門真市駅東商店街奮闘記
『余命100年の嫁』
「プロローグ」
日曜日の午後十時。門真市の救急指定病院に指定されている門真総合病院の総合内科の待合室は、非常灯と総合内科の前の照明だけが点灯し静まり返っている。廊下の向こうにある総合受付は、非常灯だけに照らされ、ぼーっとしか見えない。平日の昼であれば、外来の患者で、待合室のベンチは埋まり、多くの病院関係者が忙しく行き来しているのだが、日曜日の夜間ということもあり、この空間にいるのは、緊急外来で来院しているか、救急車で運び込まれた患者か、その家族や関係者だけなのだろう。
待合室にいるのは、クマの帽子のついたベビー服の小さな赤ん坊を抱いた父子と、一組の男女だけだった。女は大柄で、真っ黒な髪のショートカット。病院には、場違いな赤を基調とした派手な色調のレオタードに、真っ白な編み上げブーツ。三角巾で左腕を吊って車いすに座っている。その上に男物のグレーのジャケットを肩から掛けている。男は、スポーツ刈りで背中に大きく筆文字で「向日葵寿司」と白抜きで書かれた黒いトレーナーにジーンズ姿だった。
「佐々木さーん」
診察室のドアが開き、看護師から待合室に声がかかった。赤ん坊を抱いた男が診察室に入っていった。半開きのドアからかすかに中の声が聞こえてきた。
「お父さん、安心してください。お嬢ちゃんの頭部のCT検査結果は問題ありませんでした。ただ、切傷部分は、三針ほど縫っています。もし仮に、今晩、嘔吐や発熱があった場合には、明日朝一に、再度、病院に来ていただくことになります。一応、痛み止めの飲み薬と熱さましの薬の処方箋を出しておきますので、病院を出たところに十二時まで営業している調剤薬局が入っているドラッグセンターがありますので、薬を受け取ってお帰りください。」
「ありがとうございました。助かりました。この子が階段から落ちて、頭からどんどん血が出てきた時はどうしたらいいのかわからなくて、取り乱してしまってすいませんでした。」
「世間のお母さんの八割はそんなものですよ。四日後に抜糸に来てください。では、お大事に。」
「先生、ありがとー。バイバーイ」
四歳くらいで、頭に包帯を巻いた女の子が母親と思われる女性に手を引かれ、診察室の中に向かって先生にお礼を言い、手を振りながら出てきた。赤ん坊を抱えた男も何度も診察室の中に向けて頭を下げながら出てきた。
四人家族は、薄暗い総合受付の方に消えていった。
「安さーん。安稀世さーん。」
看護師が待合室に声をかける。待合室で男が、レオタード姿の女の肩をトントンと指でつつき、開いた診察室を指さす。
「サブちゃんも一緒に来てくれへん?難しいこと言われても、私ひとりじゃわからへんし。後で、社長やリーダーのまりあさんにもきちんと状況を報告せなあかんから。お願い。」
と男に両手を合わせ、頭を下げた。(女子プロレスラー安稀世のファンでしかない僕がそこまで踏み込んでええのかなぁ?)と稀世からサブちゃんと呼ばれる男、長井三朗は、躊躇した。
「でもなぁ…。」
「もう一度、お願いや。サブちゃん、一緒に来てんか。」
再度、女が頭を下げた。看護師が、めんどくさそうに
「ご主人も一緒に入ってください。」
と言って、診察室の中に入っていった。(あー、主人じゃないんやけど・・・。)
「早く入ってくださいよ。」
とやや怒気を含んだ声が診察室内からかかったので仕方なく、稀世のコアファンの三朗も稀世の車いすを押して一緒に診察室に入っていった。
「お座りください。えーっと、お名前が・・・。」
初老の医師が、紙のカルテを繰りながら、老眼鏡をかけなおした。胸のバッチには「本田稔」と書かれている。
「安稀世。「やすきよ」といいます。プロレスの試合中に技を受け損ねてしもて、脳震盪と左肩脱臼で救急車でここに運ばれて来たみたいやねんけど。そこは意識なかったからわからへんのです。二時間ほど前にレントゲンとCTとMRIっていう検査受けさせてもろてます。」
稀世が医師に答えた。
「はいはい、やすきよさんね。脱臼と脳震盪ね。まずは、脈と聴診と脱臼から・・・。」
老医師は、稀世の脈と胸の聴診を手際よく済まし、デスクの前のパソコンのキーボードをたたいた。医師の前の24インチのモニターに電子カルテが映し出された。何度かクリックするともう一台のモニターに正面からと横からのレントゲン写真が二枚ずつ映し出された。各々、一枚目は入院時、もう一枚は、抜けた肩を作業療法士が入れる施術を行った後のものだろう。
「はいはい、きれいに入ってますね。関節部分に若干の損傷が見込まれますから、三日ほどは三角巾で腕吊って、安静にしておいてください。その後、七日までは、激しい運動や、重いものを持つことは避けてくださいね。念のため、触診しておきましょう。」
「はい、よろしゅうお願いします。」
稀世は、肩にかけたジャケットを三朗に渡した。
「あぁ、プロレスの試合中の事故って言ってましたね。」
とレオタード姿の稀世に目をぱちくりさせた医師は、左肩周りを「痛みますか?」、「違和感ありますか?」と右手で突いたり、軽く掴んだりして聞いた。
「少しの痛みは感じるけど、大丈夫。過去にも脱臼は経験したことあんねんけど、今回は、療法士の先生上手に入れてくれはったみたいですわ。」
「はいはい、大丈夫そうですね。上着羽織ってもらって結構ですよ。次、ひとりで立ち上がれますか?」
稀世は、すくっと立ち上がった。ベットから、車いすに移ったときのふらつきはもう感じられない。
「頭を上下左右に振ってみてください。めまいやふらつきはありますか?歩けますか?」
「(首を上下左右に振ってみて)いえ、大丈夫です。(前に三歩、後ろに三歩)歩くのも大丈夫です。」
「はい、では、もう、普通の椅子に座ってください。」
