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静かなる悪役令嬢

婚約破棄された静かなる悪役令嬢~世話をしていた王国中の貴族が"借り"を返しに来ました~

掲載日:2026/07/20

2026/07/24

[日間]異世界〔恋愛〕 - 短編

68 位

になりました!


お読み頂きました皆様ありがとうございます。

同じ時間軸のルッジェーロ視点を公開しました!

『賄賂の効かない堅物騎士団長は、極道令嬢の店で菓子を買う』

https://ncode.syosetu.com/n7851mm/


もし読んで面白かったら上記もぜひ読んでみてください。


ブックマークや応援を頂けるとやる気出ますのでぜひよろしくお願いします。




「――堅気になるのは、もう少しだけ、先になりそうですの」

【第一幕】


「エレオノーラ・マラスピーナ! 貴様との婚約を破棄する!」


 建国記念の夜会。三百のシャンデリアの下で、王太子ガレアッツォ・ヴィスコンティの声が高らかに響き渡った。


 楽団が止まる。ダンスが止まる。居並ぶ貴族の視線が、一斉にわたくしへ突き刺さる。


 注目がお好きな方だ。婚約破棄ひとつのために、よりにもよって建国記念の夜会をお選びになるなんて。


 わたくしは扇をたたみ、ゆっくりと息を吐いた。


 ――ずっと、この言葉を待っていました。


「……理由を、お聞かせいただけますか」


 声が震えないように気をつけましたのに、語尾が少し揺れた。歓喜で。


「白々しい!」


 殿下は劇場の主役のように腕を振り上げた。


「貴様がルクレツィアに行った数々の陰湿ないじめ――ドレスを裂き、教本を隠し、あまつさえ階段から突き落とそうとした! 証拠はすべて挙がっているのだ!」


 殿下の腕の中では、男爵令嬢ルクレツィア・バリオーニが震えていた。大きな瞳いっぱいに涙を溜め、庇護欲を最大限に誘う完璧な角度で、わたくしを見上げる。


「ノーラ様……わたし、ノーラ様に嫌われるようなことをしたのなら、謝ります……謝りますから、どうか、もう……っ」


 お見事。彼女が舞台女優でしたら、わたくし、花束を抱えて楽屋まで伺いましたわ。


 社交界でのわたくしの渾名は「静かなる悪役令嬢」。何を囁かれても、決して否定しないから。


 当然ですわ。沈黙は、うちの家業の第一則ですもの。


 ――ここで皆様にだけ、こっそりお教えいたしますね。


 表向きのわたくしは、南方交易を営むマラスピーナ公爵家の一人娘。王都で一番行列のできる菓子店〈ドルチェリア・マラスピーナ〉は、わたくしが十五の歳に、指輪をひとつ売って自分で立ち上げたお店。


 ……公爵令嬢が菓子屋の女主人など、と社交界では散々笑われましたけれど。


 裏に回れば――公正すぎて胴元が泣く賭場と、酒樽の関税を"うっかり"し続ける港と、担保も取らない金貸しと、本当に守る用心棒稼業とで、この王都の夜を三代にわたって回してきた一族。


 要するに、極道ですの。


 家訓は三つ。薬は扱わない。人は売らない。堅気に手を出さない。


 そして目の前で涙を絞っているこの可憐な令嬢の御実家、バリオーニ男爵家は――南部一帯に麻薬〈夢の粉〉を捌き、東の帝国へ"荷"と呼んで人を売る、外道の稼業。


 三年前、あの家は父に「共同で〈夢の粉〉を王都に流さないか」と持ちかけ、断られた。マラスピーナを潰すと決めたのは、その日から。ルクレツィアが"偶然"殿下と出会ったのも、涙も、いじめの筋書きも、ぜんぶバリオーニの商略ですわ。


 狙いは、王家とマラスピーナの縁を切ること。それから――うちの、港。


 もっとも。男爵ごときの家格と財力で、十五年も騎士団の目を逃れ、帝国と渡りをつけられるはずが、ございませんでしょう? バリオーニの後ろには――もっと、大きいのがいる。


