第1章 人生のやり直し
人生をやり直せるとしたら、君は何を変えたいだろうか。
もっと勉強しておけばよかった。
もっと遊んでおけばよかった。
あの人に、素直な気持ちを伝えておけばよかった。
人は誰しも、そんな後悔の一つや二つを抱えているのかもしれない。
そして、僕にも後悔があった。
ただし、それは特別な失敗でも、誰かを傷つけたという話でもない。
僕の人生は、普通だった。
真面目に学校へ通い、就職して、与えられた仕事をこなす。周囲に迷惑をかけないように気を配り、頼まれたことにはできる限り応えた。
両親には心配をかけないように。
妹には情けない兄だと思われないように。
職場では、役に立たない人間だと思われないように。
そうやって生きてきた。
誰かの期待に応えることは、悪いことではない。
むしろ、そうすることで誰かが喜んでくれるなら、それはきっと素晴らしいことなのだろう。
けれど。
ーー僕は、自分が何をしたいのか、よく分からなかった。
休日になれば、疲れた身体を休めるために家で過ごした。
友人からの誘いには、予定がないにもかかわらず、曖昧な理由をつけて断ることがあった。
家族と食事をしていても、何気ない会話を自分から始めることは少なかった。
嫌いだったわけではない。
友人と出かけることも、家族と話すことも、本当は嫌いではなかった。
ただ、断られたらどうしよう。
迷惑だと思われたらどうしよう。
自分の話なんて、面白くないのではないか。
そんなことを考えているうちに、言葉を飲み込んでしまうのだ。
いつか時間ができたら。
もう少し余裕ができたら。
今の自分に自信が持てるようになったら。
そのうち、やりたいことを見つけよう。
そう思いながら、僕は毎日を過ごしていた。
そして、気がつけば。
自分の人生なのに、自分が何を望んでいたのか分からなくなっていた。
それでも、人生が不幸だったとは思わない。
優しい両親がいた。
生意気だけれど、かわいい妹がいた。
仕事で感謝されたこともあったし、友人と笑い合った記憶だってある。
幸せな瞬間は、確かにあった。
ただ、その一つひとつを、僕は大切にできていただろうか。
もっと家族と話しておけばよかった。
もっと友人を誘ってみればよかった。
もっと、自分の気持ちに正直になればよかった。
そんな思いが、心の奥底に残っていた。
そして僕は、ある日、人生を終えた。
◇
ーー静かだった。
音もない。
光もない。
身体の感覚すら、曖昧だった。
目を閉じているのか、それとも目そのものが存在しないのか。
そもそも、僕はまだ存在しているのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に声が聞こえた。
『あなたは、どのような人になりたいですか?』
女性とも男性ともつかない、不思議な声だった。
感情の起伏は少ない。それなのに、なぜか冷たさは感じなかった。
どこから聞こえてくるのかも分からない。
僕は戸惑いながら、問いかけの意味を考えた。
どのような人になりたいか。
そんなこと、今まで何度も考えたはずだった。
立派な人間になりたい。
誰かに認められる人間になりたい。
家族に心配をかけない人間になりたい。
けれど、今になって思い返せば、その多くは誰かの目を意識した願いだった。
自分が本当に望んでいたことは、何だったのだろう。
長い沈黙のあと、僕は答えた。
「……誰とでも仲良くできて、人の役に立てる人になりたいです」
口にしてみると、あまりにもありふれた答えに思えた。
もっと大きな夢を語ればよかったのかもしれない。
世界を救いたい。
何かを成し遂げたい。
誰もが知るような、立派な人間になりたい。
でも、そんな言葉は出てこなかった。
誰かと自然に笑い合える人になりたい。
困っている人がいたら、迷わず手を差し伸べられる人になりたい。
そして、誰かのためだけではなく、自分自身の気持ちも大切にできる人になりたい。
本当は、そんな願いもあったのかもしれない。
『……そうですか』
声は、ほんのわずかに柔らかくなったように聞こえた。
『あなたにとって、よい人生となりますように』
その言葉を最後に、声は途切れた。
次の瞬間。
僕の意識は、どこか遠くへ引き寄せられていった。
◇
――あれ?
何かがおかしい。
最初に感じたのは、そんな違和感だった。
身体が重い。
いや、正確には、思うように動かない。
目を開けようとしても、まぶたがうまく持ち上がらなかった。声を出そうとしても、喉から漏れたのは、自分でも驚くほどか細い音だった。
「……あぅ」
誰だ、今の声。
いや、僕の声なのか?
