第一章 1話 迷い道
草木の揺れる音で、私は目を覚ました。
冷たい土の上で意識を失っていたようで、地面に生い茂る芝生が肌をちくちくと刺激する。
影が私を覆い隠すように、背の高い木々が果てしなく広がって、枝と枝が絡め合い光を遮断している。
周りには視界の悪い霧が漂り、人の気配が全く感じず、私の気が遠のいていく。
どうやら、私は今森の中心にいるらしい。
どうして、目を覚ましたら森の中いたのか。なぜ、私はこんなところにいるのか。
「わからない」
自問しても、答えは出ない。
どうにか、意識を失う前に私がなにをしていたのか思い出そうとしても、不思議なことに自分の名前が石羽蒼空ということしか分からない。
他の記憶が頭にちらついているようで、あともう少しで思い出せそうなのに、霧がかかったように朧気で、しっくりこない。
手がかりがないか、服のポケットを探っても残念なことに中はもぬけの殻だった。
何も持っていないことなんてありえるだろうかと自分に呆れつつ、とりあえず森から出ようと闇雲に歩き始めることにした。
あれから歩き続けてどれくらい時間が経過しただろうか、行道から光が刺すことがなく、長い森がただ続いてる。
変わらない景色に気分はどんよりと落ちる。どこかで休める所はないのかと思いながらも、歩みを止めることは出来なかった。
「うわぁ!? 」
疲れ果てた身体で歩き続けていた影響か、でこぼこと荒れた地面に足を滑らせ、盛大に前へと倒れた。
咄嗟に、地面に手をついて衝撃を軽減したものの、左の足首を捻ってしまった。
散々歩き回っていたから体力も尽きてきたし、流石にこれ以上は歩けない……。
はぁ、と大きなため息をつき地面にへたり込んだ。
日が暮れ始めたことに焦りを感じ、休むことを忘れて進み続けしまった。
おそらく夜の森には明かりが存在しないだろう。
ずっと何処へ向かっているか分からない暗闇の中を歩き続ける。考えただけでゾッとする。
日があるうちに、この森の中から抜け出さないと……!少し休憩して、早く出口を探そう。
でも、あと何時間歩くか分からない道を、怪我した足のまま歩くと悪化してしまうかもしれない。
あぁ、これからどうしよう……。
野宿どころか、このまま家に帰れないで野垂れ死んでしまうんじゃないかと、不安に包まれる。
もし無理して歩き、帰り道が見つからなかったとしたらその後はどうするのさ。浅はかな考えは、あまりにも無謀だ。
そうこうと行動出来ずに、意気消沈としていると森の奥からゴソゴソと物音がした。
何の音か分からないけど縋る気持ちで音の方へ、木に手を支えられながら左足を引き摺って向かう。
***
「ヒュッ」
自分の喉から引き攣った音が鳴り、慌てて片手で口を塞ぐ。
影のような毛並みから覗く鋭い牙、地面を裂くように爪を立たせ周囲を威圧している怪物は、鹿の角を生やした狼の姿をしていた。
なんの音かも分からないで向かうんじゃなかったと、後悔で日が暮れてしまいそうだ。そう思ったって既に遅い。目の前の怪物は片目を赤く光らせて、私が敵かどうか今尚見定めている。
私を鋭い眼差しで睨む 怪物からどうにか逃げられないかと思い巡らすが、先程の少し行動しただけで左足の腫れは既に悪化し、痛みを放つだけで動いてはくれない。
──死。
逃げられない状況に、この先の行く末を考えてしまう。その恐ろしさに、私は今日何度目かわからない地面に崩れ落ちる。
自身の左足をチラリと目にすると、足首は赤黒く変色してズキズキと痛みが走る。早く立ち上がって逃げないとダメなのに、身体は言うことを聞かず、心は放心とする。
周りには人一人も見当たらなく、ここに居るのは私と未知の怪物だけ。ヒヤリと背筋が凍りついた。
私死ぬの?