 誰の差し金かは、すぐお分かりになりますわ。今夜のうちに、尻尾が見えますから。


「証拠とは、そちらのお手紙のことかしら」


 侍従が恭しく掲げたのは、ルクレツィアを裏庭に呼び出したという、わたくし直筆の手紙だった。


「拝見しても? ……まあ。便箋はうちの特注、透かしまで本物。封蝋の香油も同じ。筆跡も、九十点は差し上げられますわ」


「じ、自白か!」


「いいえ。感心しておりますの」


 この便箋に触れられる人間は、屋敷でも数えるほど。つまり――内側に、鼠がいる。


 ふふ。面白くなってまいりました。


「さらに!」


 殿下は胸を反らした。


「傷ついたルクレツィアへの慰謝として、マラスピーナ家の港湾利権を王家へ返上させる! 管理は、しかるべき代理人に任せる!」


 ――出ましたわ。尻尾。


 その"しかるべき代理人"とやらが誰の息のかかった者か、伺うまでもない。港が欲しいのね。〈夢の粉〉を王都へ流す、玄関口として。――そして、本当にそれを欲しがっているのは、手袋のバリオーニではなく、その持ち主のほう。


 北部一帯を領する、オルシーニ公爵家。うちと王国を二分する、もう一方の雄。表では、夜会で優雅にご挨拶を交わすだけの大貴族。裏では、バリオーニという手袋を嵌めて、うちと長年、暗闘を続けてきた御家。


 賭場に手入れを招く出所不明の"密告"、港の許可状の不可解な差し戻し、うちの船ばかりを狙う手際のよい海賊――証拠の残らない上品な嫌がらせなら、両手の指でも足りませんわ。


 三年前の〈夢の粉〉のお誘いも、大元はあの御方の差し金。乗れば共犯の首輪、断れば潰す口実。どちらに転んでも、あちらの勝ち。……それを承知で突っぱねた、お父様の晴れ晴れとしたお顔を、わたくし、忘れておりませんのよ。


 厄介なことに、証拠はまだ、ひとつもございません。相手が公爵では、動き方を誤れば潰されるのはこちら。堅気への十年計画に、王家の縁という後ろ盾がどうしても要ったのは、そのためでも、ございましたの。


 ……以後、あの御家のことは"北の御方"とお呼びすることにいたしますわ。しょっちゅうお名前を口にするのは、あまり上品ではございませんもの。


「まあ。婚約破棄と、うちの港に、何のご関係が?」


「う、うるさい! 王命である!」


 うちの港湾利権は、お父様が国王陛下ご本人から勅許状で賜ったもの――王さまじきじきのお墨付き、ということ。王太子の一存では小舟一艘動かせないのだけれど、教えて差し上げる義理は、ございませんわね。


「殿下。最後にひとつだけ、確認させてくださいませ」


 わたくしは背筋を伸ばした。


「このご決定は――もう、覆りませんのね?」


「当然だ! 貴様のような女が王妃になど、万に一つもあり得ん!」


「三百人の御前での、正式なご宣言と受け取ってよろしくて?」


「くどいぞ!」


 結構。言質は、いただきました。――三百人の、証人つきで。


 わたくしは、五年の婚約者生活でいちばん美しく、いちばん深く、一礼した。


「――承知いたしました」


 顔を上げたとき、大広間の空気が、ほんのわずかに動いた。


 壁際の老侯爵が、静かに扉へ向かう。続いて伯爵がふたり、三人。子爵が、男爵が、伯爵夫人が――潮が引くように、音もなく、次から次へ。


 気づけば、二十を超える背中が、扉の向こうに消えていた。三百人の広間で、二十余人。この数字が何を意味するか、答え合わせは――今夜のうちに。


 もっとも、席をお立ちになったのは、いちばん気の早い方々――言うなれば、どちらの味方かを隠すおつもりのない"過激派"だけ。


 残った方々を、よくご覧になって? 殿下の高らかな宣言に、拍手はまばら。扇は止まり、杯は静かに卓へ戻され、視線は次々と床へ落ちる。あれは畏れ入っているのではなく――距離を、測っていらっしゃるの。声も上げず、席も立たず、けれど心づもりだけはとうにお済ませの方々が、この広間には、まだ大勢いらっしゃる。


