コピーとオリジナル
私はまぶたを開いた。壁紙と同じざらついた白い天井が見える。体が気持ち悪い。汗だくだ。
顔をしかめた私は布団の上で起きた。そのまま体を九十度右に向けて立ち上がる。四畳半の部屋から台所に移って、隣の洗濯機へパジャマと下着を入れてから風呂場に入った。湯の蛇口をひねってシャワーを浴びる。最初に出てくる冷たい水で意識がはっきりとした。そのままじっとしていると水から湯へと変わる。
ようやくしっかりと目が覚めた私は風呂場から出て体を拭いてから、白のキャミソールとショーツを身に付けた。次いで冷蔵庫から牛乳パックを取り出してコップに注いで、それを四畳半の部屋にあるちゃぶ台まで持って行く。
座った私は脇にある充電器から片耳に引っかけるタイプのネットワークデバイスを手に取った。それをワイヤレスイヤホンのように右耳へと取り付ける。
「ディスプレイオープン」
中空に目を向けたままの私はつぶやいた。すると、目の前に半透明の画面が現われる。昨日閉じる直前まで見ていたページだ。音声入力で別のページへと移ってゆく。最初に知り合いのSNSの投稿を見て、次に自分宛のメッセージを確認して、気になる話題を拾っていった。毎朝コップを傾けながらの日課だ。
それらが終わるとコップを片付け、汗で濡れたシーツを洗濯機に入れて動かした。起きてすぐにすれば今頃干せるのにいつも忘れてしまうのは悪い癖だと思う。でもなぜか直せない。
朝の間にやることはほぼ終わった。後は掃除がのこっているだけだけれど、これは昼前にすればいい。他の予定はなし。さて、どうしようか。
悩み始めたところで右耳にコール音が届いた。同時に半透明の小画面がポップアップして相手の名前が表示される。
「マミ、朝早くからどうしたのよ」
「いやぁ、こっちは徹夜明けでさ。誰か話し相手がいないかなーって思って探してたら、一人いるじゃんってね」
私が電話に出ると軽い調子の声が耳に届いた。同時に目の前、ちゃぶ台の向こう側に半透明の女の子の映像が現われる。薄く茶色に染めた髪を肩まで伸ばす制服姿のマミだ。
その半透明のマミがちゃぶ台に身を乗り出すようにして話しかけてくる。
「徹夜明けって、あんた別に寝なくてもいいじゃない。データなんだし」
「もー、エミひどくない? そりゃそーなんだけどさ、ちょっと生きてたときのフリをしときたいなって思って」
頬を膨らませたマミが拗ねた。でもそれはわずかな間だけで、すぐに元に戻る。
私とマミは戦争被災者だ。私は自分以外を失い、マミは自分さえも失った。でも、新たしい物好きだったマミはその直前に自分を電子化していたので、そのデータは残る。今、私が会話しているのはそのデータとだ。
とは言っても、私は別にマミと元から親しかったわけではない。たまたま当時同じ学校の同学年だったというだけだ。当時、校内のどこかで見かけたことがあったかもしれないけれど、話をしたことはない。
話をするようになったきっかけはマミからの電話だった。聞けば、出席名簿と生存者名簿を比較して生き残った同じ学校の同年代に電話をかけまくっていたらしい。私はそれに応じたわけだ。
以来、たまにこうやって話をする仲になる。
「フリをしたいんだったら、夜は寝て朝に起きるって生活をすればいいじゃない」
「いやぁ、そこはほら、ずっと起きてても平気なんだから何かしておきたいじゃん」
「わがままねぇ。あれ? でも、だったあんたと同じ電子化した人間と話をしていたらいいんじゃないの?」
「さすがにずっと話をしてると飽きるわよ。話の合う人ってずっと少ないし」
ちゃぶ台の上で少し口を尖らせたマミが私に面白くなさそうな顔を向けてきた。最近少しずつ増えてきているとはいえ、まだ自分の記憶を電子化した人間は少ない。それに、電子化する人は大抵年寄りで若い人は少なかったりする。どこかのウェブサイトで読んだことがあるけれど、デスマスクを作る感覚で自分の記憶を電子化するらしい。
