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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第44話



 灰色の外套の男が去ったあとも、店の空気はしばらく戻らなかった。


 扉は閉まっている。


 客はまだ数人いる。


 店の前にも人がいる。


 けれど、誰もすぐには大きな声を出さなかった。


 まるで、男が残した言葉だけが、店の床に落ちているようだった。


 ――選ぶのだな。


 ――なら、その選択の代価も受け取れ。


 その言葉は、脅しだった。


 だが、ただの脅しではない。


 淡々としていた。


 怒鳴らない。


 乱暴に物を壊さない。


 剣を抜くわけでもない。


 だからこそ、余計に気味が悪かった。


 何かが来る。


 そう感じさせる声だった。


「……代価、ねぇ」


 ロイドが呟いた。


 声はいつも通りを装っている。


 だが、少しだけ掠れていた。


 ミラは無言で棚を整えている。


 ガルドは奥の作業台で腕を組んだまま、店の扉を睨んでいる。


 セドは窓から外を見ていた。


 灰色の外套の男の姿は、もうない。


 通りには日常が戻り始めている。


 けれど、人々の視線はさっきよりも店へ集まっていた。


 同情。


 心配。


 興味。


 不安。


 そして、少しの期待。


 いくつもの感情が、通りの空気に混ざっている。


「……すみません」


 ロイドが急に言った。


 セドが振り返る。


「何がでしょう」


「いや」


 ロイドは頭を掻いた。


「さっき、勝手に断った」


「貼り紙を外せという要求ですか」


「ああ」


「断るべきでした」


「お前もそう思うか」


「はい」


 即答。


 ロイドは少しだけほっとしたように笑った。


「ならいい……のか?」


「ただし」


「ただし?」


「危険は増えました」


「だよなぁ……」


 ロイドは椅子に沈み込むように座った。


「分かってる。分かってるんだよ。断った瞬間、あ、これやばいやつだって思った」


「それでも断りました」


「子供が死ぬよりマシって、口から出ちまった」


 ロイドは両手で顔を覆った。


「俺、あんなこと言うタイプだったか?」


 ミラが短く答える。


「言う」


「え?」


「最近のロイドなら言う」


 ロイドは顔を上げた。


 ミラは棚を整えながら、こちらを見ない。


 けれど、その声ははっきりしていた。


「店主だから」


「……」


「子供、客、店。守るって決めてる」


 ロイドは何も言えなかった。


 ガルドが低く笑う。


「諦めろ。もうただの腰抜け店主じゃねぇ」


「おい、前は腰抜け扱いだったのかよ」


「自覚なかったのか」


「やめろ。傷つくだろ」


 軽口。


 だが、どこか温かい。


 客の一人が小さく笑った。


 その笑いに、店の空気が少しだけほどける。


 年配の女が、夜間用灯り石を手にしたまま言った。


「店主さん」


「ん?」


「貼り紙、外さないでおくれよ」


 ロイドは少し驚いた顔をした。


 女は続ける。


「うちの孫も、あれを読んでから東水路へ行かなくなったんだ」


「……そうか」


「子供ってのは、大人が何度言っても聞かないくせに、店の前に貼ってあると妙に守るんだよ」


 店内に小さな笑いが起きた。


 別の客も頷く。


「うちの見習いもだ。あの子供向けの紙、効いてる」


「簡単な言葉だからな」


「工房にも写して貼っていいか?」


 ロイドは目を瞬いた。


「え?」


「うちの工房にも貼りたい」


 若い職人が言った。


「東水路には行かない、光る石を拾わないってやつ。見習い用に」


 ロイドはセドを見る。


 セドは少しだけ考え、頷いた。


「構いません」


 ロイドも頷く。


「いいぞ。好きに写してくれ」


「助かる」


 その言葉をきっかけに、店内の空気が少し変わった。


「うちの長屋にも貼りたいね」


「町内の掲示板に書いてもいいか?」


