新鋭機 昭和20年
昭和20年に登場すべく計画された機体はあった。
十七試艦戦・烈風とキ83、18試陸攻・連山が試作も終わり、制式化されるのを待っていた。
十七試艦戦であるが、発動機は誉しか選べず、設計者は不本意であると語った。また海軍からの要求は大きな零戦であり、誉では到底要求性能を満たせないと抵抗した。
対立は続き、航空本部長まで出張る騒ぎとなった。結局、誉では要求性能を満たせないし、仮に制式採用しても並以下の性能しか持たない機体になると言う主張が通り、設計者の自由にして良いとなった。その代わりに高性能な機体を期待すると。
海軍部内では、相当数の配置換えがあったようだ。
誉で高性能となると、小型軽量にするしかない。見本はあった。雷電と鍾馗である。エンジンに翼を付けて飛んでるような機体である。それでいて空戦性能は、欧米の機体に対抗できる。これだと思った。
設計者は離着艦時には高揚力装置を積極的に使用することで、高翼面荷重でも母艦での運用に不自由ない事を目指した。
まずは機体寸法を決めた。これ以上大きくしないと言うことである。
全幅11メートル、全長10メートル、全高は空母の格納庫に収まる3.8メートルとした。
機体を重くしたくないことから、折りたたみ機構は付けないとした。ただし海軍の要求があれば付けられるよう配慮もした。
胴体幅は誉に合わせようと思ったが、若干の余裕を持たせた。胴体はわずかに操縦席付近が拡がった紡錘型である。よく見ないと分からないくらいだが。風防はファストバック形式は不可と海軍から注文もあり、涙滴型になった。
設計者が誰とは言いませんが、紡錘型を推す人です。
短い翼長で面積をかせぐために弦長を大きく取った。この長い弦長で層流翼にしても厚みを稼げたので、五式30ミリ機銃の装備に余裕が出来た。燃料タンクも大きい。
翼端は角型に整形され、高空性能と横転性能の向上を目指した。
高揚力装置は、幅広のファウラー式フラップと前縁スラットが採用された。水平尾翼にも前縁スラットが付けられている。前縁スラットは空戦中に作動するのを防ぐため、主脚が出ていないと動かないようになっている。また水平尾翼はフライングテールである。
着艦を容易にするための幅広フラップが有るので、補助翼の幅が足りなかった。高機動には補助翼は重要である。ではどうしようか。
設計陣の一人が言った。
「旋回内側の抵抗を大きくしよう」
「それなら強引に小回りになりそうだな」
「でもどうやるのだ。下手すると失速するぞ」
「うむ。衝立を立てる」
「衝立とな」
「主翼上面に衝立を立てる。これなら、抵抗が凄く大きくなる」
「気流が剥離しないか」
「そこは形状を考える」
「高度が下がらないか」
「どのみち、旋回すれば落ちる」
あーでもないこーでもないと検討を重ね、風洞試験を行い決められたのが、幅70センチ縦40センチで最大高さ20センチまで上がる抵抗板だった。これ以上だと、抵抗が大きくなりすぎるし失速の可能性も大きくなると試験結果が出た。機構自体はフラップを上に付けたような機構なので単純だった。安全性の確保として、ワイヤー動作では無く油圧動作とした。操縦桿を傾けると油圧バルブが適量開き、内側スポイラーが出る仕掛けだ。必要の無いときは油圧が掛からないようになっている。
主翼幅全部をフラップにして、補助翼の役目をスポイラーに持たせる案も出たが、挙動計算不能としてアイデアにとどめられた。
開発は急がれた。なにしろ開始時に基本方針の食い違いで大きく時間を失っている。
試作機が出来上がったのは昭和20年2月だった。
十七試艦戦 A7M1 燃料3割 武装無し
全長 10メートル
全幅 11メートル
全高 3.7メートル
発動機 誉二一型
離昇出力 2000馬力
1速公称出力 1800馬力/1800メートル
2速公称出力 1700馬力/6200メートル
最高速度 363ノット/6000メートル
上昇力 6000メートルまで5分35秒
細かい改修を行い、制式化されたのが昭和20年4月初め。
烈風十一型 A7M2
全長 10メートル
全幅 11メートル