と医師は言い、丸椅子を稀世に差しだし、自分の席に着こうとした瞬間、めまいを起こしたように後ろに振らついた。右手の着きどころが悪く、デスクの右端のデスクトップ型のパソコンの本体を倒し、床に倒れこんでしまった。モニターが消え、パソコンが再起動に入った。
「こりゃ、失礼しました。恥ずかしい話なのですが、夜勤の医師不足で、仮眠は取ってるんですが、かれこれ、七十二時間勤務でねぇ…。若い時は、一週間くらいの当直勤務はへっちゃらだったんですけど、さすがに還暦すぎるとねぇ。まあ、今日は、この先、救急搬送が無ければ、安さんでお終いなので、少し寝れますが。」
看護師に抱きかかえられ、恥ずかしそうに椅子に座りなおした。看護師が、パソコンの本体を立て直し、辺りに散らばったペンとカルテを拾いなおした。パソコンが再起動し、ウインドウズのホーム画面が立ち上がった。医師は、「電子カルテシステム」というアイコンをクリックしなおし、稀世に聞いた。
「ちょっと待ってくださいね。立ち上げに三分ほどかかりますので。ところで、安さん、過去に脳震盪の経験は?」
「練習中に、何度かあります。どうしても、後頭部を打ち付ける技で、かける側の技が不完全やったり、受け身を取り損ねたら、もろに打ち付けてまうんで。ただ、救急車で運ばれるんは、初めてです。」
「私も、若い時はプロレスブームでよく見ましたが、若い女の子がやるもんじゃないですよね。」
重い沈黙が部屋に流れた。稀世は不機嫌そうに医師を睨みつけている。それに気づいた医師が、そそくさと目をそらせ、モニターに向き直し、話しかけた。
「いや、これは、セクハラや説教ではなく、個人的な感想ですので気にしないでください。すいません。すいません。」
と頭をかく。
「あぁ、再起動立ち上げ終わりましたね。脳神経、CT、MRI、「YASUKIYO」さんと…。アイコンボタンをクリックし、キーボード入力すると、医師の正面のモニターに電子カルテが表示された。一番上に「安キヨ」とある。下の方は、専門用語や横文字表示で何が書いてあるのかわからない。医師の左側のモニターは、稀世と三朗の側にあり、黒をバックに白い円が中央にある画像が映っている。電子カルテを見る医師の表情が険しくなった。カルテ内容をマウスのホイールを回しスクロールさせる。医師は、デスクの引き出しから、ミネラルウォーターのボトルを取り出し一口飲んで言った。重い空気を感じた。稀世と三朗は真剣な表情でモニターに向かった。
「そちらのモニターに出ているのが、安さんの頭部をてっぺんから横にスライスさせて撮影したCTの映像です。今、中央に映っているのが、安さんの頭蓋骨の頭頂部です。」
医師はマウスのホイールを回すと、中央の白い円が徐々に大きくなり中空の輪になり、さらに輪が大きくなると、中央に凸凹としたグレーの円形が現れた。医師は、椅子から立ち上がり、ボールペンで中央部を指し示し、
「これが、安さんの脳、外側の白い輪っかが頭蓋骨の外周です。わかりますか?」
と聞いた。稀世と三朗は同時に小さく頷いた。医師は、席に戻り、そこから素早くマウスのホイールを回した。外周の白い円が下側二ケ所で途切れたところで止め、説明に入った。
「この、外側の外周が途切れたところが「眼窩」、(医師の自分の目を指さし)眼球の入っている頭蓋骨の穴ですね。眼窩の上部なのでこのあたりですね。」
と眉毛を指さした。途中、不自然に早回しするところが気になったが、黙って医師の言うことを聞いた。続いて、中央部の脳の部分を胸のポケットから取り出した伸縮性のある指し棒を伸ばし、指した。
「先ほど言いましたが、グレーに映っているものが脳です。そのまわりで白く線状に移っているのが、脳の中の血管です。太いものから細いもの迄、多数の血管が脳の中や外周を取り囲んでいます。脳内で出血があると、その部分が画像上は黒くなります。脳の上半分を見てきましたが、安さんの場合、幸い大きな黒い影は見えませんでした。すなわち、大きな脳内出血は認められなかったということです。」
(ほっ。良かった。)稀世と三朗は、小さく息を吐いた。しかし、医師の表情は、先ほどよりもこわ張っている。
続けて、ゆっくりとCTの画面は頭部下部へとスクロールしていった。眼窩の空間が徐々に広がり、今度は狭まっていく様子が分かった。鼻、口を通り過ぎ、画像はストップした。素人目に見ても、黒く映るであろう出血の固まりは無かったような気がした。医師が、再び、稀世に質問した。
「安さん、このところ頭痛やめまい、視野や聴覚に異常を感じることはありませんでしたか?些細なことで結構です。」
「そりゃ、練習後や試合でしこたま頭をぶつけた後はふらふらすることはありますが、日常生活では、特に感じることはあれへんかな?」
「自覚症状は無しということですね。(医師が、何やらキーボードに打ち込む)今から、安さんとご主人には、ショッキングなことをお伝えしなければなりません。よろしいですか。」
「はい。」
稀世と三朗は息を飲んだ…。
「ニコニコ商店街」
大阪府の北河内部、大阪市に隣接する門真市は、大阪市のベッドタウンを形成する衛星都市であると同時に都市雇用圏の一部に含まれる人口十二万弱の中堅都市である。門真市を代表するゆるキャラのレンコンの妖精「蓮ちゃん」があるように、もともと水郷農村でレンコンとクワイが有名な街であると同時に、門真市役所推薦のゆるキャラ「元祖招きネコ」の「ガラスケ」が誘致したわけではないが、かつて日本を代表する家電メーカーの工場があり賑わった街だった。
しかし、大阪中央環状線と国道163号線、大阪モノレールの始発駅と京阪電車の門真市駅のある中央部は、先述の大手家電メーカーの工場移転で2023年の大型商業施設開業まで若干、人の流れが減った雰囲気がある。