「子供たちが通る井戸のところにも」


「東水路側に住んでる連中に渡そう」


 声が増える。


 さっきまで灰色の男の圧力に沈んでいた人々が、自分たちの場所へ言葉を持ち帰ろうとしている。


 セドは、その様子を見ていた。


 貼り紙が、店から街へ広がろうとしている。


 ただ噂としてではない。


 守るための言葉として。


 これは予想以上だった。


 ロイドも同じことを感じたのか、少し口を開けたまま固まっていた。


「……え、何」


 ロイドが小さく言う。


「うちの紙、増えるの?」


「はい」


 セドが答える。


「良いことなのか?」


「良いことです」


「怖いんだけど」


「責任が増えます」


「もっと怖いこと言ったな?」


 ミラが棚の奥から紙を何枚か持ってきた。


「写す?」


「ミラ、準備いいな」


「必要」


「お前も最近、必要って言うようになったな」


「うつった」


 ミラは淡々と言った。


 ガルドが笑う。


「感染してるな」


「感染扱いですか」


 セドが少しだけ眉を寄せる。


 店の中に笑いが広がる。


 重い空気は完全には消えない。


 だが、笑いがある。


 そして、人の声がある。


 灰色の外套の男が残した圧力に対して、店は潰れなかった。


 むしろ、言葉が街へ流れ始めた。


 それは小さな抵抗だった。


 剣もない。


 魔法もない。


 ただ、紙と文字と、人の口だけ。


 けれど、確かに流れが生まれていた。


 


 その日の午後。


 ロイドの店の前には、張り紙を写す人々が集まっていた。


 紙を持っている者。


 板に文字を写す者。


 子供に読ませる者。


 工房の見習いが、たどたどしく文字をなぞる。


 老人が横から「そこは“拾わない”だ」と教える。


 女たちが「東水路には行かない」を何度も口にする。


 通りに、同じ言葉が何度も流れた。


 東水路には行かない。


 光る石を拾わない。


 変なものを見つけたら近くの大人に言う。


 子供だけで見に行かない。


 それは、呪文のようでもあった。


 恐怖を煽る呪文ではない。


 守るための短い約束。


 ニコたちは、その光景を見て明らかに誇らしげだった。


「俺たちが最初に読んだやつだ!」


 ニコが胸を張る。


「だから偉いってわけじゃない」


 リナが冷静に言う。


「えー、ちょっとくらい偉くない?」


「偉そうにしないってロイドさん言ってた」


「言ってたけどさぁ」


 トマは腕を組んで、貼り紙を写す大人たちを見ていた。


「……大人も読むんだな」


「そりゃ読むだろ」


 ニコが言う。


「でも、子供向けのやつだぞ」


「分かりやすいからじゃね?」


 トマは少し黙った。


 それから、ぽつりと言う。


「……分かりやすいって、大事なんだな」


 セドはその言葉を聞いていた。


 子供の何気ない一言。


 だが、確かにそうだった。


 分かりやすいことは、軽いことではない。


 簡単な言葉だからこそ、人に届く。


 大人にも、子供にも。


 ロイドが横で小声で言う。


「聞いたか、セド」


「はい」


「俺たち、難しく考えすぎだったのかもな」


「そうかもしれません」


「お前がそれ言うと、ちょっと面白いな」


「何故でしょう」


「難しく考える代表みたいな顔してるから」


「……」


 セドは少しだけ沈黙した。


「否定は」


「しません」


 ロイドが即答する。


「しろよ」


 今度はセドが言う番だった。


 ロイドは吹き出した。


「お前、そういう返しするようになったな」


「環境の影響です」


「じゃあ良い環境だな」


「騒がしいですが」


「褒め言葉だろ」


「違います」


 同じようなやり取り。


 だが、以前より自然だった。


 店の前で人々が紙を写す。


 その横で、ロイドとセドが軽口を交わす。


 それをミラが無表情に見て、ガルドが呆れ半分で笑っている。


 その光景は、不思議なほど生活に馴染んでいた。


 だが、その生活のすぐ外側には、黒い流れがある。


 それを忘れる者はいなかった。


 