半心、諦めている状況でも、心の奥底では誰かに助けを求めてる。そんな弱気な自分が本当に情けない。
怪物は、こちらを警戒して"まだ"襲いかかってくる様子はないが、一歩間違えたら今にも噛み付く勢いだ。
大人しくしていれば、怪物が去ってくれることを祈り、膝を抱えて目を瞑り俯いた。
「人間? 」
透き通る凛とした声が聞こえて、そっと顔を上げる。
手入れが行き届いていない癖っ毛のある黒檀の髪に、ボサボサな長い前髪から覗く黒曜石を模した瞳がじっとこちらを凝視していた。
半分は前髪で顔を覆い隠していて表情は伺えないが、チラリと見える瞳には光が通っていなく、見つめていると深淵に引き込まれそうだと、バッと勢いよく少年から視線を外してしまった……。
年齢は14歳くらいだろうか。自身と同等、少し高いくらいの身長で、顔つきに幼さが残る少年がそこに立っていた。
突如現れた少年に、やっと人と出会えたと喜んだ一瞬、なぜ森の奥深くに幼気な少年が居るのだろうと、少し不審に思ってしまった。
助けを求めようとも思ったが、こんな危ない状況に少年を巻き込むことも出来ない。かといって自分を置き去りにして、少年に逃げてとも叫べない。
人が増えたところで、この怪物に太刀打ち出来るのか。そもそも少年は私を助けてくれるのかと、ぐるぐると頭を悩ませていた時。
タタタッと音を鳴らして急ぎ足で怪物は去っていった。
どうしようと行き詰まっていたのに、思っていたよりもあっさり私は助かったのかもしれない、と拍子抜けする。
タイミング的に怪物は少年から逃げたように見えた。
少年は何者なんだろうと少し身構えながらも、結果的に私は少年に助けてもらった身なのであわてて地面から体を起こし頭を下げた。
「助けてくださりありがとうございますッ! 」
しばらく経っても反応がないことに怖くなって、目線だけ少し上げて少年の顔を伺った。
少年はじっと私を見つめながらも、体はピシャりと固まっていて言葉が届いているのかすら分からない。
そんな少年の様子を不思議に思ったが、未知の怪物に驚いたのかもしれないと勝手に憶測を立てた。
未だに動かない少年が心配になり、私はそっと少年の肩に右手を置いて声をかけた。
「……あの、大丈夫ですか? 」
伸ばした手が少年の肩に触れた瞬間、少年は飛び上がり蒼空から距離を置いて仰け反った。
「生きてる!? 」
……え?
少年の反応に、私まで体が固まる。
生きてるってなに?
え、私死人だと思われているの?
「い、生きています! ほら、手温かいですよ……? 」
誤解を解くために、私は少年の手をギュッと掴んで、自身の体温で生きてることを証明してみせた。
「温かい……ほんとうに、人間なんだ」
「……人間。生きてる人間! やっと出会えた……!! 」
少年は蒼空の右手をじっと見つめながら呟き、次第に頬を緩ませて笑い始めた。
少年の様子が少し怖くなって手を離そうとすると、少年は蒼空の手を強く繋いでぶんぶんと縦に振りはじめた。
「僕、ずっと森の中に篭っていたから人と出会うの、すごく久しぶりなんだ。この森に何か用があって来たの? 僕が案内してあげようか! 」
少年は少し不審だけど、やっとこの森から抜け出せる方法を見つけたと思い、少年に森の出方を伺う。
「あの実は、目が覚めたら森の中で倒れていて、家に帰りたいのですが迷ってしまって……」
「へぇ。起きたらこんなしめじめとした森の中だなんて。それは、それは、災難だね。そんな事例初めてだ」
少年は一瞬、眉を顰めて考え込んだあと、蒼空に向き直す。
「今まで大変だったね。光石は持ってる?」
「光石? 」
「光石持っていないの!? 」
少年は蒼空の返答に、目を見開いた。
「どうしよう、光石がないと君の帰り道がわからないよ」
「……光石ってなんですか? それに、帰れないっていったい」
少年の言葉に、私は戸惑う。
光石って光る石? そんな物は持っていない。それと帰れないことになんの関係が……?
