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「お前の花選びなど侍女の遊び」——王宮花師が去って三月、隣国の使者は誰一人として笑わなくなった件

作者: 歩人
掲載日:2026/06/01

 婚約破棄を告げられた翌朝、ヴェルダンセ侯爵邸の応接の間に、隣国の使節長カイル・フォン・ハルブシュタインが訪れた。


 リーリヤは、祖母の形見のラベンダーの鉢を、南向きの窓辺に置き直したばかりだった。

 鉢の縁に指を添えると、土がほんの少し乾いていた。

 昨夜の宴の長卓に立てた、白の薔薇の一本——その指の感触が、まだ右の親指の腹に残っていた。


 「使節長さま、応接の間にお通ししました」


 侍女の声が扉の向こうから低く伝わった。

 リーリヤは小刀を作業卓の引き出しに戻し、袖口を一度引いた。

 袖の縁が、指先の花茎の汁の跡を、薄く覆った。


 応接の間に入ると、長机の上に、革表紙の冊子が五冊、並んでいた。

 一冊ごとに、厚みが指二本分ある。

 表紙には、細い銀の押し文字で、年の刻みが入っていた。

 ——五年前の春から、昨年の冬まで。


 長机の向こうに、男が立っていた。

 背はやや高く、肩は薄め。

 くすんだ亜麻色の髪を額の上で軽く流し、こめかみに細い銀の眼鏡の弦が一本走っていた。

 目はくすんだ青で、まなざしは温和、語尾を急がない人の立ち姿だった。


 「お初にお目にかかります、ヴェルダンセ嬢」


 カイルの声は中庸より低く、息継ぎが穏やかだった。

 リーリヤは、長机の手前で足を止めた。

 絹のドレスの裾が、自分の踝の前で静かに落ち着くのを、彼女は耳で確かめた。


 「フィオーラ王国の文化使節団、長を務めております、カイル・フォン・ハルブシュタインと申します」


 カイルは、軽く礼をした。

 礼の角度が、王宮の宴で見たことのある、隣国流の深さだった。

 リーリヤも、宮廷礼をひとつ返した。


 「ヴェルダンセ侯爵家の長女、リーリヤ・ヴェルダンセでございます」


 言いながら、視線が、長机の上の革表紙の冊子に落ちた。

 一冊の表紙の角に、ささやかな朱の小印が押されていた。

 五弁の花を中央に置き、葉脈を三本筋で象った、見覚えのある形——。


 リーリヤの瞼が、わずかに下がった。

 その朱の小印を、彼女は、祖母レナータの手帳の見返しで、何度も見ていた。


 「使節長さま、その冊子は——」


 リーリヤの声が、平素より一拍、遅れた。

 カイルが、長机の脇に半歩寄り、一冊目を、ゆっくりと開いた。

 開いた頁には、一卓の花の写生が、淡い鉛筆と水彩で描かれていた。

 卓の中央に、薔薇が九本。

 桃が六、赤が二、白が一。

 ジャスミンが、中央に三輪、等間隔。

 左後方に、ラベンダーの中位の束——。


 リーリヤの右手が、長机の縁を、無意識のうちに握っていた。

 それは、四年前の春の宴で、彼女が編んだ長卓中央の花だった。

 彼女自身の手以外、誰の目にも、ただの「飾り」として通り過ぎていたはずの花だった。


 カイルは、頁の余白に書き込まれた細かな文字を、指先で軽く撫でた。

 「これは、四年前の春の宴。長卓中央。薔薇九本、桃六、赤二、白一。ジャスミン中央三輪、等間隔。ラベンダー左後方、中位の束です。意味は、『友好の更新』」


