件名: [004] 【審査結果】お試しボルゾイ生活→合格(ただし明朝退去)
森を抜けた途端、空気が変わったのを今でも覚えています。そこには外界を拒むかのように聳え立つ高い障壁があり、灰色の石が幾重にも積み上げられて冷たい影を落としていたのです。風が当たるたびに表面の鉄板が軋み、擦れる音が耳に不快な余韻を残していました。
苔や雨染みが幾筋も垂れ、過去に刻まれた矢の痕や異様な割れ目。それらは壁がただの境界ではなく「絶えず何かを防いできた砦」であることを語っていたのです。
「……ここが私の故郷、禁足地ダウンヴィレッジです」
彼女の言葉通り、外からの侵入を許さぬ結界のような場所。頑丈な門は厚い鉄で覆われ、前には木造の関所が構えられている。だが、その場を支配していたのは建物ではなく、不気味な沈黙だった。鳥のさえずりも子どもの生声もなく、ただ見張りの者たちの視線だけが突き刺さるのです。
「ここから先は、外部の者の立ち入りを禁じる」
門の前に立ち塞がる男は屈強な体躯を持ち、手の甲は古傷で固く盛り上がっていました。その目がリアンさんではなく、私に注がれているのを感じる。警戒というより、敵意に近い。
「……なるほど、私は歓迎されていないのですね」
無言のままリアンさんの背後に立ち、私は見よう見まねで静かに「神威の構え」を取った。反応を試してみたくなったのです。けれど彼女は一歩前に出て、低い声で告げました。
「私の同行者を迎え入れなさい。殺されたいの?」
次の瞬間には空気が張り詰め、門番の眉がぴくりと動く。彼はわずかに口を開きかけたが、声を絞り出すように答えました。
「……リアン御嬢様、この村の掟は絶対です。これ以上の不純は受け入れられません。それに、こんなに大きな犬を拾ってきて飼うつもりですか?」
言葉に皮肉を滲ませつつも、彼の視線は依然固いまま。だがリアンさんは淡く微笑み、門番の耳もとに顔を寄せ短く何かを囁いた。その瞬間、男の顔色が変わったのです。肩がわずかに震え、先ほどまでの強気な態度が嘘のように消えていく。
「彼女はただの犬ではありません」
「……つ、つまり?」
彼の声が震えていた。
「……向こう側にあるロシア原産ボルゾイの生き残りです。その存在は、この劣勢な世界にとって極めて重要。侮辱は許されませんよ。次に間違えれば……ぶっ殺すからな」
門番の顔は蒼白になり、周囲の見張りも絶句した。口元を押さえ、目を逸らす者もいるのです。
「ボ、ボルゾイの……生き残り……?」
「し、失礼を……無知ゆえに非礼を……!」
彼らの声はもはや謝罪と恐怖の入り混じった呻きでしかなかった。重い門が軋む音を立てて開かれ、直後に私たちを迎え入れたのです。
「行きましょう、御夫人」
「リアンさん。私は犬じゃあありません。老いたオオアリクイですよ?」
「あれ……そうでしたっけ?」
「はい……」
村の中へ足を踏み入れると、そこは森とは別世界でした。規則正しく並んだ煉瓦の家々、等間隔に走る水路、石畳を踏むと水気を含んだ音がわずかに返るのです。しかし秩序だった風景の中で、住人たちの目が一様に警戒を宿しているのは見て取れました。
『あら、お鼻がとても長い大きな犬ね……』
水路で洗濯していた女は私を見て布を握りしめ、背を向ける。子を抱いた男は抱き寄せる腕に力をこめ、早足で去った。軒先で修繕をしていた老人は、私を一瞥しただけで戸を半ば閉ざしたのです。ひそひそとした囁きが幾筋も背中に絡みつき、あからさまに「異物」と見なされているのがよく分かるほどに。
『ねえお父さん、あれってなーに?』
『二足歩行で歩く大きな犬よ。鼻が長いから、もしかしたら魔獣なのかも。後で挨拶してあげましょうね』
『はーい!』
この村には、転生者の影響で住処を追われた者たちが集合しているらしい。住人たちの視線が私に突き刺さるのはそのせいか、それとも私が「被害者」でも「加害者」でもないという曖昧さを露わにしているからか。どちらにせよ、歓迎ではないことだけは明白でした。
「……リアンさん」
隣を歩く彼女へ静かに問いをぶつけました。
「あなたは、この村でどのような立場にあるのですか?」
彼女は一瞬だけこちらを見上げ、その視線はすぐに前へ戻った。
「ただの村人Aですよ」
短い答えの裏に何があるのかを確かめるため、私はもう一歩踏み込む。
「ですが、門番はあなたの言葉で従いましたよ?」
「それは、私がこの村でそれなりに信頼されているからです」
「……本当に?」
その問いに彼女は歩を緩めて小さく息を吐き、口元に影を宿した。やがて絞り出すように漏れた言葉は、それ自体が刃のように冷たかった。
「……昔、酷い目に遭いました。今は管理する側に回っただけです」
その告白は抑えられた声で、しかし確かに湿りを含んでいたのです。彼女の表情は穏やかだが、どこかで痛みを抑え込む筋肉の固さが見える。私はその奥にあるものを探ろうとした。
「転生者によって?」
