表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
郤缺  作者: 赤月
2/2

 四


 郤缺の祈りは、天にとどいた。

 重耳は、郤缺を下軍の大夫に任命したのである。この時代の大夫とは、君主から食邑を与えられた身分の大臣を指すが、郤缺がこの時点で晋のどの邑を与えられたかは『春秋左氏伝』には記されていない。後に郤缺は武功を挙げ、父の旧邑であった冀を再び賜るのだが、それは重耳の死後の話である。

 なお、下軍というのは、晋の軍隊は上中下に分けられており、そのうちの下軍に属する、という意味である。

 ともかく、郤缺はこのことを喜んだ。大夫となり、食邑を授かったことが、ではない。


 ――これで、往来を堂堂と闊歩できる。


 成人して少しのころまでは、当たり前であったことが、今は何よりもかけがえなく感じる。

 風雪に耐える、雌伏の時が、郤缺を大きくした。郤缺が野にいた年数は定かではなく、十年に届かないことは確かであるが、一、二年という短さでないことも確かである。


 ――ともかく、これからは忙しくなる。


 仕官が決まったとなれば、郤缺は族長としての責務を果たさなければならない。郤芮の死後、晋の郭地、ともすれば、他国に離散した家人や家臣たちを呼び戻し、郤家を再興しなければならない。

 ちなみに、郤氏を再興する、と言ったが、決して、郤氏そのものが晋から消えたというわけではない。

 郤穀という人がいる。

 この時代、大国であれば、それだけ跡目争いも熾烈であった。故に、卿大夫は家が途絶えぬように、自分の息子たちを、それぞれ、異なる公子に仕えさせる、ということを行っていた。郤穀は郤缺のおじか、従兄弟と考えるべきであろう。

 さて、先述した通り、郤缺は家を再興し、やがて武功を立てて、父の旧邑であった冀の地を再び賜った。しかし、重耳――諡号を文公、の跡を継いだ晋公、(かん)は、郤缺を警戒して、邑を与え、大夫より上の卿位を与えはしたが、軍職には任命しなかった。

 驩が晋公である間、郤缺は官につきながら、雌伏していたと評してよいだろう。

 郤缺に、焦燥や不安は微塵もなかった。


 ――私は、生きている。先祖に、人に、恥じることなく。


 隠伏していた時期の苦節を想えば、その自負だけで、郤缺が日日の充足を得るには十分であった。郤缺が武功を挙げ、冀の地を与えられたのは、()の戦いという。箕の戦いが終わってより、郤缺は七年の安康を得た。もちろん、晋はその間も外征を行っており、郤缺がそれらに無縁であったわけではないが、軍職を与えられず、政治の中枢にもいない郤缺の日日は、凪の海のように穏やかであったことだろう。

 やがて、晋公の驩が(こう)じ、襄公と(おくりな)された。

 晋の後嗣に関して、騒動が起こった。事は、襄公が若くして亡くなったことに端を発する。襄公の信頼が厚い臣に、趙盾(ちょうとん)という人物がいた。

 襄公の太子である夷皋(いこう)が幼少であったため、夷皋の身を案じた襄公は、臨終に際して趙盾を床に呼び、太子の後見を頼んだのである。ところが、趙盾は襄公の死後、太子夷皋でなく、国外にいる公子(よう)を晋君に迎えるよう動いたのである。

 趙盾としても、苦渋の決断であった。

 太子夷皋が幼いことが、趙盾を逡巡させた。幼君が位につけば、卿大夫のあいだで、権力闘争が起こることは瞭然である。悩んだ末、趙盾は、国外にいる年長の公子を、夷皋を太子とすることを引き換えに晋君に迎えることに決めた。

 しかし、夷皋の生母である穆嬴は、これに反発した。

 朝廷で、幼い夷皋を抱いて哭き、哀訴を続けたのである。やがて、穆嬴は趙盾の邸にもやってきて、


「貴方は、先君に太子の後見を頼まれていながら、いったいどうして、その言を破られるのですか」


 と、面罵したかと思えば、また哀哭するのである。

 既に、公子雍には、先蔑(せんべつ)士会(しかい)という使者を迎えに遣っている。しかし、ここにきて趙盾は、心が揺らいだ。正確には、己の過失に気付いた、というべきであろう。


 ――公子雍は、太子を立てることを約束した。しかし、当然ながら、太子が死ねば、その話はなかったこととなる。


 誰であっても、人とはおよそ、如何なる手を用いてでも、我が子に跡を継がせたがる。趙盾は、己が父の嫡子となった経緯が異例であったため、そういった感覚がなかったのである。

 趙盾は、父の趙衰(ちょうし)が、重耳の亡命行の流れで、翟という地に立ち寄った際に、娶った妻の子である。ところが、その後、重耳が別の国へ行くにあたり、趙衰は趙盾とその母を翟に置いていった。やがて、重耳が帰国して晋君になり、趙衰も高位を得て、趙盾は母と共に晋の趙衰の下へと迎えられた。

