1.犬用のお酒
犬にお酒をあげていいのか。
そんな話題でライオネルとラズは盛り上がっていた。
ボクは正直ムッとしていた。だって、ボクは犬じゃない。オオカミだ。しかし、犬として扱われる方がラズにとっていいのだということは理解していた。それでも、こうしてボクを置いて何が正しいのかを二人で楽しそうに言い争っている姿は面白くない。
けれど、こうも考えた。二人の話題の主役はボクにある。そこはちょっとだけ嬉しかった。
さて、夕食から二人が帰ってくるまでちょっと時間が長かった。その間、宿の人や別の客が構ってくれたからまだいいけれど、寂しかった。しかし、そんなボクの為に二人が持ってきてくれたのがお土産だったものだから、文句はすっかり引っ込んでしまった。
ボクはラズから貰うものならなんだって嬉しい。ラズが選んで買ってきてくれたのだと言われれば、それだけでどんな極上のお肉よりも立派なものになる。だから、ラズからの手土産であるビーフ味のドッグフードとかいうものは宝物に違いなかった。
問題は、もう一つの方。ライオネルがボクの為に用意してくれた小さな瓶である。この中に入っているのはお酒である。ラズがいつも飲むようなものとは違って、ばっちりアルコールが入っているあまり馴染みのないものだ。
「大丈夫、大丈夫。この国の犬――特にオス犬ってやつは、昔から仕事の報酬に酒を貰うんだぜ。ブルー坊だって平気さ。それにもう買っちまったわけだし」
そう言って、ボクの肩をばしっと叩く。お土産を楽しむのはお部屋に戻ってからだと言われている。廊下にいる今、本当なら静かにするべきだろう。しかし、ライオネルさんの声は大きく、まだ人間界のことがよく分かったとは言えないボクでさえびくびくしてしまうほどだった。
「あの……ライオネルさん……もうちょっと静かにした方が――」
控えめに注意しようとしたその時だった。
「あら? もうこんな時間ね。いけない。私そろそろ部屋に戻るわ」
実にあっさりとしたラズの声に、ボクもまたはっとした。時計の読み方があっているか答え合わせしないと自信がないけれど、たぶん深夜に近いのだと思う。ボクは寂しさを覚え、尻尾を垂らしてしまった。
そう、ラズは今夜、ボクと一緒の場所では寝ないのだ。
この宿は個室ではない。大部屋でベッドを借りて泊まるタイプだ。どうやら此処ならライオネルのコネもあって安くで泊めてもらえるらしい。最初に女部屋と男部屋があると説明され、ペット扱いならば当然のように女部屋に同席できると信じていたのだが、待ったをかけられてしまった。向こうには雌犬がいるのだとかで、ボクの同伴が許されなかったのだ。
そんなのってない。ボクはラズ一筋なのに。しかし、そんな言い訳が通用することはなく、ライオネル同伴の旅であったこともあって、ボクは男部屋に泊まることになってしまっていたのだ。
つまり、この後はずっとライオネルと共に過ごさなくてはならない。今からこれでは先が思いやられる。果たして大丈夫だろうか。
心配していると、ぽんと頭に手を置かれた。見上げればラズが目の前にいた。しゃがんで視線を合わせると、彼女はにっこりと笑った。
「また明日ね、ブルー」
撫でてもらうのはとても嬉しい。ラズに笑いかけられると、こっちも尻尾を振ってしまう。
でも、それは構ってもらっている間だけ。撫で終わった彼女が立ち去ってしまうと、ボクの心には寂しさと切なさが残った。
――ああ、ラズにとってボクはやっぱり……。
「よお、ブルー坊! なに、ぼーっとしている。俺たちの部屋はあっちだ! さっさと行こうぜ」
やや強引に促されて向かうのは、他の男性客やオス犬などがいると聞いている相部屋だった。知らない人どころか犬も一緒なのは正直不安だ。ラズたちを待っている間にちらりと見かけたが、いまいちどんな奴なのか分からない匂いだったので尚更心配だ。
しかし、そんなボクの不安などお構いなしに、ライオネルは堂々と客室の扉を開けた。そういえば、こういうタイプの部屋は初めてだ。これまで泊ったことのある宿の中で、ボクも入室を許されたのは、サンセットとミルキーウェイの宿。それら二つの部屋の様子をどうにか思い出して比較してみても、かなり広い部屋であることが分かる。
ここにボクとオス犬が一匹とライオネルと他三人の二足歩行たちが泊まるらしい。真っ先に目に入ったのは、静かな雰囲気の人間の老爺と噂のオス犬だった。見たことがあるタイプの犬だ。たしか、タイトルページの森で猟犬として働いていたひとによく似ている。鑑札を自慢してきたあいつにそっくりで、さっき見たときは本犬かと思ったが、匂いが違うので間違わずに済んだのだ。耳が垂れていて茶色と白の模様がはっきりとしているところもそっくりだ。親戚なのかもしれない。
「おやおや、他のお客さんも帰ってきなすった。大きなお客さんに小さなお客さんだ。ほれ、コヨーテ。あの小さいの、お前さんのお友達かな」
ボクを見つめながら、老爺はそう言った。人間がどのくらい生きるのかは知らないけれど、かなりお年のようだ。一方、オス犬のコヨーテとやらは非常に若々しい。毛並みがとても綺麗だから、たぶん、ボクよりも年下なのだと思う。
それにしても、コヨーテか。コヨーテというひとたちの噂は聞いたことがある。スノーブリッジ側にはいないので、直接会ったことはあまりない。どちらかといえば、この国の南側にいると聞いているので、ラズとの旅の中でもそのうち会えるだろう。なので、ボクのイメージに過ぎないのだが、ボクの知っているコヨーテとはだいぶ違う。だいたい彼らは耳が垂れてなんかいない。というか、犬じゃない。
「やあ、よろしくねぇ、爺さん。ほれ、ブルー坊も挨拶しときな」
「よ……」
言いかけて、ボクは前々からの忠告を思い出して尻尾を振る方に切り替えた。
「わん!」
そこへ、コヨーテとやらは首をかしげ、鼻を鳴らしてきたのだ。彼から伝わる言葉は表情と身振り、そして声の調子。きっと犬の言葉とオオカミの言葉はさほど変わらないのだろう。
(変な奴。言葉の様子がおかしい。余所者?)
