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アルフォンスは我に返った。昔のことを思い出していた。
海上に三隻の船が白旗をあげて浮かんでいる。
どれもライズランド王国軍の船だ。商船を改造した急造戦艦ではあるが、うち二隻は残骸とも呼べる状態である。攻撃したのはライズランド帝国海軍のプレナイト号。手負いの獣にはうかつに手を出すなという言葉があるが、まさにその通りだった。海に棲むという龍が突如として現れたかのように、帝国海軍旗艦プレナイト号は海面を暴れまわった。機関部が壊れて動けなくなったロードナイト号が援護射撃をしたとはいえ、たった一隻の、最新艦でもない、小さな戦艦である。プレナイト号に王国海軍は三隻もの船を奪われた。
「提督!」
機関長のあわてる声がする。船上を気の向くままに歩きまわる艦長……アルフォンスを探しまわったらしい。プレナイト号艦長アルフォンス・クーベリック少将は艦と同じ灰色の頭をかいた。
ライズランド帝国で起こった革命は、今や全土に広がっていた。革命の旗手は現皇帝の弟、ナイジェルで、彼の元には約半数の軍勢が集まった。帝国は皇都で反乱軍に敗北し、ライズランド王国が興った。ナイジェルは政治犯として収容されていた幽閉塔から担ぎ出された形ではあったが、その存在の成果は大きかった。ナイジェルの統治ならば体制にはさほど変化がないだろうとふんだ地方豪族や貴族が多かったからだ。そのほとんどは革命を生ぬるく見守っていた。中には闘犬の試合を観戦するように、どちらかに偏って支援する者もいたほどだ。彼らには理念があるわけではないから、自分が支援した側が負けるとあわててチップを賭け直すようなありさまだった。海での帝国の勝利は彼等にとって予想外だったに違いない。学問都市イスハルの防衛と海での勝利で、帝国軍のパトロンは急増した。皇都を追われた帝国軍が現状を維持するには、戦争に勝ちつづけて支援を得ることが必要だ。戦争には莫大な費用がかかる。資金を管理する主計課は頭を抱えているだろう。
「巨大イカでも出てきたか。もしそうなら、つかまえて食糧庫に放り込め」
機関長が呼吸を整える間にアルフォンスが口を開いた。堅苦しいのは性に合わない。軍帽も艦橋のデスクに放り投げたままだ。報告をうながすアルフォンスの声に、機関長は青い顔で伝えた。
「いやその、機関部の調子が」
言葉をつまらせる機関長に、隻眼の少将は容赦なくつづきをうながした。
「処置は」
今、プレナイト号を失う訳にはいかない。使えるうちは多少ムチを打ってでも使わねばならない。敵である王国海軍の船の大半は動きを止めたが、まだ敵母艦のセラフィナイト号は無傷のままである。
「応急処置はしました。原因は五日前の被弾のようです。船底からの浸水が原因です」
アルフォンスはおさまりの悪い髪をぐしゃぐしゃとかき回しながら、淡々とした様子で報告を受けている。機関長から手渡された軍帽の中に、戦艦と同じ灰色の髪を詰め込む。軍帽はアルフォンスが手をはなした途端、努力の甲斐なく引力に逆らい、びよんと上に浮いた。あきらめて、軍帽の庇を手で持つ。
「全く動かないわけではありませんが、いずれ本格的な部品の交換が必要になります」
「お前の腕でどれくらい長持ちさせられる?」
間髪いれずにアルフォンスがたずねる。その口元は「お前を頼りにしている」と言わんばかりに笑みの形になっている。提督から寄せられる信頼とプレッシャーに、機関長はごくりと唾を飲んだ。背筋を冷たい汗が流れていく。
「損傷部分の使用頻度にもよりますが、二週間ほど……」
「手に入りやすい部品か? 商業都市スォードビッツは、いまだに王国海軍のセラフィナイト号が守ってる。部品を取り寄せるのも苦労しそうだが」
