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大雨がつづいている。その勢いは排水溝から水があふれるほどで、石畳の道路まで水浸しだ。時計台が定時に鳴らす鐘の音も、激しい雨のせいか、どこかくぐもって聞こえた。かすんだ鐘の音は酒場から漏れ聞こえる歓声に紛れてしまう。港町の歓楽街は雨がつづくほど騒がしくなる。昼夜の関係などない。
アルフォンスはその景色を静かにながめていた。雨を含んだ衣服を厭うこともせず、座り込んだまま道路脇から動かない。何度か転んだせいか身体中汚れている。額から左目にかかった包帯もところどころに血がにじみ、黒ずんでいる。彼の灰色の髪は雨を吸い込んで、ますます色を濃くしていた。
──このまま死ぬのも悪くない。
石畳の上の小石が激しい雨で小さく跳ねる。歓楽街へとつづく長い階段を滑るように、一人の女が降りて来た。女の傘が雨を弾く。細い手足が傘からのぞいている。白い肌とオニキスのような長い黒髪が印象的な女だった。娼婦なのかもしれない。アルフォンスの残された右目がなんとなしに動くものを追う。女は強い生命力を宿しているように、アルフォンスには見えた。それは己の進む道に迷いがないからなのだろう。彼の残された右目には、女が輝いて見える。女のまとう白い光のような印象は、自分には決して手に入らないだろう。アルフォンスは女に嫉妬を覚えた。
女は傘を上げて、アルフォンスを見る。大きな黒い瞳がアルフォンスをとらえる。やわらかに波うった黒髪が揺れた。長いまつ毛に縁取られた、わずかにまなじりの下がった目が瞬く。
「こんな土砂降りの中で座り込んでちゃ、男前が台なしよ」
微笑して女が手を伸ばす。アルフォンスは黙って女を見上げた。傘の外へ伸びた細い腕を、雨が幾筋も滑り落ちていく。
「おいで」
生命力への嫉妬をごまかすように、アルフォンスは鼻を鳴らした。
「うるせえ年増」
アルフォンスの口から真っ先に出たのはそんな言葉だった。白い女は一瞬間を置いて笑った。口角がつりあがって目が細くなる。それなりに歳を重ねているのだろう。幼く見えていた顔が急に老けて見えた。
「歳は関係ないでしょう」
唄うように告げる女の声に、アルフォンスは応えない。
「傷、悪くなるわよ」
その言葉を聞いた瞬間、アルフォンスの身体がこわばる。アルフォンスの右手が左眼を覆う包帯に触れる。包帯が重い。雨を吸い込んだのか、それとも血を吸ったのか。忘れたかった現実に連なる糸口が確固としてそこにある。
「おいで」
白い女が再びそう言って手を伸ばす。その笑みはアルフォンスに有無を言わせぬものだった。観念して、アルフォンスは立ち上がった。傘の内側に招き入れようとする女を制して、うつむいたまま歩く。身体中に雨水を吸い込んだように、足取りは重い。
歓楽街の中に一つだけ目を引く、異質な存在がある。闇の神フェシスを崇める神殿だ。白い女はその前で足を止めた。アルフォンスは神殿を見て、鼻を鳴らす。
アルフォンスは神殿に向けて階段をのぼっていく女をながめた。女が階段をのぼり終えた。女の向こうにある神殿を、残った右目でにらみつける。雨音や距離に負けないよう、少し大きな声で女が叫んだ。
「神様はお嫌い?」
「神様の世話になんのは死んでからで十分だ」
「あら、死んでから世話になるだなんて意外とかわいらしいこと言うじゃない。人間、死ねばおしまいよ。土の中で大地と同化して、人間みたいな小さなものは消えてしまうわ」
アルフォンスは軽く女をにらみつける。激しい痛みを伴う過程と違い、死自体は穏やかだ。それは神の世界に属するための儀式だからだろうか。