京阪電車の門真市駅の東側に位置する、「向日葵寿司」三代目の長井三朗は、所属する商店街の青年部の部長を任されている三十歳の青年だ。正式名称は「門真市駅東商店街」というのだが、地元の人には、通称の「ニコニコ商店街」の方が通っている。
そのニコニコ商店街はもともと五十店舗あったのだが、現在は二十六店舗しか残っていない。活性化している、京阪電車の隣の駅にある「門真本町商店街」に大きく差をつけられ、大阪三大商店街の千林商店街とは、神様と犬くらいの差がついてしまっている。
今日も、2023年にオープンする予定の工場跡地にできる大型商業施設に対抗すべき方策を打ち合わせる為の会合を持ったのだが、何か施策や意見が出るわけでなく、腐れ縁の青年部の同級生の、「お好み焼きがんちゃん」店主の岩本徹三と米卸の「西沢米穀」五代目の西沢広義といっしょに、岩本の店でビールを飲んでいるだけだった。
「サブちゃん、がんちゃん、ほんまにショッピングセンターできたら、門真市駅の周り、どないなってしまうんやろなぁ。うちらの商店街もこの三十年で半分になってしもてるし、2023年でとどめかもしれんなぁ。」
「せやなぁ、隣の本町は旨い事、世代交代もできて、それなりに賑やかにやっとるみたいやけど、うちは、あと目継いでるもんが、俺ら三人のほか、会合にも出てけえへん七人だけで、後は、跡取り問題、「大アリクイ」の店ばっかしやもんなぁ。おい、サブちゃん、聞いてんのか?一昨年、親父さん亡くなってせっかく継いだ三代目も今のままやったら、危ないやろ。そんなんじゃ嫁も来てくれへんでなぁ。」
「がんちゃん、サブちゃんに、そんなん言うても響けへんで。サブちゃん、女子プロレスのことで頭いっぱいやからな。」
「「キャンディー稀世」やったっけ。サブちゃん、ハマってんの。今日も店休んで、差し入れ持って、追っかけか?プロレスある都度、店休んどったら、ほんまに店潰れてまうど。俺らが言うことやないけど、ええ加減にしとけよ。広君からも言ったてくれや。」
「広君もがんちゃんもありがとうな、気いかけてくれて。ふたりと違って、僕、独身やから、気楽なもんやねん。幸い、借金は無いから、店畳んで、サラリーマンすし職人でクルクルかファミレスで握る方が楽かもしれんしな。(時計を見て)あっ、もうそろそろ、差し入れの寿司握って、市立総合体育館行かな!今日は、稀世さん、セミセミの試合やから、六時から七時には試合出るしな。じゃあ、菅野商店街会長殿に出す議事録任すわな。ほっとくとまた投げ飛ばされてまうからな。じゃあ、お先に!」
スキップしながら、三朗は「お好み焼きがんちゃん」を出ていった。西沢と岩本はため息をついて見送った。岩本の嫁のさとみが顔を出し、開いたビール瓶を片付けながら、ぽそっと言った。
「サブちゃん、三十歳にして、恋する十五歳の男の子の顔してるわ。ありゃ、よほどのことがないと、落ち着けへんな…。」
「大阪ニコニコプロレス控室」
門真市立総合体育館は、向日葵寿司から北に歩いて約五分。市役所の北側にあるので、三朗は、大桶三枚と小桶二枚を自転車のオカモチ台に乗せると、体育館に向かって漕ぎ出した。2021年9月×日午後四時、関係者入り口に寿司桶を持って入っていった。
「こんにちわー、向日葵寿司の三朗でーす!」
声をかけると、若手レスラー研修生の陽菜が出てきた。
「三朗さん、いつもあざーす!控室に稀世姉さんとリーダーいますよ!寄っていきます?」
「モチのロンよ!」
「大阪ニコニコプロレス様控室」とA4の紙のプリントが張られた部屋に通された。八人のレスラーが、控室で談笑していた。ドアの先の三朗に気付き、デビュー二十年のベテランヒールで大阪ニコニコプロレスリーダーの「デンジャラスまりあ」が声をかけてきた。
「よっ、サブちゃん、いつも悪いねぇ。サブちゃんの差し入れがあるんで、この子たちもみんな、門真で興行すんの楽しみにしてんねん。私たちのギャラがもっと高けりゃ、サブちゃんの店に行きたいんやけどなぁ。今のプロレスでは、最大手の一部のメジャー団体レスラー以外は、みんな、兼業レスラーやからなぁ。ごめんな。」
「いやいや、気ぃ使わんとってください。僕こそ、金主さんやスポンサーさんと違って、零細ファンなんで、これくらいしかでけへんのに、いつもリングサイドのチケット送ってもらって、ありがたいですよ。まりあさん、今日は、ファイナルやったですよね。他団体とのタイトルマッチ、ベルト守って帰ってきてくださいよ。」
「ありがとね、サブちゃん。そんなこと言うて、稀世の試合終わったら、席立つんとちゃうやろな。」
「いや、そんなこと絶対しませんよ。まりあさん、ベルト守って、うちの寿司で、いっしょに打ち上げ参加させてもらおうと思ってますから。」
ガチャっ、と控室のドアが開いた。まりあが立ち上がり、声をかけた。
「おい、稀世、サブちゃんが今日もお寿司差し入れに来てくれたで。あんたからもしっかりとお礼言うときや。」
色白の肌に映える赤を基調とした、いつものワンピースのレオタード型のリングコスチュームに白いリングシューズ、黒髪のショートカットの髪に、赤いニコニコプロレスのジャージを羽織り、三朗の推しレスラーの「キャンディー稀世」こと「安稀世」が入ってきた。公表上、身長168センチ、体重59キロということだが、体重はもう少しあると思えるぽっちゃり型で、決して美人ではないが、愛嬌のある子供っぽい笑顔が非常にキュートだ。
「サブちゃん、来てくれたんや。いつもお寿司ありがとう。サブちゃんのお寿司が有ると無いとで、やる気が全然ちゃうからなー。今日は、別団体との交流戦やから、思いっきりやってくるわ。しっかりと応援してや。」
「モチのロン!声出る限り、稀世さん応援させてもらうんで、がんばってくださいね。」