 しかし、この頃、趙衰は重耳の娘を娶っていた。

 そのことを知った時点で、趙盾が趙衰の後嗣となることなど、趙盾も、その母も、思わなかったであろう。いや、趙衰さえ、そのようなことは考えていなかった。しかし、重耳の娘は、一歩引いて、趙盾の母を正妻として自身は妾となり、趙盾を後嗣とするように申し出たのである。

 なお、余談となるが、趙盾より後、趙氏の家長は趙孟と名乗るのが通例であるが、孟、とは、本来、庶子の長男という意味である。しかし、趙盾は本来ならば庶子の長男、つまりは孟であり、おそらく、孟と名づけられていたのであろう。趙盾より後も、趙氏の家長が趙孟と名乗るのは、この名残であろう。


 ――公子雍は、確かに評判はよいが、我が子に跡を継がせたい、と思わないとは限らない。


 悩んだ末、趙盾は、夷皋を晋君として即位させた。



 五


 郤缺は、趙盾の善後策を、冷めた目で見守っていた。

 郤缺には、公子雍を即位させるのが正しいか、夷皋を立てるのが正しいか、ということについては、どちらとも判じかねる。しかし、一たび、死に際した君主に夷皋の後見を約束した以上、完遂するのが人道であろう。


 ――できないならば、安請け合いすべきではない。たとえ、相手が臨終にある人であっても。でなければ、かえって、晋のためによくないことを引き起こすだろう。


 郤缺の予想どおり、趙盾の事後処理は、粗いものであった。

 公子雍は、秦軍に護られて晋との国境まで来た。しかし趙盾は、


「我が国がもし秦を受け入れるならば、賓客である。しかし、受けないのであれば、外敵である。既に我が国は秦を拒むと決めた以上、軍を緩めていると、秦は他の行動に出るだろう。故に、こちらが敵に先んじて意表を突くのが、軍事の妙籌である。追撃は、外敵を払う如く、これが軍事の善策である」


 と、兵を激励して、秦を破った。

 しかし、その戦いの後、趙盾に慮外のことが起こった。公子雍の迎えにと遣った先蔑と士会が、それぞれ、秦に亡命したのである。無論、趙盾の行動に反感をおぼえての亡命であった。

 郤缺は、この二人に興味を持った。

 地位を棄ててまで、公子雍を欺いたという不名誉を被ることを嫌ったのであろう。こういう気骨の人材が、国外に出ることは、惜しいことであった。

 士会は嘗て、文公に見出されて文公の戦車に同乗したこともある勇者であり、先蔑も、文公から将に命じられた人物である。経緯は違えど、文公に才を認められた、という意味では、郤缺に通じるものがある。

 郤缺は密かに家臣を秦へ遣って、亡命後の士会と先蔑の様子を探らせた。

 とにかく、趙盾による後始末は終わった。

 この時代より、趙盾の独裁が始まる。

 襄公のころより、趙盾は執政者としては非凡であった。法令を修訂し、訴訟を処理し、乱れていた政道を正し、人材を擢登し、大綱を定めて国内に発布し、といった改革を進めていたのである。

 趙盾は、夏日の如く烈しい、と評された人物である。

 なるほど、有能であることは間違いないが、その在り方は独善的であり、ともすれば他者の近接を許さず、その眼を晦ませ、人を焼死させる熱を帯びた耿暉なのである。

 趙盾は、己一人でたいていのことをこなせる才を持つゆえに、諫言をする人物がいなかった。しかし、そんな趙盾に、ある時、郤缺は諫言をした。


「嘗て、衛は友好的でなかったので、我が晋はその地を攻め取りました」


 これは、文公の末年の話である。文公は覇者であり、その盟下にある国は晋への朝見の義務があったが、衛はこれを怠り、兵を挙げて諸侯を攻めたので、晋は周王の権威を以て衛を攻め、(せき)という地を占領した。


「しかし、今は衛と晋は和平しました。ならば、奪った戚の地は衛に返還すべきです。叛く者を討たねば威を示すすべがありませんので、衛を攻めたことが間違いであったとは申しません。しかし、服しているものを懐柔せねば、何を以て安んずるべきでしょうか」


 郤缺がこのようなことを言ったのは、趙盾の外政に鬼胎を抱いたからであろう。衛のことは、実例に過ぎないのではないか。


「威もなく、恩愛もないのであれば、何を持て徳を示すべきであるとお思いですか。そして、徳が無ければ、何を以て諸侯の盟主であろうとお考えですか。貴方は今、晋の最高位にありながら、諸侯を束ねるにあたって、徳を積むことを務めていないが、如何なるお考えをお持ちなのですか」