全高 3.5メートル
発動機 誉二三型
離昇出力 2100馬力
1速公称出力 1950馬力/1800メートル
2速公称出力 1800馬力/6200メートル
最高速度 352ノット/6300メートル
上昇力 6000メートルまで5分45秒
航続距離 1500キロ/増槽装備2200キロ
武装 五式30ミリ機銃 二丁 装弾数150発
九九式二号五型 2丁 装弾数250発
六番4発または二五番2発
運動性は抜群で、旋回半径もスポイラーを使うことでかなり小さい。空戦フラップのような機速低下も大きくなく、高速で小さい半径を回るという素晴らしい運動性だった。
横転性能もスポイラーを使うことで素早く機動出来た。
正式採用の十一型では高機動のあまり意識を失う事(レッドアウト・ブラックアウトだと思われる)を避けるため、スポイラーの開度に制限が設けられた。垂直旋回は制限しようがないので搭乗員任せだ。
Gに耐えるための高機動飛行服や超高空を飛行するための高高度飛行服は開発中だった。
試験中の高機動飛行服を試作機に使い十一型と空戦訓練をしたところ、十一型では全く相手にならなかったという記録が残っている。
最高速度も日本単発機中最速で加速性能も良かった。
惜しむらくは登場が遅く、工場がアメリカ機動部隊の空襲にも遭い200機余りしか生産されなかったことだ。
誰かが言った。「本機2000機あらば戦局の逆転も可能」と。
キ83は双発の長距離戦闘機として計画された。発動機は最初からハ104を指定されており馬力に不足は感じられなかったが、その大型発動機と大量の機内燃料をどう処理するかが問題だった。
また、当初は多用途性も要求されたが、三式襲撃機(流星)の成功によって多用途性を求める声は無くなり、戦闘機一本となった。だが、計画が進んだ頃には戦線拡大は無く、防御主体の戦場であった。このため、高速性能をもって敵護衛機をかいくぐり敵重爆を撃墜するという運用構想に変わっていく。
試作中のキ102(後の牙竜)もあったが、試作中であり失敗する場合も有る。そう言う意味でもキ83は重要であった。
設計は進み、双発中翼復座と一般的な双発機の姿になった。武装は最初から強力で九九式二号四型六丁を機首下面に搭載する計画だった。これなら、B-17やB-24も一連射で落とせそうだ。だが、B-29の情報がちらほらと入ってくると、これでは不足ではないかと思われるようになる。五式30ミリ機銃4丁へ変更になった。
さらに高空性能が凄いとの情報で、酸素噴射装置を積むことになった。重量増大である。排気タービンも2段2速過給器も上手く行っていない。他に手は無い。
設計中に、偵察も可能になるようにとの要請(強め)が入った。一〇〇式司令部偵察機が誉搭載の四型で最高速度710キロを出しているのだが、既に限界と見られ、代わりになる高速偵察機の役目を期待された。
試作機が出来たのは、昭和19年11月だった。
キ83
全長 12.5メートル
全幅 15.5メートル
全高 4.6メートル
自重 6.4トン
発動機 ハ104-44 酸素噴射装置
離昇出力 2500馬力
1速公称出力 2300馬力/2500メートル
2速公称出力 2060馬力/7800メートル
酸素噴射時 2200馬力/10分
最高速度 680キロ/8200メートル
酸素噴射時 720キロ/10500メートル
航続距離 2000キロ/増装装備時2500キロ
増槽は200リットル2本
実用上昇限度 11300メートル
酸素噴射時 12600メートル
武装
五式30ミリ機銃4丁 装弾数各120発
かなりの高性能である。普通ならこのまま採用されるところだ。しかし、この時点で牙竜が正式採用されており、馬力に対してイマイチだと軍は思った。もう少し詰めることになる。
性能は、当初予定を上回っており試作機のままで試験的に量産が始まった。
昭和20年3月、三菱がようやく壊れにくい排気タービンの開発に成功。4月には搭載した試作機が登場した。
キ83-23 双発復座
全長 12.5メートル
全幅 15.5メートル
全高 4.6メートル