「ありがとう。勝って、美味しくサブちゃんのお寿司いただくわな。」
稀世が三朗の手を取り、話しかけた。三朗は真っ赤になって、裏返った声で、
「うん、絶対勝ってください。」
というのが精いっぱいだった。「ひゅーひゅー」と周りのレスラー達から冷やかされたが、嫌な気はしなかった。まりあが三朗の持ってきた寿司桶の風呂敷をほどき、3枚の大桶と2枚の小桶をテーブルの上に並べ、ラップフィルム越しに中身を確認して、三朗に言った。
「いつも通り、ボリューム満点やね。みんな十分楽しめそうやね。で、こっちの小桶は、稀世の分やね。」
「は、はい。」
「大トロ、ウニ、いくら、それにハートマークの鉄火巻き。愛を感じるな。やっぱり稀世は特別ってか?」
「・・・すいません。今日は、稀世さんの誕生日やし・・・。」
「いや、謝ることとちゃうで。みんな、しっかりとしたファンがついたら、まさに美味しい思いができるっちゅう励みになるわ。おまけに誕生日まで知っててもらってサブちゃんのやさしさがあふれてんなぁ。稀世は、今日の試合勝って、ありがたく味わいや。」
「そう言ってもらえると、気が楽になります。門真で一番の稀世さんファンやと自称してますんで、特別扱いさせてもろてます。」
控室のみんなが稀世と三朗を冷やかした。稀世が照れながら三朗にお礼を言った。
「サブちゃん、いつもありがとね。気持ちはめちゃくちゃうれしいわ。でも、みんなで分けさしてもらうわな。それに、私、サブちゃんのお寿司の中では、大桶に入ってる、たけのこご飯が入ってる甘―いおいなりさんが一番好きやねん!私は、サブちゃんの作るお寿司のファンやからね。大好きよ。」
「そういってもらえると、うれしいです。たけのこご飯のおいなりさんは、向日葵寿司のオリジナルなんで、うちでしか食べられへんしね。」
三朗は、照れながらなんとか返事した。まりあが聞いた。
「サブちゃん、うちらの試合、見に来るようになって、どれくらいになるんかなぁ?」
「初めて、見たのが稀世さんのデビュー戦やったから、ちょうど五年前の秋になりますわ。年二回の門真開催は親父に「363日仕事でもええから、門真で大阪ニコニコプロレスある日だけは休ませてくれ」って言って休みもらって来てたんで、皆勤賞ですわ。」
「もうそんなになるんやねぇ。あの時も門真やったね。今日で私、二十五歳になるから、研修生一年やって、二十歳の誕生日でデビュー戦から丸五年か。デビュー戦終わって、サブちゃんが控室にお寿司持ってきてくれたん、よお覚えてるわ。私のファン1号やしね。花束じゃなくて寿司桶もらったのも初めてやったし。ほんま、いつも美味しいお寿司ありがとね。」
と稀世が笑った。周りのみんなも声をあげて笑った。
「いやぁ、女子プロ見るの初めてで、そん時は稀世さんのことも知らんかったんやけど、頑張って戦う稀世さん見て、「ど」ストライクやったんです。稀世さんの出た第一試合終わって、あわてて会場飛び出して店に帰って、親父に内緒で寿司握って…。でも、普通は花束やわねぇ。変な奴ですいません。」
「いやいや、ぜんぜん。そんな気取らへん、サブちゃんが好きやで。」
「おっ、稀世、愛の告白か?どや、サブちゃん、稀世のこと貰ろたってくれるか?母親代わりの私が許すで。どや、向日葵寿司三代目!」
まりあが茶化した。真っ赤になったまま、何も言えなくなってしまった三朗に助けが入った。館内放送が「あと十分で開始です。準備の程、よろしくお願いします。」と入り、みな、準備にかかり解放された。
「じゃあ、リングサイドで応援してますんで、皆さん頑張ってください!交流戦、全勝で打ち上げしましょうね。」
と言って、三朗は控室を出た。
「思いがけない事故」
三朗は、控室から、関係者用通路を使い、一度、体育館を出て、正面玄関から観客席に入りなおした。まだ、控室で稀世に握ってもらった手のぬくもりが残っている気がして、階段の手すりを触ることなく階段を上がっていった。門真市内でのプロレス興行は、昔から、なみはやドームと呼ばれていたラクタブドームかこの門真市立総合体育館くらいでしか行われない。
もちろん、メジャー団体は、ラクタブドームのメインアリーナでの興行でほぼ満員になる。しかし、大阪ニコニコプロレスのようなインディーズ団体は、今回の大会のように、他のインディーズとの合同興行になるのが一般的だ。門真市立総合体育館は、ラクダクドームのサブアリーナ1496平方メートルとほぼ同等の1647平方メートルあり、メジャー団体だと、キチキチにパイプ椅子が並べられ、固定席800席アリーナ席と合わせて最大で2000人ほど入るのだが、インディーズ団体だと、固定席には応援の横断幕がかけられ、アリーナ席もゆとりをもって配置され、800人くらいの席数になっている。
入場料は、ワンドリンク付きでリングサイドの特別席が五千円、それ以外の指定席が三千五百円。メジャー団体と比べるとリーズナブルな感じもするが、当然チケットが安いということは、売上額も少ないということだ。今回の大会だと、満席で約三百万円弱のチケット売り上げになるという。今回は、大阪ニコニコプロレスより、規模の大きい団体との交流戦なので、大阪ニコニコプロレス側のチケット販売シェアは40%。つまり、約百二十万円が大阪ニコニコプロレスの収入になる。もちろん、すべてのチケットが定価で売れることことが保証されているわけではなく、スポンサー等に無料で提供するものも含まれる。
