5. あ、赤井さんが〇〇を舐めてる⁉︎
「有栖川、どうだ? ワシんところの不動産屋が紹介してやった新居は? なかなかええじゃろ」
「長手さん。その節はお世話になりました。おかげさまで」
長手不動産という不動産屋を営む長手さんは齢八十になってもお話好きでとっても元気なおじいちゃん。
世間話の合間に「有栖川はまだ実家暮らしか。一人暮らしはいいぞぉ。ワシがいい物件を紹介してやるから」と何度も言われた事で、私の一人暮らししたい熱が高まってしまった感も否めない。
亀の甲より年の功、なかなかの営業上手だ。
「それで? どうだった? 貧乏神は」
「ひえっ⁉︎」
ダルマみたいな顔でニヤリと笑う長手さんに突然貧乏神の話を切り出されて、思わずおかしな声を上げてしまった。
送迎車の中は私と長手さんだけ。他に聞いている人が居ないとはいえ、少し声が小さくなる。
「長手さん、貧乏神付きの物件だなんて聞いてなかったからびっくりしましたよぉ。訳あり物件とは聞いてましたけど、まさか……」
「いい奴だろ? 貧乏神ってだけで嫌われてさ。可哀想なんだよ。隣の部屋に住んでる福の神の兄貴と違って女にもモテねぇしな。有栖川みたいな人間には合うと思うんだよなぁ」
いくら長手不動産の物件とはいえ、えらく事情に詳しい長手さんに段々と疑問が湧いてくる。
もしかして長手さんは初めから私と貧乏神をくっつけようとしてあの物件を紹介したのではないのかと。
運転はしっかりしながらも、ジトッとした視線をチラリと向けると長手さんは肩をすくめて笑った。
やっぱり、まんまと嵌められたんだなぁ。
「もう……長手さんが仲人で、まるでお見合いみたい。何で私なんですか?」
「有栖川は妖怪の存在を信じてるって言ってたよな? 田舎のばあちゃんの影響でってさ。最近少ないんだよな、妖怪の存在を信じてる人間って奴が」
「そうかも知れませんけど、私だって流石に貧乏神とお見合いなんて困りますよぉ」
私がそう言うと、長手さんはダルマのようにギョロリとした目をしゅうっと細めて笑う。
一見怖そうにも見える長手さんは面倒見が良く、他の利用者さんからも頼りにされている。
「お前は絶対貧乏神と似合いの夫婦になるぞ」
「恋人すっ飛ばして夫婦ですか⁉︎ もう、冗談ばっかり言うんだから」
次の利用者さんの家に到着したところで、話は有耶無耶に終わる。
そこから再び施設に到着するまで、長手さんはどこか楽しそうに窓の外をじっと眺めていた。
上手く長手さんに嵌められたのはちょっと悔しいけれど、貧乏神の家事スキル含めてあの部屋はお得物件には違いないし、そう考えると少し複雑な気持ちになる。
とにかく気持ちを切り替えて、仕事に集中集中!
だけどその日は同僚からも利用者さんからも「一人暮らしはどう? 新しいお部屋はどう?」って頻繁に聞かれて、話した覚えの無い人にまで知られているなんてどういう事なんだと不思議だった。
長手さんはおしゃべりだけど、勝手に話すはずもなさそうだし。おかしいなぁと思いつつもとにかく仕事にはいつも通りに励んだ。
「あ、そうだ。ボディーソープ詰め替えないといけないの忘れてた」
入浴の介助が終わって全ての利用者さんが浴室から出た後、最後に使ったボディーソープが無くなった事を思い出した。
詰め替えのボディーソープを手に、再び浴室に向かう。
今日は赤井さんが浴室の掃除当番だったなぁなどと考えながら大浴場のドアを開けると、赤井さんが見当たらない。
あれ? もう掃除終わったのかなぁ?
もう一度あたりを見渡してみると、大浴場の大きな浴槽の中で赤井さんがしゃがんでいるのが見えた。
「赤井さ……」
明るく労いの声を掛けようとして、だけど思わず言葉の最後を飲み込んだ。
赤井さんが浴槽の壁に向かってへばりつき、一心不乱に舌で湯垢を舐め取っているのが見えたから。
熟れたイチゴのように赤い舌は蛇のように長く伸び、ベロリと浴槽の壁についた湯垢や水垢を美味しそうに舐め取っている。
「ひ……ッ!」
押し殺した悲鳴に気付いた赤井さんはゆっくりと顔を上げ、私の方を悲しそうに見た。
「有栖川ちゃん」
「ご、ご、ご、ごめんなさぁい!」
そう言ってボディーソープを手に持ったまま駆け出した。
浴室で滑って思いっきりお尻を打ち付けたけど、急いで立ち上がって皆のいるデイルームに向かう。
頭が真っ白になって混乱した。
赤井さんが……赤井さんがお風呂の壁を舐めてた!
「有栖川さん! 走ったりしたら危ないわよ。利用者さんにぶつかったりしたらどうするの?」
「あ、あ、天野さん!」
「一体どうしたの? そんなに慌てて」
「実は……っ」
ハッとして周りを見渡した。
デイルームにはオヤツを食べながら談笑する十五人ほどの利用者さんと職員がいて、皆いつも通り楽しそうに過ごしている。
こんな所で赤井さんの事を話したら混乱を招くに違いない。とにかく一旦落ち着こう。
ちょっと怖くなってチラリと後方を窺ったけど、赤井さんが浴室から出てくる気配はない。
「あの、天野さんにちょっとお話が……」
「いいわ。相談室へ来なさい」
私は混乱する頭を何とか落ち着かせようと、手のひらに人という字を三回書いてみた。
これって何のおまじないだっけ?
何でもいいや、と試してみたけれどバクバクと踊るような心臓の音はとどまる事を知らず、先ほど見た光景が頭をよぎる度に胸がざわついた。
どうして? 赤井さんがどうしてあんな事を?
考えたって分かるわけない。とにかく上司である天野さんに相談していつものように的確な指示を仰ぎ、それから混乱する頭の整理をしたかった。