ぎくりとしたものの、すぐに考え直す。どうせ、コヨーテはボクのおかしさを飼い主に伝えることも出来ないのだろう。それでも、蔑ろにしては印象が悪い。あまり険悪になると巡り巡ってラズにも迷惑をかける危険性もある。だから、ボクは改めてコヨーテに向き合ったのだった。
(初めまして、コヨーテ君)
さっそく老爺の存在を忘れて、コヨーテの所を人間の言葉らしく発音してしまいそうになったが、たぶん誤魔化せたと思う。ついでに、コヨーテ本犬にも伝わったようだ。
(え? なんで、オレの名前、知っている? おまえ、何者?)
(ボクはブルー。君の名前はお爺さんがたった今教えてくれた)
(へー、おまえ、爺ちゃんの言葉、分かるんだな)
どうやらコヨーテは分からない様子。ここは胸を張って自慢することにした。
(名前くらいなら楽勝だよ)
本当は完ぺきに分かるのだけれど、ややこしいことになるから黙っておこう。
(ふうん、見た目よりも賢いな。おまえ、まだ子犬だろう?)
ボクはびっくりしてしまった。まさか、オオカミでもなくこんなつやつやの子犬にそう言われるなんて思わなかったからだ。
(子犬は君の方だろう? ボクはもう立派な成犬だよ?)
(いやいや、どう見たって体がおっきい一族の坊やじゃないか。あと、オレ、子犬じゃない。こう見えて、もう成犬。今年で七回目の冬を迎える)
(え、そうなの、ごめんなさい!)
まさかまさか。ボクの方が年下だった。
相手が犬であろうと、年上は敬うべしとオオカミの教えではあった。なぜなら、長く生きているだけ彼らは色々なものを観ているためだ。もちろん、年を重ねているだけだと判断したらそんなことしなくてもいい。しかし、初対面で礼儀を尽くさぬようでは、誇り高いオオカミとして間違っている……っていうことを、昔、ボクの兄が言っていた。厳しく叱られたので、心の根底に染みついてしまっている。
たくさんいる兄の中でも、その兄とはあまり仲良くなかったのだけれど、ボクの生き方はだいぶ彼の言葉に影響されているのだ。
(まあいい。慣れている)
慌てて謝ったためだろう。コヨーテはさほど怒ることなく、許してくれた。
(それに、悪くない。爺ちゃんの手入れが、しっかりしているってことだから)
(その毛並み、お爺さんがしてくれたの?)
(そうだ。オレの自慢の主人。今はこんなにヨボヨボだが、昔は立派な男だったんだぞ)
胸を張ってコヨーテはそう言った。その発言を受けて改めて老爺へと目を向ける。言っちゃあ悪いが、そうは見えない。力のない老人にしか見えないし、立派だった過去など遠い昔だろう。しかし、そんなことをわざわざ口に出して機嫌を害するのもいけない。空気を読むのもオオカミの常識。とくに、相手がオオカミとは似て非なる犬である以上、コミュニケーションは誤解なきよう気をつけねばなるまい。
だいたい、ボクたちは自分の群れのリーダーを自慢するものなのだ。リーダーだけではない。伴侶を決めた際には、伴侶を自慢するし、子どもが生まれれば子どもの自慢をする。友人や、好きになった異性の自慢をする。オオカミだけではなく、犬もそうだと聞いている。仲間を自慢し、それを尊重することこそ、ボクたちの平和である。逆に、ここを疎かにすれば争いが生まれてしまう。だからこそ、ボクは注意深くコヨーテに向き合った。
(とても素晴らしいね。お爺さんになる前から、きちんとした人だったことが窺えるよ)
(そうだろう? で、お前はどうなんだ。その赤いの、お前の主人?)
コヨーテの鼻先が向くのはライオネルだった。ボクはすぐに否定の鳴き声を出した。
(違うよ。ボクの主人は、別室にいる)
(別室? 女部屋か?)
