2.雪山の盗賊
「〈雪山の盗賊〉……?」
首をかしげながらブルーが見つめたのは、ライオネルに紹介された酒場である。
ここの店でライオネルの恋人であり、私もまたずっと会いたかったネコ化した女性カチナと待ち合わせすることになっているのだ。
ちなみにこの酒場は以前から知っていた。ただ立ち入ったことはない。なぜなら、店の女主人の方針で、「一言さんお断り」とかいう謎の制度があるためだ。分かりやすく言えば、誰かに紹介してもらわないと入れない。そういうちょっと不思議な酒場だった。
「おお、ブルー坊! この文字が読めるのか!」
ライオネルが感心しながら看板を指すと、ブルーはオオカミながら不満そうな顔をした。
「この文字くらいボクにだって読めるよー!」
不満そうにしつつ尻尾を振るブルーだが、普通はそもそも四足歩行のオオカミが文字を読むなどと想定しないという現実は黙っておこう。それにしても、この看板についてブルーの関心が向けられたのは、おそらく書かれている文字の意味ではないだろう。
「この看板のオオカミ、ブルーにそっくりね」
そう言ってみれば、ブルーの両耳がピンと立った。
「ホント? このオオカミかっこいいよね。ボ、ボクに似てる?」
嬉しかったのか尻尾を振りながらそう言った。
しかし、まじまじと看板を見つめると、尻尾の動きも止まってしまった。
「でもどっちかというと、兄さんのひとりに似ているかも……」
他ならぬブルーが懐疑的になってしまった。と、そこで、ライオネルが待ちきれずに店の扉を開けてしまった。
カランという爽やかな音が響き、おそらく初めて見ると思う店内の光景が目に飛び込んでくる。見たところ、普通の酒場だが、カウンターでシェーカーを磨いていたのはイヌ族の女性だ。
真っ黒な体毛がとても色っぽい。彼女の青い目がちらりとこちらを向き、ライオネルの姿を確認すると黙ったまま店の端を指さしながら言った。
「なんだい、あんた生きていたのか。あんまり遅いもんだから、死んじまったのかと思ったよ」
「相変わらず冷たいなあ」
「冷たい? あたしとしちゃ、温かいくらいのお言葉なのだがね、ほれ、さっさと行ってやんな。カチナ嬢がお待ちかねだ。お連れの可愛い子ちゃんたちも無駄に頑丈なあんたと違って早く座りたいだろう」
「へえへえ、お邪魔するぜ、ミリエル」
後でこっそり教えてもらったが、彼女の名前はミリエル=サリバンというらしい。
この通り、気の知れた相手には容赦がなく、あまりよく知らない相手には無関心なのかと思うほど話しかけてこない。おそらく、入店制限をかけているのも、彼女のこうした性格のためなのだろうと噂されているほどだった。そういう女性だが、カクテルはもちろん料理も大変よろしいのだとか。
それはそうと、私たち以外の客はもちろんいるが、まばらだ。入店制限だけではなく、開店間もなくという時間の影響もあるのだろう。おかげで、店の端っこですでに席についていたカチナとも、気兼ねなく話すことができそうだった。
「遅くなってすまん、カチナ」
「久しぶりね、レオ。そちらがお手紙にあった若きベリー売りさんたちね」
手を出され、握り返すテンポが遅れたことをいつか詫びたい。
決して、カチナの猫の手を恐れたわけではなく、そのエメラルドグリーンの目に見惚れてしまったせいなのだ。ちなみにその手の感触はふわふわだった。外見的特徴では元が何の種族だったのかは分からないが、猫以外の特徴を見る限りは人に似ている。カチナという名前の由来からして、原住民の血を引いているのは確かなのだが。
「はじめまして、名前は確かラズちゃんと……えっとブル君だったかな?」
「すごく惜しい! ブルーだよ!」
ブルーが答えるとカチナは目を輝かせた。
「まあ、本当に喋るのね。じゃあ、やっぱりスノーブリッジに住むユキオオカミ族なのね」
「ユキオオカミ族……宿の人も言っていたね。ここの人たちは、ボクたちのことをそう呼ぶんだね」
「ええ、最近までは失礼なことにマモノ扱いだったそうだけれど、あなた達だって喋るじゃない。聞けば、歴史と文化ある一族だってことで、今では原住民の一派といわれているわ。彼ら自身は自分たちのことをディネというわね。『我々』という意味だとほかの原住民が言っていて、同じように名乗る部族は多かったそうね」
