恋心
僕は既視感を覚えた。なんだっけこの光景。あ、そうだ。あの夏、あの居酒屋で見た光景だ。あのときも彼女は開口一番にサラダを注文していた。結局サラダメニューをすべて制覇していたな。そんな人はぼくが知っている限り一人しかいない。
橘璃子その人である。彼女は今日はビビンバを食べるようだ。席に着き、店員が水を配っている最中にビビンバを注文していた。そして水をこくっとのどに流し込むと、頬杖をついてほかの席へ視線を流した。
その一連の流れにぼくは呆然とした。そして大きく笑う。ぼく以外は顔を見合わせて黙りこくっていた。ふふっとまだ含み笑いをしつつも、ぼくは彼女に話しかける。
「璃子さん、それはないでしょう。確かに無理を言ったのはぼくだけど、ねぇこっち向いて?」
璃子さんはむすっとした顔でぼくをにらんだ。そして一言ぽつりとつぶやいた。
「わたしはただビビンバが食べたくて来ただけなのに」
そうなんだ……ぼくは心の中ですごく凹み苦笑いをした。さすがに璃子さんでも一人焼肉は厳しいのかな。むすっとした顔も綺麗で、ぼくにはとても可愛らしくみえた。ぼくらの甘い雰囲気をすぐにぶち壊した他大学のロングヘアの女の子が言った。
「そんなこと言わないでさ、せっかくの他大学との交流だし! あなたの論文についても聞きたいし、将来のことについてもさ、情報交換とか」
「そうそう来年にはみんな就職するんだし」
「わたし院に進むから関係ないし」
右隣に座る他大学の女子二人の言葉を、璃子さんはずばっと切り捨てた。始まってそうそう気まずい雰囲気だ。それを自分で招いておきながら平気な顔をして、璃子さんは水をこくっとまた一口飲んだ。そして左を向いて頬杖をつく。話しかけないで下さいと背中が語っている。彼女はいつももっと人当たりがいいはずなのだ。なのに今日はどうして。首をかしげるぼくに、もう一人の男として高校の友達である伴野がこそっと耳打ちしてくる。
「おいめっちゃ美人じゃねえかようらやましいぜ。二次会はお前らふたり呼んでやんねぇからな」
伴野はにっと笑うと、女性陣にメニューを渡した。気のいい男だ。
他大学との交流として、ぼくと璃子さん、伴野と同じ大学の女子一人、そしてまた別の大学から女子二人。計六人での焼肉屋での飲み会である。主催はぼくの隣に座る友人、伴野だ。他大学との交流というのは名前だけで、本当はただの合コン。ぼくはうまく彼の口車に乗せられて、璃子さんを連れてきてしまったのだ。明らかな失敗だった。
とりあえず注文しようと伴野とほかの女子三人は、メニューを囲んであれだこれだと指を差し始めた。ぼくは一息ついて水を飲もうと腕を伸ばす。ふいに携帯が鳴った。メールを受信したときの着信音だ。先にのどを潤そうとコップを持とうとしたら、橘璃子に邪魔をされる。ぼくのコップを奪い取り、鋭く睨む小鳥眼の女の子。そのまま彼女はぼくからぼくの携帯へ視線を送る。もしかしてメールを送ったのは彼女なのかな。
携帯を開くと本当に彼女からメールが来ていた。アドレス交換した時以来使われなかったメールアドレス。こんないとも簡単にメールしてきてくれるのかよと少し泣きそうになった。じりじりと続く彼女の痛い視線に我に戻り、あわててメールを開く。本文は短かった。
『帰りたい。ビビンバ食べたら帰る』
絵文字もなにも書いてない彼女のメール。メールがきらいだと言った彼女からのメール。ぼくはカチカチと指を動かした。びっくりするくらいはやく返信できたと思う。
『待って、悪かった。璃子さんこういうのきらいだもんね。家までおくるからぼくも一緒に店を出るよ』
彼女は一回瞬きしてこくんと頷いた。ぼくは少しホッとする。これであなたは来ないでと言われたら立ち直れそうになかったからだ。注文し終えたのか伴野たちは乗り出していた体を引いた。沈黙が下りる。全員に話題を振るべきかの悩みなのだろうか。そんなこと気にせず四人で話せばいいのに、と思った。そしてはっとする。自分もほかの人には興味がないんだと。自分もはやくこの空間から璃子と二人になりたいと願っていると。
橘璃子の前にほかほかなビビンバが置かれた。店員が言う前に自分でやります、と言った彼女はきりっとした表情をしていた。そしてビビンバを写真でとりながら、たぶんぼくに話しかけた。
「混ぜましょうかっていう人いるけどさ、醍醐味だと思うのね。それをうばうのはどうかと思うわー」