 夕方に差しかかる頃。


 通りの奥から、組合の腕章をつけた男たちが現れた。


 三人。


 歩き方が硬い。


 周囲を見下ろすような視線。


 その姿を見た瞬間、通りの空気が少し冷えた。


 人々が紙を写す手を止める。


 子供たちがロイドの店の近くへ寄る。


 ロイドは小さく舌打ちした。


「来たか」


 セドは静かに頷く。


「はい」


 組合の男たちは、店の前に貼られた紙を見た。


 さらに、周囲の人々が写している紙を見る。


 その顔に、不快感が浮かぶ。


 先頭の男が口を開いた。


「これは、何の騒ぎですか」


 ロイドが前に出る。


「注意喚起だ」


「誰の許可で?」


「またそれか」


 ロイドは呆れたように言った。


「危ない場所へ子供を近づけるなって書くのに、許可がいるのか?」


 男の眉が動く。


「不確かな情報を流すことは、街の混乱を招きます」


「不確かじゃねぇ」


 ロイドの声が低くなる。


「不安定な魔石片が実際に見つかってる」


「それは組合へ届け出ましたか」


「届け出た奴がいたのに、何も出さなかったのはそっちだろ」


 周囲がざわつく。


 組合の男の顔が険しくなる。


「発言には気をつけていただきたい」


「そっちこそ」


 ロイドは引かない。


「子供が危ないかもしれないって話だ。まず注意を出すのが筋だろ」


「組合には組合の確認手順があります」


「確認してる間に子供が拾ったらどうする」


 沈黙。


 通りの人々が見ている。


 ただの店主と、組合の男。


 力関係は明らかだ。


 組合の方が強い。


 店一つなど、潰そうと思えば潰せる。


 それでも、ロイドは引かなかった。


 セドはその背中を見ながら、静かに息を整える。


 今、自分が出るべきか。


 ロイドに任せるべきか。


 出すぎれば、組合はセドを標的にする。


 だが、ロイドだけに背負わせるわけにもいかない。


 その判断の間に、組合の男が言った。


「この貼り紙は撤去していただきます」


 通りが一瞬静まり返る。


 昨日の灰色の男と、同じ要求。


 だが、今度は表の組合だ。


 ロイドの拳がわずかに握られる。


「断る」


 再び、即答。


 人々が息を呑む。


 組合の男の目が冷たくなる。


「店主殿」


「何度言われても断る」


「組合の指導に従わないと?」


「子供を守るための紙を外せって言うならな」


 通りの空気が張り詰める。


 その時だった。


「外さないでください」


 声が上がった。


 年配の女だった。


 昨日、夜間用灯り石を買った女。


「うちの孫に読ませています」


 続いて、工房の職人が言う。


「うちの見習いにも必要だ」


「東水路の近くに住んでる者です。貼り紙がある方が助かります」


「組合が正式に注意を出さないなら、こっちで気をつけるしかないでしょう」


 声が増える。


 一人。


 二人。


 三人。


 最初は小さく。


 だが、次第に厚みを持つ。


「子供向けの紙、写させてもらいました」


「長屋にも貼ります」


「何が混乱ですか。注意してるだけじゃないですか」