 扉へ向かう人の流れの向こう、柱の陰に――白い制服が、ひとつ。


 監察騎士団の団服。今宵の警備責任者――監察騎士団長、ルッジェーロ・デッラ・スカラ。王国でただひとり、賄賂がまったく通じないことで有名な、あの若き堅物ですわ。


 そのルッジェーロ様が、勝ち誇る殿下でも、すすり泣くルクレツィアでもなく、退室していく貴族たちと、わたくしとを、じっと交互に見ていた。


 同情でも好奇でもない。あれは――観察の目。


 ――ふ、と目が合った。


 団長どのは、逸らさない。代わりに、ほんのわずかだけ顎を引いた。会釈と呼ぶには、短すぎるそれ。


 ……なんですの、いまの。妙に調子が狂いますこと。


 あの方の前では、あまり派手なことはできませんわね。


 ――さて。お帰りになった皆様が今夜、これからどこへ馬車を向けるのか。


 勝ち誇っていらっしゃる殿下だけが、ご存じない。


【第二幕】


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 屋敷に戻ると、玄関ホールで執事長のセヴェリーノ・ロッシが白髪頭を下げた。


「このたびは――お祝いを申し上げるべきですかな」


「ええ。五年勤めました婚約者業、本日をもちまして円満退職いたしましたわ」


「"円満"の定義に議論の余地はございますが」


 セヴェリーノは眉ひとつ動かさず、黒革の分厚い帳面を差し出した。


 マラスピーナ家の裏帳簿――ではない。あちらは別の金庫。これは"貸し"の台帳。この五年、王太子の婚約者としてヴィスコンティ王家の尻を拭き、ついでに王国中の貴族の困りごとを黙って引き受けてきた、恩義の記録。


 うちで言う"貸し"は、お金のことではございませんの。困っている方を、見返りを求めず、黙って助ける。すると相手の胸に"恩"が残る。利子はつかない。督促状も出さない。――けれど、いざという時、どんな金貨よりも確かに働く。お金の貸し借りは両替商のお仕事、恩の貸し借りこそ、貴族の商いですわ。


 ページを繰る。


 ペローニ侯爵家。孫の賭博負債、肩代わり。お金は返していただいたけれど、恩は残ったまま。

 コロンナ伯爵家。夫人の醜聞、新聞社ごと買い上げて揉み消し。

 フォスカリ子爵家。飢饉の年、植え付け用の種麦を無利子でお貸しして、村ごと救済。


 そして、さらにページを繰っていくと。


 王家。王家。王家。――めくってもめくっても、お相手の欄に並ぶのは、同じ家名。ヴィスコンティ王家への"貸し"だけで、ゆうに十ページを超えて――正直、途中で数えるのをやめましたわ。


「殿下の視察先での"武勇伝"の後始末だけで、小さな砦がひとつ建ちますな」


「あの方、ご自分の失敗を一度もご覧になったことがないのよ。ぜんぶ、わたくしが先回りして埋めてきたんですもの」


 ……お父様の、遺言でしたから。


 三年前。先代当主ヴィットリオ・マラスピーナは、死の床でわたくしの手を握って言った。


『ノーラ。お前の代で、家を堅気にしろ。俺は……間に合わなかった』


 王太子妃の座は、そのための十年計画の要だった。王家の縁戚という後ろ盾を得て、事業をひとつずつ表に移す。賭場を畳み、港を正規に戻し、金貸しは銀行に。


 〈ドルチェリア〉は、その一号店ですの。まっとうな商いでも一族が食べていけると、まず身内に見せつける必要がございましたから。……うちの者たち、揃いも揃って「堅気の商売は儲からない」と固く信じておりますのよ。三年で王都一の行列ができた今でも、叔父たちは「何かからくりがあるに違いない」と首を捻っておりますわ。


 ――ですのに。


「檻を開けたのは、あちらですわ」


 わたくしは台帳を閉じた。


「セヴェリーノ。特注便箋の保管庫に触れられるのは?」


「お嬢様、大奥様、わたくし。それと――賭場をお預かりの、フェデリーコ様にございます」


「……あら」


 従兄の顔が浮かんで、消えた。まだ決めつけません。決めつけないだけで、お調べはいたしますけれど。


「洗っておいて。それから今夜は、カンノーロを多めに焼かせてちょうだい。――来客が、多くってよ」


 カンノーロ。さっくり揚げた筒状の皮に、甘いチーズクリームをたっぷり詰めた、うちの店いちばんの看板菓子。これを持たせてお帰しすると、たいていのお話し合いは、円満にまとまりますのよ。