「ディネ。そうだね。確かにそうともいう。でも、オオカミってボクたち自身も普通に言うよ。それ以外のことは……実はボク、お家のことについてはよく分からないんだ。分からないまま出てきちゃったところもあるから……最近、その、ユキオオカミ族の噂って何かあるの?」
首をかしげるブルーにライオネルが答える。
「あまりよくない噂が、ちょっと前からあるな。ユキオオカミ族の代表を名乗る黒いオオカミが若者たちを率いてたびたび里に近づいてくるんだ」
「黒いオオカミ? 名前は?」
「一応名乗ってはいるそうだが、彼らは本名を名乗ってくれねえものだと聞いている。跡取りなら誰もが本当の名前を持っているとは聞くが、その名を知られることを恐れているとかでね。ブルー坊もそうなのかい?」
「ボクは群れの跡取りじゃなかったから……でも、大人たちはそうだったかも」
首をかしげながらブルーは答える。その姿は無邪気な犬のように愛らしい。
それにしても、スノーブリッジのマモノ――ユキオオカミ族といえば、その危険性をたびたび指摘されている部族だ。スノーブリッジが観光客に不人気の原因であるだけではない。これには複雑な事情もあった。
彼らがマモノと呼ばれ続けていたのは確かだが、そのちょっと前まで、彼らは道案内役として人気だった。その当時は、友好的な者も多くいたらしい。
しかし、時代の流れと共にユキオオカミ族の毛皮の美しさが注目され始めると、彼らをだまして撃ち殺す不届き者が現れた。以来、友好的なものから順に犠牲となり、残った者たちは二足歩行の者をあまり信用してくれなくなったのだという噂を聞いたことがある。
そして近頃、ユキオオカミ族は二足歩行の旅人を見かけると襲うようになり、どんなに話をしようとしても無駄だとすら言われている。
だから、彼らはマモノだと思った方がいい。以前、スノーブリッジを訪れたときにはそう聞かされた。
もちろん、ブルーと出会ってからはそんな印象も変わってしまった。ブルーを見ていると、かつてのユキオオカミ族の姿を想像してしまうのだ。道案内役をしてくれた時代もあったという彼ら。
ひょっとして今もフレンドリーである者が残っているのではないか。ブルーだけが変わっているわけではなく、これが本来の彼らの姿なのではないかと。
「ちなみに、跡取りの兄弟はなんて呼ばれていたか覚えている?」
カチナに問われ、ブルーは頷いた。
「えっとね、名前を覚えているのはふたり。うん、ふたりだ。ゴヤクラ兄さんと、ローゼン姉さん。ふたりとも、伝説に残る勇者のあだ名を貰ったんだって言っていたよ。あとは忘れちゃったなあ……どっちもお父さんやお母さんにすごく期待されていたんだ」
「ゴヤクラ……」
ブルーの答えにカチナの目の色が変わった。ライオネルも表情を変え、周囲をちらりと見渡してから、身をすくめた。明らかに様子がおかしい。
「どうしたんですか?」
そっと訊ねてみると、カチナは声を潜めて教えてくれた。
「ローゼンというオオカミは知らないけれど、ゴヤクラは有名なの。……それも、あまりよくない形で」
「え?」
「その、たびたび里に来る黒いオオカミっていうのが、ゴヤクラと名乗っているんだ」
「ええ……?」
カチナの言葉に、ブルーが心配そうな顔をしたとき、ミリエルがちょうど水を持ってきたのでみんな黙ってしまった。
すでに飲んでいるカチナを除いてことりと三人分のグラスが置かれた。メニュー表でも眺めていたのだが、すでに遅く大半を聞かれていたらしく、ミリエルはぼそりと呟いた。
「ユキオオカミ族にも色々いるのさ」
気の抜けた声だが、主張はしっかりとしている。
「それ自体が悪者ってわけじゃないが、ゴヤクラって子はどうやら純粋さと勇敢さが混じりあったユキオオカミ族らしい。頑なな態度を産んでいるようで、いかなる説得も聞いてはくれない」
「頑なな態度?」
ブルーが思わず口をきいたが、ミリエルは眉もひそめずに頷いてくれた。ブルーがそのユキオオカミ族であろうと彼女にとっては大した問題ではないのだろう。
「あんたの兄さんは立派な跡取りになっているってことさ。姉さんだという方はよくわからないが、あたしんちの周りでたまに見かけるね。あたしんちにいる家族が心配らしい」