そこから、経費として、午後半日の門真市への体育館使用料が二十四万円、ポスターやチケットの印刷代、郵送費が約三十万円、その他入場者へのサービスドリンクが約五万円。音響、照明のレンタル料が五万円。リング設営は今回は大阪ニコニコプロレスが使用しているものを持ち込み、自分たちで設営したので、その部分は出費はゼロ。パイプ椅子とグラントシートは施設使用料に含まれている。これら経費は、2団体で折半になるので大阪ニコニコプロレスの実質負担経費は約六十二万円になる。チケット収入の半分以上が経費で消えてしまうので、まりあが言っていた、大阪ニコニコプロレスに所属する十二名のレスラーや研修生のほとんどがパートや副業を持っているというのも納得できる。
後は、各団体で販売する団体や選手個人のグッズ販売が収入となる。Tシャツやタオルといった定番商品から、ポスター、卓上カレンダー、アイドル張りの顔写真入りのうちわやファイルケース、サイン入りチェキなど、人気選手は、それなりのブースを確保し、利益が団体と選手に案分されるということだ。グッズの売り上げは、選手の人気のバロメーターであり、その所属する団体内での位置づけにも直結するということなので、三朗は稀世のイメージカラーの赤色のタオルに白で名前の入った新しいスポーツタオルを購入した。売り子で顔なじみの大阪ニコニコプロレスの研修生で稀世と大の仲良しで妹分を自称する夏子から
「三朗さん、いつも差し入れにグッズ購入ありがとうございます。今日も稀世姉さんの応援よろしくお願いしますね!」
と声をかけられた。
「夏子ちゃんも、はよデビューできるとええな。」
と返事をして、タオルを受け取り、首にかけた。
午後四時半、会場に入るとほぼ9割近くが埋まっていた。(今回は、結構チケット売れたんやな。やっぱ、上位団体とするときは客も多くて盛り上がるなぁ。さて、せっかくいただいたリングサイド席やから、ゆっくりと観戦させてもらおかな。)と三朗は、リング正面の最前列の席に腰を下ろした。両団体の代表と今日の出場選手がリング上に上がり、挨拶が始まった。各々の選手のファンから大きな声援が沸き起こる。稀世のあいさつの後、三朗も立ち上がり、タオルを振って「がんばってやー!」と声をかけた。ファイナルは、タイトルマッチであることが宣言されると、会場のボルテージが一段と上がった。各選手がリングを降りる中、稀世は三朗に気付き、軽い笑顔で会釈していった。
両団体ともデビュー戦の新人同士のシングルマッチに始まり、中堅どころのシングルマッチ、タッグマッチと進み、アイドル的な容姿で人気がある両団体のアイドルレスラーの歌をはさみ、後半戦開始。両団体のベテランヒール対決は、リング外で大暴れし、三朗の席の前のフェンスでぶつかり合う選手の汗がかかるくらいで、大いに盛り上がった。ここまで四試合で大阪ニコニコプロレスは二勝二敗。(負けた選手、後で声かけにくいんやけど、四試合ともええ試合やったなぁ。さて、次は、稀世さんや!)
会場の照明が落ち、リングアナの紹介と同時に入場口にスポットライトが当たる。リングアナのコールがかかる。
「赤コーナー、大阪ニコニコプロレス所属、「キャンディー稀世」こと「安稀世」!」
場内に大音量で稀世の入場曲の「大阪ふぁんくらぶ」が流れる。いつもの大げさな巨大リーゼントのかつらに大きな黒縁眼鏡に男物のシングルのスーツの上着でポケットから飴ちゃんを取り出しては、客に配りながら、稀世が入場してきた。「キャンディーっ!」、「きよちゃーん!」、「やすきよー!」、「今日も頼むでー!」と歓声が飛ぶ。ここ一年で稀世の人気も大きく上がり、三朗としてもうれしい反面、ちょっとやきもちの気持ちもあり、微妙な感覚が沸き上がる。「やすきよ」の名前から、取り入れた、お決まりの入場パフォーマンスをファンたちが待ち望む。
場内の稀世ファンによる、入場曲の「大阪ふぁんくらぶ」さびの「天国のやすし師匠におやすみなさいを言うため」の大合唱で、リングに上がる際、サードロープに足を引っかけて、前に転び、ゆるくかけていた黒縁眼鏡をリングに落とし、「メガネ、メガネ」と故横山やすし師匠張りに眼鏡を探すコミカルな演技に、かつての漫才ブームでの「やすしきよし」世代の中年客は、大喜びだ。ピンポン玉を半分に切って真ん中を大きく黒く塗ったものを両目に当てた、きよし師匠役のセコンドが突っ込んで頭をはたき、かつらがふっ飛んだ。続いて、お決まりの「なんでやねんチョップ」と呼ばれる稀世の逆水平チョップでセコンドのピンポン玉の目玉が飛び、今度はセコンドが「めだま、めだま」とリングを探し回るパフォーマンスで、会場は今日一番の大きな盛り上がりをみせた。盛り上がりすぎた会場に、続いて入ってくる相手選手が気の毒に思えるほど、会場が沸き立っている。
相手選手が、リングに上がり、リングアナが両選手を紹介し、稀世は、スーツの上着と眼鏡とかつらをセコンドに渡し、ロープの張りを確認しゴングを待った。今回の相手は、先ほどのハーフタイムショーでリングで歌っていた、初対決の相手団体のベビーフェイスレスラーで、デビューして二年目の若手だった。会場から起こる各々のファンからの声援が会場を二分した。三朗も、精いっぱいの声援を送った。
ゴングが鳴った。ゴング前の稀世のコントや相手選手の歌のパフォーマンスからは、かけ離れた、本格派のレスリングが始まった。稀世が、クラッシュ・ラビットヒート、ダイビングダブルニードロップを繰り出せば、相手は技をしっかりと受け止め、ビーナスシュート、ムーンサルトプレスで反撃する。一進一退の攻防戦に三朗も会場も手に汗握って、両選手を応援した。
開始十分のコールがかかる。リング上から、「バシッ!」、「ドガッ!」と肉体と肉体がぶつかる鈍い音がする。稀世は持ち前のスタミナでやや優勢に試合を進める。稀世に比べると、やせ形の相手レスラーは、肩で息をし始め、フットワークが鈍り出した。
「チャンスやー!稀世さーん!いったれーっ!」