 ――その夜最初の呼び鈴は、言い終わらぬうちに鳴った。


 扉の外には、夜会で最初に退室した老侯爵――ペローニ侯が、雨に濡れた肩のまま立っていた。


「マラスピーナのお嬢さん――いや、エレオノーラ嬢。儂は今夜のことを、生涯忘れんことに決めた」


 老侯爵は杖を突いて一歩踏み込み、書類の束をテーブルに置いた。


「王家に卸しとる小麦、明日から全部止める。口実は不作じゃ。それとこれは、孫の借りの利子代わり――ヴィスコンティの若造の借用書。方々から、集めておいた」


「まあ。利子は頂いておりませんのに」


「恩義に利子がつかんで、なんの貴族か」


 侯爵がお帰りになると、入れ替わりにコロンナ伯爵。その次はフォスカリ子爵夫人。玄関の呼び鈴は、夜半を過ぎても鳴りやまず――皆様、申し合わせたように同じことをおっしゃる。


 ――何か、お返しできることは。


 ふふ。取り立てに参る必要なんて、ございませんの。


 皆様、勝手に返しにいらっしゃるんですもの。


【第三幕】


 ここでひとつ、この国の常識のお話を。


 この王国、治癒魔法がたいへんに発達しておりますの。骨の二、三本、内臓のひとつやふたつ、聖堂の治癒士が半刻で繋いでくれます。おかげで貴族の決闘は観戦チケットが売られる興行ですし、騎士団の演習は毎回、本気の殴り合い。


 それからうちには、元・王立歌劇場の舞台魔導師、ジャコモがおります。専門は幻影術と、衝撃緩和術式と――"演出"。


 よく治る国と、腕のいい演出家。このふたつが揃うと、何ができるのか。


 三日後の晩餐で、ご覧に入れますわ。


 ◇


 そして、三日後の晩餐の夜。マラスピーナ邸の大食堂には、一族と幹部が勢揃いしていた。母、叔父たち、賭場と港と店の支配人。純白のクロスに銀器、蝋燭、子羊のロースト。


 月に一度の、この晩餐。席に着けるのは、血縁かどうかに関わりなく、家業を預かる者だけ。それ以外の身内――妻子や、年少の従姉妹たちは、同席させない決まりですの。……今夜のような"演目"が、ときどきございますから。ちなみに母は、奥向きの金庫を一手に預かる、れっきとした幹部ですのよ。


 末席では、従兄のフェデリーコが、上機嫌で三杯目のワインを干していた。


「いやあ、それにしてもノーラも災難だったねえ! 王太子があんな男だったとは。僕はね、前々から怪しいと思ってたんだ」


 ……よくも、言えたものですわね。


 調べは、三日で、ついておりました。


 わたくしは席を立ち、給仕から"それ"を受け取った。


 樫の――バット。


「皆様。家族とは何か、ときどき考えますの」


 こつ、こつ、と靴音を鳴らして、長いテーブルを回る。


「ひとりひとりの才が、どれほど輝いていても――それだけでは、商いは回りません。大切なのは信頼。忠義。そして――」


 フェデリーコの背後で、止まる。


「ん? なあにノーラ、余興か何か――」


「――連携、ですわ」


 振り抜いた。


 ごづん、と鈍い音。飛び散る赤。母の悲鳴。突っ伏す従兄。純白のクロスに、みるみる広がる赤い染み。


 凍りついた食堂で、わたくしはバットを肩に担ぎ、にっこりと微笑んだ。


「便箋の売値、いかほどでしたの?」


 沈黙。長い、長い沈黙。


 やがて、突っ伏していた従兄が、跳ねるように起き上がった。


「痛っっったぁ~~!? な、なに!? なんで!?」


 頭を押さえた自分の手のひらを見て、ひっ、と喉が鳴る。――真っ赤。


「ち、血!? 僕の!? こんなに!? あ、頭って死ぬやつ……や、まだ死にたくない、誰か、治癒士……ッ」


「お騒ぎにならないで。よく、ご覧になって?」


 従兄は震えながら、赤く濡れた指先を――恐る恐る、舐めた。


「……………………甘酸っぱい」


「あら、演出って大切じゃないの」


 わたくしはバットを執事長のセヴェリーノに預け、ナプキンで指先を拭った。


「本物と思っていただけなければ、ご列席の皆様への教育になりませんでしょう。――ジャコモ、血糊の色が二割ほど明るすぎてよ。完熟のトマトをお使いなさいと申し上げたはず」


「衝撃緩和術式は完璧でございました」


 壁際の燕尾服が、舞台俳優のように一礼した。


「なお、痛覚は八割ほど残す設定にしてございます。教育ですので」


「酷いな!? ……いやそれより、なんで僕が殴られるのさ!?」


「賭場の上がり、三年で金貨六百枚」


 セヴェリーノが、帳簿の写しを従兄の皿の横に、音もなく置いた。


「加えて。あなた様は先月、お嬢様の特注便箋をひと束と、封蝋の香油を小瓶ひとつ、バリオーニ家の番頭に売り渡しておいでです。お代は、金貨二十枚。――先方の署名入りの、受け取りの控えがこちらに」


