救いの言葉
「……何、君誰?」
「ハッ、『君』とかどんだけキャラ作り? うぜー。数秒前まで、ヤンキーばりの汚ぇ言葉遣ってたじゃん」
俯いたまま、近付いてくる足音に耳を澄ませる。
……藤岡が、来てくれた。
「聞いてたのかよ、悪趣味な奴」
「いやいやー、アナタに言われたくないですからー」
「で、何だよ。取り込み中なんで、失せてもらえると嬉しいんだけど?」
「ははっ、何それ超ウケる」
間横でピタリと止まる、見慣れた制服のズボン。
綺麗に磨かれたブラウンのローファーを、じっと見つめていた。
「とりあえずさー……マジその手放そうよ」
私を強く掴んでいた手を、藤岡は迷いも無く掴む。
何で私の事なんか……とそっと顔をあげれば、一瞬私にだけ、ふわりと微笑んでくれた。
「んだよ、触んじゃ――」
「テメェがこの人に触んなよ」
あくまで優しく私の身体を後ろへ押しやりながら、藤岡は元カレと私の間に割り入ってくる。
いつものふわふわした声じゃない、低く響くテノール。
何だ、普通にカッコイイ声してんじゃん……と不謹慎にも思いつつ、どこか安心しながら藤岡の背中を見つめていた。
「は、何? お前コイツのこと好きなわけ?」
「だからさ、コイツとか言わないでくれない? 既にフラれた後なんでしょ」
鼻で笑うような言い草に、よりピリピリとした空気が張り詰める。
「悪いけど、アンタと違って俺、先輩の本命候補だから」
「……あ?」
いつから候補になったのよ、と心の中で思ったものの、ここで否定する程バカではない。
私は押し黙ったまま、状況を見守った。
「一週間もつ程の魅力が、アンタには無かったってことじゃねぇの?」
「……どういうことだよ」
どうやら怒りの矛先は、藤岡から私にシフトしたらしい。
そもそも自意識過剰なこの男は、フラれることはもとより、相手に本気にされないことには慣れていないのだ。
それに加えて、こうして助けに入ってくれた藤岡だって、系統が違うだけで元カレと張ったルックスを持っている。
悔し紛れに、私を究極の悪女に仕立て上げたいのだろう。
「……どういうことも何も……この子が言ったことに、特に異論は無いけど」
適当にそう言えば、憤りで奥歯を噛み締めながら睨みつけてくる。
「クズ女――」
「だから誰に向かって言ってんだよ」
元カレが口を開いた瞬間、藤岡が相手の胸ぐらを掴んだ。
これは流石の私も予想していなくて、思わず目を見開く。
ドン、と鈍い音を立ててコンクリートの壁に追い詰めたれた元カレは、もちろん喧嘩慣れなどしていないのだろう(一応進学校のアイドルらしいし)。
突然手を掛けられたことで、やや蒼褪めている。
「テメェがこの人の見た目しか見てねぇから、捨てられたんだろうが。責任転嫁してんじゃねぇよ、男のくせにマジうぜぇ」
「……!」
「こんな所まで追っ掛けてきて、挙げ句の果てに無理矢理連れ込もうとか、脳ミソわいてんじゃねぇの? さっさと失せろよ、気色悪ぃ」
ぐっと首元を押しやった後、乱暴に手を離す藤岡。
放された瞬間咽返った元カレは、顔面蒼白のままこちらを一瞬チラリと睨み、逃げるように足早に去って行った。
「……」
「……」
「……玲奈先輩大丈夫?」
「……藤岡って元ヤン……?」
「あはー、バレちゃったじゃんねー。まじアイツ今度シメる」
可愛く笑っても、目がマジにしか見えない。
私はため息をつきつつ、力無く微笑んだ。
「……やめときなよ、アンタが関わるに値する男じゃないって」
「え、何その評価! 先輩がデレたー!」
「……」
「ていうか、何でこんな冗談みたいなタイミングで登場したの?」
「冗談って!」
先輩酷いなーと言いながらも笑う藤岡を見て、英美理のそれと同じようにほっと出来るようになってきたのは否めない。
