすら履いていないこの状況は本当にいいことなのだろうかと気になりはするのだが、社会からも咎められず、ブルー自身が羞恥心を感じないというのならこのままでいいか。
なんてどうでもいいことを考えているうちに、ミリエルの閉店作業も終わりを迎えた。ライオネルたちの付き添いはここまでだ。宿へと戻っていく姿を見送りながら、ふたりのさりげない関係に憧れのようなものを抱いてしまった。
私の方はブルーとふたり、ミリエルにお店の裏側に案内されていた。
ミリエルの自宅は店のすぐ裏だ。建物の間に中庭のような場所がある。物干し竿があるので、ここで洗濯物を干すのだろう。自宅の建物とお店の建物の間は広すぎず、狭すぎずといったところだ。ミリエルの自宅とお店の建物には隙間はないが、隣家との間には隙間がある。ぎりぎり子どもでも入れないくらいの隙間だが、どこからか生き物が迷い込んできそうな雰囲気もあった。
そんな場所に、ぽつんと犬小屋があった。家主はミリエルの気配を察知したようで、外に出ていた。鎖はあるようだが、つながれていない。首輪はしているが、自由な状態で彼女はそこにいた。
「マトワカ、起きていたのね」
「おかみさん、お疲れさま。お留守番、ちゃんとできたよ」
思っていた以上に幼い声だった。ブルーと同じ種族の女の子。妹かもしれないと聞いて、ブルーと同じ容姿を想像していたけれど、全く違った。マトワカという名前だっただろうか。灰色の明るい毛並みに黄金の目をしている。ただ、見せる表情はブルーにそっくりだ。
「あれ? お客さん?」
鼻をくんくんとさせてマトワカは言った。そこへブルーが近づいていく。
「君……スノーブリッジのお山の子なんだね?」
「え?」
彼の言葉でマトワカはやっとブルーに気づいたようだ。耳をぴんと立てる。ブルーに近寄って匂いを嗅ぐと、嬉しそうに顔をあげた。
「わあ、ディネのひとなのね。年上のお兄さん? 昔、旅立ったひと? はじめまして」
「はじめまして、そうだよ。ブルーっていうんだ。君は、マトワカだったよね」
「うん、マトワカ。おかみさんがくれたお名前なの。……そっかあ、じゃあ、ブルー兄さんだね。ブルー兄さんは、いつ旅立ったひと? ローゼン姉さんより年上?」
「ローゼン姉さんより年下だよ。姉さんもよくここに来るって聞いていたけれど……」
「姉さん、いつも来るよ。マトワカが心配なんだって。大丈夫って言っているけど、お父さんとお母さんが死んじゃってからは色々とまとまりがなくて、ディネのひとたちが町の人たちとぶつかってばかりだから、町で暮らしているわたしが心配で怖いんだって」
「……え?」
ブルーの表情が一変した。
「お父さんとお母さん……死んじゃった……?」
その反応に、マトワカの耳も倒れた。
この様子だと、知らないことを想定していなかったのだろう。
私としても衝撃的だった。
どんな両親かは知らない。どんな親子関係だったかも知らない。ただ、ブルーの反応を見る限り、ショックを受けるくらいには、ユキオオカミ族の親子関係も人間と同じようなものだったのだろう。
かける言葉が見つからないまま、黙っていることしかできない。
そんな状況の中、マトワカがあどけなくも説明した。
「ブルー兄さん、知らなかった? 怪物にやられたんだよ」
「……怪物?」
「わたしがまだうんと小さいころ、スノーブリッジにいっぱい出てきて、ディネのひとたちを襲ったんだって。お父さんとお母さんが戦って追い払ったんだけど、二人とも大けがをして死んじゃったって姉さんが言っていたの。他の兄さんや姉さんもいっぱい死んじゃったんだって。それでね、群れは散り散りになっちゃったの。ゴヤクラ兄さんが残ったみんなを連れて、かたき討ちを考えているって姉さんが言っていたよ。力を付けるために、部外者を追い払って、群れの連携を高めているんだって」
マトワカの説明を、ブルーは茫然と聞いていた。
思いもよらぬ訃報にショックを受けているのだろう。それだけではない。怪物。ここでも怪物だ。私の父の死は事故死だとされたが、兄は怪物のせいだと信じた。同じようなことがブルーの実の両親にも起きてしまうなんて。