「プレナイト号は最新艦ではないので、部品自体は比較的手に入りやすいと思います。しかし交換自体は大がかりな作業になってしまう。その時間を考えると……」
「いずれにせよ、ほうっておけば壊れるんだろう? それなら北方都市ハルシアナへ修理に戻るのもいいかもしれねぇな。報告ありがとうよ」
機関長に素手の右手を上げ、アルフォンスは礼を言った。本来その右手を包んでいるべき白手袋は、アルフォンスの軍服の胸ポケットでくたびれている。堅苦しいのは苦手である。
アルフォンスはすぐに司令室へと戻り、操舵輪をにぎっていた航海士を呼んだ。各自休憩の後、進路をハルシアナへ……海図を前にして航路や天候などの相談をする。
司令室の窓から見える天気は、大変晴朗である。マストにかかった帝国の旗がはためいている。風が強いようだ。遠くの海を見る。風のせいか、波は高い。その中を、プレナイト号は胸をはり、海水をかきわけ、波の抵抗を受けながらも進む。アルフォンスの髪と同じ灰色の船体に、波が白い飛沫をあげてかかる。甲板の上に飛んでくる海水をものともせずに、乗組員たちがそれぞれの仕事をこなしていた。望遠鏡で海を警戒していた乗組員の動きが一瞬止まり、急にあわただしくなった。すぐさま伝令が管を通して艦長の元に届く。
「右舷の方向、距離三〇〇〇先に船影。接近してきます。敵艦セラフィナイト号のようです」
少将が舌打ちをする。航海士が操舵輪をにぎる手に力を込めるが、手のひらが汗で湿っていて、つるつると滑りそうな気がする。緊張して高くなる鼓動を押し隠しながら、航海士は隻眼の少将を見た。
「全員で生き残って、美味い飯食うぞ。これから敵艦セラフィナイト号との戦闘に入る」
王国軍の新造戦艦セラフィナイト号との一対一の戦闘である。消耗しているプレナイト号がまともに戦えるとは、アルフォンスも思っていない。しかし敗戦直前の軍にありがちな、一矢報いるというムードはプレナイト号内にはなかった。飲兵衛は生きて美味い酒を飲むために、グルメは生きて美味い食事を食うために……それぞれが生き残るために戦っている。プレナイト号の連中は自己犠牲を美徳としない。それはアルフォンスが口を酸っぱくして言いつづけてきたことに感化された結果だ。
「砲撃手、敵艦セラフィナイト号の弾薬庫を狙え」
伝令管に向かって命令したアルフォンスの声に、砲撃手が「船体のどのあたりですか」と問う。
「お前らも船に乗って長いんだから、大体見当つくだろ! セラフィナイト号は元々帝国海軍の船だぞ」
「極秘で建造された戦艦セラフィナイト号の構造なんて、提督ならまだしも、末端の人間は知る由もありません」
新人は面食らって眉尻を下げるが、アルフォンスの下で長く過ごした連中たちは心得ている。少将は伝令管のふたを閉じ、甲板に様子を見に走る。艦砲射撃の音が聞こえる。砲弾が近付くごとに少しずつ音が大きくなって、海面に落ちては水飛沫が上がる。一気に戦場の緊張感が肌を刺した。
敵弾がプレナイト号のそばに落ち、大きな水柱を上げる。揺れに抗いながら目を凝らすと、敵艦の周囲にも似たような水柱があがっているのが見えた。敵艦セラフィナイト号が近付いてくる。至近距離に寄せて砲撃の正確さを増そうとしているのだろう。
「距離一〇〇〇まで近づけ。敵艦は大きい。小回りは利かんだろう。敵艦セラフィナイト号に対して九十度に腹を見せるようにプレナイト号を動かせ。完全には止まるなよ。すれ違うために取り舵をとったように見せかけろ」
「腹を見せると的が大きくなる分、敵弾が当たりやすいのではありませんか?」