「え? 姉さんがここに? 家族って?」
「山を離れたばかりの幼い妹だよ。ああ、あんたの妹でもあるね。名前がないっていうもんだから、マトワカっていう名前をつけて、うちで番をしてもらっている。年齢はたしか一歳にも満たないはずだね。可愛い子だよ」
「ボクの妹……?」
一歳にも満たないということは、ブルーとは直接面識がないのかもしれない。だが、このミリエルというイヌ族の女性、どうやら柔軟な考えをもつものらしい。状況的には私と一緒なのだろう。追い払うわけでも、虐げるわけでもなく、ただ一緒にいるという雰囲気なのかもしれない。
「じゃ……じゃあ、ミリエルさんの家に行けば、ローゼン姉さんにも会えるの?」
「まあ、そうかもしれないってところだね。家っていうか、この店の裏だよ。よければ、営業時間後に案内してあげてもいいけれど……まあ、起きていられたらね」
軽く揶揄ってから、さてと、とミリエルは私たち全員を見比べた。
「長話もいいけれど、長居するならそれなりのお金を落としていって貰いたいところだね。オススメはプリンスベリー粉配合のパンケーキとカクテルだ。あ、カクテルはアルコール入っているから、苦手だったら、サイダーに変えてあげようね」
案内されるがまま、さり気なくメニュー表を見て、度肝を抜かれた。プリンスベリー粉配合とさらりと言った通りの値段だった。同じ程度の幸福を味わうなら、絶対にその十分の一くらいの値段のパンケーキとカクテルを頼んだ方がいいだろう。
ちなみに常連のはずのカチナとライオネルも気持ちは同じらしかった。
「おっほほ、サリバンお姐さん。プリンスベリーのお粉のお味は俺たち庶民にゃ分からんよ」
「残念ながら同感ね。もっとも、レオ様がその体つきよろしく逞しく奢ってくれるというのなら口にしてもいいのだけれど」
久々に会う恋人のなかなかシビアな冗談に、ライオネルはますます頭を掻いた。
「勘弁しとくれよカチナ。待たせた詫びはこっちで頼む」
そう言って指さしたのは、マタタビエキス配合のゴールデンタビータイガーというカクテルだった。中に沈んでいるのは大抵の場合、サンフラワーベリー。マタタビの香りとよく合う甘味が特徴で、効果としては気持ちが前向きになると期待されている。
マタタビエキスといえば、ネコ化の呪いにかかった人が好むことで有名だ。世の中にこの病と付き合う羽目になっている者も少なくはないので、マタタビエキス配合カクテルは意外と多い。その中でも、ゴールデンタビータイガーは味と香りの対比がとても人気で、こうしたネコ化の人向けに用意されていることが多いらしい。
「仕方ないなあ。そんなに言うのなら、そっちで我慢してやるか」
そう言ってから、カチナはメニュー表をぱさりとめくり、別のカクテルを指さした。
「じゃあ、わたしからレオにプレゼント。ミリエル、この新作カクテルを一つちょうだい」
「はいはい、金虎に青虎ね」
「青虎? マルタタイガー? なんだい、このカクテルは。果実酒にサフィールベリー、ソーダ水ってこれはいいんだが、隠し味・企業秘密ってなんだ?」
「――で、ラズちゃんとブルー君はもう決まった? ここのオススメはオムレツよ。中に三種類のチーズが入っていてすごく美味しいの」
「わー、ボクそれ食べたいかも」
「私もそれにします」
隠し味・企業秘密は非常に気になるが、それ以上にオムレツの味が気になった。ついでに頼むのは、いつものブルーアイズだ。もちろん、ノンアルコールであることは確認済みである。
「ブルー坊にはこれかな」
ライオネルの助言で決まったのは、「イヌ族・オオカミ族はもちろん、ワンちゃんにもオススメ! スノーブリッジ天然水を使用したカクテル・スノーブリッジウルフドッグドリンク」だった。エナジーベリー配合とのことなので、栄養的にもよさそうなものだ。
ついでに、犬用ジャーキーも頼んでもらった。イヌ族の用意する犬用ご飯は確かな質だと聞いたことがあるので、なかなか安心感がある。もちろん、オムレツも惜しまずブルー用にも頼んである。
「さて、注文も済んだことだし」
そう言って、カチナが水を飲んでから切り出した。
「手紙で聞いたわ。あなた、ブラックくんの妹さんなんですってね」
いきなりの本題に少したじろいでしまった。猫の目に圧倒されているのもあるかもしれない。しかし、ようやく会えた重要人物だ。身を正して、私は頷いた。
