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まるで身体のまわりを包んでいた薄い膜を一気にはがされるように、アルフォンスは我に返った。指先が重い。海の上にいるかのような浮遊感が全身を支配している。身体に力が入らない。
祭壇には無数の写真と白いバラが並んでいる。間断なくつづく雨が、大理石で出来た巨大なホールを冷やしていた。国が主催した葬儀式典の最中だと思い出すのに、わずかに手間取った。
いまだにぼんやりした頭を必死で働かせる。
士官学校を出て初めて現場に出たのが先々月だ。一度くらい見ておけと上官に勧められて最前線に出た。
左眼に激痛が走る。痛みのない右眼で確かめると視界の右上に包帯が見えた。眼窩が熱を発してうずく。
いまだに海中を漂っているようなゆらめきを感じて、アルフォンスは硬直する。残った右眼の視界が急にせまくなったような気がした。
左眼には船の破片だろう、大きな木片が刺さっていたのを思い出す。眼前に己のものらしき眼球が漂う幻が見える。かろうじて繋がっている状態だ。こうしている間にも視神経は波にさらわれてちぎれていく。
──ああ、敵弾にやられたんだ。
アルフォンスは脳裏にかかった幻を打ち払う。残った右眼で現実を──静まりかえった冷たい空間に、意識を戻そうとする。
読み上げられる戦死者名簿は乗船者名簿と大差ない。知った名前ばかりがつづく。次は自分だと背筋を伸ばす。己はここに存在しない幽霊なのではないか。自分の葬式に出席しているのではないか。アルフォンスはそう考える。だがアルフォンス・クーベリックの名は呼ばれることなく、とばされた。
死ぬことは当然怖いことなのだろうと思っていた。だからこそ全力をあげて戦ってきた。けれど余りにあっけなく訪れた同僚の死を目にして、死とは案外穏やかなものなのかもしれないと思いはじめている。彼らの最期は壮絶だった。しかし生が終わり、死の世界に足を踏み入れた瞬間、痛みを感じることもなくなるのだろう。後に残ったのは、冷たい静寂だけだ。死体は熱を持たず、死者の心臓は空気を振動させない。遺族たちは二階級ずつ特進した彼らの昇進を祝うことをしない。すすり泣きは多くの死体がもたらす静寂を破ることができないでいる。
左眼の痛みが、アルフォンスをかろうじて現実に繋ぎとめていた。奇妙に歪んだ現実は、アルフォンスの見る幻の世界にも濃く長い影を落としている。先ほどからアルフォンスの中でうごめいている海中の幻が最も現実味にあふれ、整合性を保っているように思えた。
領海に入り込んでいた敵船団との戦闘だった。乗っていた戦艦は囲まれ、追い込まれて座礁した。援軍が到着するまでの間、攻撃を続行しろと上官から命令を受けた。広い艦内を走り回る。徐々に近づいてくる敵の砲撃が鼓膜を揺さぶった。近付いてくる砲弾の音ですら特別なものに感じられなくなる。それでも船がひしゃげる音に対する妙な違和感は残っていて、あわててふり返った。
そこから先の記憶は海に沈む。頭上に視線を移す。空が歪んで見える。船影は視界に入ってこない。ただそこには海水があり、水面の上には広い空があるだけだ。水面にいくつか木片が浮いていたはずなのに、アルフォンスの見る幻の中にはそれもない。
海水に侵されて意識が薄れていく。海は刻一刻とアルフォンスの内側に侵食していく。不思議と海水で密閉される恐怖はない。安堵すら覚えるほどだ。安心感からだろうか、意識が遠くなるスピードが早くなる。
次の瞬間、左眼と眼窩を繋いでいた視神経が完全に切れる音が聞こえた。海中で手を出して眼球を受け止めようとする。けれども腕はおろか指先すら動かない。身体を動かそうとする意思さえも、波の振動に揺らめくだけだ。閉じられていくまぶたの隙間、せまくなった視界に、眼球が流れて行く様子が映った。
海水が身体を浸していく音に混じって、スピーチが聞こえる。
「……を守るために彼らは命をかけたのです。それはこの度の戦闘で傷ついた者も同じことです。我々は守られているのだということを決して忘れてはいけない。失われた命に対して我々はここに深く哀悼の意を表し、ご家族の心労を出来る限り拭う努力をすることを誓います。もちろん生還した者たちの奮闘も称え……」
アルフォンスの父、アルベルト・クーベリック中将の声だった。海から引き揚げられたときのように、急激な変化がアルフォンスを襲う。
その正体はアルフォンスに向けられた遺族たちの視線だった。襟首をつかまれるように、急に現実に引き戻される。
大理石の冷たい建物。ホールに反響するすすり泣き。微笑んだまま止まった同僚たちの写真。勲章と棺桶。そして白いバラの群れ。国旗と、船を構成していた木片。
たとえどれだけ歪んでいようとも、これは現実だった。
敵意と羨望の入り混じった視線が刺さった。その視線はアルフォンスの生を否定する。運が生死を左右すると皆知っている。知っていても、そう簡単に割り切れるものではない。鋭い視線は止まない。貫かれて、さいなまれる。
──あのとき砲弾をもう一発撃てていれば。あのとき敵艦を一隻沈めていれば。
そんな思いが、戦艦の装甲を破る鉄砲水のように噴き出す。式典がはじまるまで現実感に乏しかった同僚の死が、急に重くのしかかる。屍を背負って泥沼を歩くような感覚にとらわれる。
敵とはいえ、人を殺すことは恐ろしいことだ。それなのに敵を殺せなかったことを後悔する自分がいる。自己嫌悪が心を満たした。人殺しが嫌なら軍人なんかにならなければよかったのだと、すぐに打ち消す。
いつの間にか父に代わって、援軍に駆けつけた巻き毛の艦長がスピーチをはじめている。
「君たちは私たちが来るまでよく耐えた! よく戦った! 敵艦は撤退した。君たちが善戦し……」
その無神経な声が、すっかり忘れたはずのアルフォンスの懊悩を再び呼び覚ます。己の手を血に染める覚悟はできている。けれどもそれを褒め称えられると、良心がうずく。白い死者の手が伸びてくるようだ。それはアルフォンスが殺した敵の手だろうか、それとも味方の手だろうか。
──祭壇に並ぶ彼らが死んでしまったのは、自分が不甲斐なかったからなのではないか。
呼吸が荒くなる。死者の白い手はアルフォンスの首をつかみ、襟をつかみ、棺の中に引きずり込もうとしている。
耐えられなくなって、アルフォンスは式典の最中にホールから逃げ出した。敵意と羨望のこもった視線から、人殺しの自分に送られる賞賛から、棺から伸びてくる白い手から、この現実を構成しているすべてのものから逃れたかった。