 紙が、もう一枚、皿の横に重ねられた。


「……ふふ。金貨二十枚」


 扇を、ぱちりと閉じる。


「公爵令嬢の筆跡込みで、そのお値段。わたくしも、ずいぶん安く見られたものね。――さて、その便箋が何に化けたか、教えて差し上げましょう。夜会で"動かぬ証拠"として掲げられた、わたくしがルクレツィアを呼び出したという偽の手紙。あれは、あなたが売った紙に、あなたが売った蝋で封をして、作られましたのよ」


「…………」


「フェデリーコ」わたくしは首を傾げた。「何か、おっしゃりたいことは?」


 従兄はトマトまみれの顔で、一族を見回した。わたくしの母を見て、居並ぶ叔父たちを見て――その中のひとり、実の父君の前でだけ、目を伏せた。最後に、わたくしを見て。それから、がっくりと肩を落とした。


「……抜いてた分を、バラすって脅されて。……ごめん。ごめんなさい……」


 椅子が、静かに引かれた。


 末の叔父様――フェデリーコの、父君。立ち上がり、うなだれる息子を一瞥もせず、わたくしに向かって深々と頭を下げられた。


「当主の裁きに、分家として異はない。……倅が、申し訳ないことをした」


「お顔を上げてくださいな、叔父様」


 わたくしは、ゆっくり首を振った。


「わたくしが裁くのは裏切りだけ。育て方まで裁く気は、ございませんの。――それに、死にはしませんわ。うちの家ですもの」


 叔父様の肩から、ほんの少しだけ、力が抜けた。


「ノーラ」


 凍りついていたはずの母が、扇で口元を隠したまま、静かにおっしゃった。


「そのクロス、おろしたてなのだけれど」


「トマトは水で落ちますわ、お母様」


「あら、そう。ならいいの」


 テーブルの向こうでは、残りの叔父たちが懐から金貨を出し合っている。本物か演出か、賭けていたらしい。胴元は港の支配人。


 ……うちの一族、だいたい、こうです。


「フェデリーコ」


 わたくしは扇の先で、従兄の顎を持ち上げた。トマトの汁が、ぽたりと落ちる。


「うちは、殺しをしない家。お祖父様の代からずっと。……でもね。死なないことと、無事でいられることは、別ですのよ」


 処分は決めてあった。誓約魔法で家業に関する一切の沈黙を縛り――南部の、うちのトマト農園で、住み込み三年。


「来年からは、あなたの搾ったトマトが、この"演出"に使われますの。素敵な循環でしょう?」


「うう……せめて出荷先は、歌劇場がいい……」


 なお、南部行きの荷馬車には、末の叔父様がご自分で付き添われるそうですわ。親子水入らず、道中お話しになることも、いろいろおありでしょう。


 こうして我が家の裏切り者問題は、死人ゼロ、負傷者ゼロ(打撲一名)、クリーニング代のみで解決いたしました。


 さて。


 鼠の駆除が済みましたら、次は――巣の、お掃除ですわね。


【第四幕】


 十日後。わたくしは郊外の修道院で、慈善バザーのお手伝いをしておりました。


 シスターたちと焼き菓子を並べ、子どもたちに飴を配り、木陰で紅茶をいただく。よく晴れた、静かな午後。


 ――同じ頃。


 王都の監察騎士団本部に、差出人のない小包が届いた。中身は、バリオーニ男爵家の裏帳簿の写し。〈夢の粉〉の仕入れ値から、帝国へ売った"荷"の頭数まで、几帳面な文字でびっしりと。添えられたカードには、一言。『善意の市民より』。


「良い茶葉ですこと」


 ――同じ頃。


 王都両替商組合が、バリオーニ家の手形の割引を一斉に停止した。商いの言葉で言えば――『あの家の借金の証文は、もう誰も金に換えない』という宣告ですわ。組合長は昨年、娘の醜聞をわたくしに揉み消してもらった借りがある。


 港湾組合は、バリオーニの船の積み荷の上げ下ろしを、「深刻な人手不足」を理由に無期延期した。組合長の一人息子を波止場の喧嘩から救い出したのは、うちの用心棒。五年前のこと。


