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空が高い。天気は晴れ晴れとしており、風がないせいか、海も穏やかだ。こんな天気の日の出航は気持ちいいだろうなとアルフォンスは考える。
船着場はこれから出発する海軍兵を見送る連中でごったがえしている。その中にアルフォンスはいた。己の父、アルベルト・クーベリックを見送るためにやって来たのだ。見送りに来たアルフォンスに、アルベルト・クーベリック中将は海軍独自のコンパクトな敬礼をしてうなずいた。同じように父に返して言葉を待つ。大抵言葉は発さぬまま、中将は戦艦に乗る。アルフォンスの母が死んでからというもの、この儀式は毎回くり返されていた。アルフォンスの母はよく話す人だったから、父にあれこれと声をかけ、父もそれに答えていたのだが、母亡き今は静かなものだ。違うのは天候くらいのものだろう。
例によって何も言わぬまま、時刻が来たのか、中将は船内へと消えた。わざわざ今日一日休暇を取ったというのに一体何をしに来たのかわからない、とアルフォンスは苦笑する。いつも通りなら、これから先、中将が顔をのぞかせることはないだろう。
人ごみを避けるようにして船着場から離れる。少し離れた見晴らしのいい高台で船を見送った。唇に煙草をくわえた瞬間、高台に腰をかけていた女がアルフォンスに話しかけた。
「あら、坊ちゃん」
シエラ・ユグドラシルだった。少しうねりのある黒髪を結い上げている。ゆったりとしたブラウスが風を受けてふわりとふくらんだ。ブラウスの上にコルセットを巻き、ロングブーツにズボンの裾を入れているものだから、神官というよりは女海賊というたとえがしっくりくる。
「よう、年増」
「ババアでも年増でもかまやしないけどさ、よそのお嬢さんには言うんじゃないよ、坊ちゃん」
年増と坊ちゃん──シエラとアルフォンスは互いにそう呼び合っている。シエラはあの懺悔以来、アルフォンスを見かけるたびに何かと声をかけてくるようになった。アルフォンスはというと、弱みを見せた手前、なにかと気恥ずかしく、つい皮肉な物言いになってしまう。シエラはそんなアルフォンスの照れなどお見通しと言わんばかりに「坊ちゃん」とアルフォンスをからかった。海軍中将アルベルト・クーベリックの息子……良家の子息ではあるからそのように言われても仕方ないが、アルフォンスはあまりいい気がしない。肩をすくめて「やらねぇよ」と返した。
「ほう。よそのお嬢さんには花でも贈るって? 私には何をくれるのさ」
「お前は酒だろ」
「いいねえ! じゃあ樽で頂戴」
アルフォンスはシエラの答えに絶句したが、この女神官は本気だろう。酒場で見かけたときなどは、大きなジョッキをテーブルにいくつも並べて、荒くれたちと大笑いしていた。雨で出航できなかった船乗りたちの憂さ晴らしに付き合えるなど、相当なものだ。酒好きにも程があるが、ふしぎと酔い潰れたところは見たことがない。大酒飲みをうわばみだとかザルだとか言うけれど、この女神官は輪っかなのではないかとアルフォンスは頭をかいた。
「今日は散歩か。神殿に誰か来たらどうするんだ」
「他の誰かが対応するよ。それにクロムフの連中は、そんなに信心深くないからね。神殿には閑古鳥が巣を作ってるよ」
海軍本部のある港町クロムフにも、他の街と同様に光の神メイジスと闇の神フェシスの神殿がある。シエラは闇の神フェシスの神官だが、最初に懺悔したとき以来、神殿にいるのを見たことがない。アルフォンスも信心深い方ではないから、神殿にあまり出向かないのもあるだろう。シエラを見かけるのはもっぱら街の中だ。神殿の外をふらふらと出歩いて、街の人々と快活にしゃべっている姿をよく見かける。
神殿に神官がいないんじゃ閑古鳥も巣を作るだろうよ、懺悔もできやしないんだから、とアルフォンスは心の中で悪態をついた。
「不良神官め」
「弟によく言われたわ!」
シエラはげらげらと笑って、石積みの塀から立ち上がった。
「弟がいんのか」
「弟も妹もいるよ。文句を言うのは大体上の弟。真面目が服着て歩いてるみたいな子だからねぇ。下の弟はまだ五歳」
「五歳!? お前いくつだ」
「坊ちゃん、レディに歳を聞くもんじゃないよ」
照れもあって年増と呼んでいたが、案外若いのかもしれない。指を折り曲げて数えようとするアルフォンスの背中を、シエラは平手で思い切り叩いた。
「いってぇよ!」
「私の母親は亡くなったよ。弟二人は後妻さんの子供」
「そうか」
答えづらいことを聞いてしまっただろうか。少し後悔するアルフォンスに、シエラはけろりとしたまま顔を上げる。晴れ渡る空にいくつか雲がたなびき、水平線に向かう船から汽笛の音が聞こえる。アルベルト・クーベリック中将の乗っている船だろう。シエラの結い上げた髪の後れ毛が風になびいた。
「きょうだいが多いんだな。何かと手間がかかるだろうに」
「ユグドラシルの神官一族だから、きょうだいは多いよ。こう見えて、領主の娘だからね」
「名前聞きゃあわかるよ」
ユグドラシル地方といえば、のどかな穀倉地帯だ。アルフォンスは行ったことのないシエラの故郷に思いを馳せながら、海風に目を細めた。失くした左目の跡が、若干引き攣れるように痛む。ひとまず傷は塞がったが、雨の日などはまだじくじくとするから、今日のようなからっと晴れた日はありがたい。何重にも巻いていた包帯がだんだん薄くなるにつれて、視界の違和感にも慣れつつあった。
「よし、じゃあ、酒飲みに行こうか! 坊ちゃんも付き合いな!」
「まだ昼だろうがよ」
「昼でもやってる店を知ってるよ」
「そういう話じゃねぇだろう」
快活に笑うと、シエラは踊るようなステップで石畳の道を進んでいく。アルフォンスは戦艦と同じ色の髪に手を突っ込んでぐしゃぐしゃと頭をかきまわしたのち、「仕方ねぇな」とシエラにつづいた。
その後、店の酒をすっかり飲み干して次の店にハシゴする羽目になることを、このときのアルフォンスはまだ知らない。