三朗も声をからし、必死に声援を送る。三朗の声が届いたのか、稀世の男性レスラー張りのジャーマンスープレックスホールドが、きれいな弧を描き決まるが、ロープ際であったことが災いし、カウント前にロープ扱いで、技をほどく。足取りが怪しくなった相手に、稀世の「なんでやねんチョップ」八連発で相手をロープに追い込む。ロープがたわむほど、チョップで押し込み、反動で返ってきたところ、稀世の得意技である「クロスアーム式スープレックスホールド」で相手選手の両肩をマットに押し付けた。
その時、稀世は、何かやばいものを感じた。(この子、意識飛んじゃってる?)レフリーがカウントに入ると同時に、心配になりホールドする腕の力を弱めた。「あんた大丈夫?」と小さな声で問いかけた時、白目をむいた相手が、技をほどき、強引な体制で稀世の背後に回り、10キロ以上体重差があるであろう稀世を持ち上げ、パワーボムの体制に入った。(あんた、この状況でそれあかん!)稀世は思った。三朗もリングサイド席から正面で、持ち上げられる稀世とふらつく足取りで左に傾いた相手レスラーを見て(軸がぶれてる!危ない!)と思った瞬間、無慈悲なパワーボムが炸裂した。
「ボグっ!」鈍い音がリングに響いた。稀世はやや左肩が先行し、斜めに後頭部をマットに打ち付けられた。相手レスラーは、技を出し終えると同時に、後ろに倒れこみ、稀世がその上にお尻から重なり落ちた。両名とも、ピクリとも動かない。会場に悲鳴が起こった。
レフリーが、両者の顔を覗き込み、即両手を頭の上でクロスさせ、リングが打ち鳴らされた。両セコンドが、リングに飛び込み、重なり合ったふたりを離した。相手選手は、水をかけられ両ほほを何度かたたかれると、意識を取り戻し、上半身だけ起こして、いったい何があったのかとばかりに、首を左右に振りきょろきょろしている。
稀世は、ピクリとも動かない。左肩がよからぬ角度になり、左腕が右腕より伸びているあきらかに脱臼している。リングドクターが、急遽リング上にあがり、脈をとり、呼吸を確認すると同時に人工呼吸に入った。稀世の顔が見る見るうちに青く変わっていく。登場口から、まりあもガウン姿で、慌てて飛び込んできた。
「先生、どんな具合なん?」
まりあがドクターに問いかけるが、振り向かず、「救急車!」とだけ言い、人工呼吸と心臓マッサージを続けている。まりあがセコンドに、「すぐ救急車手配して!」と指示を出したのが三朗にも聞こえた。(えっ!?稀世さん、そこまでひどいの!?)立ち上がった三朗の両足が小刻みに震えた。
時間にして2分ほどだろうか、リング上で大の字になり、ドクターに馬乗りになられ人工呼吸と心臓マッサージを受け続ける稀世。相手選手は、セコンドの肩を借り、コーナーで心配そうにのぞき込んでいる。まりあは、稀世の頭の横で土下座のような体制で、ひたすら稀世の名前を呼び続けている。
「ゴホッ!」
と稀世がせき込み、身体が小さくはねた。どうやら、呼吸は戻ったようだ。ドクターはアンビュバックを取り出し、稀世の口に当てがい、ポンピングを続ける。稀世の身体は、再び動かなくなっている。五分ほどで、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。三朗は、我慢が利かず、観客席とリング下を分ける柵を乗り越え、両手をリング上に伸ばし、頭をロープ下に突っ込みリングサイドから声をかける。
三人の救急隊員が、白い担架をもって観客入場口から駆け込んできた。ドクターが救急隊員に「約七分前、後頭部打撲、心マ、人工呼吸で四分前自発呼吸再開、意識いまだ戻らず、脳震盪状態。おそらく左肩脱臼」と叫ぶのが三朗の耳に届いた。救急隊員が、まりあに「だれか、付き添いお願いします。」と言っていた。まりあは、三朗と目が合うと同時に、三朗の元に来て
「サブちゃん、ごめん、稀世に付き添って病院へ行ってちょうだい。できれば、私が行きたいところやけど、今日のマッチメイク上、私が行くことはでけへんから。サブちゃんしか頼られへんのよ。終わり次第すぐ、私も行くから、お願い!」
と泣きながら、三朗の両手を握り、懇願した。
「は、はい。ぼ、僕行きます。な、何かあったら、すぐ連絡します。」
とまりあに応えると、救急隊員から
「もう出ます。急いでください。」
と言われた。ふたりが担架を担ぎ、ひとりがアンビュバックを押し続けている。
「はい、僕が同行します。」
とだけ言い、三朗は、救急隊員の後を駆け足でついていった。
体育館正面入り口前に、赤い回転灯を点滅させた救急車が停まっていた。運転手が、既に搬入先の病院の手配をしていたようで、稀世をストレッチャーに移し、救急車に乗せると、救急隊員のひとりは助手席に、ふたりは、三朗といっしょに後部ハッチから乗り込み、ストレッチャーの横のベンチシートに座った。救急隊員に促されるように、稀世の右手を両手で握って
「稀世さん、しっかり・・・。頑張って・・・。」
と声をかけ続けた。体育館から、線路を挟んで反対側の緊急指定の総合病院まで一分で着いた。救急車用の入り口には、高齢医師とふたりの看護師、映像技師が待機していた。白衣の医師を目にして三朗の心拍数が一気に上昇した。根拠のない不安感が立ち上がり、喉元にすっぱいものが上がってきた。稀世は、いまだ意識を取り戻していない。おろおろする三朗の周りで、てきぱきと救急隊員はストレッチャーを降ろし、担当医師に状況を伝えると、ものの三分で現場を去っていった。
緊急用の入り口で、ひとり残された三朗に、
「今から、診察、レントゲン撮影、CT撮影、そしておそらくMRIを取ることになります。診察の同意書にサインお願いします。」
と中年の看護師がA4の黒いバインダーとそれに挟まれた同意書とボールペンを突き出した。三朗は、稀世の名前と生年月日を患者欄に、同意者の欄に自分のサインをして、三朗の携帯電話の番号を緊急連絡先欄に記入し、看護師に渡した。