 リーリヤは、息を止めた。

 長机の縁を握る指の力が、自分の意志を離れて強くなる。


 「五年」


 と、カイルは言った。


 「五年、私はあなたの花の言葉を、毎回、受け取っていました」




 ——時を、七日遡る。


 ヴェルダンセ侯爵邸の一階の北側、ガラスの天井から朝の光が落ちる花室で、リーリヤは長卓中央の薔薇の本数を数えていた。

 春の宴の卓に立てる花は、九本。

 祖母レナータの手帳の余白に、二十六年前の祖母の手で記された「春の友好は奇数の九」を、彼女は六歳の冬から守っていた。


 作業卓の上には、樫の長尺の物差しが一本、絹紐の束が三色、花茎用の小刀が一振り。

 壁際の水盤に、その朝に庭から摘んだ薔薇が、色別に三盤、浮かんでいた。

 赤、桃、白——リーリヤは小刀を取り、最初の一本の茎を、斜めに切り戻した。

 切り口の角度は、四十五度。

 祖母が「水を吸う口は、四十五度に開く」と教えた、六歳の春の手習いのままだった。


 「九本」


 リーリヤは、声に出さずに、口の中で数えた。

 赤を二本、桃を六本——いや、桃が六、赤が二、白が一だった。

 白の一本は、祖母レナータが亡くなった年の春から、リーリヤが必ず一本だけ卓に立てる、「祖母から孫への手向け」だった。

 意味を、誰にも告げたことはない。

 告げたところで、聞き返してくる相手も、五年のうちに一人もいなかった。


 薔薇を束ね終えると、リーリヤは、二盤目のジャスミンに手を伸ばした。

 ジャスミンは、卓の中央に三輪、等間隔で並べる。

 祖母の手帳の頁には、ジャスミンの位置を示す絵が、十一枚、丁寧に描かれていた。

 中央三輪は「最大の歓迎」、左右に振り分ければ「平等の歓迎」、卓の端に置けば「慎ましやかな歓迎」、欠席させれば「拒絶」。

 リーリヤは、長尺の物差しを当てて、三輪の間隔を、卓の縁から三寸、互いの間隔を二寸に統制した。

 指の腹で、それぞれの花の正面が、東を向いているかを確かめる。

 フィオーラ王国の使節団の席は、長卓の正面、東向き——花の正面と、客の正面が、一致する。


 「『最大の歓迎』、『春の友好の更新』」


 リーリヤは、卓の正面に立ち、卓の中央を、自分の指で読んだ。

 薔薇の本数、ジャスミンの位置——二要素までは、卓の中央で完結する。

 残るは、ラベンダー。


 三盤目の水盤から、ラベンダーの束を引き上げる。

 細い茎を、麻紐で束ね直す。

 束の太さが、宴の親密度を決める。

 細い一束は「遠慮」、中位は「礼節」、太い束は「安堵と信頼」——リーリヤは、親指と中指で囲める程度の太さに、麻紐の輪をかけた。

 春の宴では、隣国との関係は「礼節」が適切だった。

 信頼を主張する太い束は、まだ早い。


 ラベンダーは、長卓の左後方に置く。

 扉の開閉のたびに、香りが客席へ流れる位置——リーリヤは、扉から長卓までの空気の流れを、六歳の春から、踝の高さで読み続けてきた。

 束を置いて、半歩下がる。

 香りが、卓の正面に立った瞬間に、ふわりと届くことを、彼女の鼻先が確かめた。


 スミレの脇飾は、長卓の縁の左右に、四列。

 一列に六輪、間隔は指三本分——祖母の手帳の頁に「指三本」とだけ書かれた一行の通りに、リーリヤは、長尺の物差しを使わずに、自分の右手の人差し指と中指と薬指で、間隔を測った。