「危ないものを危ないと言うのが、そんなに悪いんですか」


 群衆の声。


 それは怒号ではない。


 暴動でもない。


 だが、確かな反発だった。


 組合の男たちは、その流れに一瞬押された。


 彼らは、店主一人を相手にするつもりだったのだろう。


 だが今、相手は店だけではなくなっていた。


 紙を必要とする街の人々が、そこにいた。


 セドはその光景を見て、胸の奥が震えるのを感じた。


 これが、流れ。


 店から出た言葉が、人々の間に広がり、今、店へ戻ってきている。


 守るための声として。


「……皆さん」


 セドが静かに口を開いた。


 群衆の声が少しずつ収まる。


「ありがとうございます」


 短い礼。


 それだけで、人々は少し落ち着いた。


 セドは組合の男へ向き直る。


「この貼り紙は、特定の組織を非難するものではありません」


「……」


「東水路付近で不安定な魔石片が見つかったため、子供や住民を近づけないための注意です」


 一拍。


「組合が正式な注意喚起を出すのであれば、そちらと内容を合わせることも可能です」


 ロイドが少しだけ目を見開く。


 セドは続ける。


「ですが、正式な注意が出るまでの間、この紙を外す理由はありません」


 静かな声。


 理屈。


 線引き。


 正面から組合を攻撃しない。


 だが、引かない。


 組合の男はセドを睨んだ。


「あなたは何者ですか」


「この店の関係者です」


「代表者ではない」


「店主はロイドさんです」


 セドは一歩引くように言った。


 視線をロイドへ向ける。


 ロイドは少し驚き、それからすぐに前を向いた。


「店として、貼り紙は外さない」


 ロイドの声。


 はっきりしていた。


「組合が正式な注意を出すなら、それは協力する。でも、出るまではうちの紙を置く」


 群衆が頷く。


 組合の男は、周囲を見回した。


 ここで強引に外せば、反発が大きくなる。


 それを理解したのだろう。


 男は冷たい声で言った。


「……後日、正式に確認します」


「どうぞ」


 ロイドが答える。


 組合の男たちは、踵を返した。


 通りを去っていく。


 誰も追わない。


 誰も罵倒しない。


 ただ、見送る。


 その背中が角を曲がって消えた瞬間、通りに大きな息が戻った。


「……はぁ」


 ロイドがその場にしゃがみ込みそうになる。


 セドが支えようとすると、ロイドは手で制した。


「大丈夫。膝は笑ってるけど」


「大丈夫ではないのでは」


「精神的には立ってる」


「物理的には?」


「危うい」


 ミラが店内から椅子を持ってきた。


「座る」


「ありがとう……」


 ロイドは素直に座った。


 周囲の人々から、小さな笑いが起きる。


 だが、その笑いは温かかった。


「店主、よく言った」


「助かったよ」


「貼り紙、写していくからな」


「組合が正式な注意出すまで、こっちで広めよう」


 声がまた流れ始める。


 今度は、より強く。


 より確かに。


 貼り紙の言葉は、街のものになり始めていた。


 