「患者さんに何か既往症はありますか?」
「いや、僕の知っている限りでは、たぶんないと思いますが…。現役のプロレスラーですし…。」
「総合体育館での事故と聞いています。検査に今から三十分ほどはかかりますので、健康保険証とか取ってくることはできますか?」
「はい、行ってみます。」
「では、お願いします。お戻りになられましたら、日曜日で正面玄関は閉まっていますので、救急外来用の入り口で守衛の者に声をかけてもらって、総合受付までお越しください。」
と早口でまくしたて、病院内に走っていった。
(えーと、まずは、体育館戻って、まりあさんに報告して、更衣室で稀世さんの保険証探してもらって、まりあさんの携帯聞いて、ここに戻ってくる・・・)で間違いないかな。と三回自問自答して、体育館へ走った。
二分ほどで体育館に着き、関係者用の入り口から大阪ニコニコプロレスの控室に走った。コンコンコンとドアをノックし声をかけた。
「三朗です。入っていいですか?」
ドアは、すぐ開き、まりあが出てきた。
「サブちゃん、ごめんね。稀世どう?意識戻った?どこの病院?」
と三朗の両腕をがっしりと掴み、早口で聞いてきた。
「意識はまだ戻っていません。病院は、線路向かいで歩いても五分かからない救急指定の総合病院です。今、レントゲンとCTとか取っているところだと思います。看護師さんから、稀世さんの健康保険証があれば、持ってきてほしいって言われてますので、稀世さんの荷物の確認お願いします。あと、連絡とるのにまりあさんの携帯教えてくれませんか?」
「ちょっと待ってね。ちょっと、夏子、ロッカー行って、稀世の荷物からあの子のリュック取ってきて。健康保険証がいるんだって。たぶん、財布に入ってると思うから。サブちゃん、電話出して。私の携帯は、090―××××―□□□□だから、コール一回鳴らして。」
三朗がコールをかけ、アドレス帳に「まりあさん」と登録した。廊下の奥から、大きな歓声が上がった。研修生の陽菜から、
「まりあさん、セミファイナル終わりました。出番ですよ。」
と声がかかった。稀世と仲良しの中堅レスラーが、稀世のものと思われるリュックを持ってきた。まりあは、リュックを三朗に渡し、言った。
「たぶん、表のポケットに稀世の財布入ってると思うから、見てやって。そんで、ごめんね、サブちゃん。面倒かけるけど、稀世についていてやってんか。私もすぐにでも病院に飛んでいきたいんやけど、ニコニコプロレスを支える立場として、どうしようもない状況やねん。サブちゃん、頼りにさせたってな。」
「まりあさん、時間です!」
と陽菜から声をかけられ、まりあは、何度も三朗を振り返りながら、リングへ向かう廊下を歩いて行った。三朗は、病院に向かおうとしたが、稀世の同僚レスラーから、稀世の状況を聞かれたのでまりあに答えたことと同様に話し、「急ぎ病院に戻らないといけないんで。」とその場を離れた。
「待合室」
すっかり日が落ち、暗くなった病院に戻り、裏の救急受付で、稀世の財布から健康保険証を抜き出し、警備員につないでもらい、総合受付に急いだ。先ほどの看護師が出てきて、健康保険証を受け取った。
「ふーん、国民健康保険なのね。ところでプロレスって試合中の事故って労災扱いなの?」
と聞かれた。
「わかりません。ところで、稀世さん、いや安さんの具合はどうなんですか?意識は戻りましたか?」
と聞き返すと、
「まだ、意識は戻ってないみたい。ただ、心拍も、呼吸も安定してるみたいだから、検査待ちね。あと、左肩の脱臼は、無事に入ったみたいだからそこは安心して。今、CT取ってるから、あと十分ほどで一回出てくるわ。この奥の25番のCT室の前で待っててください。おそらく、その後、MRI入るから、三十分ほどはかかると思うわ。何かあったら、一階の外来ナースステーションで呼び出しベル鳴らしてください。一応、保険証のコピーもらっておきますね。」
と事務的に答え、健康保険証のコピーを取り、すぐに保険証を返してくれた。
夜の無人の病院で薄暗い照明のCT室の前に移動し、稀世が出てくるのを待った。しばらくすると、ストレッチャーに乗せられた稀世が、白衣姿の若い撮影技師といっしょに出てきた。三朗は緊張した。
「まだ、意識が戻っていません。担当医は、今、別の患者を診ていますので、次は30番のMRI室の前で待っていていただけますか?ついてきてください。ちなみに、リングコスチュームって金属部品無いですよね?金属あるとMRIかけられないんで。普通なら、ガウンに着替えてもらうんですが、うちも、日曜の夜間は人手不足なもんで着替えさせる余裕がないもんですから。」
と聞かれた。
「試合中、けがしないように、金属は使われてないと思います。指輪や装飾品も試合中は身につけないと聞いていますので。仮に金属ぽく見えるものがあってもメッキ加工のプラスチック部品だと思います」
「わかりました。」
後は、黙って部屋を移動した。稀世が、MRI撮影室に入り、五分ほどすると撮影中の赤いランプが点灯した。三朗は、まりあの携帯に状況をショートメールで送った。MRI室の前で待つ三十分は、五分くらいに感じたし、三時間にも感じられた。頭の中がぐるぐると周り、元気に稀世が出てくる良い想像と意識のない状態で出てくる悪い想像とが交互に浮かんでは消えていった。
ちょうど、三十分で「撮影中」ランプが消え、白衣の若い医師が出てきた。
「撮影が終わりました。一旦、病室にてお待ちください。おって、主治医から診察結果の話がありますので、奥様の意識が戻られてなかったら、ご主人が受けてください。」
「えっ、僕、主人じゃ…。」