「兄は……今どこに?」
すると、カチナはため息交じりに答えてくれた。
「ついこの間までは一緒にいたのよ。でも、ごめんなさいね、レオからの手紙が届くほんの少し前に旅立ってしまったの」
「――そうですか」
非常に残念だが、この町についた時から薄々感じてはいた。
今回も兄には会えないのだろう。いつの間にか、それが当たり前になっていた。だからこそ、旅の重要な部分は各地に伝言を残しておくことに偏りつつあるのだけれど。
「ブラックくんは謎という怪物に興味を抱いていたわね。なんでも、怪物狩りの訓練も受けたのだとか。怪物と各地に伝わる呪いの関連性も気になっていたようで、それで、呪いの研究をしている私の話を聞きながら一緒に旅をしていたの。スノーブリッジ高山にいるユキオオカミ族たちにも関心を抱いていたわ」
「謎との関係性を?」
ブルーが不安そうに尋ねると、カチナはそっと微笑んだ。
「そうね。具体的に言えば、怪物とユキオオカミ族の対立の歴史について。謎達はコヨーテと呼ばれる偉大な魔術師の手下なの。コヨーテは大地をあるべき姿に戻すために奮闘する。そのためにとる手段の中には、各地方の部族にとってとても迷惑なことがある。だから、どんな信念があろうと時には怪物狩りをしてコヨーテの計画を狂わせることも必要だった。それが古の信仰で、ユキオオカミ族も昔から怪物狩りをしてきた種族だったそうよ」
「そういう話を兄は集めていたのですね……?」
恐る恐る尋ねると、カチナは目を少しだけ細くした。
「そうね。とても関心が強い様子だったわ。謎とか怪物とか、そう呼ばれる生き物は確かにいる。最初はネズミみたいな大きさで、だんだんと大きくなっていって、喋るようになる不思議なマモノよ。でも、それを操るコヨーテがいるかどうかは分からない。でも、ブラックくんは本気だった。お父様が怪物の犠牲になったと聞いたわ。コヨーテという存在を信じ、憎んでいたのでしょうね」
「カチナさんはコヨーテを信じていないのですか?」
訊ねてみれば、カチナは困ったような顔をした。
「信じるかどうかといわれたら、たまに信じたくなることはあるわ。怪物と呼ばれる生物たちが急に大量発生したときとかね。実際に、怪物大量発生騒ぎがあった後、この国でコヨーテを名乗る人はたびたび現れるの。原住民の文化に精通している自称魔術師や、オカルトマニア、悪魔崇拝者など内訳はさまざまだけれど、いずれも共通しているのが偽物ってところね。ただの目立ちたがり屋ばっかりだった。でも、ブラックくんはそういう人の情報を聞いては確認しにも行っていたみたい。そこは少し心配だったわね」
そして間違いなくコヨーテだと思う人を見つけたらどうするつもりなのか。
急に怖くなった。いつまでも帰ってこない兄。こんなに伝言を残しているのに、連絡一つよこしてくれないのは何故なのか。あまり深読みしたくはないが、なかなか暴力的なことを考えてのことなのではないかと思うと、変な焦りが生まれた。
真っ先に思い出すのは祖母の顔だ。ブラックのことを話すたびに悲しそうな顔をしている。心配性であるだけではなく、どうやら父が死んでしまった日のことを思い出すらしい。結婚には反対したが、いざ結婚した後の関係は良好だったと聞いている。私はもうあまり覚えていないのだが、祖母と父はまるで血のつながった親子のように親しかったと聞くので、あの様子も納得できた。
兄の願いについては分からない。できれば、危険なことはやめてほしいけれど、どうしてもしなければならないのならば、それを妨害するつもりはない。ただ一度でいいから、顔を出してほしい。手紙を寄越すだけでもいい。母や祖母に一言手紙で何かを伝えてほしい。それだけだった。けれど、兄のことを追うにつれて、だんだんと奇妙なものも感じ始めていた。
場合によっては兄を見つけ出し、その目的を妨害しなくてはならないこともあるのではないか。
ただの予感でしかないが、苦手な香りのするパイプの煙のようにいやらしく思考にまとわりついてきた。
「ブラックくんはお父さんのこともよく懐かしんでいたなあ。いいお父さんだったんだね。ベリー売りとしても、夫としても、父親としても……」