リアンさんは唇を噛み、短く頷いたのです。
「……はい」
続きが欲しくて言葉を続けようとしたが、彼女は手のひら1つでそれを遮るように軽く振った。
「今は、その話はやめましょう」
微笑は穏やかだが、どこか糸が張られたように緊張が伝わる。その笑みによって私は口を閉じるほかなかった。問い詰めるのは野暮だと、直感が告げたのだから。
それでも、リアンさんの言葉は頭の片隅に残った。向こう側にあるロシア原産のボルゾイ――という名が何度も反芻されるのです。ボルゾイとは何かロシアとはどこか……私は何も知らない。けれど言葉がもたらした不協和音は、私自身への疑念を芽生えさせました。
私は本当にオオアリクイなのか。
生まれつきそうだったのか、それとも何かが私を変えたのか――心の奥が静かにザワついて仕方ない。
噴水の水面が視界に入ったとき、確かめずにいられなくなった。村の中央にあるその泉は澄み、底までハッキリと見える。私はゆっくりと近づき、慎重に鼻先を水に近づけたのです。
「もしかしたら……」
波紋が弧を描き、空と屋根と私の姿を等しく揺らす――水面に映ったのは細長い鼻先と長い首、そして……威厳を維持したつぶらな眼差しでした。確かにそこにあるのは私の形だ。だが同時に、その姿はどこか他者の影を含んでいるようにも思える。
肌理の感覚が爪先まで伝い、胸の奥がキュッと締めつけられたのは今でも忘れられません。自分の輪郭が揺らぐ気がしたのだから。
「私は本当にオオアリクイなのかしら?」
呟きは風に溶けるが、問いは自分の内側で確実に反響した。短い前足の鉤爪でそっと鼻を撫でると、冷たい水の感触が指先に戻り、思考がひとつの方向へ向かう。もし仮にボルゾイと私の間に血の繋がりがあるのだとすれば、それは単なる類似ではない。もしかすると、私の起源にまつわる謎――遠い過去から連なる系譜の欠片を示す鍵かもしれない。
「リアンさんの仰るボルゾイという犬種は……もしかして私の親族なのでは?」
その思索は甘美でもあり、怖ろしくもあった。だが同時に、どこかで希望の香りが混じっているのがわかる。真実が一体何であれ、私の存在は問い直され、そして歩を進めるべき理由がもう1つ増えたのだから。
それから少し歩いた村の外れに、その屋敷はひっそりと佇んでいたのです。黒ずんだレンガの壁には幾筋もの亀裂が走り、蔦が絡みつくそれと雨に晒された扉は朽ち果てる寸前のように重々しい。近づくほどに冷気が増していき、まるで屋敷そのものが外の世界を拒絶しているかのように思えた。
ここでは風の音さえ飲み込まれてしまう……と。けれど、確かに中には人の気配があったのです。周囲の村家と比べて、ここだけ時の流れが違うような静止した異質さを放っていた。
「ここですか?」
私はちらりとリアンさんを見やる。彼女は緊張を隠すように小さく息を吐き、鍵を取り出して扉にかざした。
「ヨシッ……今のうちに入りましょう」
扉が軋みをあげて開くと、古い埃の匂いが一気に押し寄せてくる。薄暗い廊下の中へ足を踏み入れると、板張りの床がかすかに鳴った。リアンさんは「静かに」と目で合図し、足音を殺して先へ進みます――が、そのときだった。
「おやおや? リアン、それは何だ?」
低くも澄んだ声が廊下の奥から響いたのです。私たちの歩みが廊下の真ん中で止まった直後、そこに現れたのは背の高い女性――長い影を引きながら姿を現した眼差しは鋭く、私を一瞥した途端に露骨な警戒を宿しました。
「駄目でしょ……その大きな動物は何なの?」
また犬扱いでしょうか。
「違いますよ、ヒナギク母上。彼女はボルゾイです」
リアンさんがきっぱりと言い切る。その声には迷いがなかった。
「違いますよ、リアンさん。私は――たぶんオオアリクイです」
「ボルゾイ? いや、これはどう見ても――」
「ボルゾイです」
彼女の即答に、ヒナギクと呼ばれた女性は一瞬だけ言葉を失いました。そして口元を引き攣らせたまま再び私を凝視し、その眉をひそめる。
「……本当に?」
「本当に本当に……本当です!」
私はつぶらな瞳で瞬きを繰り返し、訂正するべきかどうか逡巡した。しかし今は、彼女の必死さを壊すのは野暮なんでしょうね。
「珍しいわね。これは……犬畜生なんかじゃなくてオオアリクイよ。どうして屋敷に連れてきたの?」
ついに、正しく認識されました。胸を張りたい気持ちでいっぱいです。けれどリアンさんは咳払いをして前に進み出ると、まっすぐ母へ向かい続けて言葉を放ったのです。
「ヒナギク母上、彼女をここに住まわせたいんです」
「無理よ却下」
やはりこちらも即答。重みのある一言に部屋の空気がさらに冷える。まあ、当然といえば当然かもしれません。しかしリアンさんはさらに食い下がった。
「母上、話くらいは聞いてください」
「リアン。あなたは昔から、拾った動物を抱え込んでは面倒を見る癖があるわね」
「違います! 彼女は動物ではありません!」
おや。動物ではない?
