煙突の灯りは消えない ― 四日市、静かな女の夜
伊勢湾に面した三重県四日市市。
巨大な石油コンビナートが並ぶ、日本有数の工業都市だ。夜になると煙突の航空灯が赤く点滅し、無数の配管と塔が光を反射する。工場夜景の美しさは全国でも知られ、カメラを持った観光客が港へ集まるほどだ。
この街はかつて、公害で深い傷を負った。
四日市ぜんそく――その名は全国に広まり、人々の暮らしを脅かした。しかし住民と企業、行政が長い年月をかけて環境対策を進め、いまでは環境先進都市として再生を果たしている。
夜景はただの光ではない。
ここに生きる人々の誇りの灯りだ。
そして、その街に帰ってきている女が一人いる。
NSTの突入要員、山本あかりだ。
任務中の負傷は、想像より重かった。
靭帯損傷。しばらく安静が必要。
現在、四日市の実家で療養中である。
その住宅街の一角に、一台の黒い車が静かに止まった。
ドアが開く。
降りてきたのは岡本玲奈。
西日本特別諜報班NST――
静かなる美貌のボス。
インターホンを押すと、玄関の扉が勢いよく開いた。
「あんたが岡本さんか」
あかりの父だった。
コンビナートの技術者。巨大なプラントを扱う現場の人間だ。普段は寡黙で温厚な男だが、その目は怒りに燃えている。
「……はい。岡本玲奈です」
次の瞬間、父が声を荒げた。
「警察官なんやろ!?
なんで安全に配慮した指示出せやんだんや!」
母も続く。
「うちら、あの子をどれだけ大事に育ててきた思とるんやよ!」
怒りが家の中に満ちる。
ようやく授かった一人娘。
その腕に包帯が巻かれて帰ってきたのだ。
玲奈は動かない。
「……申し訳ありません」
頭を下げる。
父の声がさらに強くなる。
「謝れば済む話やないんや!
あんた、現場の責任者やろ!」
玲奈は顔を上げた。
静かな目だった。
「……すべては私の責任であります」
神戸訛りの関西弁が、ゆっくりと続く。
「親御さんのお怒りは、ごもっともです」
父はまだ睨んでいる。
玲奈は言葉を続けた。
「私も……両親を中学生の時に交通事故で亡くしました」
空気が止まる。
「突然、家族を失う気持ちは……痛いほど分かります」
その瞬間だった。
玲奈の目から、涙が落ちた。
NSTの誰も見たことのない涙。
「守れなかった後悔は……一生残ります」
父の表情が変わる。
怒りの熱が、少しずつ引いていく。
奥の部屋から声が聞こえた。
「お父さん、もうええって」
あかりだった。
腕を固定したまま、苦笑している。
「玲奈さん悪くないんやよ」
母が振り向く。
「あかり、寝とらなあかんやろ」
「あたし元気やって」
父は黙り込む。
しばらくして、深く息を吐いた。
「……言いすぎたわ」
玲奈は首を振る。
「当然です」
父は静かに言った。
「でもな……」
少し間を置いて続ける。
「うちの娘、あんたのこと信じとる」
玲奈は黙って聞いている。
父の声はもう怒っていない。
「守ってやってくれ」
玲奈は深く頭を下げた。
「……必ず」
その夜。
玲奈は四日市港へ車を走らせた。
目の前に広がるコンビナート。
巨大な蒸留塔。
鉄の配管の迷路。
煙突の航空灯が赤く瞬く。
人間の技術が作った巨大な都市。
かつて公害に苦しんだ街。
それでも立ち上がった街。
そして、あかりが誇りに思う街。
玲奈は静かに空を見上げた。
涙はもう乾いている。
守るべき人間がいる。
それがボスの役目だ。
煙突の灯りが赤く点滅する。
夜風が海から吹く。
四日市の夜は、煙の色をしている。
そして静かな女は、
誰にも知られず、また立ち上がる。