グラスを片手にカチナがつぶやく。
「つまり、ブラックさんとやらは、あれかね。親父さんの死を謎のせいだとみており、その謎がコヨーテに操られたものだと信じていて、コヨーテ相手に敵討ちをしたいってことなのかねえ」
ライオネルがそうつぶやいたときに、ミリエルが飲み物を運んできた。
「これまた物騒な話をしているね。謎だのコヨーテだの」
「これまた?」
思わず気になって聞き返すと、カチナが答えてくれた。
「ブラック君が居た頃も、よくここでお話ししていたのよ。いつもカウンターで座って、同じく居合わせた人の話を聞きこんでいたわね。ミリエルもいろいろ聞かれていたわよね」
「そうだったっけねえ。切羽詰まっていたかしら。人間さんのはずなのに、その目はどんな名犬よりも鋭かったわね」
イヌのような鼻をぴくぴくとさせながら、ミリエルはそう言った。
「ブラックさんは、確か、スノーブリッジ高山にも行っていたはずだよ。ゴヤクラってオオカミと話をするんだってね」
「ええ……?」
今度は私が怯んでしまった。ブルーも心配そうに私の顔をうかがってくる。もっと詳しく聞きたいところだったが、ミリエルはそのままさっさとカウンターに戻っていってしまった。仕方がないのでカチナを見れば、グラスに口を付けたまま、思い出したようにうなずいた。
「そうだったわね。ゴヤクラと会って、怪物とコヨーテの話を聞くのだって言っていたわ。実際に山には登ったけれど、下山後は、彼との約束で何を話したかは口外できないと言っていた。ただ、今後の目的としてウィル・オ・ザ・ウィスプにいるはずのキツネと会わなくてはならないのだって言っていたわね」
「キツネ?」
「ココペリ=ココペルマナっていう名前だよ。ウィル・オ・ザ・ウィスプでは有名なキツネの精霊の名前でもある……ってのは、旅人のラズちゃんなら知っているかしらね。こりゃ、単なる昔話なんだけど、怒らせると人間をキツネ化させちゃうんですって。わたしの状況とちょっと似ているかしら」
そういえば、タイトルページのマスターはキツネ化の呪いにかかった経緯を話してくれた。“ウィル・オ・ザ・ウィスプとゴーストライクの間にある秘境“と言っていたことはしっかりと覚えている。こうした呪いの記録は予防のためにもしっかりと覚えておいた方がいいものなのだ。
そんな場所で、その呪いの原因ともいわれているような不確かな存在に会うためにウィル・オ・ザ・ウィスプへ行ったという兄。まさか兄もキツネになってしまうのではないかと思うと非常に心配だった。
「じゃあ、ネコ化は誰を怒らせたらなっちゃうの?」
ブルーが能天気に質問すると、カチナはくすくすと笑いながら答えた。
「さあ、誰かしらね。サンドストームの遺跡で祀られている山猫の神様かしら? 一応、ネコ化の呪いはサンドストームに多いということは分かっているの。実をいうとね、先天的にこの呪いにかかっている子も珍しくないのよ。私も物心ついたころからずっとこの調子だから、呪いが解けたらどんな姿なのか実は分からないの」
「へえー」
カチナの専門は呪いだと聞いている。やはり自身の呪いを解くためなのだろうか。そんな彼女と接触し、さらに呪いの原因ともいわれている謎の存在のもとへ行ったという兄。
ココペリ=ココペルマナなんてものは本当にいるのだろうか。それとも、“会う”というのは表現の一つにすぎず、実際には“見つける”とか“探し出す”ということだったりするのだろうか。
分からないことだらけだ。推測だらけではどうしようもない。結局のところ、兄に直接会わなくては意味がないのだろう。
「ともかく、私が知っているのはこのくらいね。思い出せていないこともあるかもしれないから、思い出したらまた話させて」
「あ、ありがとうございました! あの、お礼は――」
「ああ、気にしないで。あ、でもせっかくだから、ちょっとお願いしちゃおうかしら。もし差し支えなかったら、ラズちゃんとブルー君、二人のこれまでの話を聞いてみたいわね」
「これまでの話ですか?」
尋ね返すと、カチナは怪しげに目を細めた。家猫がたまにやるしぐさによく似ている。トワイライトで家族と共に暮らしている飼い猫のことを少し思い出した。
「ラズちゃんもブルー君も、ここに来るまでいろいろあったわけでしょう。そうやって二人一緒に旅をするきっかけだってあったはずよ。ねえ、レオ」
