2.言葉を話せるということ
宿の外に出てみれば、虫たちが大合唱をしているところだった。
イブニングは賑やかな町だけれど、虫たちも賑やかにしているらしい。彼らもまたタイトルページの森にいた虫たちに比べて、夕食へのこだわりが強いのだろうか。
ちょっと気になるところだったが、今はそれよりもライオネルと話すのが先だった。ライオネルは腕を組み、尻尾をぶんぶんと揺らして考えごとをしていた。
「なるほどなあ。あの爺さんが、お前さんとラズ嬢の知りたいことを知っている、と」
「ねえ、上手い事聞いてみてくれないかな。ボク、喋らない方がいいんでしょう?」
「ああ、喋らない方がいいと見た。あの爺さんはちょいと迷信深い。当たり前から外れた存在を前にすれば、心を閉ざす恐れがあるようだ」
「じゃあ、喋るのが当たり前のライオネルさんだったら聞き出せる?」
「頑張れば、いけるかもしれない。だが、問題はどう聞き出すか、だ」
確かに。確かにだ。どうして知っているのか、という話になってしまう。
ライオネルの見立てが間違っていなければ、得体のしれないことを聞いてくる今日会ったばかりの人なんて不気味過ぎて心を閉ざしてしまう恐れもあるだろう。
「うーん……」
唸りながら尻尾をぱたぱたさせ、ボクは一生懸命考えた。ラズの知りたいことが分かるかもしれないのに、どうしたらいいんだろう。何度も考えを巡らせ、ふと思い出したのは、いつか森でインテリカラスが言っていたことだった。
――知りたいことがあるのなら、その周辺のことを聞くのも手なんだ。
べらべら喋る懐かしい姿を思い出す。今頃、ボクの姿を見かけないな、などと思っているだろうか。
彼もたしか二足歩行だったのだけれど、そういえば服は着ていなかった。お洒落な帽子だけってことは、裸族ってやつだったのだろうか。全裸のボクがいうのもなんだけど、裸に帽子だけってなかなかハイセンスな気がする。
と、いけない。考えがそれ始めたところで、ボクはさっそくライオネルに訊ねた。
「あのお爺さんの昔のお仕事の話とか聞きだせないかな……?」
「――ふむ、なるほど。職業からうまいこと怪物の話につなげるってわけか。コヨーテとかいうあのワンちゃんも猟犬だ。狩人でもやっていたのかと訊ねてみようかな」
「そうしてくれる?」
歯痒いところだが、今はライオネルだけが頼りだ。地にお腹もついて、腰も低くなってしまうというもの。そんなボクの頭をライオネルは豪快に笑いながらぽふぽふと撫で叩いた。相変わらず、ちょっと痛い。
「ああ、任せろ任せろ! そのくらいこのオレなら朝飯前よ。単調な旅のスパイスになってくれているあんたらへ礼だ。退屈しのぎにちょうどいい」
「ありがとう、ライオネルさん……!」
そういうわけでボクたちは、長いトイレを済ませ、部屋へと戻ったのだった。
客間にはやはり老爺とコヨーテしかいなかった。他の客はきっと夜の街へと飛び立ったままなのだろうと人間同士で言っていた。
コヨーテの傍へと向かいつつ、ボクの興味はライオネル達にすっかり向いていた。
(なあ、何処いっていたの?)