 指の節は、六歳の手習いから、寸法の代わりだった。

 一列の最初の一輪を置けば、残りの五輪は、指三本分の間隔で、迷わず並んだ。

 「敬意の継続」——祖母が、ジャスミンに「最大の歓迎」を編むときは、必ずスミレに「敬意の継続」を添えるよう、手帳に念押ししていた。

 歓迎の最上位は、敬意の継続を伴って、初めて成立する——というのが、レナータ流の構造だった。


 編み終えた卓を、リーリヤは、正面から、もう一度、自分の指で読み返した。

 卓の縁から、中央の薔薇の束まで、指の腹を浮かせて、ゆっくりと滑らせた。

 凹凸の段差が、卓の縁から段階的に、五寸、一尺、一尺五寸、と上がっていく。

 祖母の手帳の規則の通りに、段差は0.5寸刻みで、五段階に統制されていた。

 指の腹で読めば、卓の中央が「立っている」のが、わかる。

 目で見れば、ただ華やかに整っているだけだ。

 十九歳の春から五年、リーリヤは、その両方を成立させる卓を、一夜も休まずに編み続けてきた。


 ——七日後の夜の宴は、ここまで編み上げて、王宮の長卓に届けられた。




 婚約破棄の宴は、大広間の長卓の中央に、リーリヤの花が立った夜だった。

 王太子レーヴェが高座に座り、王妃ベアトリーチェが、その右隣に深紅の盛装で並んでいた。

 長卓には、ベルクハイム王国の高官と、フィオーラ王国の使節団の正面席が、東西に向かい合っていた。


 リーリヤは、長卓の手前の脇席に控えていた。

 宮廷花師の控えの位置——王妃の合図で花飾の解説を入れる、二十年来の慣わしだった。

 ただし、王妃ベアトリーチェは、五年のうち一度も、その合図を出したことはなかった。


 王妃は、扇を一度開いた。

 扇の縁が、長卓中央の薔薇の束に、軽く触れた。

 白の一本が、わずかに揺れた。


 「お前の花選びなど、侍女の遊び」


 王妃の声は、大広間の天井に、明瞭に届く高さだった。

 長卓のフィオーラ使節団の長——カイルの肩が、一瞬、固まったのを、リーリヤは、長卓の手前から見た。

 カイルは、扇の動きと、白の一本の揺れを、視線で追っていた。


 「誰でもできる仕事です。今夜の宴を最後に、宮廷花師の任を解きましょう」


 王妃の言葉が、回廊まで届くように響いた。

 王太子レーヴェは、王妃の隣で、薄く笑った。


 リーリヤは、控えの位置から、長卓の正面へ歩み出た。

 歩く先に、五年分の花譜が、革表紙に綴じられて、王妃の手元に置かれていた——表紙の文字を確かめずに、リーリヤは、自分が編んだその冊子を、王妃の手前に静かに残した。


 「では、これにて」


 宮廷礼を一つだけ、ゆっくりと深く返した。

 立ち上がるとき、長卓中央のラベンダーの香りが、踝の高さで、最後に一度だけ、彼女の足元を撫でた。


 回廊の長い足音。

 扉の閉まる重い音。

 馬車に乗るとき、御者が、後ろを振り返って、何か言いかけて、口を閉じた。

 リーリヤは、膝の上で両手を組み、車輪の音だけを聞いていた。


 邸に戻ったのは、夜が明ける一刻前だった。

 そして、その日の朝——長机の上に、革表紙の冊子が、五冊、並んだ。




 ——応接の間。


 カイルが、一冊目を脇に避け、二冊目を、長机の中央に開いた。

 頁には、二年前の秋の宴の脇飾が、四枚の写生で並んでいた。

 短卓の正面、左右、奥、手前——リーリヤの編んだスミレの列が、それぞれ、紙の上に正確に複写されていた。


 「これは、二年前の秋の宴の短卓の脇飾」


 カイルの指先が、頁の余白の文字を、一行ずつなぞった。

 「スミレが、脇に四列、一列六輪、間隔は指三本分。——意味は、『敬意の継続』」


 リーリヤの右手の親指が、ドレスの裾の縁を握っていた。

 スミレの間隔——指三本分——を、彼女は、祖母レナータの手帳の頁に、ただ「指三本」とだけ書かれた一行に従って、五年間、誰にも告げずに守ってきた。


 「使節長さま」


 リーリヤは、声を、ようやく出した。

 一拍、長く息を継いだ。


 「わたくしは、その意味を、存じませんでした」


 カイルは、頁から顔を上げた。

 眼鏡の弦が、朝の光を、細く一度反射した。


 「存じ上げております」


 彼の声が、長机の上で、静かに揃った。


 「あなたが、意味を語った文書を、私は一通も拝見していません。あなたは、宴ごとに、ただ卓に花を置いてお帰りでした。——それでも、卓の中央に立った瞬間、私の指は、花から言葉を受け取っていました」


 リーリヤの瞼が、わずかに濡れた。

 五年で、誰一人として、彼女に「意味を尋ねた」者はいなかった。

 意味を尋ねないまま、誰かが、毎回受け取っていた——その想像を、彼女は、五年間、一度も抱かなかった。

 抱かないように、彼女は、自分の手を、ただ祖母の手帳の頁に預けてきた。


 「使節長さまは——」


 リーリヤは、もう一度、息を整えた。


 「どこで、この花譜の読み方を、お習いになったのですか」


 カイルは、長机の左の端にあった、もう一冊の小さな手帳を、ゆっくりと開いた。

 革表紙の角が、十数年の使用で柔らかく擦れていた。

 頁を開くと、母の手で記された、隣国フィオーラ王国の伝統花譜の写しが、淡い水彩で並んでいた。


 「私の母、エルザの遺品です」


 カイルの声が、ほんの少し低くなった。


 「母方の祖母が、フィオーラ王国の宮廷花師の系譜に属しておりました。母エルザは、その家伝の花譜を継ぎ、私に残しました」


 リーリヤは、ほとんど無意識のうちに、長机の上の自分の手を、母の手帳の上に重ねた。

 指の腹が、頁の水彩の凹凸を、わずかに撫でた。

 五弁の花、葉脈の三本筋、縁取りの粒目——祖母レナータの手帳の見返しに押されていた朱の小印と、同じ意匠の絵が、母エルザの手帳の最初の頁に描かれていた。


 「祖母も、フィオーラ王国の出でございました」


 リーリヤは、自分の声が、平素より低く、揺れずに出たことに、驚いた。


 「家伝の花譜を、わたくしに、一冊残しました。意味を、教えないままに」


 カイルが、長机の脇に、半歩、リーリヤの方へ寄った。

 眼鏡越しの青い目が、ようやく、リーリヤの顔の正面に来た。


 「二十六年前、フィオーラから一人の花師が、ベルクハイムへ嫁ぎました。あなたの祖母レナータです。私の母方の祖母も、かつてフィオーラの宮廷花師の系譜に連なっていました。母エルザは、フィオーラに残って、その家伝の手帳を、私に託しました。私と、あなたが、二十六年の沈黙を、いま、一つの長机の上で、たどっています」