急に降られたライオネルが慌てて振り返った。どうやら他所の席のグリルチキンに注意を奪われていたらしい。カチナに見つめられ、ライオネルはよだれを誤魔化しつつ何度も頷いた。
「ああ、ああ! ここに来るまでにも色々話はしたが、まだまだ全部聞いたわけじゃない。ぜひともふたりの馴れ初め話を聞きたいもんだ」
「馴れ初め話だなんて」
あきれ気味に私が言うと、カチナはくすりと笑った。
ブルーは隣でもじもじしている。退屈になってきたのだろうか。うかがっていると、向こうもこちらをちらりと見てきた。そのしぐさだけだと、こちらもまたトワイライトで家族と暮らしている飼い犬のことを思い出す。
トワイライトからここまでどのくらい経っただろうか。ブルーと出会ったのはあの後だ。いつの間にか、ブルーはもうすっかり家族となっている。そのきっかけの日を思い出しながら、私はカチナへと視線を戻した。
「ブルーと出会ったのは、タイトルページのベリーロードでのことでした――」
そうして、語りだせば止まらなかった。不思議なくらい、私はすらすらとブルーとのこれまでの日々で楽しかったこと、面白かったこと、怖かったこと、ライオネルと出会うまでのこと、出会った後のこと、ブルーとの関係とこれからの期待のようなものについて、語ることができた。
こんなにたくさん語れることはあっただろうか。そう、まるでベリーのことのように、私はブルーと過ごしたこれまでのことをたくさん話すことができたのだ。
今に至るまでに、ブルーが私の中でどれだけ大きなものとなっただろう。言葉にすることは気恥ずかしいことだけれど、話してみれば明るい気持ちが生まれた。
隣で黙って聞いていたブルーも、だんだんと犬のように尻尾を振り始めていた。私にも、もしイヌ科の尻尾があったなら、ブルーのような調子で振っていたのかもしれない。そのくらい、私の気持ちは高揚していた。
やがて、語りつくした頃になって、私ははっとした。どれだけ自分が喋っていたのだろう。これもまたベリーのようだ。語りだせば止まらない。語りつくしても、まだ何か語れたはずだという思いが先走る。それと同時に、喋りすぎてしまったという恥ずかしさが生まれるのだ。
「ごめんなさい、私ばかり話していたわ。ブルー、何か話す?」
慌てて隣へと目を向けると、ブルーもまたはっとした。
「え! あ、うん……ボクは……」
といって、だんだんと口元を緩ませた。まるで笑っているみたいな表情だった。ベロを出したまま、ブルーは何故か恥ずかしそうに私から目をそらす。
「ボ、ボクはいいや。思い出したらにする……えへへ」
なんだかよく分からないが、楽しそうだ。尻尾をパタパタ振っているところは、オオカミというよりも犬のようで可愛らしい。おのずとこちらも微笑んでしまいそうだった。
そんなブルーと私をライオネルとカチナは目を細めながら見ていた。まるで、親戚の大人が子どもを見守るような表情だったものだから、はっとした。ブルーはともかく、私までそんな目で見られてしまうとは。それもこれも、話し始めたら止まらない癖のせいだろう。何度も何度も恥ずかしい思いをしてきたけれど、治らなかった私の癖だ。
手元に置かれたブルーアイズの味で気恥ずかしさを誤魔化しつつ、ついさっきまでの語りに夢中な自分のことを振り返る。自分でも今まで気づかなかったような感覚だ。イブニングの町で、ライオネルにブルーについて聞かれた時くらいの衝撃だった。
いつの間にか、ブルーの日々は膨れ上がってきている。大切なものになってきている。その事実を確認しただけなのに、なぜだか酔いしれてしまいそうなほどの幸福を実感したのだ。
「お熱いことだね。ほら、この料理も負けずとお熱いから気をつけなさいな」
そう言って、ミリエルが料理を運んできた。
ライオネルが先ほど頼んだものの一つだ。スパイシーなベリーの香りがする。よくある甘味のあるものではなく、香辛料として人気の高いフレイムベリーあたりだろう。パイ生地とチーズで包まれた中にミルクのたっぷり使われたスープが人参やジャガイモ、カボチャなんかと一緒に入っている。
美味しいだろうということは、その匂いですぐにわかるほどだった。