「光石は君の帰り道だよ。この呪われた森は帰る場所がないと一生森の中を彷徨うことになる」
「だから、この森に入る時は光石を持って入らないと危険なんだ」
少年の話に耳を疑う。まるで漫画のような、あまり現実では聞くことがないような事を言われてますます困惑する。
「あの、何かの漫画の話ですか?」
「ん? 漫画ってなぁに?」
「……。えと、それじゃあ呪われた森って……、ここは何処なんですか? 」
「この森の名前はトータスだよ。元々は神聖な場所だったけど、今では人が寄り付かない呪われた場所だよ」
何を聞いても、不思議そうに顔を傾げられて不安になっていく。
私からしたら、少年の話の方が理解出来ない。
でも当たり前の事のように反応されては、此方がおかしいのかなと分からなくなってしまう。
「君は不思議な子だね。この森を知らないなんて」
「でも、現状を信じたくないのも分かるけど、今は大事な話なんだ」
──もう一度言うよ、君には帰る場所がないんだ。
その言葉に、私は遅れて言葉の意味を理解していく。
彼の話を聞く限りこの森は有名のようだけど、トータス……。そんな名前の森、私は一度も耳にしたことがない。
呪いも、いったい何の話だ。分からない。
それに、
「帰る場所がないって、そんなはず!! 私は、私には……」
心のどこかで嫌な予感をして避けていた思考を嘘だと、否定したくて無理やり思い出そうとするが、拒むように頭が真っ白になっていく。
「……わからない。必ず、帰る場所があるはずなのに。自分の家も、どんな場所に住んでいたのかも、なにも、思い出せない」
嘘……、私には帰る場所があって、帰りを待ってくれる人が居る。
義母さん、義父さん、年下の幼なじみの……
──あれ、だれだっけ?
あ、どうして……、皆の名前も、顔も、覚えているはずなのに。
「あぁ、いや……、帰りたい……」
この事実を認めたくなくて頭を横に振り回す。
どんなに、記憶を辿ろうとしても霧が立ち塞がり、濃くなっていく。
この先を進めば思い出せると確信して、霧を掻い潜って記憶の深い所へ踏み出すが、ぽっかりと空いた忘却の穴に落ちて振り出しに戻る繰り返し。
そう一人で葛藤するが、過去に辿り着けないまま真っ白な記憶の中をさ迷い続ける。
「落ち着いて。君が思い出せない理由も、この森に呼ばれた意味があるかもしない」
目を覚まさせるように、優しく囁く声が届く。
ハッと我に返り、少年に顔を向けると私を安心させるように少年の目は和らいでいて。もう一度、「落ち着いた?」と少年は私に声をかける。
「あ……、ごめんね、取り乱してしまって。理由……、確かに、そう、だよね! 」
彼の言葉を復唱して自分を静める。
信じられないけど、現状私の回りではおかしなことばかり起きている。
森の中でいきなり目が覚めて、そして記憶がないまま、未知の怪物が現れたりと。
少年の言う通り、私がこの森に呼ばれたことには意味があるはず。そして、同じに記憶を取り戻すことも、帰る方法もきっと。
***
「一旦、僕の光石で森の外まで案内するよ。街に入ったら帰る場所を思い出せるかもしれないし」
少年は背負ってるバックから、黒く淡い光を放つ石を取りだした。
光る石というのは物は存在があること自体知っていたけど、こんなにも綺麗に漆黒の光を放っているなんて。
「す、すごい。光る石なんて初めて見た! 玩具じゃないんだよね、? 」
「玩具な訳ないよ。光石は貴重だからね! 」
「貴重なんだ……! 」
「ほら、ちゃんとついてきてね。僕と離れたら本当に迷子になっちゃうよ」
少年に急かされるまま、慌てて少年にぴったりとついて行く。
次に独り迷子になるなんて、そんな恐ろしいこと経験したくない。
「ふふっ。そういえば、自己紹介してなかったね。僕はケイラだよ」
少年はこちらを振り向きにっこり微笑む
距離が近いからか少年の顔がよく見える。端正とした顔つきで、表情を彩る全てのパーツがバランスよく配置されていて、中でもキリッと見開く、大きな黒曜石が埋め込まれているかのような瞳に目が行く。
だけど、何度見ても黒曜石に光が通っておらず、一瞬また怖気付いてしまう。
こんなに親切にしてくれる少年に、私はなんて失礼なことを考えているんだろう。
「え、と……私は、石羽蒼空って言います」
「石羽? おかしな名前だね〜」
「あの違くて、蒼空がファーストネームです」
ケイラという名前的に、少年は外人さんなのかなと思い急いで修正した。
日本人特有の黒髪黒目に、思わず同じ日本人だと思ったけど違ったようで少し驚く。
外国人なのに、日本語をスラスラと喋っていてとても上手。
「蒼空! いい名前だね! よろしくね、蒼空! 」
「はい、よろしくお願いします。ケイラさん」
「そんなに畏まらなくてもいいのに……、呼び捨てでもいいんだよ? 」
ケイラさんのしゅんとした反応に、気を悪くさせちゃったかなと戸惑ってしまう。彼からの言葉を受けてしまった以上気持ちに答えなくては、……よし!