 リーリヤは、頷くこともできずに、長机の縁を、もう一度、強く握った。




 夜が来るまで、二人は、長机を挟んで、二冊の手帳を一頁ずつ照合した。

 祖母レナータが、薔薇を「奇数本」と書いた頁の隣で、母エルザは、薔薇を「奇数本——偶数本は別離の予感」と書き残していた。

 リーリヤが、五年間、奇数本だけを守った理由が、初めて、母エルザの一行で説明された。


 ジャスミンの中央三輪は、母の手帳では「歓迎の最上位」と記されていた。

 リーリヤが祖母から「中央に三輪」とだけ教わって守った配列は、母の手帳の「歓迎の最上位」と、寸分違わなかった。


 ラベンダーの束の太さに関する規則も、二冊の手帳で、ほぼ同じ言葉で書かれていた。

 祖母の手帳の頁には「親指と中指の輪を超えれば、信頼が早すぎる」と、母の手帳には「親指と中指の輪を超えれば、相手が応える前に約束を求める」と書かれていた。

 語の選び方は違うが、束の太さの境目は、寸分、同じだった。

 リーリヤは、長机の上の二冊を並べ、自分の右手の親指と中指で、輪を作って、その境目を、夜の灯の下で、もう一度、確かめた。


 スミレの「指三本分」の間隔も、二冊で一致した。

 母エルザの手帳の頁には、その一行の下に、淡い水彩で、子供の指の絵が一つ、添えられていた。

 「読み手の指で、間隔は測れる」——母が、息子のために、絵で示した一頁だった。

 カイルは、その頁を開いて、自分の人差し指と中指と薬指を、絵の子供の指の上に、静かに重ねた。

 絵の子供の指の幅と、彼の指の幅は、十数年の年月のうちに、ほぼ同じ寸法に育っていた。


 「明日、首府への使節館へ、ご一緒できませんか」


 カイルが、夜が深くなった頃に、低く言った。


 「失われた花譜を、二人で編み直したい」


 リーリヤは、長机の上に並べた二冊の手帳を、もう一度、両方の表紙ごと撫でた。


 「お供いたします」


 返事は、長く考えずに、口の中で形になった。

 五年間、誰にも問われなかった仕事に、初めて「次の頁」が示された朝だった。




 使節長カイルが、首府への同行を申し出てから、出立までは一週間を要した。

 リーリヤは、その一週間で、ヴェルダンセ侯爵に辞去の面会を願い出た。父は、書斎の窓辺で、長く沈黙したのち、ただ一言「家伝の手帳を、忘れずに」とだけ告げた。母は、侍女頭に侍女ベアの随行を命じ、旅装と道中の薬包を、丁寧に整えさせた。フィオーラ王国の使節館は、国境通行証と領地届の写しを、二日のうちに用意した。社交界には「侯爵令嬢、隣国の花譜編纂に招かれて遊学」という体の触れ書きが、ヴェルダンセ侯爵の名で回された。

 一週間後の朝、馬車が侯爵邸の前庭を出た。

 首府まで、街道で五日ほどの行程。

 街道沿いには、初夏の矢車菊が、薄青と白を半々に咲かせていた。


 三日目の宿で、夕食のあと、カイルがリーリヤの隣の長椅子に座った。

 長椅子の左の肘掛けに、ランプが一つ。

 リーリヤは、卓の上で、薔薇の小枝を一本、紙の包みから取り出していた。

 街道の宿の庭で、御者が一輪、彼女のために切ってきたものだった。


 「ヴェルダンセ嬢、よろしいでしょうか」


 カイルの声は、低く、語尾が落ち着いていた。

 リーリヤは、小枝を卓に置き、両手を膝の上で揃えた。


 「あなたの指を、一度、お借りしてもよろしいですか」


 リーリヤは、答える代わりに、右手をゆっくりと卓の上に置いた。

 指先の花茎の汁の跡が、ランプの灯で、薄黄に光った。


 カイルの指が、彼女の右の親指の側面に、軽く触れた。

 「薔薇の棘の白い線——九本の薔薇を、五年間、毎回束ねた指の証ですね」


 彼の指が、人差し指の節、中指の腹へと、ゆっくりと移った。

 触れる距離は近かったが、彼は、決して急がなかった。

 「人差し指の節は、小刀を斜めに当てる癖。中指の腹の薄黄は、花茎の汁——」


 リーリヤは、目を閉じた。

 彼の指が、自分の指の上で、五年分の労働の輪郭を、ひとつずつ言葉に変えていた。

 「読まれる」という感覚を、彼女は、生まれて初めて、自分の身体の上で受け取った。


 「ありがとうございます」


 カイルは、指を一度離した。

 離した手を、自分の膝の上に、丁寧に置いた。


 「あなたの五年は、誰にも見られていなかったのではありません。卓の正面に立った私の指は、毎回、あなたの指の癖を読んでいました」


 リーリヤは、目を開けた。

 ランプの灯が、彼の眼鏡の縁に、淡い橙の線を引いていた。

 彼女は、頷く代わりに、卓の上の薔薇の小枝を、彼の手元へと、ゆっくりと差し出した。




 フィオーラ王国の首府に着いたのは、街道で六日目の夕方だった。

 文化使節館は、首府の中心の四階建ての石造の館で、二階の南室が、リーリヤの作業室と決まった。

 窓は南に二つ、東に一つ。

 長机が中央に一台、壁際に切り花用の水盤が四つ。

 庭の桜とライラックは散り、夏の薔薇の早咲きが、最初の色を見せ始めていた。


 最初の三日、リーリヤは、長机に手を伸ばしかねていた。

 他国の館の長机に、家伝の手帳を広げる——その所作は、彼女の祖母の手帳の余白にも、母エルザの手帳の余白にも、書かれていなかった。

 カイルもまた、廊下の長椅子で書類を捲りながら、扉を開ける時刻を、半刻ずつ遅らせていた。

 二日目の朝、彼女は、長机の端に、祖母の手帳を一冊だけ静かに置いた。表紙を開かないまま、半日、それを眺めて過ごした。

 三日目の昼、カイルが、母エルザの手帳の最初の頁——朱の小印の絵——を、長机のもう一端に、同じ高さで並べて置いた。二冊の表紙が、長机の上で、まだ閉じたまま、半刻、向かい合った。

