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後半戦

 昭和18年秋になって、とうとうブインとラバウルの放棄が決定された。補給線が遠すぎるのだ。オーストラリアとバヌアツ、ニューカレドニアを策源地とする連合軍は補給線も短い。どちらが有利なのかな言うまでも無い。


 ショートランド島の水上機基地は既に撤退が済んでいる。今はブーゲンビル島から撤退している最中だ。護衛多数を付けた優秀船を使い高速で撤退する。低速の輸送船では困難な任務だ。


 これを妨害し沈めようとするアメリカ海軍機動部隊との戦いは数回発生した。第一機動艦隊は搭載機のほとんどを零戦にして防空に専念した。この頃アメリカ海軍機動部隊の戦闘機はF6Fになっていたが、第一機動艦隊の搭乗員も手練れが多数残っており、まともな空戦が展開された。またガダルカナル島から飛んでくるB-24と護衛戦闘機も厄介だった。高空からの爆撃であり、めったに当たらないが回避しなければいけない。


 ブーゲンビル島からの撤退は9割が成功した。

 ブーゲンビル島撤退作戦完了時には、30隻投入された優秀船が24隻になっていた。輸送船を巡る空襲と防空戦であり、数回の海戦で沈んだ空母はお互いに無かった。



 次はラバウルであるが、ポートモレスビーから戦闘機まで飛んでくる程の距離であり、苦しい撤退戦になりそうだった。


 大本営は、ラバウルからの撤退は重量機材まで含めるのは不可能で人員のみとした。そして優秀船でも危険すぎるので海軍艦艇を使うことになった。これ以上優秀船を失いたくないのが本音だ。


 作戦開始は、19年2月。大量の人員を乗せるために空母まで使われた。改造が終わったばかりの千歳と千代田であった。飛行甲板に露天繫止で自衛用戦闘機各6機が積まれた他は空だった。航空揮発油は抜かれ、爆弾魚雷も降ろされ、後部に厠が臨時で設けられた。使われた船は他に六戦隊各艦と5500トン級が主だった。各艦は魚雷を降ろしている。駆逐艦は対潜警戒に使わなければいけないので、人員の搭乗は無しとされた。1回で運ぶ事が出来るのは目一杯詰めて5000人か。10回以上の作戦行動になるが、どのくらい損害が出るか分からない。


 第一機動艦隊が護衛を務めるのは当然で、また戦闘機だらけだった。もし敵機動部隊がトラック攻撃圏まで入ってくれば、強化されたトラックの基地航空隊が相手をする手はずになっている。


 撤退作戦は一機艦援護の下に行われた。ラバウルの戦闘機隊を一時的に強化するなどして撤退時の安全に留意している。零戦は主役では無くなり、鍾馗四型と本調子の雷電が主役になっている。陸軍も四式戦疾風の実戦テストの場に選んでいる。

 結果として、ポートモレスビーからの空襲は危険な水準まで損害が膨れ上がり下火になった。


 撤退艦隊は東京エキスプレスと呼ばれた。

 8回目は、さすがに危険度が上がってきているのでもう終わりにしようと言うことで優秀船多数を投入。千歳と千代田は本来の業務に戻っている。

 8回目の撤退作戦の時、遂にアメリカ海軍機動部隊が動いた。今まで静かだったのが不思議なのだが。


 ここに第二次トラック沖海戦が起こった。19年4月。

 第一機動艦隊の前衛として第一艦隊が参加。事有るときには戦艦主砲で片を付けようと息巻いていた。大和と武蔵がいる。無理からんことではあった。


 敵機動部隊が発見されたのはトラック島南東400海里。次いで南南東350海里。ラバウルからトラックに向かっている輸送船団を狙っているのが明白であった。

 その時輸送船団はトラック島南南西300海里であり、航路を真北に変更した。

 激突したのは、一機艦とアメリカ機動部隊4群だった。そこにトラック島航空隊が乱入。激しい航空戦が繰り広げられた。

 お互いに損害が大きく引き分けに近い形で終わったが、輸送船団を守り切ったことで日本側の勝ちと言えるだろう。

 ただ一機艦の損害は大きく武蔵も沈んでいる。再建は難しかった。


 昭和19年10月。様々な戦いの舞台で有ったトラックからも撤収が決定された。だが、海上兵力に劣り失敗する可能性が高いとして中止となった。補給物資の輸送も損害が多発している状態だった。


 さらにニューギニア北岸では米豪軍が飛び石戦法で要所のみを攻撃占領。ウェワク、サルミ、ビアク島、ソロン、モロタイ島と航空基地を建設。昭和20年1月だった。米軍の建設能力恐るべしである。

 モロタイ島はパラオ、ダバオ、バリクパパンをB-24なら爆撃圏内に収める都合の良い土地だった。

 既にニューギニアに航空戦力は無く、パラオもアメリカ海軍機動部隊の攻撃で反撃能力は低下していた。ニューギニア北岸に補給を試みるも米軍の哨戒網が密で大規模な輸送は無理だった。わずかに運荷筒で細々と届けられた。パラオは水上艦艇での輸送が成功している。

 昭和19年10月に始まった昆明を根拠地とするB-29襲来は損害ばかり積み上がったようで、10回も行われなかった。

 そしてB-29はモロタイ島に多数集合していた。護衛戦闘機はP-38とP-51だ。

 インドネシア方面での安全は無くなった。B-29だけならシンガポールまで爆撃圏内だ。南シナ海とフィリピン全土は元より台湾、サイパンまでが爆撃可能になってくる。ただ、護衛機無しでは損害が大きいので、必ず護衛機の届く範囲になると睨んでいた。そして昭和20年2月、ダバオとサンボアンガの基地が爆撃に遭った。ダバオは野戦飛行場に毛が生えた程度の、サンボアンガの基地は野戦飛行場程度だった。共に酷い損害をこうむった。陸軍はニューギニアの二の舞を避けるべく、基地の復旧を諦めミンダナオ島から撤退した。兵力を集中させ無いと各個撃破されるだけだと今更ながら気が付いたというか、日本の能力ではあちこちに基地を築いても維持も出来なかった。その現実をニューギニアで無理矢理理解させられた。

 この時、諜報活動をするべく中野学校出身者が幾ばくかの資金・物資と共に残された。終戦後も連絡が取れず、同期の「戦争は終わった」という放送にも応じず、ようやく降伏したのが戦後30年経ってからだった。現地治安機関は住民に対して危険では無く(たまにドルで物を買っていたらしい)、さりとて武装しているので無理矢理連行も出来ず困っていたらしい。

 海軍は、タウイタウイ泊地と豊富で良質な原油を基に自由に訓練が出来るセレベス海が危険になり、日本本土に主力を帰還させることになった。この時、大輸送船団を組んで海軍艦艇が護衛して日本へ帰った。



どうやら、アメリカ陸軍のニューギニア伝いのフィリピン攻略が優先されているようです。

次回更新 8月17日 05:00予定

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