それはあの、ご老人との約束
※本作は、家紋武範様主催の「約束企画」参加作品です。
寿永三(1184)年、弥生の深夜のことだ。
熊野灘の黒い波を見つめる、一人の僧がいた。
生気を失くした顔貌に、都一の美男子の面影は既にない。
その左手には翡翠の数珠を、右手には祖父と父の名を書いた板切れを持つ。
板切れの最後に、己の名を書けば準備は終わる。
起伏の激しい人生であった。
ほんの一瞬、栄華を極めた一族の出自だ。
だが、全ての罪と劫を流すために、今宵舟に乗る。
波の果てには観音菩薩が待つという。
其処を目指して海を渡るのだ。
名誉も官位も、妻と子も捨てた。
もう、今生への未練はない。
細い月明りの下で、彼は板切れに筆を走らす。
「くわはっはっは! 未練がないなど、笑止!」
笑い声に彼が振り返ると、そこには一人の老人がいた。
高下駄を履き、あちこちが擦り切れた墨衣を纏う。
骨が目立つ手に、錫杖を持っている。
髪も髭も白い。
「何奴」
「儂か? 通りすがりの修行者じゃ」
「修行僧か。ならば私の補陀落渡海を見届けてくれ」
「断る」
「何と?」
「入水したところで、お主の咎が消えはせぬ。残した妻子が喜ぶわけもない」
細い月に、薄墨の様な雲がかかる。
彼は掠れた声を出す。
「されど……我が一門の多くの者たちが命を落とした今、わたしだけが生き永らえることなど出来ぬ」
チリリンと、錫杖が揺れる。
「だからこそなのだ」
「え?」
「彼岸へ渡った者たちを、弔うべきであろうよ。そして」
チリリン。
「お主が、お主だから、後世に残せることがあるのだ」
彼は合掌し、頭を振る。
「何を。何を残せと」
チリン!
「弱い将をいただく兵は不幸じゃ。弱将の元で、強い武士は育たぬ」
ああ、そうだ。
大将でありながら、負け続けた。
食料も鎧も、兵たちも失った。
全ては彼の、弱さゆえ。
チリンチリン!!
「お主はこれより山に籠もり、身も心も鍛えよ!」
「!」
月が痩身の光を、浜に投げた。
「そして、強き将を選び、その将を守るべし!」
雅楽のような錫杖の音を響かせ、老人は海と反対の方向へ飛び上がる。
「強くなれ、強くなれ。皆のために」
「修行僧殿!」
なぜだか彼は、空へと舞い上がる老人を追う。
もっと、聞きたいことがある。
何のための一生。
誰のための戦。
自分はまだ、生きていて良いのか。
己に出来ることが、まだあるというのか!
「強くなれ、強くなれ。お主自身のために。
喝!」
砂浜を駆けあがった彼は、消えていく老人に叫ぶ。
「お約束いたしましょう、修行僧殿。今までの自分を今夜、わたしは捨てます」
数日後。
熊野の沖を流れいく一艘の舟があった。
中に残されていたのは三枚の木札。
清盛。
重盛。
そして維盛と、木札には書いてあったという。
平維盛の最期は、入水であったと平家物語は語る。
だが。
浜辺で謎の老人に出会い、維盛は生きる道を選んだ。
山に籠もり、修行し、散っていた平家所縁の者たちを再び集めた。
その頃には、桜梅のような男子と評された維盛は、堂々とした武士に成長していた。
美濃の山奥に居を構えた維盛は、山の上に住んでいるからと、「植村」を名乗る。
彼の部下たちは「中村」や「二村」、「下村」を名乗ったとも伝え聞く。
そして平家の残党狩りが下火になった頃、山を下り三河へと移って行った。
強き将を見定めるために。
植村一族は、三河の松平氏(後の徳川氏)に仕えた。いずれ徳川の治世が来ると予見していたのかもしれない。
それから幕末に至るまで、主君を裏切ることはなく、江戸時代初期に、難攻不落の城を一つ、任されるようになる。
任された城こそが、大和の高取城なのだ。
植村氏は土岐氏から出たらしい。
土岐氏ってどこから来たの?
誤字脱字ごめんなさい。
平家所縁の皆様、すみません。