 王都の判事が三人、ある事件の審理をやり直すと決定した。事件――そう、例のでっち上げですわ。夜会で殿下が読み上げた、「わたくしがルクレツィアを階段から突き落とそうとした」という、あの罪状のこと。お三方とも、うちの融資台帳のお得意様。利子は頂いておりません。恩義で、十分ですもの。


「スコーンを、もうひとつどうかしら」


 ――同じ頃。


 証人として名乗り出ていた令嬢たちが、次々と証言を"思い出し直した"。……あの日あの階段に、ノーラ様はいらっしゃいませんでしたわ。ええ、よく考えたら。よぉく、考えたら。


 誓って、脅してなどおりませんのよ? ただ――あの子たちのお家が一軒残らず、うちの"貸し"の台帳の、どこかのページに載っていた。それだけのこと。夜会の翌日、それぞれのご当主が娘を呼んで"家族会議"をなさったそうですわ。……記憶というものは、家族の愛情で正しくなるものですのねえ。


 ――同じ頃。


 南部にある〈夢の粉〉の隠し倉庫が、三箇所同時に、騎士団の手入れを受けた。場所を報せたのは、ほかならぬ倉庫番たち本人である。三人が三人とも、病の家族をうちの無利子の融資に救われた過去があった。


 恩義というものは、錠前より、ずっと固うございますのよ。


 ――同じ頃。


 バリオーニ家の番頭は、自宅の寝室で目を覚まし、絶叫した。枕元で栗毛の仔馬が、もしゃもしゃと羽根枕を食べていたからである。


 古い流儀では、こういうとき枕元に置くのは、馬の"首"と決まっております。意味はひとつ。――『お前の寝首など、いつでも掻ける』。


 うちは殺しをいたしませんので、首ではなく、丸ごと一頭、生きたままお届けした次第。それでも、伝わるものは同じですわ。錠前も、見張りも、番犬も越えて、うちはあなたの枕元まで届く。……次に届くものが何になるかは、あなたの誠意次第、と。


 飼い葉代は、請求書に含めてある。番頭はその日のうちに、洗いざらい騎士団に自供したそうだ。


 残党の幹部には、新聞紙に包んだ生魚をお届けした。こちらも、古い流儀の警告。意味は――『次は、あなたが海の底で眠る番』。……のはずが、翌日「結構なお品を頂戴し」と礼状が届いた。高級な手土産と思われたらしい。次からは、説明書きを添えましょう。


「平和な午後ですこと」


 わたくしは三杯目の紅茶に、ゆっくりと口をつけた。


 ◇


 そして七日後。


 バリオーニ男爵ジャンパオロは、朝食のテーブルで監察騎士団に捕縛された。指揮を執ったのは、団長ルッジェーロ・デッラ・スカラその人だったと聞いておりますわ。


 罪状は――脱税。


 〈夢の粉〉も人身売買も、証人が生きて法廷に立つのが難しい商売。けれど、帳簿は嘘をつきませんの。十五年分の申告漏れ、王領地の賃借料の踏み倒し、莫大な追徴課税。外道の大罪ではなく、紙の上の数字で、あの男は牢に落ちた。


 ちなみに、押収帳簿の解読を"善意で"お手伝いした在野のお方は、王国一の帳簿の達人だったとか。その週、うちの執事長セヴェリーノが三日ほど休暇を取っていたことと関係があるかは、存じ上げませんわ。


 ……もうひとつ、ちなみに。


 騎士団へお届けした写しから、金の"上がり先"を記した数枚だけは、抜いてございますの。


 男爵を落とすのと、公爵を落とすのとでは、要る仕込みがまるで違いますから。慌てて撃って外せば、次に撃たれるのはこちら。――あの数枚は、うちの金庫で、良い頃合いまで熟成中ですわ。


 ルクレツィアは偽証の咎で、北の修道院へ。


 ……北、ですのよ。よりにもよって。


 聞けば、送り先の決定には、オルシーニ公爵家の"温情あるお口添え"があったのだとか。使い捨てたはずの手袋の、その指先だけを、わざわざご自分の膝元へ引き寄せる。手厚く匿うおつもりか――それとも、余計なことを歌い出す前に、黙らせるおつもりか。