「俺が玲奈先輩マジ狙いしてるのは有名な話だからー、ダチから通報が入ったんだよね」
「通報……?」
「先輩がピーンチ! ってね。あと15mで家だったんだけどー、全力疾走で戻ってきました!」
「……ぶっ」
思わず、吹き出した。
何かもう、何もかもがくだらなく思えて。
こんな些細なことが……くだらないやり取りが、こんなにも温かい。
「あははっ、もう、アンタバカでしょ……!」
「えー。でもまぁ、先輩バカなのは認めるよー」
にっこり笑って、私の腕を掴んでくる。
さっきの元カレの時とは、全然種類の違う……優しい力加減で。
「せっかくここまで戻ってきちゃったからさぁ、先輩ちょっと付き合って欲しい所があるんだけど」
「しょうがないな、いいよ。今日は特別」
「……! やばい、どうしよ先輩のデレ一人占め状態なんですけどー!」
「はいはい、わかったから」
藤岡に手を引かれながら、私は笑った。
助けてくれたのが、藤岡で良かった。
……なんて、絶対口に出しては言えないんだけどね。
「……え、ここ……?」
「先輩、窓開けて待ってて。俺、ちょっと取ってくる物あるから」
「ちょっ……」
そう言って一人取り残されたのは、例の旧校舎の音楽室だった。
いつも私が一人で来ている、憩いの場所。
ここが使われていたのは去年までだったから、藤岡の代の生徒は、全く馴染みの無い場所なはずなのに。
「……」
戸惑いながらも、いつもの習慣でカーテンを開け、窓を開け放つ。
ちょうど穏やかな西日が差し込んでくる時間帯で、古い音楽室内は、オレンジ色に色付いた。
クセで、普通にグランドピアノに手を掛けたものの……あくまで今日は、藤岡に連れて来られたのだ。
現役を退いてしまった私のピアノ演奏など、聴かせるのは忍びない。
私はピアノの前の黒い椅子に腰掛けると、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「あーれー? 先輩何してんの、早くピアノセットしなきゃー」
不意に藤岡の声が静寂を破り、私はぴくりと肩を震わせる。
「え……って、それ……?」
「いいからいいから、ハイハイ、手早くやりましょうねー。せっかく夕陽が綺麗なナイスタイミングなんだからさー」
藤岡が手に持っていたのは、どうみても弦楽器のケースだった。
それを指摘しようと思ったのだけれど、先に言葉を被せられ、ピアノの準備をしろと指示される。
有無を言わさないようなその口ぶりに、私は戸惑いながらも指示に従った。
「ていうか、何で」
何で私がピアノを弾けるって、知っているんだろう。
「うーん、ベストコンディションだねー。新校舎より、こっちの方が夕陽がロマンチックに見えると思わない?」
楽しそうに笑いながら、藤岡は足元に置いたケースを開け、中身を取り出した。
「……バイオリン」
「お付き合い頂けますか、先輩?」
悪戯っぽく、わざとらしいウインクをしながらバイオリンを構える藤岡。
伏せられた睫毛が、影を落とす。
「先輩、カノン一緒にやろうよ」
「カノン……パッヘルベルの?」
「そ」
藤岡が言ったのは、誰もが知っているお馴染みの、ゆったりとしたメロディーのカノン。
いまだに私が……時々弾いている曲だった。
「でも……バイオリンと合わせたことなんかないし」
「大丈夫、心配しないで。俺が先輩に合わせる」
にっこりと口端を上げた、藤岡の伏せ目がちなままの瞳が、オレンジ色の光を反射させてキラリと光る。
普段の私なら……他人の前でピアノを弾くなんて、絶対に有り得ない。
ましてや、誰かと合わせるなんて。
「――わかった」
それでも、この時頷いてしまったのは。
夕陽が綺麗だったからとか……藤岡には気を遣わないで済むからとか、さっき助けてくれたお礼にとか……理由は、いくつもあったかもしれないけれど。
