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 アルフォンスは、なかなかフェシス神の神殿を訪れなかった。ライズランド帝国海軍としての仕事も忙しいが、シエラは大抵神殿にはいないし、街中で出くわして世間話をしたり、酒場で偶然会って一緒に酒を飲んだりするのが常で、わざわざ神殿に行くことがなかったのだ。

 異国の船がライズランド帝国の領海内に入ったという報せを受けて、アルフォンスたち帝国海軍は哨戒任務に当たった。幸い戦闘にはならなかったが、上官の命令で数ヶ月戦艦の上で過ごすことになった。哨戒任務を終えてクロムフに戻ってきたアルフォンスは、久しぶりの陸で陸酔いを起こした。ほぼ初陣で負傷したアルフォンスはこれほど長期間にわたる艦上生活を送ったことがない。父であるアルベルト・クーベリック中将は苦笑いして、しばし海軍本部での陸仕事をアルフォンスに命じた。

 陸での仕事といっても、その種類はさまざまである。補給物資を手配し、商船たちを護衛して、船上に物資を届ける。そのための船の手配もある。海軍本部内にある修繕のための道具の手入れや、倉庫内の物資管理などもあり、アルフォンスはさまざまな部署の仕事を臨時要員としてこなすことになった。

 陸酔いもあってしばらく酒を控えていたアルフォンスが、シエラに会わなかったのも道理だろう。そういえば最近顔を見かけていないなと気がついたときには、半年以上が経過していた。

 久々に酒場に顔を出してシエラを探すが、姿がない。アルフォンスは数日間経ってようやく酒場の大将に声をかけた。


「あの大酒飲みの女神官は、最近来てねぇのか?」

「見てないね。そういう坊ちゃんも久しぶりじゃないかい」

「ちょっとばかり、仕事で陸を離れてたもんでな」


 酒場の常連客にもそれとなく話を聞いてみるが、「そういえば見てない」という者がほとんどだった。皆、気にしていなかったようだ。港町クロムフの人々はあまり信心深くないと言っていたシエラの言葉を思い出して、アルフォンスはようやく重い腰を上げてフェシス神の神殿へと向かった。

 酒場通りの横にある長い階段を降りたところに、フェシス神の神殿はある。階段の上に立ったところで、アルフォンスの右目に座り込んでいる女が飛び込んできた。小走りに階段を降りながら声をかける。


「大丈夫か? 医者呼ぶか?」

「……あら、坊ちゃん、久しぶり」


 うずくまっている女がシエラ・ユグドラシルだと知って、アルフォンスは愕然とした。この女に会うのは半年ぶりくらいだが、以前の姿とは比べものにならぬほどにやつれている。白かった肌は青白く、身体は細く、かつて丸みを帯びていた頬はわずかにこけている。澄んでいた瞳が霞みがかったようにくすんで見えて、アルフォンスが初めて出会った日に感じたあふれ出る生命力など、みる影もない。


「よう、年増神官。具合悪いのに、また懺悔聞くのをほっぽって、ぷらぷらしてたのか?」


 シエラが体調を崩しているのは一目見てすぐにわかった。かつて漂ってきた花の香りに混じって、死臭が感じられるような気がする。あんなに生命力にあふれていたシエラが、とアルフォンスは言葉に詰まった。


「そう。海が見たかったのよ」


 シエラは遠くの海を見るように、視線を移した。つられてアルフォンスも同じ方を見るが、建物に阻まれて海は見えない。


「医者呼ぶか?」

「いつものことだから大丈夫」

「いつものことだぁ?」

「少し休めば平気だよ」


 船の汽笛が聞こえる。遠い水平線に向けて出航した船のものだろう。


「海なんざ、クロムフにいりゃあいつでも見られるだろう。とっとと帰って休め」


 穏やかな、頬をかすめる程度の風に乗って、潮の香りが漂ってくる。少し肌寒く感じられるのは、シエラに忍び寄る病魔の気配を感じ取っているからだろうか。アルフォンスはぶるりと身震いをして、シエラに背を向けて屈んだ。


「ん」

「何よ」

「年増は足腰弱るだろ、乗れよ」


 怪訝な表情のシエラの問いに、アルフォンスはほんの少し沈黙してから答えた。体調が悪いようだからとは、口が裂けても言いたくない。自分でも無茶な言い訳だとは思うが、他にいい言い訳も見つけられない。シエラが呆れたように力なく笑った。アルフォンスの知っているシエラなら、背中に平手の一発でも食らわせそうなものだが、ただ力なく笑っている。