必死に身体を動かそうとする。しかし、手足は思ったように動いてくれない。
まるで、自分の身体ではないみたいだった。
そのとき、すぐそばから声が聞こえた。
「まあ……! 起きたの?」
柔らかな女性の声。
続いて、僕の身体がそっと抱き上げられた。
温かい。
肌に触れる手も、身体を包み込む腕も、驚くほど温かかった。
「よかった……。目を開けてくれたのね」
女性は、泣きそうな声で笑った。
僕はぼんやりと、その顔を見上げる。
淡い金色の髪。
優しげな瞳。
疲れた様子はあるけれど、その表情には深い喜びが浮かんでいた。
そして、僕を抱く腕は、丁寧で優しかった。
まるで、壊れ物を扱うように慎重で。
それでいて、絶対に離さないとでもいうように、温かかった。
「あなたの名前は、ノアよ」
女性は、僕の額にそっと口づけた。
「ノア・エルデン。私たちの、大切な子」
ノア。
それが、今の僕の名前らしい。
エルデンという姓も、初めて聞くものだった。
状況を整理しようとする。
僕は死んだはずだ。
あの不思議な声を聞いて、そのあと――。
そこまで考えて、ようやく一つの可能性に思い至った。
まさか。
いや、そんなことがあるのだろうか。
けれど、思いどおりに動かない身体も、視界に映る女性の顔も、これまでの人生では経験したことのないものだった。
僕は、生まれ変わったのかもしれない。
異世界転生。
物語やゲームでは、何度も見聞きした言葉だ。
しかし、それが自分の身に起きるなんて、考えたこともなかった。
もちろん、まだ何も分からない。
ここが本当に異世界なのかも、どうして生まれ変わったのかも、あの声が何者だったのかも。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
僕には、もう一度生きる機会が与えられたらしい。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
今度こそ。
今度こそ、自分の人生を大切にしたい。
家族とたくさん話そう。
友人ができたら、自分から誘ってみよう。
誰かの役に立てる人になりたいという願いも、忘れずにいよう。
そして、いつか自分が本当にやりたいことを見つけたら、今度は諦めずに挑戦してみよう。
そんなことを考えていると、抱きかかえていた女性が、僕の顔を覗き込んだ。
「ふふっ。どうしたの、ノア?」
優しい声だった。
「そんなに真剣な顔をして」
……真剣な顔?
生まれたばかりの赤ん坊が、そんな顔をするものなのだろうか。
僕は返事をしようとした。
しかし、口から出てきたのは、
「ぁう」
という、頼りない声だけだった。
女性は楽しそうに笑った。
「元気な子ね」
そう言って、もう一度僕を抱きしめた。
僕は、何もできなかった。
言葉を返すことも、感謝を伝えることも、抱きしめ返すことさえも。
それなのに。
女性は、まるで僕がそこにいるだけで十分だとでもいうように、優しく微笑んでいた。
前世の僕は、何かをしていなければ、自分には価値がないような気がしていた。
誰かの役に立たなければ。
期待に応えなければ。
迷惑をかけてはいけない。
そう思い込んでいた。
けれど、この人は。
まだ何もできない僕を、こんなにも大切そうに抱いてくれている。
その温かさが、なぜだか少しだけ、胸に痛かった。
僕は、この人のことを何も知らない。
名前も、性格も、どんな人生を送ってきたのかも。
それでも、この腕の温かさだけは、きっと忘れないと思った。
――今度は、ちゃんと伝えよう。
ありがとう、と。
そして、自分が何を望んでいるのかも。
新しい人生が、どこへ向かうのかは分からない。
この世界がどんな場所なのかも、僕にはまだ何一つ分からなかった。
ただ、僕を抱きしめる腕は温かくて。
目の前の女性は、心から幸せそうに笑っていた。
だから、僕も。
今度こそ、この人生を大切に生きてみようと思った。
――このときの僕は、まだ知らなかった。
この世界に、魔術と呼ばれる不思議な力が存在することも。
その力が、いつか僕の人生を大きく変えることも。
そして、自分が何気なく抱いた好奇心が、やがて世界そのものの運命に関わることになるなんて。
想像すら、していなかった。




