そして、始まる
『推薦枠の二人に、貴女は入れられないわ』
『……どういうことですか』
高校は、ピアノを専攻出来る学校へ行くものだとばかり思っていた。
私の通っていた中学に来ていた、通える範囲にある音大付属高校からの推薦枠は二人。
そのうちの候補の一人は、同学年にいる音楽家の息子であり、しょっちゅうコンクールに入賞しているような子だった。
それは、誰もが当然だと認識していたのだけれど……
『貴女の普段の生活態度だと、内申書的にね……申し訳ないけど、藤堂さんに決まったの』
言われた瞬間、頭が真っ白になった。
生活態度……?
私が、何をしたのだというのだろう。
確かにこのルックスのせいで、交友関係は派手な子が多かったけれど……授業は必ず出席しているし、決して勉強は出来る方じゃなかったけれど、平均点並みの成績は保ってきたはず。
目の前の女教師の口から聞いた名前は、ピアノの実力では到底私に及ばないはずの女子生徒だった。
ありえない――この3年間、私はずっとピアノ中心の生活をしてきたのだ。
たとえそれが、見た目にそぐわないような行為だったとしても。
『加藤さんのお家は、滑り止めも受験出来るのよね』
私が黙っているのを良いことに、ペラペラと喋り続ける担任。
『藤堂さんはご兄弟の多いお家だし……後が無いのよ』
『それは……うちが、お金持ちだから大丈夫だろうってことですか』
『……まぁ、そう言えなくもないわね』
元々この担任……運悪く音楽担当でもあるこの女とは、全く馬が合わなかった。
どんな個人的恨みがあるんだか知らないけれど、私の家柄も容姿も……何もかもが気に入らないと、その視線が不満げに語っているのを、この一年間ずっと感じていたのだ。
だけど、これはさすがに無い。
『先生……私だって、簡単に望む将来が手に入るわけじゃありません』
『えぇ、そうね。だから、今回は一般試験で頑張って頂戴』
『……もう決定したんですか』
『えぇ。つい先日、先生方と会議して――』
『最低だね、先生』
『……』
どれほど私がピアノを大切に想ってるかとか……そのための努力は惜しまずしてきたとか……そういうことをきっと、この人は知っているはずなのに。
キッと睨みつけるようにその目を見れば、明らかに好戦的な、挑発的な瞳を向けられる。
『ねぇ、加藤さん』
『……』
『家柄と容姿で、何でも上手くいくわけじゃないのよ?』
そんなこと、私は一度も考えたことがない。
そんなくだらない幻想を抱いているのは、他の誰でもない、この目の前の女だ。
『他の先生がどんなにちやほやしても、私はそうはいかないわ。平等にさせてもらうから』
『……は、平等?』
思わず笑いが零れる。
今の言葉で、大体察しがついてしまった。
『公私混同もいいとこだね、センセ。自分の恋が実らないからって、八つ当たりしないでよ』
『……何の話?』
『別に』
私は吐き捨てるように言うと、背を向けて教室を飛び出す。
大きな音を立てて閉まる扉の音を背後に聞きながら、涙が滲んだ。
あの女が美術の担当教師を追っ掛けてるとか何とかっていう噂は、ミーハーな友達からよく聞いていた。
とても穏やかな性格の美術教師と私は、特に仲が良かったのは事実で……彼は私のセンスを、いつも好評価してくれていたんだけど……
(クソ女……ふざけんな)
勝手に嫉妬した挙げ句、職権乱用の仕返しなんてたまったものではない。
ぎゅっと目をつぶって涙をこらえ、私は家へ向かった。
でも、それからが悪夢で――
「私の母親さ、プライドのカタマリみたいな人なんだよね」
「うん」
私はいつの間にかポツリポツリと、涙ながらに藤岡に告白をしていた。
藤岡は微動だにせず、静かに相槌を打ってくれる。
「だから、推薦枠取り逃がしたって知ったら……」
『どうするのよ?! 母さんにも姉さん夫婦にも、もう進路は決まったって言っちゃったのに……!』
母親の怒りの矛先は、ひたすら私に向いた。
『だから言ったのよ、ピアノはお遊び程度にしなさいって! せっかく私に似て美人になったんだから、芸能学校にでも進めば良いものを……』
「私は……ピアノが、やりたかったんだ」
「うん」
「でも、誰も……私のピアノに期待なんか、してくれなくって……」
どこにしまいこんでいたのだろうと思う程に、ぶわっと涙がこみ上げる。
あれから数日後、リビングにあったはずのピアノは勝手に売り払われていて、私は愕然とした。
『ピアノを見るだけで、不愉快になるから。私が手を回した高校へ入るのよ。……本当に、どうしてこんなに手を焼かせるんだか』
母親のヒステリックな声も、どこか遠い現実で……何もかもが、どうでも良くなってしまったのだ。
何もかもが、あの日から――
「先輩」
「……っ」
「話してくれて、ありがとね」
そっと立ち上がった藤岡の腕が、私を引き寄せる。
何だかすごく、腕の中が温かく感じて。
「俺が、先輩の道……もう一回、切り開いてあげる」
「なに……言って……」
「俺は先輩のピアノ、信じてるからさ」
そっと頬に手を添えられ、視線を合わせられた。
「だから先輩も、俺を信じて」
……人肌がこんなに温かいなんて。
今まで全然、気が付かなかったよ。
*
「玲奈先輩さー、元が派手顔だから、もっと化粧薄くてもイケると思うよー?」
「余計なお世話だし」
「あ、でもその目尻のキュッってやつ? アイラインだっけ、それは死守してね。俺それめっちゃ好きだから!」
「……」
「んふ、玲奈のトレードマークだもんねぇ?」
「ですよねー、英美理先輩!」
私の過去を晒してしまった後も、藤岡はいつもと変わらずに私を追っ掛け回してきた。
まるで何も無かったように、今までと変わらずに。
「あっ! 英美理先輩、今日何曜?!」
「え?! びっくりしたぁ。んーとぉ、木曜日だよー?」
「やっば、ミッション遂行日だった! 玲奈先輩、行くよ!」
「は……? ちょ、ちょっと何!」
携帯を確認しながら答えた英美理の声に、突然立ち上がった藤岡は私の腕を掴む。
「英美理先輩、玲奈先輩借りるねー!」
「はいはぁい」
「勝手に貸すな!」
のん気にひらひらと手を振る英美理に悪態をつきつつ、グイグイと手を引っ張っていく藤岡に足をもつれさせながら付いていく。
「ちょっと、何のつもり?!」
「言ったでしょ、ミッション遂行日ー」
にっこりと微笑みながら振り返る顔に、一瞬ドキリと胸が高鳴る。
……って何この現象?! 有り得ないんですけど……!
