風は北摂から、影は海を越える
川西の夜は、風が強い。
山の稜線を抜けた冷たい風が、整然と並ぶ住宅街を撫でる。
北摂の町は穏やかだ。
子どもが眠り、灯りが一つずつ消えていく。
その静けさの中で、彩香は端末の画面を睨んでいた。
押収した暗号データ。
川西郊外のマンション地下から回収した物理サーバー。
美咲が解読し、澄香が裏取りした。
あかりが言う。
「……これ、確定やな。」
画面に浮かぶ文字列。
FG-01 / Transfer / Diplomatic Route-Δ / No Recognition
FG-01。
玲奈のコード。
“No Recognition”
国交のない国。
外交ルートを偽装した搬出計画。
正規の手続きではない。
だが外交貨物に紛れれば、検査は困難になる。
彩香は静かに息を吐いた。
「国交のない国に移送されたら終わりや。」
その言葉は重い。
正式な交渉もできない。
情報も取れない。
奪還はほぼ不可能。
車内が凍る。
玲奈は最年長。
誰よりも責任を背負い、
誰よりも背中で示してきたリーダー。
今、その人を取り戻すかどうかは、
彩香の判断にかかっている。
「あの人は、最後まで諦めへん。」
彩香は低く言う。
「せやから、うちらも諦めへん。」
だが焦りはある。
期限は近い。
搬出予定は“次の満潮前”。
海を渡る気だ。
川西のマンションに潜んでいたのは資金中継。
北摂は表向き穏やかだが、
裏で金と情報が回っていた。
NSTはすでに拠点を制圧。
だが玲奈は、そこにはいない。
残ったのは“足跡”だけ。
地下駐車場の映像に映る、
白いブーツらしき輪郭。
彩香は目を閉じる。
「急がないと。」
その瞬間。
遠くから明るい声。
「彩香ぁぁぁ!」
全員、顔を上げる。
美月だ。
雑誌企画“北摂パン屋特集”。
両手に紙袋。
笑顔全開。
「ちょっと聞いてや!
この住宅街の奥にあるパン屋な、
クリームパンが神やねん!」
最悪のタイミング。
彩香は無言で端末を閉じる。
美月は近づく。
「なんや、また難しい顔して。
これ食べてみ?
カスタードがな、とろっとしてな――」
彩香が遮る。
「はいはい、忙しんじゃボケェ。」
車内が凍る。
美月の眉が跳ねる。
「あんた、クリームパン好きやから教えてるのにボケとは何や!」
彩香は腕を組む。
「ボケやからボケなんや。」
「何やその理屈!」
「理屈ちゃう、事実や!」
完全に子ども。
あかりが小声で言う。
「今それやる?」
澄香は顔を覆う。
美咲は遠い目。
だが美月は本気だ。
「このパン屋な、
北摂で三本の指に入るで?
あんた絶対好きやって!」
彩香は吐き捨てる。
「今はパンどころちゃう。」
美月は頬を膨らませる。
「ほんま可愛げないな!」
彩香が返す。
「可愛げより任務や!」
二人の声が住宅街に響く。
北摂の夜に似合わない騒がしさ。
だがその喧嘩の裏で、
彩香の頭は止まっていない。
“Diplomatic Route-Δ”
Δは変更点。
予定が揺れている可能性。
搬出はまだ確定していない。
「……満潮前言うたな。」
彩香が呟く。
あかりが頷く。
「港ルートや。」
美咲が補足する。
「北摂の資金は、海へ流れる。」
彩香は立ち上がる。
「移送を止める。
玲奈を海に出すわけにはいかへん。」
美月はまだ不満顔。
「結局パン食べへんの?」
彩香は紙袋をひったくる。
「置いとけ。」
「食べるんやん!」
「後でや!」
「冷めたら美味しくないで!」
彩香は振り返る。
「クリームパンは冷めても美味い。」
美月は絶句。
「……それは認めるけど!」
車が動き出す。
住宅街の灯りが流れる。
北摂の風が強くなる。
彩香は窓の外を見る。
責任は重い。
玲奈が背負っていた重さが、
今ようやく分かる。
判断ひとつで、
仲間の運命も、県の未来も変わる。
だが逃げない。
「あの人が帰る場所、守るで。」
北摂の夜は静かだ。
だがその風は、
確かに海へ向かっている。
影が渡る前に、
NSTはその足跡を追う。