 四日目の朝、リーリヤは、祖母の手帳を、自分の側で開いた。

 カイルが、母の手帳を、自分の側で開いた。

 長机の中央に、互いの手帳の最初の頁が、初めて、同じ朝日の下で並んだ。

 「失われた花譜の辞書」の編纂は、毎朝、長机の上で始まった。

 リーリヤが、祖母レナータの手帳の頁を、一枚ずつ写した。

 カイルが、母エルザの手帳の対応頁を並べ、欠けた配列を「題」と「副題」に分けて文字に起こした。

 薔薇の本数、ジャスミンの位置、ラベンダーの束の太さ——三要素の組み合わせ表が、最初の月で、二十項目まで埋まった。


 夕暮れの庭で、リーリヤが、チューリップの赤を、一本だけ卓に立てた朝があった。

 カイルは、長椅子から立ち上がり、卓の正面に立った。

 眼鏡を一度外し、もう一度かけ直して、彼は卓の中央を、深く見た。


 「赤のチューリップ、一本——『愛の宣言』ですね」


 リーリヤは、答える代わりに、二盤目の水盤から、ジャスミンの白い花を一輪、引き上げた。

 既に卓の中央に並んでいた二輪のジャスミンの隣に、その一輪を、三本目として、等間隔で並べた。

 卓の縁から三寸、互いの間隔は二寸——祖母の手帳の規則のままに。


 カイルの息が、一度止まった。

 彼の右手が、長机の縁に、軽く置かれた。


 「ジャスミン、中央三輪——『最大の歓迎』」


 彼の声は低く、しかし、語尾の終わりがわずかに揺れていた。


 「あなたは、私の問いに、花だけで、答えてくださった」


 リーリヤは、卓の手前で、両手を膝の上で組み直した。

 言葉を、選ぶ必要は、なかった。

 彼女の指は、五年間、選ばずに、ただ祖母の手帳の通りに花を置いてきた。

 その手が、いま、初めて、自分の意志で、一輪を加えた。


 それから、夏の盛りが過ぎ、文化使節館の庭に、コスモスが薄桃と白を半々に咲かせる季節になった。

 リーリヤとカイルは、毎朝、長机の上で、辞書の頁を一枚ずつ増やしていった。

 八月の終わりに、組み合わせ表は百二十項目を超えた。

 九月の半ばに、薔薇の本数別の意味——一本から二十四本まで——の全項目が、淡い水彩で復元された。

 十月の初めに、ジャスミンの位置と高さの規則、ラベンダーの束の太さの段階、スミレの間隔の意味、チューリップの色別の意味、ライラックの春の脇飾の用法、コスモスの秋の調和の意味——七つの章が、革表紙の冊子の中に、整然と並んだ。


 「祖母の手帳の頁は、八十二枚」


 ある秋の朝、リーリヤは、長机の中央に、祖母レナータの手帳を置いて、頁を数えた。

 「八十二枚すべて、写し終えました」


 カイルは、長椅子から立ち上がり、彼女の右隣に、半歩、近づいた。

 彼の指が、手帳の最後の頁の余白を、軽く撫でた。

 余白の隅に、祖母が二十六年前に書き残した一行が、薄い墨で、消え残っていた。


 ——「読み手は、必ず、いる」。


 リーリヤは、その一行を、初めて、声に出して読んだ。

 カイルの眼鏡の縁を、秋の朝の光が、ゆっくりと走った。

 彼の右の手が、長机の縁を渡って、リーリヤの右の手の上に、半呼吸の間だけ、軽く置かれた。

 指の腹に、薔薇の棘の白い線と、ペンだこの硬さが、互いの五年を、卓の上で、初めて、平らに重ね合わせた。




 ——同じ頃、ベルクハイム王国の王宮で起きていたことを、リーリヤは、のちに、文化使節館に届いた複数の書簡と、宮廷儀礼委員会の事後の宴記録綴を通じて、知ることになる。以下は、その記録に書かれていた通りの順序である。


 リーリヤが王宮を去って三月。

 王妃ベアトリーチェは、後任の宮廷花師に、王妃付き侍女女中見習いだったアンナ・ベルケを任じていた。

 アンナは、社交界の女性向け教本で薔薇の花言葉だけを読んでいた。

 「赤の薔薇は情熱、白は純粋、黄は友愛」——その一行までは、頭に入っていた。

 伝統花譜フローリオグラフィーという言葉を、彼女は、生まれて一度も聞いたことがなかった。


 春の使節団歓迎宴の朝、王妃は、長卓中央の花飾について、アンナに一つだけ指示を出した。


 「華やかに、目立つように。深紅と黄を多めに」


 アンナは、王妃の指示を額面通り受け取った。

 王宮の温室から、ジキタリスの大株を二本、黄色の薔薇を二十四本、そして、希少な黒の百合——クロユリ——を三本、運び出させようとした。温室番の老人は、籠を抱える腕を一度止め、低い声で進言した。「黒い花は、外交の卓には使いません。希少のクロユリは、温室の中だけで、王宮のお客様にお見せするものです」。アンナは、頬を一度こわばらせた。「王妃さまのお指図です。華やかに、目立つように、と。責は、わたくしが負います」。温室番は、頭を下げたまま、籠を渡した。