「私はシエラ・ユグドラシル。ここの神官」
見る者に清らかな印象など欠片も与えない神官は微笑む。その笑みは世俗的な臭いがした。
神殿の扉は板切れのように軽かった。つやのない板張りの床に並べられた椅子が雑然と並んでいる。椅子の群れは、アルフォンスには理解できない何かの規則に則って並ぶ古代の遺跡のようにも思えた。床に小さな丸い光が揺らめいている。海中から見上げる波のような揺らめきは、天窓から差し込む光を受けたもののようだ。天窓の硝子に雨水でもたまっているのだろう。
アルフォンスは天井を見上げる。くり抜かれた丸い天窓を中心に絵が描かれているのに気付いた。時計盤のように図柄が中心部に収束していくデザインだった。決して派手な色使いではない。原色の少ない、地味で色あせた絵だったが、アルフォンスはその絵に息を飲んだ。シエラが薬箱を取りに行き、戻ってきたのにも気付かなかったほどだ。
「適当に座って」
シエラの声で我に返る。アルフォンスは床に座った。まだ天井を気にしている。
「絵、気に入った?」
「別に」
シエラの声にそっけなく答える。天井の絵に見入って自分という存在すら忘れそうになる。絵はそれほどまでに、アルフォンスを飲み込んでいた。
「その絵ね、人間が生まれてから死ぬまでの間に、人生に光と闇がどう関わるかが描いてあるんですって。でも私にも本当の意味はわからない」
アルフォンスは言葉を発さずに視線でつづきをうながす。シエラは雨と血の染み込んだ、アルフォンスの包帯をほどきながら言葉をつづける。
「白いのが光の神メイジス、黒いのが闇の神フェシス。私たちの生活は、全てどちらかに分類される。たとえば調理や食事は他の生物を殺して摂取するから闇、排泄や飼育は還元することに繋がるから光。そんな感じで両者のバランスを取れって教えなのよ。聞いたことくらいあるでしょ、一応国教なんだし」
「いや、知らねぇ。興味がなかった」
白を基調として描かれたメイジス神は太陽を背負い、黒を基調としたフェシス神は月を背負っている。光の神メイジスの頭には闇の神フェシスの足が、闇の神フェシスの頭には光の神メイジスの足が、それぞれ繋がっている。おそらく光から逃れることの叶わぬ影と、影から逃れえぬ光を表現しているのだろう。闇の神というが、禍々しい印象を受けるわけではない。どちらの神も穏やかな表情をしている。中央の天窓へ、神々は互いに右手を差し出している。その手には皿がある。
「なんで皿持ってんだよ。スープでも入れんのか」
「スープ! あれは天秤の皿よ。バランスを崩さないように量るための天秤の皿」
よく見ると、天窓の枠が天秤を模している。アルフォンスの包帯を外し終えたシエラが、消毒薬を含んだ綿で傷口にそっと触れる。不意をつかれたアルフォンスは少し身じろぎをする。それに気付かないふりをして、神官は消毒をつづけた。アルフォンスはわずかに眉間にしわを寄せてシエラを見る。シエラは消毒に夢中だ。アルフォンスはそっと視線をそらして、再び天井に目をやった。闇の神フェシスの背負う三日月は、刃物のように鋭い。
戦うということはどんな理由があるとしても、闇に属する行為なのだろう。ならばそれに見合う光が必要なのかもしれない。そうでなければバランスは取れない。情緒不安定になったのは闇の行為ばかりを行いすぎたせいだろうか、とアルフォンスは考える。敵を、人を殺したいと願い、現実にこの手で殺したのが原因なのではないか。海で失った左眼は、人を殺めた代償なのかもしれない。
「ぼっちゃん、終わったよ」