純粋に、魅かれたからなのかもしれない。
誰かに私の音を聞いてもらうのも、誰かの奏でる音を聞く事が出来るのも――ものすごく、久し振りだったから。
指を這わせれば、楽譜なんて見なくても、目を閉じたままでも弾ける曲。
心穏やかになるのに、ぴったりの……お気に入りの曲の一つだった。
人に合わせるのは、あんまり得意じゃないけれど……藤岡は、自由に弾いていいと言ってくれたから。
「……っ」
溶け込むように、寄り添うように。
視界の端で弓を引く姿が見えた瞬間、優しい弦の音が、私の奏でるピアノに混ざり合う。
教室中を染めるオレンジ色の空気が、一瞬揺らめいたような錯覚を覚えた。
――心地良い。
間の取り方、テンポの揺らめき……そのすべての呼吸が、無理無くぴったりと合わさる。
思わず、口元が綻んだ。
こんなに優しい気持ちになれるのは、一体いつぶりだろう……。
チラリと視線を上げれば、弓を上下させながら藤岡もこちらを見て、微笑んでいた。
無意識に目配せして、時々テンポの確認をし合う。
何だろう。何だかすごく……
……すごく、涙が出そうなんだけど。
楽器は嘘を吐かないから、藤岡の奏でる音がまるで、私のすべてを見透かしているようで。
大丈夫だよ、と語り掛けてくるようで……ガラにもなく、胸が熱くなった。
一番最後の音の余韻に、しばらく酔いしれていた。
鍵盤から指を離した瞬間、何だか妙に照れくさくて。
どうしたら良いのかわからず、俯いたまま黙り込んでしまった。
先に沈黙を破ったのは、藤岡。
「……懐かしいな」
「……?」
「ストーカーみたいって思われたら嫌なんだけど、先輩に一目惚れしたキッカケってさ」
言いながら、バイオリンをそっとケース内に寝かせると、藤岡は私の隣へと歩み寄ってくる。
「……ここで聴いた、カノンなんだよね」
「え……」
思わず顔を上げれば、これ以上なく優しい微笑みを浮かべている。
大分暗くなってきた教室の中、藤岡は私の座っている椅子の横に腰を下ろし、その脚に背を凭せ掛けた。
「なんて綺麗なカノンなんだろうって」
「……」
「今まで聴いてきたカノンは何だったんだろうって思うくらい、聴き入っちゃてさー」
クスリと笑いながら、藤岡は前を見たまま静かに言葉を連ねる。
「でも同時に……すごい哀しい感じもして。何で幸せそうに弾かないのかなって」
「……」
「俺は廊下で盗み聴きしてたんだけど、教室から出てきた姿を見てスゲー驚いたよー。噂の玲奈先輩だったから」
「……」
「それから、無意識に先輩を目で追うようになってた。スゲービッチな噂ばっか流れてて、先輩自身、それを裏切らない女王様気質なのにさ」
そこでふっと笑った藤岡に、そっと振り返った。
「時々、スゲー泣きそうな顔してんの。そのギャップに、もう俺はノックアウトですよー」
「……バカ」
誰にも知られていないと思っていた秘密がバレて恥ずかしいとか、最初から知ってたなら何で今まで黙ってたのとか、色んな感情が巡っていく。
それでも……何故か一番私の心を埋めたのは、ほっとする気持ちだった。
説明しなくても――おおまかな部分だけでも、私を知ってくれているという安心感。
昔から辛いとか寂しいとか、ネガティブな感情は人に見せる方じゃなかった。
というか意地っ張りな性格もあいまって、自分からそういうサインを出すのは本当に苦手だったのだ。
「……先輩、何でピアノ止めなきゃいけなくなっちゃったのかとか、わかんないけどさ」
……ねぇ。
どうしてアンタは。
「先輩のピアノは、スゲー綺麗だよ。先輩の、本質が見える」
どうしてアンタは、そんなに私のことがわかるの。
どうして、ずっと欲しかった言葉がわかったの。
「……バカ……」
視界が歪んで、私は目を閉じた。