「……ああ」
崩れ落ちるブルーの姿に、思わず駆け寄った。
「ブルー」
肩に触れてみれば、その体は震えていた。
「ボクは跡取りじゃない。群れを出ると決めた。だから、生きているうちにはもう会えない。それは覚悟していたし、分かっていたことなんだけど……」
「ブルー兄さん、泣いているの?」
マトワカが不思議そうに首をかしげる。
この子はあまりにも幼かったのだろうか。父母の記憶もあまりなく、ほとんど残った大人たちや兄姉に育てられたのかもしれない。
ブルーが泣いているその理由がきちんと分かっていないようにみえるのはそのせいだと思われる。
「わたし、悪いことしちゃった? ブルー兄さん」
「……ううん。そんなことないよ。教えてくれて――ありがとう」
どうにかブルーが答えられたところで、私はマトワカに訊ねてみた。
「マトワカちゃん、話を聞いてもいい?」
すると、やっとマトワカが私を見上げてきた。
「お姉さんは、だれ?」
「私はブルー兄さんのお友達。名前はラズっていうの」
「ラズお姉さん?」
「そう。話を聞いてもいい?」
「わたしに答えられる?」
「たぶんね」
「じゃあ、いいよ。聞いてみて」
きちんと許可をもらったところで、聞きたいことを頭にまとめた。怪物。ゴヤクラ。ユキオオカミ族の今。ブルーの両親。いろいろ気になるところだが、まず真っ先に確認すべきことは一つだ。
「マトワカちゃんは、怪物を見たことがある?」
「ないよ。話で聞いただけ。でも、ローゼン姉さんはあるって」
「どんな姿をしていたか聞いている?」
「怪物はオオカミの姿に化けていたんだって。それでね。必ずお面を付けたオマキザルに操られているの。オマキザルはコヨーテって名前なの。オサルさんなのにコヨーテなんだって。叔母さんたちがよくお話ししてくれたの。コヨーテは寒いのが苦手なはずだったから、スノーブリッジに来るのはすごく珍しいことだったんだって」
コヨーテ。やっぱり同じだ。同じ昔話だ。
それがオマキザルで寒いのが苦手であるというのは初めて聞いたけれど、だいたいは一緒だ。本当の話かどうかはマトワカの証言だけでは分からない。ただ、この話のために兄ブラックはゴヤクラとも会いに行ったのだろうか。
「ゴヤクラ兄さんとは会ったことある?」
「お山を離れてからはないよ。会いに行っちゃだめって姉さんが言っているの。部外者だと思われたら危ないって。戦う力がないと兄さんとはお話しできないって言っていた」
「山を離れる前はお話ししたことあった?」
「あったかも。……うん、あった。あのね、怪物の話をしてくれたの。怪物と戦うには勇気が必要なんだって。勇気はオオカミの誇りでね、スノーブリッジに昔から伝わる宝物なんだって。もともとはね、ディネのみんなの先祖の心臓だったんだって。みんなはその血を引いているから、怪物とも戦える勇気あるオオカミなんだって」
「スノーブリッジのベリー……」
たびたび聞く伝説のベリーだ。九つのうちの一つで、昔、ドラゴンを目覚めさせたという勇者を助けた賢狼の心臓だったといわれている。
ちなみに心臓がベリーで出来ているという伝説はこの地に多く伝わっている。きっと、ベリーの不可思議な力と、ベリーを摂取したときに高まる鼓動とが関連付けられているのだろう。それだけ、古代の人にとって心臓が特別なものだったのかもしれない。
つまり、心臓が本当にベリーだったというよりも、スノーブリッジベリーという単語そのものが賢狼そのもののことをさすと考えた方がいいのだろう。
「でもね、わたしは痛いのが苦手。自分が痛いのも、誰かが痛いのも苦手なの。だから、戦うのは無理だってここに連れてこられたんだ。変な人が来たら吠えたらいいんだって。吠えるの。ちょっと聞いてみる?」
「今はいいわ。ありがとう」
小さな子どもに言うように礼を言えば、マトワカは嬉しそうに尻尾を振った。その仕草は番犬そのものだ。