包帯を巻き終えたシエラの声で我に返る。再び海の幻が、アルフォンスを侵食しはじめている。何度も同じ箇所を再生する壊れた蓄音機のようなものだ。半ば夢の中にいるような状態で、アルフォンスは口を開いた。
「懺悔させてくれないか」
──このままではいけない。現実に戻らなくては。
アルフォンスの声に、シエラは「いいよ」とあっけらかんとうなずいた。
天窓から差し込む光は徐々に弱々しくなり、力を失いつつある。雨が水面にぶつかって波が生まれ、波紋が広がる様子がわからなくなっていく。波紋は他の雨粒によって形を乱され、小さなガラスの上は荒れた海のようだ。雨音の中、忍び込んでくる夜が部屋を少しずつ暗くしていく。
天窓の神々に見下ろされて短く息を吐くと、アルフォンスは懺悔をはじめた。
「俺は葬儀式典のホールから逃げ出してきた。現実を認めたくなかった。忘れたかったんだろうな」
アルフォンスの声にシエラは黙ってうなずいた。わずかに話しただけで、こうも違うものかと驚いた。他人に語ることで整理できることもあるらしい。金属の錆が落ちるように、迷いが剥がれ落ちていく。
「戦場で人を殺すことに迷いはねぇよ。やらなきゃやられる。でも俺は人殺しだ。褒められたもんじゃねえ。それなのにお偉いさん方はお構いなしに褒めやがる。こっちも命がかかってる以上、当然なのかもしれねぇよ。でも、釈然としねぇんだよ」
シエラは床で弱々しく踊る光の波を見ている。室内に差し込む唯一の光は段々と翳りを濃くしていた。天井の絵はもう見えない。
「私は闇の神に仕える身だから、よくやったと言わなきゃいけない。でもあなたが今欲しい言葉は、きっとそういうんじゃない。人を殺すことは罪よ。だからあなたは、多分罰を欲してる。……神様なんてものは、存在を忘れちゃえば、どうとでもごまかせる。でも自分に嘘はつけない。良心って、厄介ね」
神官がそれを言っていいのかと、アルフォンスは苦笑する。わずかに肩をすくめてから、シエラはつづけた。
「でもその罰と、あなたが死ぬことを結びつけちゃダメ」
アルフォンスは自嘲の笑みを浮かべた。
「砲弾で人間を吹っ飛ばした罪は、砲弾で吹っ飛ばされる罰であがなうのが正しいのかもしれねぇな」
「吹っ飛ばされたから、その傷なんじゃないの」
「そうだ」
「じゃあ、あんたは十分償った」
そういうものかとゆっくりまばたきをするアルフォンスに、シエラは静かにたずねた。
「あんたの人生には、価値がある?」
「ねぇよ、そんなもん」
「そう言うと思った! でもね、ただ存在するだけでも、意味はあるんだよ。もっと大切なのは、どうあったかってこと。生きている間にどんな生き方をしたかってこと」
「それがフェシス神の教えか」
「いいや? これは私の教え」
「神官がそれでいいのかよ」
「いいんだよ。クロムフの連中、説法なんか聞きゃあしないんだから」
天窓から差し込む青灰色の光が部屋を染めている。いつの間にか雨が止んでいたらしい。シエラの白い肌がわずかに染まっていた。シエラは彼女の口ぶりと同じ、ゆるやかな足取りで教壇へと向かう。
「だから」
慣れた手つきでマッチに火をつけ、教壇の上の蝋燭に炎を灯す。小さな橙色の炎がついた。シエラは振り返ると強い口調で言った。
「せめて自分の価値が見出せるまでは、生きなさい」
時計台の鐘が響く。普段よりもくぐもって低くなった鐘の音が耳に届いた。シエラは再びアルフォンスへ向かって進む。まなじりの下がった両眼は優しげな印象が強かったが、今はとても強く凛として見えた。細く白い指がアルフォンスの頭を撫でた。シエラの髪から、花に似たやわらかい香りが漂ってきて鼻孔をくすぐる。
「生きなさい、人殺し」
シエラは囁くように、そう言った。