(え、ちょっと、トイレ……)
(――にしては、ちっとも臭わないんだなぁ)
ぎくっ。やはり犬もまたボクたちの親戚。鼻の性能を舐めてはいけないみたいだ。とはいえ、何もかも嗅ぎ取れるわけではない。ボクだって鼻には自信があるけれど、ラズの本心やボクの気持ちの行方なんて一切嗅ぎ取れないもの。
ため息交じりに床に突っ伏し、ボクは鼻を鳴らして答えた。
(行ってみたけど、出なかったの)
(ああ、なるほどね。酒がまだ回っていないんだよ、きっと)
とりあえず、納得してくれたらしい。
ほっとするボクの視線の先で、ライオネルとコヨーテの主人は雑談の続きをしていた。そして、話の区切りに差し掛かったとき、ライオネルは非常に自然な流れで、ついに訊ねたのだった。
「ところで爺さん。コヨーテは立派な猟犬に見えるが、狩りでもやっていたのかね?」
「ああ……コヨーテか。そうだね。つい五年くらい前までは……いや、四年だったかな。そのくらい前までは、狩りをしていたんだよ。コヨーテは最後の相棒だね」
朗らかに答えてくれた。ライオネルは表情を緩め、身を乗り出す。
「ほほう、興味があるねえ。どんな獲物を狩っていたんだい?」
「色々だよ。水鳥も撃ったし、鹿やウサギも撃った。オオカミも撃った」
ぎくっとしてしまった。ここは聞かなかったことにしよう。
「しかし、コヨーテの父親の代あたりからは、そうした当たり前の鳥獣ではなく、もっと違うものを撃ったものだった」
「もっと違うもの?」
「怪物だよ」
来た。この話。ボクは耳をぴんと立てて、ライオネル達の会話に集中した。
「怪物? あれかい? この国の各地に巣食う高級ベリーの主や守り神のような奴らかな?」
「いやいや、そんな存在感のあるものじゃない。しかし、危険性は守り神よりも酷い。謎と呼ばれる奴らだよ。聞いたことないかね?」
ライオネルは知っているはずだ。古代の怪物や怪人について、彼も彼なりに知っている。
しかし、ライオネルは首を横に振った。興味津々といった様子の表情で、コヨーテの主人に促したのだった。
「いいや、名前は聞いたことあるかもしれんが、よく知らないね。どういう奴らなんだい?」
すると、コヨーテの主人は目を大きく開き、両手を交えて話し出した。
「ネズミのような、猿のような、そして、仮面を被った人間のような奇妙な奴らだ」
「なんだいそりゃ」
「時にはエルクやクマのように肥大化し、人を襲う。奴らは生き物じゃない。ベリーの粕とも言われている。聖地に封印されたまま眠るドラゴンの悪夢だとも言われている。ドラゴンが起きる予兆だとも……」
「つまり、この国で何かが起こる予兆で生まれてくる? にわかにゃ信じられんな」
ライオネルが正直に呟くと、コヨーテの主人は袖をまくり上げて腕を見せた。ボクの方からはあまり見えなかったが、ライオネルの表情だけはよく見えた。眉を顰め、顎を掻きながら唸った。
「ずいぶん痛そうだ。それも、謎とやらが?」
「ああ、そうだ。この時は、でかいエルクの姿だった。これが引退のきっかけでもある。今でもよく痺れてね……。幸い、コヨーテは無傷だった。これまでの蓄えもたっぷりある。だから、相棒とふたり、癒しの旅をしているのさ」
ボクはふと隣で伏せているコヨーテに視線を向けた。彼はのんきに欠伸なんかしている。こう見えて、危ない目にあったこともあるのだと言われても、今の姿では全く予想がつかなかった。
――危険な怪物か……。
そういえば、ラズの兄ブラックの話を思い出した。
彼が家に戻ってこないのは、ラズたちの父親を殺したのだという怪物を探すためだ。ラズたちは、あれは事故死だったと思っているけれど、ブラックは違う。彼は父の死の真相を追い求めるために、ラズたちに心配をかけてまで各地を旅してまわっているのだ。……ラズの伝言さえも無視して。
やっぱり、ラズたちのお父さんを殺したのは、怪物なのだろうか。
「そうか。疑ってすまなかったね、爺さん」
ライオネルの声ではっと我に返った。
「よければ、怪物についてもうちょっと教えてくれるかね」
「ああ、よかろう。何でも聞きなさい」
「ありがとう……じゃあ、そうだな……」
考えるふりをしながら、ライオネルはボクの方をちらりと見た。ボクもまた耳をぴんと立ててライオネルを見つめた。目と目が合うのを確認してから、ライオネルは改めてコヨーテの主人へと視線を戻す。
「よし、これを聞こう」
人差し指を立ててそう言うと、しっかりと頷いた。
「怪物ってやつが何処にでるのか気になる。森とか川とか、ざっくりでいい。何処に出現するんだい?」
「ふむ、謎共の出現場所か。何処にでもいたぞ。山や平原にもいた。町中にもいた。中には家の中にまで。どんなに小さくとも、見かけたらすぐに潰さねばならない。だから、呼ばれたら行ける限り駆けつけた。クックークロックやミルキーウェイ、タイトルページといった都会、ミッドナイトにアフタヌーンといった町、さらにはデイライトやトワイライトといったのどかな場所まで……」
――トワイライト!