 あの御家のなさりようですと、どちらも、じゅうぶんにあり得ますわねえ。


 あの見事な涙を、聖歌隊で活かせる日が来るとよろしいのだけれど。……歌えると、いいわね。


 そして、ガレアッツォ殿下は――


 誰が何をするまでもなく、勝手に、沈んでいかれた。


 わたくしという防波堤が消えた王宮では、殿下の"武勇伝"が初めて生のまま議会に届くようになった。視察先での放言。溜まりに溜まった決裁の山。投げ出された公務。極めつけに、バリオーニからの"献金"の記録が例の帳簿から見つかって――廃嫡が、決まった。


 誓って申し上げますけれど、わたくし、殿下には何もしておりませんの。


 ……止めることは、できましたけれど。


 止めなかった。それだけ、ですわ。


【第五幕】


 廃嫡の報の翌朝、王宮から使者がいらした。第二王子殿下の後見、宰相閣下おんみずから。


 応接間の宰相閣下は、額の汗を三度お拭いになってから、切り出された。


「エレオノーラ・マラスピーナ公爵令嬢。単刀直入に申し上げる。――王家に、戻ってはいただけまいか。第二王子殿下の妃として、あらためて」


 なるほど。ヴィスコンティ王家は、防波堤の価値を、失ってから正しくお知りになったらしい。


「まあ。身に余るお話ですこと」


 わたくしは微笑み、執事長セヴェリーノに目配せした。焼きたてのカンノーロが、リボンのかかった箱に詰められて、閣下の膝元に置かれる。


「けれど――お断り申し上げますわ」


「……り、理由を、伺っても」


「わたくし、王家に含むところは何ひとつございませんのよ。此度のことも、私怨ではございませんわ。――あくまで、商いですの」


 商いの基本は、信用。三百人の御前で契約を反故になさった取引先と、再契約はいたしません。ただ、それだけのこと。


「カンノーロはどうぞお持ちくださいな。王都一ですのよ。――それから閣下。一昨年、ご子息が歌劇場の歌姫と起こしかけた駆け落ち騒ぎ。あれも、うちはもう忘れておりますから、どうかお気になさらず」


 宰相閣下は一瞬固まり、それから箱を大切そうに抱え、深々と、深々と一礼してお帰りになった。


 あの一礼は王家のものではなく、閣下おひとりのもの。


 ええ、それでよろしいの。"貸し"は、そうやって静かに、王国中に根を張っていくものですから。


 ――なお。


 その日の夕刻、元王太子殿下ご本人が我が家の門前にいらして、「エレオノーラ! 話を聞け! 私は騙されていたのだ!」と一刻ばかりお叫びになったそうですわ。


 門番は規定どおり、丁重にカンノーロの箱をお持たせして、お引き取りいただいた。


「うちのお嬢様は、一度切れたお取引は再開なさらない主義でございますので」


 ……教育の行き届いた門番で、誇らしい限りですわ。


【第六幕】


 夕暮れの〈ドルチェリア・マラスピーナ〉は、今日も行列だった。


 わたくしはこの頃、二日と空けずに店へ通っております。理由は――厨房の奥に。


 粉だらけの子どもたちが、カンノーロの皮を巻いている。バリオーニに"荷"にされ、帝国へ売られる寸前だった子たちだ。身の振り先が決まるまで、うちでお預かりしている。もちろん、お給金つきで。皮の巻き方は、わたくしが手ずから教えましたの。十五で店を開いた頃から、仕込みの腕なら、今でも職人に負けませんのよ。


 あの子たちの巻く皮は少し不格好で、なぜだか、いちばんよく売れる。


「――相変わらず、繁盛していますね」


 店先に、白い制服が立っていた。


 監察騎士団長、ルッジェーロ・デッラ・スカラ。バリオーニを挙げた張本人にして、王国でただひとり、賄賂がまったく通じないことで有名な堅物。


 そして、あの夜会でただひとり――崩れゆく王太子ではなく、去っていくわたくしだけを見ていた方。


「あら、団長様。摘発ですの? それとも、カンノーロ?」


「礼を言いに来ました。……『善意の市民』に、心当たりがあるもので」


「まあ、どなたかしら。ぜひご一緒に、お礼を申し上げたいわ」


「――では、その方に伝言を。届いた写しには、金の流れの"上"が、ごっそり欠けていました」


「あら。写し損じかしら」


「……いずれ続きが届くことを、期待しています」


 団長様は笑わなかった。代わりに一歩近づいて、行列に聞こえないよう、声を落とされた。


「エレオノーラ・マラスピーナ公爵令嬢。賭場。港の関税。無認可の金融。――あなたの家の"商い"を、私は忘れてはいません。いつか必ず罪状を揃えて、あなたを捕まえます」