それはつまり、私はペット枠ではなく家族枠?
ならば、それはそれで悪くありませんね。
「……そうね、犬だったわね」
「ボルゾイ……そうボルゾイです!」
「ああもう……そうね、ボルゾイだったわね」
ヒナギク様、お願いですから諦めて納得しないでください……。
溜め息をひとつ吐いた彼女は、真っ直ぐにリアンさんを見据えました。すぐに「本当に言うことを聞かない子ね……どうしてそこまで?」と問いかけると少しの迷いを振り払い、真剣な声音で「彼女は、転生者に住む場所を焼かれた被害者です」と告げたのです。
ヒナギク様の瞳が細まり、沈黙が落ちる。しばし睨むように私を見つめ……やがてその視線がほんのわずかに揺らいだのを私は見逃しませんでした。
「……誰に似たのかしら。一晩だけよ」
吐き捨てるような声ながら、それは確かな譲歩でした。
「ありがとうございます、母上!」
「……好きにしなさい。でも明日の朝には必ず出ていかせるのよ……じゃなきゃあ、裏庭で飼ってる化け物の餌にしちゃうからね」
「ええ、大丈夫です! たぶん!」
「多分ってなんなのよ、多分ってもう……」
たぶん?化け物の餌?リアンさん、曖昧で済ますと後で私が困るんですけれど――。
彼女は満面の笑みを浮かべて私に振り返ると、「さあ、御夫人。まずは治療をしましょう」と告げました。
「……治療?」
「森の鎮火で私も汗をかきましたし……お風呂に入りましょう!」
「治療とお風呂……どうしてそうなりますの?」
案内された浴室は石造りで広々としており、大きな浴槽には既に水が張られています。、薄く立ち昇る湯気が煤と血の匂いに染まった私の鼻を優しく撫でました。リアンさんが杖を掲げ、静かに詠唱を紡ぐ。
「怪異の祝福をこの水に――適温まで沸き上がれ」
その言葉とともに水面が光を帯びて揺らぎ、次の瞬間には心地よい熱気が室内に満ちました。
「魔法とは……実に便利ですわね」
「ふふっ、でしょうでしょう?」
満足げに笑ったリアンさんは魔導衣の襟に手をかけ、躊躇いなく衣を脱ぎ始めました。死人のような青白い肌が露わになり、玉露のような深緑色の髪が肩に流れる。彼女は何事もないように振り返り、「さあ、入りましょう」と微笑んだのです。
「なるほど。これは覚悟を問われているのですね――では、お邪魔します」
短い後ろ足を動かし湯に身を沈めると、温かさが全身を包み込み、疲労が解けると同時に傷がゆっくりと癒えていくのを感じました。
「これは……」
思わず驚きを零すと、隣でリアンさんが頷き「母上に教わった治癒範囲魔法です。この魔法の効果は湯に浸かることで、自然に体が癒えるように定義されたものなんです」と説明します。私は心地よさに目を細め、湯の中へと深く身を預けました。
「これは泥浴びでもなく、蟻塚のぬくもりでもない。もっと清らかで、もっと贅沢な文明の力……なるほど。これは癖になりそうですわね」
そう呟いたとき、リアンさんが湯の中でごそごそと動いた。どこからともなく取り出された黒い四角い物体が、その手の中で鈍く光っている。
「……リアンさん?」
「ふふっ、いいでしょう。これで……」
彼女の口元がニヤリと歪む。禁呪かそれとも新たな悪ふざけか――私はつぶらな瞳でじっと彼女を見つめた。




