独占欲
夜の街は粛然とはいえないが、そこそこ静かだった。秋の夜はやっぱり少し肌寒い。ぼくの隣を歩く女の子は、ストールの中に顔半分をうずめていた。すこしくらい彼氏気分になってみてもいいかな。
「寒くない? 璃子さん」
「ん、だいじょうぶ。それよりどこいくの」
「あー、そうだな」
おなかはすいてるけどなにも考えずに出てきてしまったのだった。この近くはよく知らない。ぼくの街より二つ駅を過ぎたところだから。ぼくらが歩く歩道は4人ほど横並びできるほど広い。少しせまかったら彼女と肩がぶつかることがあったかもしれないのに。空気の読めない歩道だ。
「食べたいもの言ってくれたらおすすめのお店教えるけど。あの人に言われた通り、グルメなのはたしかだから。でもわたしはグルメより食道楽と言ってほしいな」
小鳥眼の彼女はぱちぱちまばたきしてぼくを見た。それがとてもかわいかったけど、顔を赤くするのはちゃんと堪えられた。頑張った自分。そうだ、気を紛らすためにも今一番食べたいものを想像しよう。
「食道楽さん。ぼくラーメンが食べたいな」
「ラーメンかぁ。あっさり? こってり?」
「あっさりかな、みそがいい」
「みそね。りょうかい。ちょっと立ち止まっていい?」
弾んだ声で彼女はポールに背を預けてかばんのなかをあさった。そして赤いメモ帳を取り出す。あれがグルメ帳かな。たくさんのお店の情報が書かれているのかな、そう思うととても彼女が愛おしくなった。璃子さんはぺらぺらとページをめくって、あるページをじっくり読み込んでいた。ぼくはとても幸せだった。この璃子さんがほしいと思った。ぼくのために店を探す彼女が。
ぼくの手は彼女に伸びる。頬に差し出した手のひらはぎりぎり触れないところで止まった。ぼくはゆっくり手を下ろす。彼女には気づかれていない。
「あったよ、みそがおいしいお店。ちょっと遠いけどいい?」
「うん。ありがとう。行こうか」
自分が怖くなった。自分が止められない。彼女を傷つけるところだったかもしれない。自分の右手を左手で強く握りつぶした。
「それにしても、璃子さんはここらへんのお店よく知ってるの?」
「うん。よく来るからねー。というか今は住んでるかな」
璃子さんは上を向いて光り始めた星を見つめていた。少し足元がおぼつかない。右へ左へふらふらよたよたしている。ぼくは少しだけ彼女に近づいた。秋の夜風がぼくたちをすり抜ける。静かな夜だ。それはぼくを少しばかりか緊張させる。うまく話ができない。
「でもたしか住まいはもっと北じゃなかったっけ」
「少し前から家を出てるの」
彼女は急に顔を伏せた。ぼくのすきな長い睫毛がふるふる震えた。ぼくはきれいなつむじを横目に眺めながら問う。
「一人暮らし? たいへんじゃない」
「ううん同居。あ、ちがう。同棲かな。いっしょに暮してる人がいるの」
ぼくの言葉をすこし遮るように彼女は言った。同棲。恋人とふたりで。
「同棲……」
「そう、言おうと思ってたんだけどね。わたし、婚約してるの」
「婚約……」
頭が真っ白になった。同棲の次は婚約。大学3年生に婚約。ちょっと早すぎやしないか。そのへんで知り合った手の早い男じゃないのかと、いろいろむかむかした感情があふれかえる。小鳥眼の彼女はその眼を細めて照れくさそうに言った。
「うん。中学の時からずっと付き合ってる人で。この前入社して2年たってね、その時に」
「そうなんだ……おめでとう」
「うん、ありがとう。ないしょにしてね。すぐうわさになるから」
「うん、言わない。言わないよ……」
まさか、同棲して婚約してるなんて。口が裂けても言えない。というか中学の時からって長いな、ずっと大事にされてきたんだろうな。その証拠に人との付き合いが得意そうではなかったのはたしかだ。妙に警戒している節があった。それにしても混乱している。ショックを受けるも何も、なんでぼくに話したのかがわからない。
「あの、どうしてぼくには言ったの?」
「石田くんは、信頼できる人だなって思ったから」
顔を赤く染めて言うなよ。やめてよ。そんな顔するなよ。ぼくにそんな顔見せちゃダメだろ、ずるいよきみは。本当に。
無意識のままに彼女の腕をつかんでいた。彼女は驚いた顔でぼくを見つめる。ぼくの今の表情はどんなのだろう。怒ってるのかな、怖いかな。もうよくわからない。わからない。なのに体は良く動く。ぼくが惚れた彼女の右手首は確かに細くて、折れそうで。華奢で、涙が出そうだった。
「石田くん、やめて、いたい」
彼女がぼくの名を呼ぶ。その声できみは、ぼくの何倍もその彼の名前を呼んでいるのかな。そう思うと頭がぐちゃぐちゃになる。むかむかする。止まらない。止まらない。止まらない。
携帯が鳴った。ぼくの携帯ではなかった。橘璃子の携帯だった。璃子は自然とかばんの中へ目を向ける。そして上目でぼくを見た。ぼくは彼女の手を放した。
「ありがとう。……もしもし、樹」
その電話の相手が同棲している彼だとすぐにわかった。安心した彼女の声と、「いつき」と呼んだ名前があまりに呼び慣れていて、痛いくらいだった。同じくらい、ぼくに向けた背中の細さとか、黒くて柔らかい髪とか、小さい耳とか、ぜんぶが華奢で、泣きそうになる。みているのが痛い。つらい。
ぼくはレールにもたれた。彼女を怖がらせたと、ひどく後悔していた。彼女がさっき見ていた星はどれだろう。ぼくにはわかるだろうか。彼にはわかるのだろうか。いつもふたりで星を眺めているのだろうか。
一筋の涙が頬を伝った。まてまて泣くんじゃないと自分に言い聞かせた。服の袖で目をこするも涙があふれてくる。それはもう止まらなかった。彼女が彼との電話をやめるまで、ぼくはずっと泣き続けていた。
止まらない恋心、醜い感情。独占欲。
一度人を好きになると、ひとは変わります。
怖いくらいに。