 卓の中央が、深紅と黄と黒で「華やか」に整ったとき、アンナの目には、教本の挿絵の通りの色彩だけが映っていた。

 夕方の宴の時刻まで、王妃も、卓の前を二度通った。一度目には扇の縁を黒い花のほうへ軽く向け「黒い花は、華やかさに欠けるのではないか」と低く言ったが、アンナが「目立ちますゆえ、卓が引き締まりまする」と返すと、王妃は二度目には扇の角度を変えずに通り過ぎた。


 宴の最初の杯が運ばれる前に、長卓の正面に、フィオーラ王国の文化使節セレストが立った。

 セレストは、カイルの後任として、その春から赴任した若い文官だった。

 彼の青い目が、卓の中央のジキタリスを、まず捉えた。

 次に、二十四本の黄色の薔薇。

 そして、黒い三輪のクロユリ。


 セレストの肩がわずかに下がった——と、長卓の脇に控えていたベルクハイム側の式部官が、宴記録綴に書き留めている。

 使節セレストは、長卓の正面で、宮廷礼を一度返したのち、随員を伴って、無言で扉の方へ歩き出した。

 扉の前で、フィオーラ王国の慣わしの「抗議の礼」を、深く深く返した。


 ——ジキタリスは「不誠実」、黄色の薔薇は「別離」「嫉妬」、クロユリは「呪い」と「孤独」。

 三つを同時に、長卓中央に置いた卓は、フィオーラ王国の伝統花譜では「宴の中止要求」として読まれる。

 セレストは、最初の杯に口をつけなかった。

 随員一同が、宴の主賓席を空にして退席した。




 セレスト退席の翌週、フィオーラ王国の公式抗議文が、ベルクハイム王国の宮廷儀礼委員会に届いた。

 文面は、丁寧で、しかし、揺るぎなかった。

 ——「貴国の長卓中央の花配列は、我が国に対する重大な侮辱として読まれます。三度の善処をお願い申し上げます。さもなくば、文化通商条約の見直しを検討せねばなりません」


 宮廷儀礼委員会は、宮廷儀礼令第二十二条の更迭規定を、議題に上げた。

 外交宴の采配責任者は、王妃ベアトリーチェであった。

 委員会は、王妃の弁明を、公開の場で求めた。


 「花の意味など、わたくしは、存じません」


 公開の場で、王妃ベアトリーチェの声が、二十年来、初めて揺れた——とは、その日、傍聴席の最前列にいた婦人会の三人が、揃って後日に証言したことだった。

 扇を握る指の関節が、白くなっていた、とも記されている。


 「華やかに、目立つように——とだけ、申し付けました」


 公開の弁明の翌日、社交界の婦人会の応接の間で、誰かが、ささやいた。

 ——王妃は、花を、五年間、「侍女の遊び」と呼んでこられた。

 ——あの一言が、フィオーラ王国へ伝わって、抗議の引き金になったらしい。

 社交界の婦人たちの扇が、応接の間で、一斉に、半分閉じた。




 公式抗議文の三日後、フィオーラ王国第三王女リエットの使者が、ベルクハイム王国の王太子レーヴェに、一通の書状を届けた。

 書状の文面は、わずか三行だった。

 ——「花の意味を侍女の遊びと呼ぶ王宮と、わたくしの国は、同盟を結べません。縁談は、このたびを最後に、取り下げさせていただきます」


 王太子レーヴェは、書状を握ったまま、宮殿の南の窓辺で、二刻、動かなかったと、付き従っていた侍従が、後の聴聞で記録係に語っている。

 窓の下には、王妃が温室から運ばせた、ジキタリスの大株が、まだ一本、残されていた。

 レーヴェが、その茎に、自分の指で初めて触れたことは、侍従が窓の外から見ていた。

 茎の硬さも、花の毒も、王太子はそのとき初めて知った、というのが、宮廷医に翌日問うた問いの記録に残っている。


 その夜、王太子は、執務室の書棚から、五年分の宴次第の記録綴を、初めて引き出させた。

 宮廷儀礼委員会の式部官が、宴の翌朝に清書していた記録綴で、卓の中央の花の配列が、毎回、一行だけ、書き留められていた。

 「薔薇九本、ジャスミン中央三輪、ラベンダー左後方中位——歓迎の最上位、友好の更新」

 「薔薇十一本、ジャスミン中央三輪、ラベンダー左後方やや太——慶賀、同盟の継続」

 五年分の記録の一行ずつを、その夜、王太子は、灯の下で、初めて目で追った——のちに、その夜の燭の油の使用量が、執務室の管理簿に「常の三倍」と記されていたことから、それが分かった。