敵艦セラフィナイト号はプレナイト号より性能がいい。アルフォンスはその昔建造中だった現在の敵艦、セラフィナイト号を何度か視察している。当時すでに現役だったプレナイト号より高性能であることは、疑う余地もない。セラフィナイト号より装甲も薄く、馬力も弱い小さなプレナイト号はまさに見習い騎士と言っていい。小回りが利くという点では優れているが、セラフィナイト号の航行速度の方が基本的には早い。しかし大きな船体の受ける抵抗と波の高さの中で、それを発揮することはできないだろうとアルフォンスは読んだ。
「セラフィナイト号が船首方向に打てる大砲は三門。横っ腹だと六門だ。まともに戦ったって勝てねえぞ。セラフィナイト号はプレナイト号と横並びを狙ってくるか、船首側にまわりこむか、セオリー通りならそのどちらかだ。絶対やらせるな」
伝令中にも砲撃の影響による飛沫が、雨のごとく降り注ぐ。ますます正確になっていく照準から逃れるためにプレナイト号も動きはじめている。高い波と敵艦が起こす波があいまって、激しく船体を揺らす。
アルフォンスはふと敵の指揮官を思い出す。おそらく赤毛の元帝国海軍准佐、カイルロッド・フレアリングだろう。かつての部下だった。
青年の顔を思い出す。アルフォンスの命令に返した、情けない犬のような困った顔が頭に浮かんだ。
──まあ、これも運命って奴だ。選んだ道が違っただけさ。
強い風が髪を乱すのを無視して戦況を確認する。先ほどまで豆粒大に見えた敵艦は、今やにぎりこぶし大になっている。先ほどと変わらず、波は高い。プレナイト号も本格的に動き出す。
敵艦セラフィナイト号からの激しい砲撃はやまない。距離およそ二〇〇〇。状況が逐一報告される。プレナイト号の砲門四つのうち、一つがやられたようだった。これで大砲の数は三門対三門になってしまった。こちらからの砲撃も当たってはいるが、装甲が厚いせいか致命傷を与えるまでには至らない。
セラフィナイト号が接近をやめる。それを無視してプレナイト号は近付いていく。距離およそ一〇〇〇。大砲の適性距離から考えると接近しすぎだとも言える。敵艦はすれ違う際に横からプレナイト号を狙おうとしているのだろう、動かない。
「取り舵一杯!」
プレナイト号が左側に前進して敵の進路を塞ぐ。敵がプレナイト号の真意に気付き、あわてて距離をとろうとする。だが進路は塞がれている。プレナイト号の残る三門の砲門が火を噴いた。比較的近距離からの砲撃はセラフィナイト号に直撃した。
「弾薬庫に当たったか?」
提督の声を追うように、小さな爆発がセラフィナイト号の内部で起こる。連動するようにいくつか小さな爆発がつづいている。セラフィナイト号の動きが止まった。
「休むな、撃て!」
砲撃手に指令を飛ばす。砲弾の応酬がつづき、波飛沫が甲板に降り注ぐ。セラフィナイト号は船首付近の大砲三門を主に使用して攻撃してくる。三門対三門の戦いは熾烈さを増す。セラフィナイト号は前進しない。近付きすぎて大砲が使えなくなってしまうのを避けたいのだろう。
完全に帝国海軍プレナイト号が有利かと思えた戦況に変化が起きた。一発の敵砲弾がプレナイト号に直撃したのだ。プレナイト号の船体が大きく揺れる。プレナイト号が発射した砲弾が照準を狂わせられて海に吸い込まれ、大きな水柱をあげた。
「被弾!」
「状況!」
副官が叫びながらこちらに向かってくるのがアルフォンスのわずかにせまい視界の隅に映る。ここぞとばかりにセラフィナイト号が回頭しはじめる様子が視認できた。プレナイト号の船尾方向に回頭しはじめたようだ。
「やらせるな! 少しくらいぶつけてもいい! できなければ敵船尾に回りこめ! 止まるな!」
提督が声をはり上げる。セラフィナイト号が回頭しきれず、プレナイト号とT型にぶつかった。小さなプレナイト号が大きく揺れる。プレナイト号を押しやる勢いで、セラフィナイト号は前進する。セラフィナイト号の機関銃が燃料をくべられた炎のように、激しく活動しはじめる。
「先ほどの被弾箇所ですが、機関部周辺のようです!」