「えと、よろしくね。ケイラ……くん」
だ、だめだ……慣れない。
年下の幼なじみにもくん付けなのに、誰かを呼び捨てになんてしたことが無い。
「あー! くん、ついてる! 」
「ごめんね、慣れていなくて」
「……んーん、やっぱりいいよ。君付けされたことないし、珍しくていいかも! 僕は蒼空って呼んでもいい? 」
くん付け初めてなんだ。珍しいと、私が驚いてしまう。今日の私は驚いてばかりだなと、内心、苦笑いしてしまう。
「あ、大丈夫だよ。皆にもそう呼ばれているから」
「ふーん、蒼空はどこの貴族のご令嬢? ここまで世間知らずなら平民なのかな」
「ね、ね、国内は今どんな感じ? ……あぁ、やっぱこの話はやめる」
「蒼空はキチュシャ知ってる? とっても美味しいお菓子だから食べたこと無かったら食べさせてあげたいな〜〜」
唐突に始まったケイラくんのマシンガントークに、私は答えられず押されながらも先程から感じていた違和感に冷や汗をかく。
そして同時に確信に変わる。
──噛み合わない会話。
──聞いたこともない食べ物に森の名前。
──そして貴族と平民。
「……ごめん、ケイラくん。さっきからなんの話しをしているのかわからないの」
「だから私も、ケイラくんに聞きたいことがあるの。この国は日本じゃない? それどころか地球じゃない、別の世界なの? 」
ケイラくんは足を止めて黙り込む。その表情から微笑みを消して、真剣な顔で蒼空と目を合わせた。
「……ちがうよ、この国はニホンって所じゃない。」
「なるほどね、僕らの会話のすれ違いはそこからだったんだね。蒼空の推測はあっているよ、絶対に」
「可笑しいと思ったんだ、この国の人間が呪われた森。トータスを知らないわけがはずないんだ」
「きっと君が光石を持っていないのも、この森に呼ばれたのも違う世界の人間だから」
声のトーンをさげ、スラスラと蒼空の推測にケイラは話を続けていく。
「この道案内も意味がないかもしれないね。森から出て、街へ行っても、蒼空の家はこの世界にないから」
──ねぇ、蒼空。
「蒼空さえよければ、記憶が思い出せるまでしばらく僕の家に来ない? 」
私を見つめる黒曜石には嘘偽りなく、私のことを本当に心配して言っているのだと感じ取れる。
最初はいきなり現れたケイラくんを訝しんでいた。でもいざ、彼と対話してみると不思議な所はあるけど、彼の真っ直ぐな眼差しにケイラくんのことを信じてみたい、そう思えた。
ケイラくんの言う通り、この世界の住民じゃない私には、街に出たところで何も無い。
「ほんとうに、ほんとうに! 人と話すのは久しぶりでさ。ずっとこの森で一人だったんだ」
「出来ることなら、少しの間でもいいから蒼空と会話していたいな」
ケイラくんはどこか寂しげで、縋るような弱い力で私の右手を握って引き留めた。
会話……。私はこの世界のことは何もわからない。
だからこの世界のことを知らなければ、元の世界に帰る手がかりすら手に入らない。
だとすると、私の答えは決まっていた。
「あの、ケイラくん。私に、この世界のことを教えて欲しいの……。だから、お願い。助けてくださいッ!! 」
嗚呼……、やっと言えた。
ずっと一人で森の中を彷徨って、怖かった。
だけど、ケイラくんと出会ってから左足の痛みも、怪物が現れた時の恐怖も、ケイラくんと会話してるうちに忘れていった。
彼が現れていなかったら、私は怪物から逃げることも諦めていたと思う。
その後はどうなっていたか、分かっているけど想像したくもない。
「うん、うん。助けてあげる」
「ずっとこの森で一人怖かったよね。もう大丈夫だから」
此処はすぐ夜になる。僕から離れないで。
ケイラくんはそう言って優しく、だけど強く、私を引き寄せた。
彼越しに暗くなり始めた森を見つめ、歩みを進めていく。
──そうだ。
怪物から助けてくれた時は、多分ケイラくんには届いてなかったから。
そのことも含めて、私は彼に聞こえる声で紡ぐ。
「ありがとう」
──私のことを、助けてくれて──