 記録係は、毎回、書き留めていた。

 意味を、王太子は、五年間、一度も読まなかった。


 書庫の鍵が、その夜、誰にも告げられずに開けられたことは、翌朝、鍵番が報告書に記した。

 革表紙の冊子が、五冊、棚の一段に並んでいた。

 リーリヤが、宴のたびに、王妃の手前に静かに残してきた、五年分の花譜だった。

 王太子は、その夜、一冊目の頁を、最初の一行だけ、灯の下で読んだ、と、書庫番が見届けた。

 読み終えた頃、夜が、白み始めていた——とは、夜明けの巡回兵が報告書に書き残した一行である。


 宮廷儀礼委員会は、二度目の外交宴の采配権を花師交代によって取り上げるべきだと議題に上げた。しかし王妃は、扇を一度強く閉じ「采配はわたくしの専権です」と委員会を押し切って、アンナにそのまま二度目の卓を任せた。

 新人花師アンナは、同じ「華やかな」配列を、二度目の卓でも編んだ。

 セイヨウキョウチクトウを、卓の中央に三本、追加した。

 フィオーラ王国の臨時代理使節が、卓の正面に立った瞬間、宴の開始前に席を立った。

 儀礼委員会は、後日「王妃の采配は、外交宴の権限を超越した強行であった」と公式に認定した、と、文化使節館の書記が要約したのが、リーリヤの机の上の一枚目の報告書だった。

 三度目の宴の前夜、アンナは、王妃の侍女女中見習いに戻された——と、ベルクハイム王国の宮廷儀礼委員会から、フィオーラ王国宛に届いた公式文書の写しに記されていた。

 王宮の花室の鍵は、誰の手にも渡らないまま、半月、扉に挿しっぱなしになっていたという。


 ベルクハイム王国の外交宴は、公式に「不在」となった。

 王妃の更迭の議題は議会に持ち越され、王太子の交代は社交界で取り沙汰されるに至った——と、文化使節館の応接の間で、リーリヤは、束ねられた報告書の最後の一葉を、静かに置いた。




 ——翌春、フィオーラ王国の首府。


 「失われた花言語の祭典」の朝が、桜とチューリップの盛りに重なった。

 文化使節館の二階南室の長机には、半年かけて完成した『失われた花言語の辞書』の写本が、革表紙に綴じられて、五冊、並んでいた。

 一冊は、フィオーラ王国の花譜院に献本される完成稿。

 一冊は、ベルクハイム王国の宮廷儀礼委員会に贈呈される写し。

 残る三冊は、リーリヤとカイル、そして、未来の読み手のための保存版だった。


 リーリヤは、祭典の中央卓の前で、最後の薔薇を、束ね終えた。

 十三本。桃が七、赤が五、白が一。

 白の一本は、祖母レナータが亡くなった年から、リーリヤが必ず一本だけ卓に立てる、「祖母から孫への手向け」だった。

 意味を、いまは、もう、自分で言葉にできた。


 カイルが、文化使節館の長椅子から立ち上がった。

 彼は、卓の正面に、半歩、近づいた。

 眼鏡を一度外し、もう一度かけ直して、卓の中央を、深く見た。

 薔薇十三本、桃七、赤五、白一。

 ジャスミンが、中央に三輪、等間隔。

 ラベンダーが、左後方に、太い束で置かれていた。親指と中指の輪では、もはや囲めない太さだった。


 カイルの息が、卓の前で、一度、深く落ちた。


 「薔薇、十三本。『結婚してほしい』」


 彼の声は、低く、しかし、揺れていなかった。


 「ジャスミン、中央三輪——『最大の歓迎』。ラベンダー、太い束——『安堵と信頼』」


 卓の前で、彼は、自分の指の代わりに、卓の中央の三要素だけを、声に出して読んだ。

 五年で訓練した彼の指が、最後に、自分の口を借りて、読み手から「読まれる側」へ、半歩、踏み出した。


 「ヴェルダンセ嬢」


 カイルの右の手が、卓の縁を、長く渡って、リーリヤの左の手の甲の上に、ゆっくりと乗った。

 彼の指が、薬指の関節を、一つずつ、丁寧に読んだ。


 「あなたを、私の妻として、迎えたい」


 リーリヤは、答える前に、息を、整えた。

 卓の上で、白の薔薇の一本の花弁が、朝の光に薄く透けた。

 祖母レナータの形見のラベンダーの香りが、文化使節館の南室の窓から、卓の前まで、踝の高さで流れてきた。


 祖母の手帳の頁の余白に、若き日の祖母が、二十六年前に、フィオーラ王国を離れる夜、誰のためかも分からない一行を書き残していた。

 ——「読み手は、必ず、いる」。

 その一行を、リーリヤは、五年間、意味を尋ねずに、ただ守ってきた。

 守った先に、いま、卓の正面に立つ読み手の指が、彼女の指の上に、覆うように、置かれていた。


 「はい」


 短い、一言だった。

 その一言が、五年分の沈黙を、ゆっくりと解いた。

 リーリヤの目尻に、安堵の涙が、一筋だけ、落ちた。

 祖母の手帳の表紙の上に、その一滴が、薄い円を作って、染み込んだ。




 祭典の正午に、フィオーラ王国の花譜院の長老が、文化使節館に到着した。

 長机の上に並ぶ五冊の『失われた花言語の辞書』の写本を、長老は、一冊ずつ、丁寧に頁を開いた。

 百二十項目を超える組み合わせ表、薔薇の本数別の意味、ジャスミンの位置と高さの規則、ラベンダーの束の太さの段階——どの頁にも、祖母レナータと母エルザの筆跡が、淡い水彩で、復元されていた。