静かな衝撃が走った。トワイライトこそ、ラズの故郷。そこで昔、ラズのお父さんは亡くなったのだ。そこにもエニグマが出現したっていうことは……。
嗜好を巡らせていると、コヨーテの主人がため息をついた。
「もともとは若い頃に原住民シュシュ族の末裔から頼まれたことでもあった。シュシュ族を含めた原住民の人間たち、二足歩行の獣人族たちの昔話によく登場したそうだね。すべての謎を操るのはコヨーテと呼ばれる古の王だ。怪人とも呼ばれるね。あの子の名前の由来でもある。人々に知恵を与えつつ、気まぐれに世の中を暗い闇で覆い、ドラゴンに悪い夢を植え付けるトリックスター。怪物たちに紛れて仮面を被り、操ることで混乱を与える……お前さんこそ聞いたことないのかね?」
不思議そうに問われ、ライオネルはやや驚いた表情を見せる。しかし、特に不審に思わなかったようで、コヨーテの主人はもう一度、ふうと息を吐いた。
「まあ、そういうものだろうな。シュシュ族の末裔も嘆いていた。最近の若いもんは新しいものばかり追いかけてしまうのだと。そりゃ、悪くないことだが、もう少し、先人たちの歩みに目を向けて欲しいとね」
「そういえば、オレの両親は、クーガー族に直接結びつくお話くらいしか聞かせてくれなかったな。怪人コヨーテの話を知らないわけではないが……」
「まあ、そういうものなのかもしれないね。だが、若者みんなが駄目だというわけじゃない。引退間際だって、有望なエニグマ狩りの青年が知り合いにいてね。ああいう若者がいる限り、希望は繋がると思うことにしようかね」
――有望なエニグマ狩り……。
喋りだしてしまいそうなのを必死にこらえ、ボクは何度もライオネルへと視線を送った。そんなボクの様子を察知してか、ライオネルはすぐに喰いついた。
「ちなみに、どんな青年だったんです?」
「黒髪の若者だよ。ベリー銃の扱いが素晴らしかった。……たしか、デイライトかトワイライトだったか、のどかな村で育ったと聞いたね。名前は忘れてしまったが……」
「じゃあ、エニグマ狩りといえば、今はその彼が活躍しているのかな?」
「さてね。引退してからは現場のことがすっかり分からなくなってしまった。新人教育も知り合いにすべて譲った。それに、聞きまわったところで無駄だ。現役のエニグマ狩りは口が堅い。この老いぼれのように、引退した奴の話しか聞けんだろう」
「そうか……じゃあ、彼らが何処で何をしているかなんて分からないわけだ」
「彼らも一か所に留まることはないだろうからねえ。こうして癒しの旅を続けていれば、ばったり会ったりしないかと、そんなことを思うくらいだよ」
静かに笑うコヨーテの主人を眺めながら、ボクは静かに落胆していた。
その青年がブラックだとしたら、連絡を取れたかもしれない。あるいは、立ち寄る可能性の高い場所に張り込むことが出来たかもしれない。でも、この様子では無理そうだ。ラズの力になれると思ったのに。
思わずため息を吐くと、思っていたよりもずっと客間に響いてしまい、心臓が止まりそうになった。ライオネルとコヨーテの主人の視線がこちらに向く。びくびくしながら二人と目を合わせていたが、やがて、コヨーテの主人の方が朗らかに笑いながら言った。
「どうやら、君んとこの犬もお疲れのようだ。そろそろ眠るとするかね」
「ああ、それがいいかもな」
ちょっとだけホッとした。
それから翌日、ボクはラズとの再会を喜んだ。たった一晩いないだけで、こんなにも寂しいとは思わなかった。再会するなり、ボクとライオネルはラズにエニグマ狩りの老人の話をした。ラズは驚いていたが、冷静にその一つ一つをしっかりと聞いてくれた。
イブニングからスノーブリッジに向けて出発する直前、ライオネルが買い物にいってしまったため、ボクとラズはふたりきりで町役場の前で待っていた。
のんびりとした午前の景色。ミルキーウェイやタイトルページほどの規模ではないものの、賑やかさでは負けていない気がした。ラズはしばらく立ったまま人の行きかう様子を見つめていたが、やがて、疲れたのかボクの横でしゃがんだ。ラズの顔が近くになって、ちょっと嬉しい。
「遅いね、ライオネルさん」