副官のうめきに近い声を聞いて、アルフォンスは舌打ちする。先ほど調子が悪いと報告を受けたあたりだ。眉間には深いしわが刻まれていた。伝令管のふたを開けて機関長にたずねる。腹の底から搾り出したアルフォンスの声は、普段の彼からは考えられぬほど低い声だった。
「機関部は動くのか」
「機関部損傷。動きません」
爆発しないだけましかと呟いて、アルフォンスは髪をかきまわした。すぐに頭を切り替えて機関長にたずねる。
「応急処置は」
「もう修理じゃ無理です。こいつは完全交換でしょうね」
その答えはアルフォンスの予想していたものと同じだった。元から調子が悪いところに一撃を加えられたのでは、ひとたまりもない。敵からの砲撃はまだつづいている。その度に船体が大きく揺れ、時おり小さな爆発音までも聞こえてくる。
せまい伝令管の中をはね返る音が、遠くの海鳴りのように聞こえた。大きな爆発音に紛れていた波の音を、アルフォンスははっきりと聞いた。そうしてそれに混じって、女の声が聞こえた気がした。
『生きなさい、人殺し』
──お前は死んでもまだ俺に指図するのか。
何年も前に病死した女神官の声が聞こえた気がして、思わず苦笑する。すべての残響が耳に届き終えた頃、アルフォンスの顔から眉間のしわが消えた。凪の海のように静かな表情に変わる。
「白旗を揚げろ。その後、総員退去」
アルフォンスの声は簡潔で明瞭だったが、淡々としていた。その言葉を聞いて乗組員たちの動きが一瞬止まる。命令に従おうと動き出した者、砲弾を詰めて次の攻撃の準備をする者、固まったまま動かない者……それぞれがアルフォンスに注目している。少しして副官が悲鳴に近い声を上げた。
「しかし!」
「動けねぇ戦艦一隻で制海権なんて言っても仕方ねえだろ。熟練機関長が直らねえって言ってんだ。それともロードナイト号みたいに浮砲台でもやるのか」
副官の反論をものともせず、アルフォンスが告げる。アルフォンスは帝国海軍最高指令だ。皇都で恭順している大将や中将たちは命令を下さない。
「提督。我々はこの海戦にかけてきた。この船が沈むということは我々の命運も尽きたということです。敵が撤退する我々を見逃しますか? 捕まって殺されるくらいなら、船と運命を共にしたいと思ってはいけませんか。少しでも打撃を多く与えたいと思ってはいけませんか」
もちろんアルフォンスにも、乗組員たちの気持ちがわからないわけではない。けれども命がつきる最期の一瞬まで、シエラとかわした約束は果たさねばならない。フェシスの神官としてではなく一人の人間として応えてくれたシエラに自分も応えねば、穢土に住む酒飲みの女神に申し訳が立たないような気がした。
白旗を揚げた今、無駄に命を投げ出すこともないのは事実だ。
「俺は敵の指揮官を知ってるがな」
アルフォンスは言葉を切って、少し笑う。記憶の中の赤髪の青年は、やはり情けない犬のような顔をしていた。
「あいつは意外とつめが甘い。捕虜を無益に殺すような真似はせんだろうよ。大体、捕まるかどうか、わかりゃしないだろうが。それより今死んだら、この後本当に何もできねえんだぞ。長く生きて、酒なり飯なりかっ食らうことが大切なんじゃねえのか。いくら惚れこんだって船は船だ。人の命に勝るようなもんじゃねぇ。それともお前は、死に場所を求めて戦ってたのか。はじめから負けるつもりか」
「いえ、そんなつもりは!」
「なら、グダグダ言わずについて来い」
アルフォンスの厳しい声に副官は直立不動になる。彼が上目づかいで恐る恐る見上げた提督の顔は、彼の意に反してにやりと笑っていた。
「陸でも大砲はぶっ放せるだろ」
その声に乗組員たちは哀しげな顔を崩し、涙を浮かべながらも笑った。
「退去準備が整い次第、プレナイト号に火をつけろ。……ありがとうよ、見習い騎士さん。見事な戦いぶりだったぜ」