トキメキ
夏の居酒屋が人でにぎわう。人々はお盆休みの前に飲み会打ち上げどんちゃん騒ぎだ。ぼくたちの学部もそう。いつもは法学部らしくきりっとした男子も、おとなしい女の子たちも、今は張りつめた糸が緩んで、楽しそうに黄色い声が飛んでいて、楽しい飲み会になっている。
「石田飲んでるかー」
「うん、いただいてます」
たまに席が隣になる吉田くんがぼくに絡む。背中から覆いかぶさるようにぼくに体を預けてくる彼の口は酒臭い。日本酒のつんとする匂いにくらっとした。ぼくはあまり酒が得意なほうではない。適当に笑って相槌を打って彼がいなくなるのを待とう。吉田くんはほかの人に呼ばれ、ぼくの肩から退いたのでほっと息をつく。吉田君は体育系アメフト部のエース。肩ががっしりしていて重いのだ。
ぼくはあまりここの人と馬が合わない。決して嫌いというわけでもない。ただ彼らの気分の上げ下げについていけないのだ。一緒にいるとひどく疲れる。盛り上がる輪から離れ、長方形の黒テーブルで、ちびちびとお酒をたしなんでいた。
正面にはお酒を一滴も飲まず、店について開口一番注文した野菜サラダを食べている女性が座っている。橘璃子という同い年の女の子だ。
そっと眺めていたら、彼女と目があった。小鳥みたいな瞳で見つめられて、心臓が大きく跳ね上がった。小さく息を漏らし彼女は笑う。
「なに見てんの、恥ずかしいなぁ」
サクサクとレタスを突き刺しながら、肩にかかる黒い髪を後ろにはらった。ぼくは彼女から焦点をずらし、彼女の野菜サラダに目を向ける。ガラスの丸い器に盛られたシンプルな野菜サラダ。ドレッシングをたっぷりかけられて、お箸でもりもりと食べられている。
「野菜サラダおいしいですか?」
僕はグラスを握りしめて言う。グラスに張り付く水滴が僕の人差し指に伝った。しまった、と思った。野菜サラダで話が膨らむはずがない。
「うん、おいしいよ」
橘さんが正面を見ずにそう言う。次はなにを食べようかと吟味してるようだった。お箸が丸い器のまわりをくるくるまわる。会話が終わる。ぼくは水を一口飲んだ。野菜サラダで話は膨らまない。なにかちがう話題を……
橘さんは突然手を留めた。箸先が小ぶりなブロッコリーへむかう。それをきゅっとはさみ上へと持ち上げ、
「食べる?」
橘さんは箸にブロッコリーを挟み、ぼくに差し出した。ぼくは何回もまばたきをした。橘さんもくりっとした小鳥の眼をぱちぱちさせた。長い睫毛がふるふる震えた。
「あ、ごめん」
彼女は短く謝った。ぼくも謝る。なんだか気恥ずかしい雰囲気になった。
「だいじょうぶです、気にせず食べてください」
「ん、ありがとう。あ、おいしい」
ふわっと彼女が笑った。いつものクールドライに沿わない笑顔。こんなふうにも笑えるんだとぼくは思った。赤く染まる頬を隠すように、さっと下を向いてそれから小さな口を開いた。
「橘さんは、あっち行かないの?」
「……今日は体がちょっと重くて、気にしないであっち行ってきていいよ」
そう言って店員に次は豆腐サラダを頼んだ。メニューをぱたんと閉じてグラスを手に取る小鳥眼の女性。どうしてこんなに目が離せないんだろう。なにが魅力なのだろう。
彼女は大学でもあまり口を開かない大人しい人だった。シビアな人かと思えばあんなふうに笑う。ぼくに話しかけてくれる。野菜サラダが好き。
彼女のことが知りたい。もっと、彼女の魅力が知りたい。
「ううん、ここにいる。体が重いって、体調悪いの?」
「ん、野菜食べたらなおるよ。大丈夫」
彼女の前に置かれた豆腐サラダ。彼女は和風ドレッシングを二周くるくると落とし、大きな口でほおばった。シャキシャキと新鮮な咀嚼音。幸せそうな顔。目を細めて、頭を少し左右に揺らしながら黙々と箸を進めていく。鼻歌でも歌っているのかな。
サラダに夢中でぼくのことを全く見なくなったこの人は、前から思っていたけどとても華奢だ。右手首につけた絵画が描かれたブレスレットはゆるゆるで、細身の黒パンツに白いブラウスを身にまとっている。地味な色が好きなのかな。
彼女は静かに咀嚼していた。もぐもぐと葉を砕き、ごくりと飲み込む。また大きな口を開けて、口の中に真っ赤な太陽の恵みを押し込んでふふっと笑う。恵みからおいしい汁がでて、それがたまらなく好きという表情だ。
「野菜好きだね、橘さん」
「好きだよ、石田くんは?」
答えられなかった。プチトマトをつんつんするこの人が好きで、長い睫毛が好きで、細い右手首が好きで、ふわって笑ったあの顔が好きで、忘れられなくて、たまらなく好きで。
簡単に好きだよって言えなかった。