 同じ頃。


 王城の書庫で、ルイスはバルドから受け取った追加の情報を前にしていた。


 黒羽は名を変える。


 羽の紋章は変わらない。


 十年前、運ばれたのは物だけではない。


 技師も運ばれた。


 エルマは、危険すぎるため放置された。


 そして、黒羽は価値を作る者を嫌う。


 ルイスは、その一文を何度も見返した。


 価値を作る者。


 それはセドたちだ。


 廃棄魔石を灯りに変える。


 捨てられた職人を繋ぐ。


 潰れかけた店に人を集める。


 子供たちに守る言葉を流す。


 価値なしとされたものへ、価値を与える。


 黒羽が本当に“選別する側”なら、その動きは邪魔でしかない。


「……狙われる」


 ルイスは小さく呟いた。


 足元の影が揺れる。


 ノクス。


 ――もう、見られている。


「うん」


 ルイスは頷いた。


「分かってる」


 怖い。


 セドが危険へ近づいている。


 ロイドの店も危ない。


 でも、今すぐ表へ出るわけにはいかない。


 ルイスが動けば、王城側の視線が一気に強くなる。


 セドたちの流れを潰すことにもなりかねない。


 だから、今は言葉を選ぶ。


 情報を渡す。


 王城の内側から、止まっていた流れを少しずつ動かす。


「……急がず」


 セドの言葉を思い出す。


「でも、消さず」


 自分が返した言葉も思い出す。


 ルイスは筆を取った。


 次に渡す覚書を書く。


 ――鳥は名を変える。


 ――羽の形は変わらない。


 ――運ばれたのは物だけではない。


 ――危険すぎる真実は、選ばれずに残された。


 ――灯りが価値を作るほど、鳥は近づく。


 そこまで書いて、ルイスは筆を止めた。


 最後に何を書くか。


 迷う。


 セドなら、この情報を見て動くだろう。


 だから、止める言葉が必要だ。


 けれど、ただ止めるだけでは駄目だ。


 動くな、ではなく。


 急ぐな。


 守れ。


 帰ってこい。


 それを、どう書くか。


 ルイスは長い沈黙のあと、最後の一行を書いた。


 ――灯りは、一人で持つものではない。


 書いた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。


 これはセドへの言葉であり、自分への言葉でもあった。


 セド一人で持つな。


 ルイス一人で抱えるな。


 ロイドの店も、王城の中も、同じ流れの中にある。


 ルイスは紙を丁寧に折った。


 外では、王城の廊下を誰かが歩く音がする。


 いつも通りの静かな城。


 だが、その静けさの下にも、確かに流れがある。


 ルイスはその流れへ、また一枚、小さな紙を落とす。


 それがどこまで届くかは分からない。


 でも、届くと信じるしかなかった。


 


 夜。


 ロイドの店では、写された貼り紙が何枚も机の上に並んでいた。


 町内へ持っていくもの。


 工房へ貼るもの。


 長屋へ渡すもの。


 井戸端へ置くもの。


 ロイドは疲れた顔で、それらを見ていた。


「……増えたな」


「はい」


 セドが答える。


「俺たち、何屋だっけ」


「灯り石の店です」


「だよな」


 ロイドは笑った。


「でも今、紙も売れそうだな」


「売りません」


「冗談だよ」


 ミラが夜間用灯り石を一つ、机の真ん中に置いた。


 柔らかな光が、写された紙の文字を照らす。


 東水路には行かない。


 光る石を拾わない。


 変なものを見つけたら、近くの大人に言う。


 子供だけで見に行かない。


 その文字が、夜の店内に浮かび上がる。


 ガルドが低く言った。


「……小さいな」


「何が?」


 ロイドが聞く。


「やってることだ」


 ガルドは紙を見る。


「紙を書いて、貼って、読ませる。たったそれだけだ」


「……」


「でも、今日、組合は外せなかった」


 ロイドは黙った。


 セドも、紙を見る。


 小さい。


 確かに小さい。


 剣を振るったわけではない。


 魔法を放ったわけでもない。


 敵を倒したわけでもない。


 ただ、言葉を貼っただけ。


 それでも、人が集まり、声が生まれ、組合が強引に外せなかった。


 流れが、少し変わった。


「小さい灯りと同じですね」


 セドが静かに言った。


 ロイドが顔を上げる。


「どういうことだ」


「夜間用灯り石も、強い光ではありません」


 セドは机の上の灯りを見る。


「ですが、暗闇を完全には許さない」


 ミラが小さく頷く。


「うん」


「この紙も同じです」


 セドは続けた。


「大きな力はありません。でも、人が危険へ近づくのを少し止める」


 ロイドは黙って聞いていた。


 ガルドも。


 ミラも。


 セドは紙の文字を見つめる。


「小さいものでも、流れは作れます」


 その言葉に、誰もすぐには返さなかった。


 沈黙が落ちる。


 けれど、重い沈黙ではない。


 それぞれが、自分の中でその言葉を受け止めている沈黙だった。


 やがてロイドが、深く息を吐いた。


「……なら、明日も開けるか」


「はい」


「貼り紙も増やす」


「はい」


「灯り石も売る」


「はい」


「飯も食う」


「……はい」


「そこ、間を空けるな」


 ロイドが言うと、ミラが短く笑った。


 本当に小さな笑い。


 だが、確かに笑った。


 ガルドが目を丸くする。


「今、笑ったか?」


「笑ってない」


「いや笑った」


「気のせい」


「セドみたいなこと言うな」


 ロイドが吹き出す。


 セドは少しだけ困ったように目を伏せた。


 その夜。


 小さな店の中には、灯りと紙と、人の声があった。


 外にはまだ黒い流れがある。


 黒羽は近づいている。


 組合も黙ってはいない。


 旧東工房区画の奥では、十年前の何かが今も息をしている。


 それでも。


 ロイドの店は、今日も灯りを消さなかった。


 そしてその灯りは、少しずつ。


 本当に少しずつ。


 店の外へ、街の人々の手へ、流れ始めていた。

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