(そう。ラズっていう人間の女の子。いまは主人だけど、本当はボク、彼女と……)
言いかけたものの、はっとした。
これ以上言って何になるだろう。コヨーテはきょとんとしている。ボクの言語が途切れたからだろう。尻尾の動きを止めて、様子を窺ってきた。ボクの尻尾、ボクの表情、ボクの吐息から、無言の意図を汲み取ろうと集中していた。
(なんでもない)
ボクはどうにかそう言った。
すると、コヨーテは首を傾げ、考えてから、ひとこえ吠えた。分かったという意味だが、ボク以外には伝わらず、老爺がすぐに注意してしまった。ボクは尻尾を揺らし、コヨーテに言った。
(なんかごめんね)
(いいんだ。仕方ないさ。主人は人間だから)
そこへ、ライオネルが近づいてきた。手には酒瓶がある。ラズと軽く問答していたあのお土産だ。ボクとコヨーテの傍に二つ皿を置くと、上機嫌でこういった。
「さっそく仲良くなったみたいで何よりだ、犬ちゃん達」
そしてドバドバとお皿に犬用の酒を注いでいく。
「ほうれ、たーんとお飲み。今宵はふたりで酒盛りでもしなせえ」
強い酒の臭いに不安が生まれるボクの頭を力強く撫でると、ライオネルはがっはっはとひとり笑って離れていった。どうやら老爺と世間話の続きをするらしい。
(うわ、なんだこれ。あいつなんのつもりだ?)
コヨーテに訊ねられ、ボクは答えた。
(お酒なんだって。お土産なの)
(お土産? お前、なんか手柄でも立てた?)
(ううん。お留守番していただけ)
(ふうん?)
不思議そうに鼻を鳴らして、コヨーテはぺろりとお酒に舌を入れた。
(なるほど、まあまあいい)
(お酒、よく飲むの?)
(主人と晩酌する。昔は手柄を立てていい酒を飲まされた)
(手柄って?)
訊ねてみれば、コヨーテはやっと聞いてきたかと言わんばかりにきりっと身を正した。子犬のような外見でありながら、その姿には威厳があった。
(よくぞ聞いた、黒いの)
(ブルーだよ)
(ブルーノ)
(あ、いや、ブルー――)
(手柄ってのは仕事のことさ)
流されてしまった。まあいいか。
(オレの家系は代々猟犬。獲物なら何でもとる。主人が撃ったあとも気を抜いちゃいけない。せっかくの獲物を横取りする輩もいる。だが、オレの場合は単なる狩りではない。撃ち落とした水鳥を運ぶだけじゃない。純粋な強さと賢さがなければ倒せないやつらを相手にしていたのさ)
(どんなやつら?)
(ベリーの怪物だよ!)
――怪物?
(その名も謎)
「え――」
思わず人語を発しそうになって、慌ててお酒をベロで掬った。飲み込んでから、改めてコヨーテを見つめる。
(謎?)
お酒の臭いにむせそうになりながら、ボクは訊ね返す。すると、コヨーテは深く頷いてから教えてくれた。
(そうだ。謎だ。それがオレと主人の敵。小さなうちはオレにだって倒せる。見つけ次第潰すことで、よく褒美にお酒を貰ったんだ)
(謎って、どこにいるの?)
(どこにでもいる。どこにでも湧く。前はしょっちゅう仕事が入って、爺さんと一緒に旅したもんだ。でも、近頃はあまり見ていない。いつからかな。数回ほど前の冬あたりからだったかなあ……)
なんだか前に聞いた話と雰囲気がちょっと違う気がする。疑問に思いつつ、ボクはさらに訊ねてみた。
(謎ってどんな姿をしているの?)
(煤だらけのネズミみたいだ。でも、デカくなればクマみたいになる)
やっぱり違う。前に聞いたのは、仮面を被った猿だか怪人だかというお話だった。ひょっとして、エニグマという怪物はいっぱいいるのだろうか。
疑問を抱えていると、コヨーテはお酒をもう一度飲んでから、尻尾を揺らした。
(それ以外は分からない。主人なら、もっと、知っているのだろうが、オレがすべきことは、知ることじゃなくて、減らすことだったから)
(そっか……ありがとう)
(いいってことよ、ブルーノ)
名前の間違いはともかく、思わぬ情報を聞けたものだ。
しかも、老爺ならもっと知っているかもしれない? それなら、聞きださないわけにはなるまい。……ああ、でも、あちらはすっかり話し込んでいる。出来ることなら、ライオネルにお願いするべきだろうけれど、すっかり出来上がってしまっている。話なんて聞いてくれるのかしら。
ボクは恐る恐る二人の元へと近寄った。旅の話を上機嫌でしていたライオネルが、おや、とボクへと目を向けた。
「どうした、ブルー坊。トイレか?」
ボクは「わん」と答えた。うまい聞き方をしてくれたものだ。
「すまねえな、爺さん。ちょっと席を外すぜ」
「おお、行っておいで。帰ってきたら続きを聴かせておくれ」
快く送り出してくれた。