だから、マミのように十代で電子化された人格というのは非常に珍しいのだ。私はそのことを思い出した。
そんな私に対してマミはしゃべり続ける。
「トオルもサナもケンジも今は別のことをやってるから、相手をしてくれないんだよね」
「マミたちってデータの塊なんでしょ? コピーして二つ同時に何かするってできないの?」
「データの塊って言い方に引っかかるけど、まぁいいわ。本人をコピーすることはできるけど、コピーした複製人をコントロールすることができないの。自分が二人に分かれて、それぞれが別々の場所で違うことをしてるとして、それって両方コントロールできると思う?」
例えば今本人がここでマミとしゃべっている間に、会社で複製人が仕事をすることを思い浮かべた。でも、実際にどうなるのかは想像しきれない。
「私には無理そうだけど、マミにも無理なんだ」
「基本的に人間だからね、アタシ。そういう頭の使い方ができないの。頭のいい人が言うには並列思考っていうのができるのならやれるらしいけど」
「どうするの、それ?」
「知らない」
少しつまらなさそうにマミが首を横に振ったのを私は見た。知っていたら今頃やっているかと思い直す。
「ところで、エミって自分を電子化するつもりはないの?」
「私? 別にいらないかなって思ってる」
「いろんな所に行けて便利だよ。外国人と話をするときも翻訳機を頭にインストールしたら直接話ができるし」
「そうなんだろうけど、電子化って結局自分のコピーでしょ。そのコピーがいろんなことをできても、私が何かできるようになるわけでもないし、したわけでもないじゃない。それってつまり、自分の記憶を持った他人が何かしただけなんだから、私には何のメリットもないよ」
「でも、記憶の差分のフィードバックはできるわよ?」
「動画や立体映像を見るのと変わらないじゃない」
「いやいやそんなことはないわよ! 自分が体験したって記憶をフィードバックするんだから、ちゃんと感じたって気になれるんだから」
「それVRゲームをプレイするよりひどいじゃない。やった気になれるだけで実際には何もやってないんだから」
仮想現実だと確か疑似体験、まるで本当にやっているかのように体験できるんだっけ。それに対して、記憶の差分のフィードバックって電子化した自分の体験をなぞるってネットで見たことがある。他人の体験を後からなぞって自分が体験したように感じることを追体験って言うらしいけれど、正にそれね。
「電子化する人を否定するつもりはないけど、私は電子化しても自分に良さそうなことがないと思うから興味ないかな」
「うーん、残念。電子化してくれたらずっと一緒に遊べると思ったのに」
「あんたね、結局ほしいのは遊び相手ってことじゃない。私じゃなくてもいいってことでしょ」
「いやいや、エミに電子化してほしいんだから本人が必要ってことじゃん」
「それって電子化するための本人としてでしょ。電子化できたら私は必要なくなるじゃない。だって、ずっと遊ぶのは電子化した私となんでしょ?」
この辺りは考え方の違いだけかもしれないけれど、私としては譲れない一線だった。例え私の記憶を電子化することがあったとしても、それを自分自身だとはどうしても思えない。この考え方は今後も変わらないと確信している。
「むー、そういうもんかなぁ」
「そういうものね」
「音楽性の違いってやつ?」
「まぁたぶんそれ」
「そっかー、ならしょーがないなー」
「何がしょうがないの。死ぬ前に電子化するかもしれないから、それで我慢して」
「先が長いなぁ。一回お試しで電子化してみない?」
「はいはい、気が向いたらね」
「ちぇ、エミのけち。アタシ、もう行くね」
「また今度ね」
互いに挨拶をすると、目の前に浮いていた半透明のマミの姿が消えた。結局、何のために電話をかけてきたのかわからない。
私は深く考えることなく立ち上がって散歩をする準備を始めた。