 郤缺と趙盾がそれほど親しかったとは、思えない。

 郤缺は、卿大夫たちが趙盾を敬遠しているなか、敢えて直言したのであろう。このとき、趙盾の執政から未だ一年も経っておらず、


 ――間違いを正すならば、早いほうが良い。


 という想いが、郤缺にあったに違いない。

 郤缺は、晋では未だ十全に信用されていないが、趙盾と対談することが出来るていどには、存在を認められていた。

 郤缺は書経のうち、『夏書』という書の一節を引いた。


「安んじるに戒めを用い、威を示すに公正さを用い、九歌を以てこれを勧めて、道を外れさせることなかれ」


 九歌とは歌って賞賛する価値のある、九つの功績のことを言う。古代の人は、偉人の功績を讃えるのに、歌を歌った。


「しかし、今の貴方に、歌い上げて賞賛するような徳は一つもない。これでは、いったい誰が貴方の下へ来朝するというのですか」


 郤缺の口調は穏やかだが、これでは面罵されているのと変わらない。趙盾が狭量の人であれば、嚇怒したことだろう。

 しかし趙盾は、怒ることはしなかった。かえって、郤缺に恭しく拝礼し、諫言に従って衛に戚の地を返還したのである。また、他にも、かつて鄭から奪った領土を、鄭に返還した。



 六


 賈季(かき)という人がいた。

 この人は、趙盾が嫌いであった。

 襄公が死に、趙盾が外国にいる公子雍を迎えようと提言したとき、賈季は趙盾に反発し、陳にいた公子楽を奉戴しようと提言した。さらに、趙盾に隠れて、ひそかに公子楽を晋君に迎えるための使者を派したのである。しかし、趙盾が公子楽を殺し、また、刺客を放って趙盾を殺そうとしたが能わなかったので、狄に亡命した。


「隋会は秦にあり、賈季は狄にあって、このままでは内乱が起こりかねない。どうするべきでしょうか」


 あるとき、趙盾は卿大夫らと密議をしたときに、そのように訊いた。

 隋会とは士会のことである。特に士会は、秦に亡命した後、秦君を助けて幾度も晋を侵していたので、趙盾の悩みの種であった。

 この時は趙盾の執政から六年目であり、晋の政治はそれなりに巧くいっていたといってよいだろう。それだけに、一層、士会の憂患が際立っていた。

 ある卿は賈季を戻すべきだ、と言ったが、郤缺は、


「隋会どのを呼び戻すべきでしょう」


 と、言った。


「賈季は乱を起こし、独断で公子楽を奉戴しようとしてかなわず、亡命したのです。しかし、隋会の亡命は乱を起こしたからではありません。賤しめられても恥じというものを感じ、柔順であっても、人から侮られないという、その智慧は我が国のためになりましょう。まして、隋会には罪がないのですから」


 郤缺が秦に移った士会のことを探らせていたとき、ある話を聞いた。

 士会は先蔑と行動を共にして、秦に逃げたが、秦では一度も先蔑と顔を合わせていない、というのである。

 士会がある人に、その理由を訊かれたとき、士会は、


「私は先蔑と罪を同じくする者であり、義を同じくする者ではない。会ったところで、何になるというのか」


 と、さらりと答えたという。


 ――士会とは、そういう人なのか。


 賤しめられても恥を感じる、という郤缺の評は、このことを指しているのであろう。柔順であっても人から侮られないというのは、無論、亡命者の身でありながら、一国の君主を助けて軍事を司っていることを言っているのである。

 趙盾は、郤缺の意見を採り、策をめぐらせて、遂に士会を晋へ戻すことに成功した。

 士会の帰国で、晋は安康を取り戻すかに思われた。しかし、そう巧くはいかなかった。

 趙盾に、新たな憂いが生じたのである。それは、晋君である夷皋の乱行であった。そのひどさは、重税を課したり、高台からはじきを飛ばして、逃げまどう人を見て楽しんだり、下らぬ理由で人を殺したり、とさまざまであった。趙盾はしばしば諫言したが、夷皋はこれを疎ましく感じ、趙盾を宴席に招いて殺そうとしたが、失敗して、趙盾は晋から逃げた。ところが、趙家の族人が夷皋に戈矛を向け、弑したので、趙盾は晋に帰った。

 しかし、この一件で趙盾は輿望を失った、と言ってよい。

 趙盾は身を引いた。

 趙盾の引退後、ようやく郤缺は政治を執る身分となった。家臣たちは郤缺に祝辞を述べたが、当の郤缺は、


 ――私は、正しい道を歩んでいるのであろうか。


 と、自問していた。

 晩年、晋が狄と和平することとなった。ところが、晋の卿大夫は、狄は蛮族であるからといって、自ら出向くことをせずに、呼びつけようとした。しかし、郤缺はこれに異を唱えた。


「私はこのように聞いている。徳が無ければ、努力する他にない。努めなければ、何を以て人に求めることが出来るだろうか。能く努めれば成果は挙がる、と。我らから出かけるべきです。『詩』には、文王既に勤むるを止めず、とあります。文王の如き聖王でさえ努力を怠らなかったのですから、我らの如き寡徳の者は猶更でしょう」


 郤缺は、己に厳しい人であった。

 謀叛人の子として、日陰を歩む日日を過ごしながらも、正しく生きていたがゆえに、人から認められて正道に戻れた、という想いが強いのであろう。日向の道を歩み始めても、徳に努めることを忘れなかった。

 はたして、郤缺の言ったように晋が自ら出向いた結果、狄は晋の徳に感服した。

 これが、郤缺の最後の功績である。

 死後、郤缺は成、と追号され、郤成子と呼ばれる。成の字は、誠に通じる。最期まで徳に努め、正道を問い続けた郤缺に相応しい一字ではないか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