「ところで、マトワカ。今日は、お姉さんは来たのかい?」
ミリエルが置かれている皿の様子を見ながら訊ねる。片方には水。だが、入れ替えるのか雑草に流してしまった。その仕草を見て、マトワカは何故か尻尾を振りだす。ミリエルのことが好きで仕方ないのだろう。そのあたりも、人間と寄り添って暮らす普通の犬と変わらない。
「どうなんだい、マトワカ?」
新しい水を入れながら再度訊ねると、マトワカは首を傾げつつ答えた。
「今日は、まだだよ」
まだ、ということは今宵も現れると信じているのだろう。
「今日はね、昨日のお話の続き、してくれるの。楽しみなんだ」
「お話って?」
訊ねてみれば、マトワカは狼の顔でにっこりと笑う。
「スノーブリッジのお山の話。お山であったことをお話ししてくれるの。昨日はお父さんとお母さんが小さかったころのお話。その続きだよ」
純粋に楽しみにしていることがよく分かった。
約束をしているのならば、高確率で現れるということだろう。
「私たちもここで一緒に待っていてもいい?」
訊ねてみると、マトワカは首をかしげて考え始めた。視線はだんだんと、中庭の隅で静かにマトワカ専用の食器を洗い始めていたミリエルへと向いていく。
「ねえ、おかみさん」
そちらへマトワカが話しかけてほんの数秒後、ミリエルは答えた。
「わたしゃ別に構わないよ。そろそろ寝かせてもらうけれどね」
突き放すような態度だがとても有難いお言葉だった。
さて、ブルーの妹に会えただけでも貴重なことだが、姉となるとなかなか緊張する。相手はスノーブリッジで暮らしているユキオオカミ族だ。マモノと恐れられる存在であるのは違いない。
しかし、それと同時に、重要な話を聞かせてくれるかもしれない相手なのだ。スノーブリッジの事情に詳しいのならば、ブルーの兄ゴヤクラに会いに行ったという私の兄ブラックについて何か知っているはずだ。
貴重な機会である。少なくともゴヤクラに会いに行くよりは安全だと信じよう。
ミリエルが自宅へと戻ってしまうと、マトワカは私たちにしきりに話しかけてきた。
いつもこの場所はさみしいのだろう。姉のローゼンとやらが来ない限り、“退屈”というものが友達なのかもしれない。だが、実の兄であるブルーは、初対面の妹の話にまともに付き合えない。無理もない。両親の訃報を聞いたばかりなのだ。マトワカにとっては遠い過去の出来事だったのかもしれないが、ブルーにとってはたった今降りかかった悲報である。
マトワカに疑問を持たせぬように、私は答えられるだけのことをブルーの代わりに答えた。外のこと、ブルーとのこと、よその町のこと、この町のこと、私が目にしてきた過去の話をマトワカは楽しそうに聞いていた。
狭い庭だけがこの子の世界なのだろう。それでも、今のこの子の良さは、その狭い世界だからこそ守られている現実もあるのかもしれない。
話しながらひそかにそう思っていると、隣で項垂れていたブルーがはっと一方に視線を向けた。ほぼ同時に、マトワカもそちらを見つめる。耳をぴんと立てて、嬉しそうに舌を出す。そんな彼女の表情で、どういったものが近づいてくるのかがよく分かった。
ブルーとマトワカの姉ローゼン。
スノーブリッジでブルーよりも期待されていたという経歴を持つその“女性”は、ゆっくりと近づいてきた。
私の存在に気づいてはいるが、恐れてはいないようだ。威風堂々とした姿はきっと、スノーブリッジでユキオオカミ族の結束を固めようとしている青年ゴヤクラにも似ているものなのだろう。
月明かりが照らす場所に現れた彼女の姿は、ブルーやマトワカと全く違った。白色の強い体毛は美しいが、耳や目のあたりには傷が目立つ。
勇猛果敢な性質は表情からよく伝わってきた。人間で例えるならば、そのあだ名の通り、伝説にのみ残る先住民の女戦士というところだろう。しかし、その鋭い黄金の目が無邪気な表情で迎えるマトワカに向くと、やや印象が和らいだ。次いで、私と、そしてブルーへと目を向ける。私は怯んだが、ブルーは一歩前へと出た。
姉と弟の再会である。