「名付けてー、先輩の可能性を広げましょープロジェクト!」
「……はぁ?」
「俺んちだけじゃ、出来ることは限られちゃうからねー」
実は……あの日から。
実は家が音楽教室だという藤岡の好意で、定期的にピアノを弾かせてもらえることになったのだ。
生徒用ではなく、元々は藤岡のために用意されたピアノがあるものの、彼はすぐバイオリンに興味が移ってしまったらしく、日中はほとんど誰も弾いていない状況らしい。
彼の母親も、弾き手がいてくれた方が調律する意義もあると快諾してくれたようで、私は久し振りにコンディションの整ったピアノが触れるようになって……
「ねぇ、どこ行くの……って、ここ……?」
「そ、ここ。ささ、先輩入ってー」
連れてこられたのは、新校舎の音楽室。
実技は一年生のみが選択出来る授業だから、もちろん教室内には一年生の子たちしかいなくって……
まだ昼休み中とはいえ、半数以上集まっている生徒たちは、藤岡に手を引かれて現れた私にざわめき立っている。
「ど、どういうつもり……?!」
「大丈夫、大丈夫。これ俺のクラスだからー」
「何がどう大丈夫なわけ!」
「みんなー、ピアノ借りるねー」
「おー、やれやれー!」
「ありがとー」
ゆるーく声を掛ける藤岡に、ゆるーい返事を返すクラスメート……さすが藤岡のクラス……ってそうじゃなくて。
困惑しきった私を余所に、テキパキとグランドピアノの蓋を開け、私を座らせる藤岡。
「な、何がしたいのアンタは」
「先輩、アレ見て」
藤岡が指差した先は、窓の向こうに見える渡り廊下だった。
そこを歩いていたのは、音楽の担当教師で……
「あの人さ、こんな所でくすぶってる音楽教師だけど、かなりの実力者らしいんだよね」
耳元で、藤岡が囁く。
「吹奏楽の副顧問くらいしか他にやってないから……自分が気に入った生徒には、無償でピアノ教えてるんだって」
「え……?」
「しかもそれを選ぶ基準は、完全に実力とセンスらしいよ? 俺の目から見ても、かなりイイ先生」
もう見慣れた笑顔で、目を細める藤岡。
「先輩、チャンスは意外と転がってるもんだよ?」
言いながら、藤岡はクラスメートの一人からバイオリンケースを受け取っている。
「ありがとー」
「どう致しまして。早く玲奈先輩との聴かせてくれよ!」
「もちろん」
準備の良さに、思わず脱帽してしまった。
「今すぐ演奏始めれば、あの先生が教室に入って来た時には、既に俺たちの空気が出来上がってると思うけど」
パチリと片目をつぶりながら、悪戯っぽく笑う藤岡。
「やるよね? 先輩」
「……藤岡……」
「言ったでしょ、先輩の道を切り開くの手伝うって」
「どうして……」
「愚問だよー」
藤岡がこちらに屈みこんで来て、二人ともグランドピアノの影になる。
「先輩が、好きだから」
「……」
「……先輩でも赤くなったりするんだね。可愛いー」
「う、うるさ……」
「はいはーい、んじゃやりますかー」
俯いたまま、ガラにもなく耳まで真っ赤になった私を無視して、藤岡はバイオリンを構えた。
「先輩、みんな楽しみにしてるよ。聴かせてあげよう」
どうしようもなく、絆される。
「藤岡……」
「んー?」
今まで、何人も付き合ったことはあったけれど。
数え切れない程の男を、見てきたけれど……この心を余す所なく埋める温かい感覚は、藤岡に出逢うまで知らなかった。
「……ありがと」
「いーえー」
「好きだよ」
「はいは……え、……え?」
「弾くんでしょ、ほら構えなさいよ」
「え……えー?!」
「私と合わせるんなら、ケアレスミスしたら許さないからね」
「うん……?! ちょ、何そのはぐらかし方!」
「上手くいったら、後でちゃんと言い直してあげるから」
「マジでー! わかった、俺超頑張るからー!」
いつの間にか、自然に笑えるようになっていた。
こんな風に全部……自然体でいられるのは、相手がアンタだからだよ。
ねぇ、藤岡。私――
「んじゃ、やりますかー」
慣れたアイコンタクトで、呼吸を合わせる。
アンタと一緒に奏でるメロディーが、温かくて優しいメロディーが。
どうかいつまでも、続きますように――
fin.
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
明日から29日まで、朝8時に番外編を1本ずつUPしていきます。
宜しければお付き合い下さいませ。