自重 6.2トン
発動機 ハ104-33ル 排気タービン過給機
離昇出力 2500馬力
1速公称出力 2300馬力/5000メートル
2速公称出力 2160馬力/9800メートル
最高速度 740キロ/10000メートル
航続距離 1800キロ/増装装備時2500キロ
増槽は300リットル2本(海軍の物)
実用上昇限度 12300メートル
武装 戦闘機型
五式30ミリ機銃4丁 装弾数各120発
偵察機型
九九式二号四型二丁 装弾数各150発
焦点距離1000ミリのカメラ搭載
軍はこの性能に驚喜。直ちに蛟竜十一型として採用した。昭和20年5月。
外観は排気タービンと中間冷却器が見えない。とてもスマートである。一〇〇式司令部偵察機の流れで見た目が美しければ高性能を引き継いでいたようだ。
中間冷却器の作りが悪かったのか、吸気温度が下がりきらずに異常燃焼を起こすので、吸気温度を下げる対策として水メタノール噴射装置が付いている。とても整備性の悪い機体になってしまった。
機体構造も手間がかがるが排気タービンの生産数が伸びず、排気タービン搭載の十一型は30機の生産にとどまった。試験的に量産された酸素噴射装置付きの機体は90機である。
もう日本の負けが見えている段階であり、排気タービンは我も我もと取り合いになったせいも有る。各社最後に一花咲かせたいのだ。陸海軍航空本部からのそれとない申し入れも有り、三菱も各社に分けたのだった。
中間冷却器が能力を発揮しきれなかったのは、中間冷却器では無く納められていたエンジンナセル内で気流が上手く流れていなかった事だと、戦後図面と実機をにらめっこしていた設計者は理解した。
初めてのことであり、責めるのは間違いだろう。
十八試陸攻は、計画当時は期待されていた。ただ、戦局が進み日本軍不利となっている現状では必要性は高くなかった。長距離偵察と哨戒で二式大艇の替わりをこなせる機体としては期待された。長距離偵察と長距離哨戒に出た二式大艇や一式陸攻の帰還率が徐々に下がってきている。速度が出る機体の出現が期待された。
担当メーカーは中島で発動機は敢えて誉を採用。ハ104は使わない。
深山の反省と経験を元に試作機までは出来上がった。そして、折れた。見守っていた人間は滑走路で何が起こったか一瞬分からなかった。信じたく無いとも言う。
原因は、前輪式降着装置で機体に掛かる荷重を勘違いしていたためだった。従来の尾輪式で計算したのだった。
新たに計算し直した機体は昭和20年3月に飛行している。今度は折れない。
G8N
全長 23メートル
全幅 32.6メートル
全高 7.3メートル
発動機 誉三四型
離昇出力 2000馬力
1速公称出力 1900馬力/2000メートル
2速公称出力 1800馬力/6000メートル
最高速度 310ノット/6000メートル
燃料半分、爆弾2トン状態
航続距離 2200海里 推定
あまりパッとしない性能であった。中島は排気タービンを入手。入手数は30基だった。
6月に排気タービン付き誉が完成。中間冷却器と水メタノール噴射装置も付いている。ここら辺は三菱が各社に情報を提供していた。
G8N2
全長 23メートル
全幅 32.6メートル
全高 7.3メートル
発動機 誉四五型ル 排気タービン付き
離昇出力 2000馬力
1速公称出力 1900馬力/4000メートル
2速公称出力 1800馬力/9000メートル
最高速度 320ノット/9400メートル
280ノット/1500~10000メートル
いずれも公試状態 燃料7割、爆弾4トン、機銃弾定数
航続距離 2000海里 推定
偵察過荷で爆弾倉に増槽を装備すれば5000海里も可能。
実用上昇限度 12000メートル
気密室が無いので、高高度飛行は戦闘時や偵察時のみになる予定だった。
生産数は4機で、内1機は空襲で破壊された。
連山として制式化されたのは、終戦前日だった。
最後の新型機です。
烈風はF8Fみたいな小型高機動戦闘機になりました。
連山は折れないといけません。
次回更新 8月18日 05:00予定