「世界に響くのが絶望の歌なら、せめて2人で歌おう」
「世界に響くのが絶望の歌なら、せめて2人で歌おう」
シャルゼ・バイダンの画集に、ワンカップから零れた冷酒がかかった。
表紙の、黒のハット帽にニヒルな笑みを浮かべた片手のない男の絵が濡れて歪んでいく。わたしはテーブルの上のそれをぼんやりと眺めていた。
さっきからコンビニの入口の灯りに蝉が激突している。あいつはああやって残り少ない生をあそこで浪費しているのか。でもそれは俺も同じか。
「おい、サリ、差金ヶ原の方に女漁りにいこうぜ」
声を掛けられて我にかえる。
「いや、俺は今日はやめとくわ」
とっさに答える。
「付き合いわりぃな」そんな台詞と共に辺りに甲高い排気音が響く。
バイクで去っていく仲間を見送って、振り返ると蝉はいなくなっていた。
「美術の学校に進んでみないか? お前にその気があるなら、先生が、推薦状を書いてやる」。
進路指導室の窓は高い。その窓から差し込んだ西日が机を対角線に走って、向き合った先生の手を陰陽に染めていた。先生の言葉を聞きながら、わたしはそれを眺めていた。先生が手を組み替えた途端、陰陽のバランスはほどけて、ただ強く西日が壁までのびていた。好きな絵をまだ描いていける。そんな事が可能なのだろうか。
半径5センチ、高さ50センチの円錐の鉄の中心に10ミリの真円の穴を穿つ。そういう単純にして緻密なことを何万回と繰り返すことがつまり町工場というもので、つまり、それは、そういう単純な繰り返しを何万回と繰り返すことがこれからのお前の人生なのだと言われているに等しい。
「馬鹿野郎!バイクなんて乗り回してる暇があんなら、おめぇ、ガラの回し方の一つも覚えろや」
裏のシャッターを上げると、巨大な壊れた洗濯機が回っているような掘削音と共に、親父の罵声が飛んでくる。こんなことなら、やはり仲間と共に行くべきだったか。でも、差金での女漁りは気が向かない。他のとこなら良かったのに。柄にもないそんな自制が働いてしまうのも、あいつのせいか。忌々しい。
「うるせぇわ」
怒鳴り返す。
「学もねぇ、働きもしねぇ。だったら学校なんて辞めたらどうだ」
旋盤に目を落としたまま親父は言った。それを見たら、言い返そうと思って、気持ちが萎えた。
思うに、人生なんてこの先どんだけ生きても面白くない。油まみれの手をして、晩酌の焼酎としけた軍資金のパチだけが楽しみな親父を見てれば分かる。
玄関を開けると、分かりやすいほどに強烈な酒の臭いが鼻をつく。最近では日本酒かビールかの判別すらつくようになった。今日は日本酒だ。
自分の部屋にカバンを置いて、居間にいくと母親がテーブルに突っ伏していた。それでも、進路の事を相談するなら、今しかない。完全に酔いつぶれてしまったら、話にならない。なのに、機先を制された。
「あんた、こんなもん買って、どういうつもり?」
居間に入ってきたわたしを待っていたように母親が床から画集を取り上げる。
「こんなの、こんな高い本にバカみたいにお金使って。そりゃあねぇ、あんたがバイトで稼いだお金かもしれないけど、だからってなんでもかんでも好きなもん買っていいと違うのよ。分かってんの?だいたいねぇ、あんたには優しさがないよ。誰のおかげで、本当に、だれのおかげで学校も行けると思ってるの。だいたいね、わたしがこんな、ねぇ見て、見てるの?こんな風になるまで頑張って苦労して、ったく、あんんたは本当に、薄情な娘だよ」
黙っていればずっと続くであろう、母親の愚痴と非難。何とか止めなければ。今日は、話を聞いてもらうのだ。
「ねぇ、お母さん聞いてよ。今日、進路相談があったんだよ。わたしの担任の先生、お母さんも知ってるでしょ?美術の先生。若い頃は結構有名だったらしいんだよ、日展とか・・・」
「あんた、何しゃべってんの?」
海岸のトドが獲物を見つけて身をおこすように、母親は顔をあげると、わたしを正面から見据えた。その間に怒りを充電したかのように、改めて一喝をくれると、母親は画集をテーブルへ叩きつけた。
「あんた、何をしゃべってんのよ!この、親不孝女!」
わたしはぐっとこぶしを握りこむ。大丈夫、大丈夫。言い聞かす。きっとわたしの人生はこれからうまくいくんだ。先生も推薦状を書いてくれるって言っていた。お母さんもきっと分かってくれる。
「ねぇ違うよ、お母さん聞いてよ。わたし、わたし、高校卒業したら絵の専門学校に行きたい。先生も推薦状書いてくれるって、わたし、もっとバイトもしてお金も家に入れるから!」
母親は無言で、握っていたワンカップを取り上げて、高く掲げると、枡につぐように、なみなみと画集の上へと中身をこぼした。
「これで目が覚めたでしょ。冷蔵庫に何もないの。何か買ってきて早くご飯作りなさいよ」
わたしの人生がこれからうまくいくなんて、そんなこと、あるはずない。何を期待していたんだろう。