「いくらなんでもそんな歳じゃないってば」

「うるせぇな。早く乗れ。神殿まで送ってやる」


 アルフォンスは自分の灰色の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。赤くなった顔を少しでも隠そうとうつむいたが、彼の硬質な髪は、彼の思惑とは裏腹に言うことを聞かない。シエラはその様子を見てさらに笑うと、おとなしくアルフォンスの背に乗った。


 ──軽い。


 アルフォンスはシエラの重さに衝撃を受けた。このところ海軍本部で運んでいた物資の方がよほど重い。アルフォンスは一歩一歩慎重に歩く。


「酒の飲み過ぎで身体が弱りでもしたんじゃねぇのか」

「最近は飲んでないよ。だって薬を飲まなきゃいけないから」

「お前は酒で薬を飲みそうだったのにな。……俺が海にいる間、なんかあったのか」

「海にいたの? どっかでおっ死んじまったのかとばかり思ってたよ」

「お前の方がくたばりそうじゃねぇか」

「……本当にね」


 口を開けば、ちょっとした悪態の応酬になるのはいつも通りだ。唐突にシエラが口をつぐんだのに気づいて、アルフォンスも黙る。背中越しに伝わる呼吸の荒さが気になった。


「医者は」

「行ったけど、わかんないってさ。最近はずっと伏せってたから、余計に足腰が弱ったんだろうね」


 咳き込むシエラに、アルフォンスの足取りはますます慎重になる。


「ユグドラシルって知ってる?」


 唐突にシエラがたずねた。


「知ってるよ。宗教都市だろ」


 宗教都市ユグドラシルは島の中心部から離れた場所にある地方都市だ。闇の神フェシスの聖地として知られている。ライズランド島にある領土は全て皇帝のものだが、事実上統治しているのはユグドラシル一族である。ユグドラシル一族は地方豪族であり、神官一族でもあった。血族で大きな集落を作って生活している。ユグドラシル一族は帝国の各地に闇の神官を派遣する。闇の神官になれるのはユグドラシル一族だけだ。シエラは神官らしくないから、アルフォンスにはなかなか実感できなかった。


「私ね」

「故郷なんだろ」

「うん」

「帰りたいのか」

「ううん。後妻さんに悪いから」


 シエラが首を横に振る気配がする。私はもう長くない……そんな言葉が喉の奥に隠れているような気がして、アルフォンスは苦々しい顔つきになった。

 シエラにあまり体力を消耗させたくない。背中に乗る重さはアルフォンスにそう思わせるに十分だった。シエラの言葉をさえぎって、アルフォンスは先回りする。


「帰りづらいのか」

「優しい人だけど、私のお母さんじゃないから。昔、それで家出したんだ」

「不良神官め。大方、神官になりたくなかったとかだろう」


 石畳の坂道を上る。神殿はもうすぐそこだ。シエラは少しの沈黙のあと、「どうだったかな」と答えた。昼なら太陽の光が街路樹のすき間から降り注ぐのどかな道を、アルフォンスはゆっくりと歩いた。

 シエラが再び咳き込む。背中越しに伝わる鼓動は、運動もしていないのにやけに早い。


 ──もうしゃべるな。


 アルフォンスの思いに反してシエラは話をつづけた。途中で咳き込んで、話が止まる。アルフォンスがそれを引き継いで言葉を足していく。

 神殿の薄い扉を蹴り開けると、アルフォンスは天井の絵画をながめた。光の神メイジスと、闇の神フェシスが輪をなすようにして描かれた絵は、アルフォンスに死後の世界を思わせた。クロムフに住む大半の人々と同じく、アルフォンスは信心深くない。どちらかというと、宗教と一定の距離をとって生きてきた。

 人間が死ぬと大地に還り、さまざまなものの糧となって人々に恵みをもたらす……国教であるメイジス・フェシスの教えだそうだが、アルフォンスにはピンと来ない。生きている間も死んでからもこき使うのではなく、死者はゆっくりと休ませてやるべきだろう。

 左目に眼帯の上から触れる。海でアルフォンスが左目を失くしたとき、多くの軍人たちが命を落とした。クロムフの街を守った彼らが死後も忙しなく働いていると思うと、アルフォンスは世知辛い思いがする。国教の教えは合理的で無駄がないとも言えるが、人の心の余白が足りないように思えてしまう。もしもシエラが死んだら、彼女も大地を巡って人々の糧となるのだろうか。


 ──酒を飲む暇もねぇのは、お前にゃ向かないよ。


 シエラの指示で彼女を部屋に送り届けたあと、扉を閉めたアルフォンスは細く長い息をついた。扉の向こうにいるシエラが、ため息に気づかないように。

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