「間髪入れず」を「かんぱついれず」と読むのは「誤り」か 国語辞典の記述に憮然とした話
「間髪入れず」「憮然として」……小説で、よく見かける言葉ですよね。
ちょっと、「間髪入れず」という言葉が気になったんですよ。「間髪」ってなんだろうと。そこで電子辞書に入っている『広辞苑 第五版』で引いてみました。「かんぱつ」っと……。
出ない。
いや、出てます。ちょっと下のほうに、「間髪(はつ)を容れず」の項が。しかもご丁寧に、「髪」の字に読み方がふってありますね。でも「ぱつ」じゃなくて「はつ」です。「かんぱつ」とはどこにも書かれていません。
同じ電子辞書に入っている『新漢語林』の熟語検索で引いてみると、やはり「間髪」という項はなく、「間不容髪・カンハツをいれず」という項があるだけです。そして「間」と「髪」が離れている、ということは、元々「間髪」という熟語だったわけじゃないようですね。
つまり元々は「間不容髪」という句で、その意味は「間に髪の毛一本さえ入らない」、つまりそれほどゆとりがないということで、そこから転じて、「即座に、とっさに」という意味になったわけですね。なるほど……。
しかしどうも、現代日本語では、「間髪」はひとつの熟語、読みは「かんぱつ」、という意識で使われているように思います(熟語としてくっついてるから「は」が「ぱ」になるわけですね、「散髪」や「出発」と同じように)。
どうにも気になるので、『日本国語大辞典 第二版』を引いてみました。おや、「かんぱつ・間髪」という項がありますね。
(「間 (かん)、髪 (はつ)を容 (い)れず」を「間髪(かんぱつ)を容れず」と読んだところから生じた語)
少しも余裕のないこと。また、そのさま。
そして「間に髪を容れず」の項の補注にはこうあります。
「間、髪を容れず」を誤って、「間髪(かんぱつ)を容れず」と発音されることも多い。
それから、『大辞林 第三版』の「かんぱつ・間髪」の項にはこうあります。
「間 (かん),髪 (はつ)を容 (い)れず」の「間,髪」を誤って一語と解釈した言い方。
『デジタル大辞泉』の「間 (かん)髪 (はつ)を容 (い)れず」の項の注にはこうあります。
「間、髪を容れず」と区切る。「かんぱつを、いれず」「かんぱつ、いれず」は誤り。
どうも「間髪」を一語と捉えること、そして「かんぱつ」と読むことについては、誤り、誤りですね。
しかし、出典である中国の古典において「間髪」が一語でないというのはその通りとしても、現代日本語では、「間髪」は一語、読みは「かんぱつ」という意識のほうが主流であるように思います。
どうも一連の国語辞典の記述には、国学系の先生の語源・出典を重視しすぎる病気が出ているように感じられます。
わたしは、「ある語が、現在、どういう意味で使われているかは、語源とは別の問題だ」という言語学系の立場(日本語に対する観点が、という話です)の人間ですから、現代の日本で「間髪」が「かんぱつ」という読みで普通に使われている以上、わたし自身もそのように使っていこうと思いますし、その読みが「誤り」だとも思いません。
すごく大ざっぱな言い方ではありますが、「国学者は正しい日本語を追及し、言語学者は日本語の変化を面白がる」と誰かがおっしゃっていたのは、ある程度、的を射ていると思います。もちろん、ある言葉を研究する際は語源の調査は不可欠でして、それを否定するつもりはありません。ただ、辞書の編纂に当たっては使用実態もある程度反映させたほうが良い、と思うのです。
わたしの愛用している講談社『類語大辞典』には、「かんぱつをいれず」「かんぱついれず」ともいう、とあるんですけどね。
あとは、「容れず」か「入れず」かという問題も残ってますね。これも基本的には、どちらでも良いと思うんですよね。出典である中国の古典を尊重するなら「容れず」、現代日本語として「いれず」に当てる漢字は「入」が普通だろうと思うなら「入れず」、なんか変わった読みでかっこいいと思うなら「容れず」……「きく」や「わかる」に複数の漢字が当てられるのと同様、個人の好みで良く、どちらかが「誤り」ということはないと考えます。ちなみにわたしは、「入れず」を使っています。
本来と現状のずれということでいえば、「憮然」の意味に関する問題などというのもあります。
「憮然」の本来の意味は「失望してぼんやりとしている様子」であって、「腹を立てている様子」という意味で用いるのは「誤り」だ、という話があるのですが……。これも「間髪」と同じことで、実態として後者の用法が主流のはずですから、それを「誤り」というのはどうなのかと思います。
『デジタル大辞泉』を引いてみると……。
失望・落胆してどうすることもできないでいるさま。また、意外なことに驚きあきれているさま。……
(以下は注記)「憮然たる面持ちで」とした場合、「腹を立てているようすな顔つき」の意味で使われることが多くなっているが、本来は誤用。文化庁が発表した平成19年度「国語に関する世論調査」では、「憮然として立ち去った」を、本来の意味である「失望してぼんやりとしている様子」で使う人が17.1パーセント、間違った意味「腹を立てている様子」で使う人が70.8パーセントという逆転した結果が出ている。
逆転しているなら、「腹を立てている様子」も語義として記載すれば良いのにと、個人的には思います。その際、「本来は誤用」という添え書きはあっても良いとは思いますが。あと十年もしたら、新しい語義として辞書に反映されるでしょうか。
わたしの小説で誰かが「憮然と」していたら、それは腹を立ててムッとした顔をしているのであって、決して「失望してぼんやりと」はしていません。
国語辞典の記述に、失望したり腹を立てたりした、という話でした。
追記
とはいうものの……こういった、ある言葉の「間違った」ないし「新しい」使い方をどこまで認めるかは、わたし個人の中でも、言葉によってかなり差があるようです。
たとえば、「流れに棹さす」という言葉を「時流に逆らう」という意味で使うことにはどうも抵抗がありますし、誰かがそのように使っていたら「それ、間違ってるよ」と言いそうです。
ということはやはり、国語辞典には新しい読みや語義も反映させつつ、「本来は誤り」という注記もあったほうが良い、ということになるでしょうか。うーん、考えれば考えるほど、簡単にはいきませんね。
というわけで真の結論。国語辞典を編纂するのは、簡単じゃなさそうです。
文章を書く者として、各種辞書類の編纂に携わっておられる方々には常に尊敬と感謝の気持ちを持っているわけですが、その上で、今回はちょっと生意気を言わせていただきました。
ご意見、ご感想をいただけたら嬉しいです。特に、「この言葉が気になる」「この辞書にこんなことが書いてあった」という情報を歓迎します。