 西日が、その生真面目な横顔を照らしていた。


 ああ。この方は、本物だ。買えない。折れない。脅しても、たぶん眉ひとつ動かさない。


 この王国で――いちばん、希少な殿方。


 わたくしは、焼きたてで、とびきり形の良いカンノーロをひとつ、その手に押しつけた。


 ルッジェーロ様は少し眉を寄せ――それから懐を探り、銅貨をきっちり定価ぶん、わたくしの手のひらに載せた。


「……賄賂は、受け取らない主義です」


「あら。お硬いこと」


 お分かりになって? この方には、"貸し"が作れませんの。恩を着せた端から、その場で返してくる。わたくしの商いが、唯一通じない殿方。――ですから、危険で。……ですから、少しだけ、面白い。


「楽しみにしておりますわ、ルッジェーロ様。ふふ。それまでに全部、堅気にしてしまうかもしれなくってよ?」


「……逃げ切るおつもりですか」


「お父様の遺言ですもの。ただ――」


 行列の向こう、茜色に染まる王都の屋根の連なりを眺めて、わたくしは扇を開いた。


 まだ、この王国中に、返していただく"借り"が残っている。


 それに――バリオーニという手袋を使い捨てになさった、北の御方。あの方には此度、とびきり大きな"貸し"が、ひとつできましたもの。なにせ、あの方の首がいまも繋がっているのは、わたくしが例の数枚を、金庫で眠らせて差し上げているから。――言うなれば、御命を、お貸ししているようなものでしょう?


 取り立てには参りませんわ。だって皆様――勝手に、返しにいらっしゃるんですもの。


「――堅気になるのは、もう少しだけ、先になりそうですの」





    * * *





 ――少しだけ、先のお話を。


 あの堅物は後年、宣言どおりに、わたくしを捕まえました。……嵌めたのが、手錠ではなく、指輪だっただけで。


 罪ならわたくしが本職ですのに。人の心を盗んでおいて涼しい顔の、あの男のほうが――よほど、罪深いでしょう?


 でも、そうなるまでには、さまざまなことがございましたのよ。


 ですから――


「――幸せになるのは、もう少しだけ、先になりそうですの」


(了)

スピンオフ公開しました!

『賄賂の効かない堅物騎士団長は、極道令嬢の店で菓子を買う』

https://ncode.syosetu.com/n7851mm/

【幕引きのご挨拶】


 ――あら。まだ、いらしたの。


 最後までお付き合いくださいまして、ありがとう存じます。


 ご覧のとおり、わたくしの帳簿には、まだ白紙のページが山ほど残っておりますの。北の御方への、とびきり大きな"取り立て"。北の空の下で、歌えるか歌えないか分からないあの子のゆくえ。それから――あの堅物のルッジェーロ様が、いったいどんな顔で、わたくしの指に指輪を嵌める羽目になったのか。その一部始終。


 ――この続き、ご覧になりたくて?


 この物語をここで幕にするか、長い長い抗争録として続けるか。決めるのは、わたくしではございませんのよ。


 もし続きをお望みでしたら、ブックマークと評価とご感想を、わたくしへの"貸し"として置いていらしてくださいな。貸し借りをきっちり清算するのが、マラスピーナの流儀。恩義には利子をつけてお返しするのが、貴族というものですもの――続き、という形で。


 それでは皆様、ごきげんよう。――"静かなる悪役令嬢"エレオノーラ・マラスピーナが、お相手いたしました。


 ……ああ。お帰りの際は、カンノーロをお忘れなく。

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― 新着の感想 ―
起きたら馬の首が枕元に!ってだけでも十二分に恐ろしいのに、 生きた馬がお届けされるのは恐ろし過ぎる。 「殺す以外にも何でもできるぞ」宣言でしかない…… 俺がこの世界の貴族だったらもう恩義関係なくマラス…
あのお嬢様が、堅物殿の指輪で「捕らえられる」ことを許した心境の変化も気になりますが、ここはやはり、北の御方への貸しをきっちり取り立てる「クライマックス」を、優先して知りたく思います。
変な感想だろうけど、数々の婚約破棄ものを読んだ身としては、お嬢様の信条に触れた上でスマートに悪あがきする元婚約者を追い返せる門番に感心しました。 廃嫡されてても元の身分を気にして通しちゃうか主人の意…
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