話しかけてみると、ラズは静かに肯いた。考え事をしているみたいだ。きっと、今朝伝えた話のせいだろう。同室になった老爺が語った謎という怪物と、エニグマ狩りの青年のお話。肝心なことは分からなかったが、ラズの兄に近づける情報に違いない。何度も何度も考えてから、ラズはようやく口を開いた。
「さっきの話だけど……怪人コヨーテのお話や、怪物狩りっていう風習については聞いたことがあるわ。怪物狩りは森や町をお清めするための風習。厄払いの意味も含まれている。コヨーテも昔話によく出てくる。昔の人は、原因の分からない病気や不幸を悪魔のせいだと思っていたそうね。その怪物やコヨーテが謎っていうものとつながりがあるのは初耳だわ。……けれど、所詮、昔話に過ぎないと思っているの」
「でも、あのお爺さん、本当にいるみたいな口ぶりだったよ。それに、目撃情報もあったわけだし」
「……そうなのよね。それにしても、兄さんが怪物狩りなんかやっていたなんて……怪人コヨーテや謎が本当にいるって本気で信じているのね」
ラズは考え込みながらそう言った。
「怪物狩りのその話、一緒にいたワンちゃんの年齢からすると、結構前の話よね。そんなに前から兄さんは……」
「怪人が操るとか、怪物が出るとか、コヨーテだとかエニグマだとか、ボクには分からないことだらけだったよ」
「怪人……怪物……兄さんは、いったい〈何〉を追いかけて旅を続けているのかしら。やっぱりバーナードさんやエステラさんの目撃したというあれは――」
自問自答し、そのまま黙り込んでしまう。
人間って本当にいろんなことを考えるんだなとボクは思った。ボクも考えるのは好きだ。色々考えて、一人で悩むことが多い。こんな時、ボクはなんて声をかけるべきなのか迷ってしまう。結局、何をどう考えてもいい言葉が浮かばず、じっと顔を見つめることしかできないのだ。
こんなんじゃいけない。ボクはしょんぼりとした気持ちでラズに言った。
「ごめんね、ラズ」
「どうして謝るの、ブルー」
真っすぐ見つめられ、ボクは思わず目を逸らした。
「あの状況で、ライオネルさんに頼らないと聞きだせなかったからさ」
言葉にしてみれば、惨めな気持ちになった。
「……ボクが人間だったら、ライオネルさんに頼らなくたって、もっと言葉で聞き出すことだってできたはずなのに」
泣きたくなるくらいだった。
ライオネルは所詮、他人だ。善意で力を貸してくれたに過ぎない。ラズの力になりたいというのはボクの想いであり、ボクの希望であった。それなのに、彼の力を頼らなければ、何も得られなかったのだ。
それに、ボク自身が言葉を話せたら、もっと聞きたいことを聞けたかもしれない。何なら、あの人とラズを紹介する約束だって取り付けられたかも。
コヨーテとその主人は、結局、早朝に宿を出てしまった。ラズに詳しく聞いてもらう機会が得られず、ボクは落胆した。ライオネルに謝られたのも辛かった。もう少し、聞きだせたら。そう思うと、やっぱり行きつく先は、ボクが人間だったら、ということだ。オオカミじゃなかったら、人間だったら、もっといろいろなことがスムーズにいくのに。
落胆していると、いきなり甘い香りに包まれた。ラズの匂いとベリーの香りが混ざったものだ。びっくりしつつ惚けていると、耳元でラズが囁いた。
「謝らないで」
ボクはちらりとラズを観ようとした。しかし、表情を見ることはできなかった。かわりに温かさと匂いばかりがボクの身体に沁み込んでくる。
「十分助かっている。人間である必要なんてないの。私は、今のブルーのままで十分よ」
穏やかなその声が、とても身に沁みた。
ラズはとても優しい。この優しさと柔らかさが好きだ。でも、同時に、切なさはさらに深いものになっていた。
――ラズにとって、ボクは……。
鼻を鳴らして、ボクは訊ねる。ラズには分からない言葉で、訊ねてみる。
ボクはボクのままで、ラズと対等でいられるのか。ボクはボクのままで、ラズに選んでもらえる存在になり得るのか。怖くて言葉に出来ない気持ちを抱えたまま、ただベロを出しているだけ。ラズの温かさが嬉しい。嬉しくて、寂しい。それでも、幸せなのは確かだ。恵まれているだろう。抱きしめられるだけで、ボクの尻尾は揺れてしまうのだから。
しばらくラズに抱かれながらうっとりとしていると、通りの向こうからオレンジ色の目立つクーガー族の姿が近づいてくるのが見えた。買い物袋を抱えたライオネルがこちらに大きく手を振っているところだった。




