2. 私だけの城……じゃなかった
「だ、だ、誰ですか⁉︎」
和室のど真ん中で、電気も点けずにこちらへ向いて土下座しているのは和服姿の男性のようで。赤い夕日がバルコニーに接する掃き出し窓のすぐ向こうに見えるから、その人物の様子は逆光が邪魔してしっかりと窺えない。
「誰? なの?」
――ぐきゅるるるるる……
声をかけても動く気配のなかったその人物は、突然大きく腹を鳴らした。
「へ?」
「も、申し訳ございません……。なにぶん一週間と半日何も食べていなかったものですから」
常日頃職場の同僚から不何故か「怖いもの知らずのだね」と言われる私は、その人物にそっと近づいてみる。
頭を下げたままの男は、長い黒髪をゆるく片側に結び、ボロボロでつぎはぎだらけの藍色の着物を着ていた。
そして傍らには破れた団扇が置かれている。
「とりあえず、あなたはどなたですか? ここは私の部屋のはずなんですけど……」
「はい、存じております。有栖川香恋様。私は貧乏神と申します」
そもそも、一人暮らしの女子(とは言ってももう二十五歳)の部屋に男が入り込んでいるだけでも大問題なのに、自分の事を『貧乏神』だとか言っちゃって着物も着てるし。
これは一体どうするのが正解なのか。
「あのぉ、それで?」
「はい。実は私、この部屋に住み着いている貧乏神なのです。ですからまずは引っ越しのご挨拶を……と」
「いや、いやいやいや! 困ります! 貧乏神とかそんな事言われても、私ここの部屋を借りたんです。やっと一人暮らし出来る様になって、ここは私の夢のお城なんです。なのに、なのに!」
訳ありって事は確かに聞いた。
だから幽霊くらいなら我慢しようって思ったよ。何てったって私は自他共に認める楽天家だから。だけど、さすがに貧乏神はダメでしょ!
「えぇ……、それは困りましたねぇ。うーん……」
「あのぉ、今までこの部屋に住まわれていた方はどうされてたんですか?」
「はい、とびきりの貧乏で暮らしておられました。そのうちひもじい暮らしに我慢できずに飛び出していかれるのですが」
そりゃあそうでしょうよ。誰が好き好んで貧乏神と暮らしたりするもんですか。
ずっと畳に顔を擦り付けるように頭を下げたままの貧乏神が何だか居た堪れなくなって、つい情けをかけたのが私の運の尽きだった。
「もう、とにかく頭を上げてください! いつまでも私なんかに、曲がりなりにも神様が土下座してちゃダメですよ!」
「はい……では」
そう言って、やっと旋毛しか見えなかった貧乏神の顔が露わになって……。
「嘘……」
顔を上げた貧乏神は、まさに神の名にふさわしい美形で。
いや、貧乏神なんだけれども。
その造形には貧乏臭さなど微塵も感じさせず、切長の瞳にシュッと高い鼻梁、どこかセクシーさを感じさせる横長の唇。
まさに、まさにドストライク! ドンピシャ!
「こんな事って……」
「あの、何か?」
姿勢良く正座をしたまま、少しだけ首を傾げる動作さえ素晴らしくカッコいい。
「貧乏神、なんですよね?」
「はい。貧乏神と申します」
「あなたと暮らすと、貧乏になってしまうんですよね?」
「はい、貧乏になってしまいます」
あぁ、神様。どうしてこんな試練を私に与えるのですか。
この有栖川香恋、真面目に真面目に生きてきました。恋愛はほどほどに、仕事だってものすごく頑張って、やっと主任まで昇進したんです。
それなのに、ものすごく好みの男性がまさかの貧乏神だなんて。
どうすればいい?
貧乏になるけれど、このお城でドストライクの男性と暮らす。
又は新しい住処を探す、その場合の家賃諸々は条件が厳しい……と。
「ちなみに、貧乏神さんと暮らすと何かいい事があったりしますか? 貧乏になるだけ?」
「そうですねぇ、家事は一通り出来ます。ですからどうかそれはお任せください。あと、必然的に節約するのが上手くなりました」
家事、家事が出来る男子。貧乏にはなるけれど、家事が出来て、節約してくれる。
そして何より、私好みのイケメン。
どうする? 香恋、どうする?
