件名: [005] 【送信完了】「主人のオオアリクイが殺されました」— 旅立ちの準備を開始
風呂での治療を終えた私は、リアンさんの部屋へと案内されました。そこは広いとは言いがたい程こぢんまりとした空間で、けれど天井の低さや壁際に積み重なった古びた本や魔導具の乱雑さが、土中に巣を張る私にとって安心を与えてくれたのです。机の上には用途不明の黒い箱が並び、床には羊皮紙や衣類が無造作に散らばり、まさに「人間工学が追い求めた巣穴美学」とでも呼ぶべき雑然さが漂っていました。
「悪くありませんわね」
そんな部屋の空気の中で、ひときわ目を引いたのがリアンさんの手元でした。ベッドの端に腰を下ろした彼女が、風呂場でも操っていた黒い板を取り出し、折り畳んであったソレをパチリと開いて画面を覗き込むのです。
「……リアンさん、それは?」
「ん? これはガラケーって呼ばれているデバイス。殺した転生者から奪った戦利品だよ」
私はつぶらな瞳で瞬きをしました。なるほど……転生者が常に携えていた謎の神器。これまで遠巻きにしか見たことがありませんでしたが、実物をこうして間近に観察できる日が来るとは。
「それは何をする道具なのですか?」
彼女は慣れた様子でキーを叩き、画面を見つめながら答えます。
「私はこれを使って、転生者の情報を集めてるの」
「……つまり、あの忌まわしき者たちの居場所も突き止められるのですか?」
「方法さえ知っていれば、そうね。突き止められるはず」
その瞬間、私の胸が熱を帯びました。高度な文明の神器――ガラケー。それは森で暮らしてきた私にとって、まるで異界の聖遺物のようです。
「……じゃあ、うちの主人を殺した転生者の情報も調べられるのですか?」
リアンさんは指を止めます。そして、ふっと微笑んだ。
「では、いますぐ検索してほしいです」
「いや、これはガラケーだよ? ウィーフィーもなければ、グーゴルの検索エンジンもまともに動かないし……ていうか、そもそもキーがめちゃくちゃ押しづらいんだよね」
「そのウィーフィーとはなんでしょうか?」
リアンさんが眉をひそめました。
「えっと……この世界にはないんだけど、要するにどこでも情報が得られる神の加護みたいなものかな? それがないとデバイスが正しくは機能しないの」
神の加護……なるほど。つまり、それを受けた者は無限の叡智を得ることができる、と?
「……まさか、古の叡智を司る天上の神か何かでしょうか?」
「え?」
「ウィーフィー様は天の狭間に座し、この世界に遍く情報の流れを満たす御方。そして転生者たちは彼の啓示を受け、全知なるグーゴル神の御声を賜るのですね? では、これはやはり神具に違いありませんわね。ウィーフィー様とやらを召喚し、叡智の座に腰を下ろすグーゴル神の声を受ける……まさに古の神託ではありませんか!」
私は深く感嘆の吐息をもらしました。心の中には既にウィーフィー様を奉る神殿を建て、供物として加糖アリを山積みにしている光景まで浮かびます。それからリアンさんはちょっと考えてから、ぽんと手を打ちました。
「ま……まあ、そんな感じかも。ウィーフィーって使徒が天から怪しい電波を降らせて、グーゴル神が答えを授けてくれるイメージで合ってるよ」
私は静かに頷きます。ウィーフィー様……まさか、このような強大な神が存在していたとは。この世界において、まだその御姿すら知られていない存在。ならば、私が最初の信徒となるべきかしら?
「そのウィーフィー様を召喚すれば、転生者の情報が手に入るのですね?」
「召喚はできないよ‼︎」
「……では、供物を捧げることでお力を貸していただくのですか?」
「供物⁉︎ ちょっと待って‼︎」
「なるほど、拝殿を建てねばなりませんね。近くに蟻塚はないのでしょうか。まずはウィーフィー様を奉るための神殿を用意しましょう」
「だから違うって‼︎」
リアンさんは額を押さえ、溜め息をつきました。
「もしかしてオオアリクイ御夫人、魔導通信と勘違いしてない?」
「魔導通信?」
「ほら、魔導士たちが水晶を利用して遠くの人と交信する魔法のことだよ」
「なるほど。このガラケーがあれば、遠く離れた誰かに何かを伝えることができるのでしょうか?」
「……まぁ、そういうことになるわね」
「ふむ……」
私はじっとガラケーを見つめました。ならば……私にも、伝えるべきことがあるかもしれませんね。
「では、私もウィーフィー様の加護を受けるべきですね」
「えっ、今から信仰始めるの?」
「そうですね……供物は何がよろしいのでしょう?」
「違う違う‼︎ だからウィーフィーは使徒でも神様でもないの‼︎」
なるほど……ウィーフィー様の加護を受けるには、まだ修行が足りませんか……。
◇◇◇
リアンさんとのやり取りを反芻しながら、私は改めてガラケーの小さな画面を凝視した。ぎこちなく鉤爪でキーを叩くたび、まるでこれは神に捧げる祈祷の儀式ではないかという錯覚に囚われたまま。画面の奥に本当にウィーフィー様とグーゴル神が座していて、私の言葉を聞き届けてくださるのではないか――そんな愚かな幻想さえ、今は信じてしまいたかった。
震える呼吸を抑えながら、送信のキーを押す。ほんの刹那、巣穴全体がしんと静まり返り、その沈黙の中で件名が浮かび上がる――「主人のオオアリクイが殺されました」という件名。果たして、この一文で世界は変わるのだろうか。それとも何も変わらず、私はまた穴蔵でアリを食べるだけの生に戻るのだろうか。
答えは分からない――それでも私は、画面の光を食い入るように見つめていた。そんな思いを巡らせていた、そのとき――。
「ボルゾイ御夫人!」
外から響く明るい声に、私はゆっくりと顔を上げた。巣穴の入り口ではリアンさんが杖を回しながら待っていて、降り注ぐ朝の光を背に、どこか楽しげな笑みを浮かべている。
「そろそろ出発しますよ!」
「ああ……そうですわね」
変わるかどうかを思い悩む必要などなかった。変えるのだ、この私が――この復讐劇を己の爪で。私は立ち上がり、胸いっぱいに冷たい外気を吸い込む。そして迷いを振り払うように、ゆっくりと歩を進めて巣穴を後にした。
「御夫人、準備はいいですか?」
振り返ったリアンさんの問いに、私は彼女の瞳を真正面から見据える。次の瞬間、静かに、しかし確かな決意を込めて言葉を紡いだ。
「もう御夫人ではありません。今の私はオオアリクイ未亡――」




