未来へ繋いで
番外編SS『未来へ繋いで』
Thema:ホテル(バルコニー)
side:優
「玲奈先輩……って、あれ?」
ホテルの部屋内にあるユニットバスでシャワーを浴びて出ると、部屋はがらんとして静まり返っていた。
部屋にいるはずの玲奈先輩は元々静かだから、煩いわけは無いけれど。
テレビは消えていて、間接照明だけに照らされた柔らかなオレンジ色の室内では、背の高いカーテンだけがゆらゆらと揺れている。
……ということは、先輩はバルコニーにいるのだろう。
揺れるカーテン越しに、華奢な人影が見えた。
俺はTシャツにスウェットというシンプルな格好のまま、バルコニーへと足を進める。
先輩もさっきシャワーを浴びたから、ゆったりとした部屋着姿だろうし。
「せーんぱい」
「……あ、優。出たんだ」
バルコニーチェアに座ったまま夜の海を眺めていた先輩は、俺が声を掛けるまで気付かなかったらしい。
パッと見は自然なんか興味無くて、爪でも削ってそうなイメージがある人なんだけど。
実は中身は真逆で、空とか海とか風が好きな事を俺は知っている。
「ずっと見てたの?」
「うん。……夜景も海も、やっぱりリゾートは贅沢だね」
先輩の半乾きのロングヘアが、ハワイらしいさらっとした夜風に靡いた。
伏せられた瞼は、向こう側――今は左方の海ではなく、右方の眼下に続いている街の方へと向いている。
先輩が心を打たれているものを共有したいなと思って、もう一つのバルコニーチェアを先輩の隣にくっつけると、俺も腰を下ろした。
「ほら、見て優」
「なに?」
「あそこ、まだ路上ライブしてる」
「あはは、ホントだ」
ここから見下ろせるのは、ワイキキでも有名なカラカウア通り。
夜になってもメインストリート沿いはまだ明るく、露店も活発に動いているのが見える。
日が暮れると不思議なパフォーマーも数多く出現し始めるのだが、丁度ここから見えるのは、陽気なメロディーを奏でる路上ライブ奏者たちだった。
なかなか上手いその演奏に人々は周りを取り囲み、何組かのカップルがその中央部でくるくると踊っている。
「ふふ、仲の良さそうな夫婦だね」
「そうだね。日本じゃあんまり有り得ないもんなぁ……」
中でも一際目立ったのは、恐らく還暦も過ぎているであろう欧米系の老夫婦だった。
遠目でも白髪だとわかる彼らもまた、陽気に手を取り合って踊っている。
その様子は何とも微笑ましくて、見ているこっちまで幸せな気分になった。
「こういう時間の流れ方、好きだな」
「あぁ、玲奈先輩いかにも好きそう」
「あくせくしなきゃいけないの、嫌いだから」
ふと目を閉じた玲奈先輩は、切なげに苦笑する。
玲奈先輩の家は、典型的な世間体を重んじる家庭だ。
だから高校進学の際、本来進もうと思っていたピアノ専攻への道を断たれた時から、あまり親とは上手く行っていないらしい。
そして玲奈先輩自身は、本当は繊細で……すごく優しいのだけれど。
元々整い過ぎている容姿のせいもあり、日本では周りに攻撃される事が多く、常に気を張っている癖がついてしまっていて。
家でも外でも気が休まることの無かった先輩は、俺と出逢ったばかりの頃は、かなり精神的に疲弊していた気がする。
「ゆっくり羽伸ばさばなきゃね、先輩」
「……ん」
「先輩にぴったりの場所に来られて、良かった」
そっと腕を伸ばして抱き締めてあげれば、普段は恥ずかしがり屋なのに、先輩は抗うこと無く俺の腕の中に納まってくれた。
それは普段の日常から切り離された場所にいるせいか……それとも、こちらに来てから目にしている無数の仲睦まじいカップルたちに感化されたせいか。
いずれにせよ、先輩は疲弊した心をゆっくりと溶かしているようだった。
そんな時に、俺が一番傍にいることを許してくれるのはとても嬉しい。
「いつか、こういうあったかい所に住みたいな」
「え?」
「私さ……結局、のん気で気楽な人たちが好きなんだと思う」
先輩はふっと笑って、ようやくその澄んだ瞳を俺の方へと向けてくれる。
「英美理にしても……優にしてもさ。マイペースで自分がちゃんとある人は……真っ直ぐで優しいから」
「……」
英美理というのは、見た目は先輩に負けず劣らず派手なギャルだけれど、心根はとても優しい先輩の親友だ。
飾られていない先輩の言葉は、真っ直ぐに伝わってきた。
自分の事だけじゃなくて……他人の懸念すらもすぐに感じ取ってしまう、繊細な玲奈先輩。
それを象徴するかのように、先輩はピアノでは華々しいオクターブ奏法よりも、静かな湖面を滑る様なアルペジオを得意とする。
そんな穏やかな世界を望む先輩にとって、駆け引きやしがらみばかりが渦巻く東京での生活は、きっとストレスが多いのだろう。
俺はぎゅっと先輩の頭を肩口に抱き寄せ、指先で髪を梳いた。
先輩は黙ったまま、俺の腕越しに夜景を眺めている。
「……じゃあ、考えておくよ」
「何を?」
「将来の海外移住」
一瞬身を起こしてきょとんとした先輩は、俺の言葉を聞いて笑った。
「何年先の話?」
「本気でやろうと思えば、10年以内には出来ると思うけど」
「……」
「先輩が、本気で望めばね」
俺がそう言えば、先輩はじっと瞳を見つめてくる。
「……それまで、優は私の隣にいるかな」
「当り前だろ」
「……」
「次にここに来る時は……住む場所の下見がてらだったりしてね」
遠方で拍手を浴びながらお辞儀をする老夫婦を見つめたまま、俺は微笑んだ。
先輩もそれを視線で追って、ふわりと微笑む。
「私もあんな風に、年を重ねたい」
「きっと出来るよ」
「優……」
「俺が手伝ってあげるから」
現実に、社会に出た成人たちから見たら、きっと滑稽な夢物語だって笑われるんだろうけど。
夢さえ忘れて、日々に疲れ果てた大人にはなりたくないから。
――先輩への想いを、色褪せさせたくないから。
「私さ……」
ライトに当たって、ぼんやりとコバルトブルーの光を放っている海と、
仄かなオレンジ色に染まったメインストリートが見えるバルコニー。
「……優に出逢えて、本当に良かった」
そこで囁かれた告白は、
きっと10年経っても……50年経っても忘れない。
忘れたくない。
そんな事を想いながら、俺は最愛の人をもう一度引き寄せた。
fin.