海上空港非常線 第33話 泣かない搭乗者、震える小さな手 ― ファミリー・ゲートライン
連休初日の海上空港は、朝から明るすぎた。
出発ロビーには、旅の高揚が満ちている。大きなスーツケースを引く父親、土産袋を早くも抱えた母親、飛行機に乗る前から興奮して走り出しそうな子ども。保安検査場へ向かう列は長く、搭乗口の前には家族連れが何組も座っていた。
だが、明るい場所ほど影は濃くなる。
白浜麻衣は、搭乗ゲート近くで一人の男の子に気づいた。
泣いていない。
騒いでもいない。
母親の隣に、ただ立っている。
それだけなら普通だ。
だが、手が震えていた。
小さな手が、首から下げたポーチをぎゅっと握っている。指先が白くなるほど力が入っている。顔は無表情に近い。目だけが、周囲を怖がるように動いていた。
麻衣の表情が変わる。
「……あの子、怖がってる」
隣にいた真砂里緒が、すぐに視線を向けた。
「迷子?」
「違います。迷子の顔やないです」
麻衣は静かに言った。
「泣けへんくらい怖い時の顔です」
幼稚園教諭を目指す麻衣には、分かる。子どもは怖い時、必ず大声で泣くとは限らない。本当に怖い時は、声が出ない。助けを求めることさえ分からなくなる。
里緒の顔から笑みが消えた。
「私が親御さんに入る。麻衣ちゃんはその子を見て」
「はい」
里緒は空港警察官として、自然に母親へ近づいた。
「すみません。お子さん、少し緊張されていますね。初めての飛行機ですか?」
声は柔らかい。
警戒させない。
だが、視線は鋭い。
母親はぎこちなく笑った。
「ええ……少し怖がりで」
その答えは普通だった。
だが、普通すぎた。
里緒はポーチを見る。
「大事なもの、持ってるんですね」
母親の視線が一瞬だけ泳いだ。
その一瞬で、里緒は確信した。
何かある。
麻衣は男の子の前にしゃがんだ。
「こんにちは」
男の子は答えない。
「飛行機、ちょっと怖い?」
男の子は、ほんの少しだけ頷いた。
麻衣は無理に笑わせようとしなかった。
「怖い時は、怖いって言うてええんやよ」
その言葉に、男の子の手が少しだけ震えた。
首から下げたポーチ。
子どもの物にしては、重そうだった。
麻衣は触らない。
奪わない。
まず、安心させる。
「お名前、教えてくれる?」
少し間があった。
「……ゆうと」
「ゆうとくんやね」
麻衣はやさしく頷いた。
「お姉ちゃん、麻衣っていうんよ」
ゆうとはポーチを握ったまま、目だけで麻衣を見た。
仮設詰所に、里緒から報告が入る。
「対象は男児一名。ポーチに不審。母親も事情を完全には把握していない様子です」
玲奈の声が短く返る。
「子ども優先。騒がせるな」
彩香が即座に配置を切る。
「双子、搭乗口左右。美咲、背後導線。美音、ポーチの反応見られるか」
「距離が近ければ」
「麻衣、無理に取るな」
「分かってます」
あかりが前に出そうになる。
「私、受け取り役探します!」
彩香が即座に止める。
「まだや。お前が動いたら目立つ」
「でも!」
「子どもが怖がっとる。今は麻衣と里緒さんに任せろ」
あかりは悔しそうに止まった。
黒鷹のやり口は汚かった。
子どものポーチに小型デバイスを仕込む。
親には「搭乗口で知人に渡してほしい」とだけ伝える。
中身は言わない。
子どもには「絶対に離すな」と脅す。
搭乗直前の混雑。
親子連れ。
子どもの持ち物。
誰も疑わない。
「腐っとるな」
彩香が低く吐き捨てる。
玲奈は画面を見たまま言った。
「だから今日、潰す」
搭乗案内が始まった。
列がゆっくり動く。
ゆうとの手が、さらに強くポーチを握る。
麻衣はその隣に立った。
「ゆうとくん」
男の子が見上げる。
「それ、重いやろ」
ゆうとは答えない。
「でも、もう一人で持たんでええよ」
男の子の目に、涙が溜まった。
「怒られる……」
小さな声だった。
麻衣の胸が痛んだ。
「誰に?」