 「ヴェルダンセ嬢」


 花譜院の長老が、リーリヤに、宮廷礼を一度、深く返した。


 「あなたに、『レナータ家系を継ぐ花師』の称号を、お贈り申し上げます」


 リーリヤは、両手を膝の上で組み、宮廷礼を、ゆっくりと返した。

 称号の重さは、彼女の右の親指の側面に、薔薇の棘の白い線として、五年分、すでに刻まれていた。

 長老の言葉が、ようやく、その線を、外側から、名前で呼んでくれた。




 文化使節館の二階南室で、リーリヤは、いまも、長机に向かって座っている。

 祖母レナータの手帳と、母エルザの手帳——二冊は、長机の中央に、並んで置いてある。

 彼女の右手の親指の側面には、薔薇の棘の白い線が点々と残り、中指の腹の薄黄の花茎の汁の跡も、首府に来てからも消えていない。五年で身体に残った輪郭は、フィオーラの春になっても、変わらない。


 カイルは、リーリヤの右隣の小机で、花譜学の論文を口述している。書記が、彼の言葉を丁寧に書き写している。時折、彼の左の手が、長机の縁を渡って、彼女の右の手の甲の上に、ゆっくりと乗る。彼の指が、彼女の指の関節を、もう一度、読む。


 リーリヤは、花茎を切る小刀の角度を止めない。祖母の手帳の図案を、彼女は、いまも、毎朝、一頁ずつ、卓の上で復元している。


 庭の薔薇の二度目の盛りが、もうすぐ始まる。けれども、二人の辞書の編纂は、まだ、終わらない。


 ——半月ほど前、ベルクハイム王国の伝令が、もう一度だけ、文化使節館を訪れた。

 王妃ベアトリーチェの更迭が議会で正式に発議された、という報告と。

 元婚約者レーヴェ殿下からの、書状一通。

 封を開けたのは、カイルだった。文面を、彼はリーリヤに読まずに、暖炉の脇の書架へ、静かに収めた。

 「読まずに、置いておきます」と低く言った。

 読まれない手紙が、フィオーラの書架で、一冊、増えた。


 リーリヤは、振り返らない。

 彼女の右隣で、カイルの指が、彼女の指の上に、覆うように、置かれていた。


 卓の中央に、今朝も、薔薇が、九本。

 桃が六、赤が二、白が一。

 白の一本が、朝の光に薄く透けて、長机の縁に、淡い影を落としていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 この短編は、「花は、言葉だ」という一つのテーマを、五年と五年——令嬢の五年と使節長の五年——という二つの時間で交差させたかった作品でした。


 花言語フローリオグラフィーという体系は、現実の世界では、ヴィクトリア朝の英国で大流行した「花による暗号通信」の文化が下敷きになっています。薔薇の本数で意味が変わること、ジャスミンの位置で歓迎の度合いを示すこと、ラベンダーの香りで親密度を伝えること——どれも、十九世紀の花譜の本に、実際に記された規則です。本作の中で、リーリヤが守り続けた「薔薇は奇数本」「ジャスミンは中央三輪」「ラベンダーは束の太さで親密度」という配列癖は、現実の花譜の体系を、異世界の宮廷外交の文脈に置き換えたものです。


 外交の場で、花が「言葉」として機能する——という設定を、わたくしは、書きながら、自分の足元にも、いくつもの「読まれない言葉」が落ちていることを思い出していました。誰かのために選んだ一輪、誰かに贈った花束、誰かの記念日に整えた卓——それらの花の意味を、わたくしたちは、誰かに尋ねられて、ようやく言葉にすることが多いのです。意味を尋ねない相手の前では、花は、ただの飾りに見えるかもしれません。けれども、卓の正面に立った瞬間、その意味を、声を出さずに読んでくれる読み手が、世界のどこかには、必ずいる——というのが、リーリヤの祖母レナータが、二十六年前に、フィオーラ王国を離れる夜に書き残した一行の意味だったのだと思います。


 カイルの五年は、視覚に頼らずに、卓の中央の三要素だけで意味を読む訓練の時間でした。リーリヤの五年は、祖母の手帳の頁を、意味を尋ねずに守り続ける時間でした。二人の時間が、長机の上で重なるとき、五年分の沈黙は、ようやく一つの辞書になります。読まれなくとも、編む。けれども、読み手は、いる。その両方を抱えて生きる人の手を、わたくしは、いつか書きたかったのだと思います。


 もし、お手元に、誰かから贈られた花があれば、その花の本数と、置かれた位置と、香りの強さを、一度だけ、読んでみてください。意味は、贈り手も、知らなかったかもしれません。けれども、その配列の中に、ささやかな「歓迎」や「敬意」が、紛れていることが、しばしばあるのです。


◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇


婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


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多分王妃や王太子は隣国の貴族の血を引く令嬢から隣国の王女に乗り換えようとしたんだろうけど、真に友好を築くなら隣国の文化に精通する人間を追い出したのは悪手でしたね。
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