執行猶予のような身で、どうせ高校を卒業するか、辞めさせられるか、分からないがどうあれ、そう遠くない未来に、俺は親父のように一日、穴倉みたいな工場で鉄を曲げたり、穴をあけたり、ねじったりする羽目になる。それしか、そんなことくらいしか、俺の人生の先にはないんだろう。たまに学校に行くと偉そうに説教する先公が言う、無限の可能性とか、将来とか、バカくせぇ。そんなものはとうに見えてるし、そんなものが無いこともとうに知っている。蝉と同じ。だったら束の間、好きにさせてくれ。
工場の脇につっこんで停めたWRに跨るとキックを踏み込む。改造マフラーが機関銃のような破裂音をたててエンジンがかかる。狭い通路で後輪を滑らせてターンすると道路に飛び出た。先行する車の脇を強引にすり抜けて加速する。
バイパスに乗ってトップギアに入れたあたりで、行き先が決まった。どうせなら、メットをもう一つ持ってくれば良かったと一瞬思ったが、世の中そんなにうまくいきっこない。だから構わない。アクセルを捻ったら前輪が跳ね上がった。
イヤホンを突っ込んだ両耳から流れるエリック・サガンの物悲しげな歌声をなぎ払うかのように凶暴なエンジン音が背後から近づいてきた。とっさに道の端に身を寄せる。なのに爆音の主は過ぎてくれず、どころか、行く先を遮るように、わたしの前でバイク旋回させると、メットを取った。そして開口一番、こう言った。
「本当に、会えると思わなかったよ」
サリだ。
「ねぇ、そこ、どいてよ」
サリは同じ高校だけれど、なんだか危ないグループと付き合っているとか、女の子をさらって悪いことをしているとか、とにかく碌な噂がない。こんなのに、こんな日に、こんなタイミングで絡まれるとは、何て日だ。わたしの今日の幸運のピークは先生と二人きりだった進路指導室だったな、間違いない。
「高来山の展望台?これから?無理だよ。わたし、買い物行って、ご飯作らなきゃいけない。忙しいの」
この町の裏に聳える、高来山の展望台。サリと二人でそんなところに行ったら何されるか分かったものじゃない。
「なぁカヤ、俺達、蝉みたいだと思わないか?」
サリの着ているつなぎの作業服のお腹から腰にかけて刷毛で描いた流星のような油汚れがついている。
「どういう意味?」
「意味なんかねぇよ。生きてたって、ワンワン鳴いて、でも何もどうにもなりはしなくて、そうして、どうせすぐ死ぬ、それだけだ」
そう言うとサリは笑いかけて、でもそれはすぐに消えて、腹痛でもこらえているような情けない表情を浮かべた。そのままこっちを見てるから、思わず視線を逸らした。
「サリ、わたし、大切にしてた画集があるの。でも、それ、今日、ダメになっちゃった。初めてバイトで稼いだお金で買ったのにね。やっぱりわたしには、こうやって、買い物行って、家でお母さんのご飯作って、それくらいしかないんだよ」
サリはメットを黙って差し出した。
「後ろ、乗れよ」
「やだよ。怖いよ」
バイクから降りるとサリが近づいてくる。
「やめてよ」
「何もしねぇよ。だからカヤ、少しだけそばに居て」
その目が捨てられた猫みたいだったから、思わずメットを受け取ってしまった。
風の膜を突き破ってバイクは走り出す。
狭く細いタンデムシート。怖くて身体が震える。
「俺に掴まれよ!」
前からサリが怒鳴ってくる。市境に掛かる橋を渡ると、大きな左カーブ。抜けると少しRのきつい右カーブが連続して、道は峠へ向かっていく。
後ろからサリにしがみついて、おでこを背中につける。背中なのに、サリの心臓の音が響くようだった。
「ねぇサリ」
その心音に向かって声を掛ける。聞こえないと思ってたら返事がきた。また右カーブ。きつい。バイクはガードレールに突っ込みそうなスピードでカーブに飛び込むと、ツバメのように急旋回する。後輪が一瞬滑る。
「カヤ、カーブきたらちょっと身体倒せ!」
「スピード落としてよ!怖いよ!」
「俺らは、このくらい、生き急がなきゃ、きっと間に合わないよ」
「わかんないよ、何言ってるの!?」
その間にもバイクは傾いたままカーブを越えて、その先の直線に向かって唸りを上げて加速していく。視界が平行になって、耳元でキーンと金属的な風の音がする。
峠に入ってようやく、サリはスピードを緩めた。ヘッドライトに金粉のように夕日に照らされた木々の葉が舞って反射する。
「ねぇサリ」
「何?」
「わたしの人生、これから良いこと、あると思う?」
「わかんね」
「冷たいの」
一瞬の沈黙の後、エンジン音に消えるような小さな声。
「俺と一緒に居たら、良い事あるよ」
「え!?何?」
もう一度、聞きたかったのに答えはなくて、代わりにバイクは再び加速する。展望台の先の明かりが、木々の合間からわたしたち二人を先導するように、揺れて、光っていた(終)