璃子さんは慣れた手つきでビビンバを豪快に混ぜた。湯気がたちこめる。その中にぼやけうつる彼女はとてもきれいだった。彼女は色白で華奢な体をしていたから、余計ギャップでぼくはまた彼女にときめかされる。
「……でも混ぜてほしい人もいるかもしれないし、ね」
「石田くんのそういうとこ、きらい」
彼女はまたぽつりと小さな声でつぶやいた。彼女の心理はいつも読めない。
「えっ、なんで」
「わからないならいいわ。いただきます」
彼女は長いスプーンを使ってもくもくと食べ始めた。ほか四人はまた黙りこくっていた。彼女の中でぼく以外の同席者はいないようだ。ぼくはとても居心地が悪かった。はやく食べ終えてくれと真に願った。
彼女の食べる姿は相変わらず素敵だった。ほかほかなビビンバを大きな口で冷まさずに食べて、熱いってなっているところ。おいしくて満面の笑顔なところ。おいしくて仕方なくて鼻歌を歌いだす始末。
ものを食べている時だけころころと表情が変わることを、本人は知っているのだろうか。そして、それがどれだけ魅力的か彼女は自分でどれくらい理解しているのだろうか。
「おいしい?」
「美味しい! 石田くんも食べる?」
「ぼくはいいよ。冷めないうちにどうぞ」
「熱いんだよこれ。でも一か月前から食べたいと思ってたからすっごい幸せ」
長いスプーンをくるくるともてあそび、ふふっと彼女はこどもみたいに笑った。隣で伴野がかわいいとつぶやく。ぼくのいらいらゲージが高まる。伴野は身を乗り出し、右斜め前の璃子さんに話題を振った。璃子さんはとても嫌そうな顔をする。
「橘さんグルメなんだね、なにが一番好き?」
「……野菜サラダ」
「野菜サラダ……ベジタリアンだね。とてもすてきだと思う」
「ありがとう」
璃子さんは目をそむけて一度も伴野を見なかった。彼女は本当にベジタリアンだった。でも全く肉や魚を食べない人ではない。健康的に植物性食品を中心に食事をする人だ。それを知らない伴野はきっと誤解しているだろう。会話に詰まったみたいだ。
伴野は昔のぼくみたいだった。すぐに終わる会話。話したいのになにを言えばいいかわからない。結局ふたりの会話はそれでおしまいになった。
それから璃子さんの食べるスピードは格段にはやくなった気がする。無理しているようには見えないが、話しかける余地を見せないくらい、一心にスプーンを進めていた。
伴野たちが頼んだ肉がきて、最初に焼いた肉を裏表ひっくり返し始めたころ、
「……ごちそうさま」
彼女はビビンバを綺麗に完食した。水をごくごくっとのどに流し込んで彼女は立ち上がる。ぼくも立ち上がる。黒い髪をまとめたヘアゴムをさっと引き抜き、彼女は四人を見下ろして言った。
「すいませんが失礼します。あとはみなさんで楽しんでください」
「ぼくは彼女おくってそのまま帰るね。ごめんね伴野」
伴野は最初びっくりしたが、すぐに笑って手を振ってくれた。ほかの三人の女子は安心した顔を浮かべてまたねと言ってくれた。橘璃子は黒いヒールを鳴らして去っていく。ぼくも急いであとをついていった。
今日の彼女は真っ白いフレアスカートを珍しくはいていた。それが似合ってて女性らしくて、またぼくはときめく。今日はどきどきしっぱなしだ。頭を振って落ち着くと、彼女はもう会計の列に並んでいた。
「あ、ぼくが払う。ぼくが無理やり誘ったんだし」
「え、石田くんなにも食べてないのに」
「いい、ぼくが払う」
「そう、ありがとう。そんなに気を遣わなくていいのに」
「いや、気が済まないんだ」
「石田くんのそういうまじめなとこ、きらいじゃないよ」
笑っているのか真顔なのかわからない表情で、彼女はかばんに財布を片付けた。そのかわりにぼくはチノパンの後ろのポケットから財布を取り出す。
「ごちそうさま。わたし不機嫌だったけど楽しかったよ」
「ほんとに? うそだよねそれ」
「うそ。楽しくはなかったけど、来てよかった。ビビンバ食べれたし、おごってもらえたし」
ヒールをはいて高くなった彼女の頭はちょうどぼくのあごくらい。勇気を出してえいっとつむじを押してみた。
「なにすんのよ」
ぼくはくすくすと笑った。新たな発見をまた手に入れた。橘璃子はつむじがきれいで、白が好きでビビンバが好きで、やっぱり表情はころころ変わって、凛としてうそつきで。
そんな彼女がぼくはだいすきだっていうこと。
「ねぇ璃子さん。おなかすいた。ぼくの晩ごはんつきあってくれる?」
「もちろんいいけどおごらないからね」
ぼくたちは人ひとり入れるくらい間を開けて、夜の街へでていった。