遠州の勇者、山霧を裂く
兵庫県西部、宍粟市。
播磨の奥座敷とも呼ばれるこの土地は、中国山地の深い山並みに抱かれている。揖保川の源流が流れ、山々の間を林道が縫うように走る。昼は澄んだ空気と豊かな森が広がり、秋には山全体が紅葉で燃える。だが夜になると、事情は変わる。街灯のない山道は闇に沈み、濡れた路面と急カーブが続く林道は、土地勘のない人間にはただの迷路だ。
その迷路を使う連中がいた。
黒鷹――
リコールされた元県知事の私兵と呼ばれる連中だ。
奴らは山中の資材置き場を中継点にして、違法物資を動かしている。トラックでは目立つ。だから使うのはオートバイ。軽くて速く、山道では最も厄介な乗り物だった。
夜の宍粟の山。
霧が林の間を流れていた。
その闇の中を、三つのエンジン音が裂いていた。
二台は逃げる側。
黒鷹の構成員だ。
そしてもう一台。
追う側。
河合美音。
遠州の勇者――浜松市出身。
船舶免許、大型自動二輪、大型自動車。陸でも海でも動ける女。浜松オートレース場のエキシビションマッチで現役レーサーに勝ったという、半分伝説みたいな話も持っている。
その腕前は、今この山道で証明されていた。
バイクは黒い林道を滑るように走る。
前方の黒鷹の二台は全力だった。エンジンを唸らせ、濡れた路面を気にせずアクセルを開けている。
だが後ろから迫る一台は、違った。
速い。
だが、荒くない。
河合美音の走りは、静かだった。
無線が耳元で鳴る。
「美音さん、距離どうや」
西川彩香の声だ。
「視認しています」
短い返答。
その声は、夜の山と同じくらい落ち着いていた。
前方の黒鷹のバイクがカーブへ突っ込む。
普通なら減速する場所だ。
だが美音はアクセルを戻さない。
車体が深く傾く。
タイヤが濡れたアスファルトを掴む。
滑る。
だが崩れない。
美音のライン取りは、迷いがなかった。
オートレーサーのそれだった。
彩香が無線の向こうで小さく呟く。
「……ほんま、化け物やな」
玲奈の声が静かに落ちる。
「遠州の勇者や」
その瞬間だった。
前方の黒鷹の一台がミスをした。
カーブの出口でラインを外す。
美音は見逃さない。
アクセルを一段開ける。
エンジンが吠える。
距離が一気に詰まる。
もう一台の黒鷹のバイクが振り返った。
驚いている。
当然だ。
山道でこの速度、この安定。
普通の警察ではない。
美音はそのまま車体を横に滑らせた。
林道の中央。
逃げ道を塞ぐ。
黒鷹のバイクが急ブレーキを踏む。
もう一台も止まるしかない。
林道にエンジン音が響き、そして静かになった。
無線から玲奈の声が落ちる。
「確保や」
短い言葉だった。
任務は終わった。
——
林道の麓。
警察車両のライトが森を照らしている。
美音はゆっくりとバイクを止めた。
エンジンが静かに落ちる。
ヘルメットを外す。
バイオレット系のショートカットが、夜風に揺れた。
短い髪がライトに照らされ、紫の光を帯びる。汗をかいた額に数本の髪が落ちるが、それを指で軽く払う仕草が妙に堂々としていた。
勇ましい。
それが一番似合う言葉だった。
山本あかりが走ってくる。
「美音さん!!」
ハイテンションだった。
「めっちゃかっこよかったです!」
美音はバイクのハンドルに軽く手を置いたまま言う。
「任務ですから」
あかりはさらに興奮する。
「ほんと速かった!」
美音は小さく首を振る。
「普通です」
その横で玲奈が歩いてくる。
静かな足取りだった。
「河合さん」
「はい」
「助かった」
短い言葉。
だが重みがあった。
彩香も腕を組んで笑う。
「ほんま感謝してます」
美音は軽く頭を下げる。
「任務です」
それだけだった。
宍粟の山は静かだった。
霧の中に、さっきまでのエンジンの熱が残っている。
遠州の勇者。
その異名を持つ女は、
ただ静かにバイクを見つめていた。
戦いは終わった。
任務は成功した。
だが彼女の顔に浮かぶのは、勝利の笑みではない。
いつも通りの、静かな表情だった。
それでも夜の山道は、
さっきまでそこを走っていた一人のライダーの強さを、
確かに覚えていた。