「知らん人……。絶対なくすなって……」
麻衣は、ゆっくり頷いた。
「大丈夫。もう怒られへん」
そして、ほんの少しだけ声を強くした。
「お姉ちゃんが守るから」
その時、受け取り役が動いた。
黒いジャケットの男。
搭乗口の列に紛れ、親子の近くへ近づいてくる。
里緒が前に出た。
「お客様、搭乗順の確認をしております」
自然な声。
だが、男の進路を塞いだ。
男は笑う。
「いや、家族と一緒で――」
「確認します」
里緒の声は柔らかいまま、逃がさない。
男の視線がゆうとのポーチへ向く。
その瞬間、麻衣が動いた。
小さな体を、ゆうとの前に入れる。
「この子には、触らんといてください」
声は静かだった。
だが、搭乗ゲートの空気が変わるくらい硬かった。
男が一歩近づく。
麻衣は退かない。
体格差はある。
力では勝てない。
それでも、退かない。
後ろでゆうとが小さく震えている。
麻衣は振り向かずに言った。
「大丈夫。後ろにおって」
それだけで、ゆうとの手が麻衣の制服の裾を握った。
「今や」
玲奈の声。
迫田ツインズが左右を閉じる。
美咲が背後の逃げ道を消す。
美音がポーチ内の微弱反応を確認する。
「電子反応あり。小型デバイスです」
里緒が警察官として男の腕を取る。
「確認にご協力ください」
男が抵抗しようとした瞬間、彩香が前へ出た。
「あかり」
「はい!」
ここでようやく、あかりが走る。
短く、鋭く、無駄なく。
男の反対側を押さえ、逃げる方向を潰す。
「確保です!」
騒ぎは最小限だった。
周囲の乗客は、少し搭乗確認が長引いた程度にしか見ていない。
ポーチは慎重に回収された。
中に入っていたのは、搭乗ゲート端末へ近距離接続するための小型デバイス。
もし渡っていれば、保安通過記録と搭乗情報を一時的に撹乱できた。
子どもの手を使って、空港の記録へ穴を開ける。
黒鷹らしい、底の冷たい手口だった。
任務後。
別室で、ゆうとはようやく泣き出した。
声を殺すような泣き方ではない。
大きく、遠慮なく、子どもらしく泣いた。
麻衣はその背中をそっと撫でた。
「よう我慢したね。でも、怖い時は泣いてええんやよ」
ゆうとは頷きながら泣いた。
母親も泣いていた。
事情を完全に知らなかったとはいえ、自分の子どもを巻き込んでしまった恐怖と後悔が、一気に出たのだろう。
里緒は責めなかった。
「お母さんも怖かったですよね。でも、ここからは私たちが対応します」
警察官として必要な確認はする。
だが、人として傷を広げない。
それが里緒の強さだった。
詰所に戻ると、彩香が低く言った。
「麻衣、里緒さん。今日は二人やな」
玲奈も頷く。
「麻衣は子どもを守った。里緒は現場を守った」
麻衣は小さく首を振る。
「怖い思い、させたくなかっただけです」
里緒が優しく笑った。
「それが一番大事なんよ」
そして、少し照れた麻衣を見て続ける。
「麻衣ちゃん、ほんまに子どもの守り方を知ってるね」
麻衣は目を丸くする。
「そうですか?」
「うん。あの子、麻衣ちゃんの後ろでやっと安心して泣けた。子どもが安心して泣ける場所を作れる人って、なかなかいないよ」
麻衣の表情がやわらかくなる。
「ありがとうございます」
あかりが横から言う。
「麻衣さん、絶対いい先生になりますよ!」
彩香が即座に突っ込む。
「お前は先生に怒られる側やろ」
「なんでですか!」
玲奈の口元が、ほんの少し緩んだ。
海上空港の搭乗ゲートには、また普通の声が戻っていた。
「ご搭乗のお客様は――」
案内放送が流れ、飛行機は定刻通りに出る。
誰も知らない。
ひとりの子どもの震える手が、悪意の道具にされかけたことを。
その小さな手を、麻衣と里緒が守ったことを。
小さな体で子どもの前に立つ麻衣。
警察官として優しく現場を支える里緒。
二人の警戒線は、銃声よりも静かで、鋼よりも強かった。