「あぁ! それと、マッサージが上手くなりました。家主様に喜んで頂こうと、長らく練習を重ねましたので」
もうダメだ……。私の負け。
マッサージする人の指を骨折させるとも言われたカチコチの岩石のような頑固な肩こり。
そんな私にマッサージが上手いだなんて、その甘い響きには勝てない。
「あの、不束者ですが。これからどうぞよろしくお願いします」
私がそう言うと貧乏神は目を大きく見開いて、それから蕾がパアっと綻ぶような笑顔を振り撒いた。
眩しい、眩し過ぎる。
「ありがとうございます! 精一杯貧乏神として務めさせていただきます」
「は、はい。こちらこそ」
元々実家だって裕福だった訳じゃない。貧乏って言っても流石に死ぬ事は無いだろうし、こんな目の保養になるようなドストライクなイケメンと同居出来るなら、そして家事とマッサージをしてくれるなら、多少の貧乏なんて堪えてみせましょう。
「早速ですが香恋様、お腹は空いていませんか?」
「うーん、お昼ご飯遅かったからなぁ」
――ぐきゅるるるるるん
そうだった、貧乏神は一週間と半日食事抜きだったんだ。
恐らくそれは前の居住者が退去した日。それにしてもあまりにも契約に間が開かなさすぎじゃないの?
少し疑問に思ったものの、貧乏神の腹の虫は収まる事を知らず延々と鳴り続けていたものだからつい言ってしまった。
「……いや、何だか急にお腹空いてきたみたい」
「そうですか! 私も空腹なのです! 宜しければ私が何かお作りいたしましょうか?」
「そうだね、お願いしようかな……って言ってもまだ買い物も行けてないから大したもの無いんだけど」
買い物に行こうかなと思ってカバンの中の財布を探る。
探す、探す……。
「あれ? あれ? 無い。財布が無い!」
「あぁ、早速出てしまいましたか。私のご利益です」
「ご利益って、貧乏神のご利益?」
「はい、申し訳ありません」
貧乏神は悲しそうに目を伏せた。
自分のせいで財布が無くなってしまった事に責任を感じているんだろう。貧乏神とはいえ、まともな感性の持ち主のようで有難い。
それにしても、いつ落としたんだろうか? ここに来る前は実家にいたから、実はそのまま忘れているだけとか……いや、無いよね。
確かに来る途中喉が乾いて途中の自動販売機でお茶を買った。
「保険証とかカード類は別にしておいたから良かったけど、私の一万三千円が……」
「大変申し訳ございません」
貧乏神があんまり悲しそうにするものだから、それ以上口にするのはやめた。
かなり痛いけれど、どこかに寄付したつもりでいこう。私の取り柄は物事を楽天的に考えるところだ。
「とりあえず買い物に行こうか」
「あ、あの。宜しければ今あるもので何か作ります」
今あるものと言っても、引っ越しの段ボールの中には乾物物や缶詰、それに米くらいしか無い。
それを伝えると暫く「うーん」と考える様子を見せた貧乏神は、ポンと手を叩くと早速食べ物の入った段ボールの荷解きを始める。
「高野豆腐、小麦粉、調味料、米……。大丈夫です。とりあえず作ってみますね」
実家に余っていた調理器具を詰めた段ボールから必要なものをさっさと取り出し、貧乏神は調理を始めた。
私はとりあえず荷解きをする事にしたが、家主より先に新居のキッチンに立つ貧乏神の背中を知らず知らずのうちに見つめていた。
張り切って髪の毛を結び直す仕草や、着物の襷掛けをサラリとこなす様子は本当にかっこよくて。
「これ、夢じゃないよね?」
相手が貧乏神ということを一瞬忘れそうになったが、とにかく私はこの新しい城でドストライクなイケメンと同居する事になったのだ。