と言いかけたが、話を聞かず、若い医師は、撮影室に戻り、しばらくするとふたりの看護師が来て、ストレッチャーを撮影室から出し、専用エレベーターで個室の病室に連れて行かれた。ICU(集中治療室)やHCU(高度治療室)ではなかったので少しほっとした。
「ご主人も室内で奥様が目を覚まされるまでお待ちいただいて結構です。意識が戻られましたら、枕もとのナースコールお願いします。」
看護師は、ふたりでストレッチャーからベットに稀世を移し、簡易の酸素マスクと右手の指先にクリップ式のモニターセンサーを設置して、部屋を出ていった。(稀世さん、早く目を開けてください…。)と顔を覗き込んだ時、「ブブブブ」と三朗のスマホのバイブが鳴った。画面を見ると、まりあからのショートメールだった。「ごめん、サブちゃん。社長と私は、先方のスポンサーと食事に行かないといけなくなりました。面倒かけますが、稀世の状況変わったらメール下さい。みんな心配していますが、押しかけても迷惑かけるので。本当にごめんね。」とあった。「稀世さん、検査終わり、一般病室に移りました。意識はまだ戻りません。医師との面談もまだです。何かあればメールします。お寿司は皆さんで食べてください。」と返信した。病室内には、医療機械のモニター音と稀世の呼吸音だけが響いていた。
三朗は、薄暗い照明の中、稀世の顔に自分の顔を近づけた。酸素マスクから「シュー」という連続音が聞こえ、間に「ハー」という稀世の呼吸音が入る。十分強の熱戦の名残なのか、ファイト中の汗が結晶化し、稀世の顔にところどころ白く塩が吹いている。(これじゃ、かわいこちゃんが台無しだ。)とウエストバックからハンカチと入場時にもらったミネラルウォーターを出し、ハンカチに水を染ませて、稀世のおでこから、頬、そしてあごの下を優しく拭いた。部屋の水道で一度ハンカチを濯ぎ、再び顔を拭き始めたところ、ピクピクと稀世の瞼が動いた。
「稀世さん!稀世さん!」
と声をかけながら、おでこを拭くと、ゆっくりと稀世の瞼が開いた。
「あれ・・・。サブちゃん・・・。ここ、どこ。あ、痛っ!」
「稀世さん、三朗です。わかりますか?試合で脳震盪起こして、今、病院です。」
「えっ!?試合は?」
「相手のパワーボムが崩れて、稀世さん、受け身とれなくて。両者ノックダウンで。救急車で運ばれて、脳震盪で二時間ほど意識なかったんですよ。左肩は脱臼してたし。あーでも、意識戻ってよかったー。本当に、心配しました。ほんと、よかった。よかった。」
三朗の頬を安堵の涙がつたった。
「なんでサブちゃんが泣くのよ。男前がもったいないで。ところで相手の子は、大丈夫やったん?」
「すいません。稀世さんの意識が戻れへんかったらどうしようってずっと思ってたんで、緊張が急に解けてしもて、自然に泣いてしまいました。相手の子は、肩借りて、立ってましたから。大丈夫やと思いますけど。こんな時まで、相手のこと心配してんと、自分の身体を心配してください。」
「そんなん言うてもな、試合中、相手の子、意識飛んでんのわかってたから・・・。そうか、受け身失敗か。また、まりあさんに怒られるな。で、今何時?」
「今、八時半です。もう、大会も終わって片付けやってる時間やと思います。まりあさん、相手団体のスポンサーと食事行かなあかんから、僕が稀世さんの付き添い頼まれたんです。」
「みんなに迷惑かけてしもたな。サブちゃんもごめんな。でも、ありがとう。目覚めた時にサブちゃんの顔見れてうれしかったわ。」
三朗は照れてしまい、慌てて一歩下がった。
「あっ、そうや、稀世さん意識戻ったこと、まりあさんにメールせな。あぁ、その前にナースコールや。」
「サブちゃん、ちょっとその前にこっち来て。」
「なんですか?」
と稀世に近づくと稀世が右手で三朗の首を抱き寄せ、耳元で
「ほんま、ありがとう。サブちゃん。」
と囁いた。三朗を抱き寄せる際、右手の人差し指に着けていたモニターセンサーが外れ、モニターの赤ランプが点灯し、表示画面の数値がゼロを表示した。病室のスピーカーから「安さん、何かあったんですか?」と看護師の声がした。応えようとする三朗の頭を抱き寄せ、稀世は耳元で言った。
「あと、十秒このままでおらせて。」
ものの一分で、看護師が駆けつけて、ドアが開いた。三朗は、あわてて稀世の右腕を首から払いのけて、布団の上に稀世の腕を降ろした。
「すいません。今、意識が戻りました。右手、動かしたときに、指のクリップ取れてしもたみたいで。」
あたふたと看護師に説明した。看護師が、いくつか稀世に質問をして、稀世はそれに答えた。看護師は、ナース服のポケットからPHSを取り出し、どこかに連絡を取った。
「安さん、ベット起こしますね。(ベットの背を電動スイッチで起こした。)どうですか?ふらつく感じありますか?」
「はい、ちょっとまだふらふらします。」
「わかりました。先生、後、三十分ほどで時間とれますので、車いすで、下に降りましょう。車いす用意しますので、ご主人、一階の夜間外来8番の診察室迄連れて行ってあげてくださいね。大丈夫ですか?」
「はい、わかりました。」
看護師は、再度、モニターセンサーのクリップを稀世の右手の人差し指に着け、モニターを確認して、酸素マスクを外すと車いすを病室に持ってきた。看護師と三朗が手を貸し、稀世を車いすに移した。
「では、下の診察室でお待ちください。」
と言い残し、看護師は出ていった。
「サブちゃん、さすがにこのカッコのまま下りるの恥ずかしいねんけど。」
三朗は、さっとジャケットを脱ぎ、三角巾で左腕を吊った稀世の肩にかけた。そして預かっていたリュックサックを稀世の膝の上に置き、車いすを押し、部屋を出ていった。
エレベーターに乗り込み、三朗が一階のボタンを押した。まもなく、一階に着きドアが開き、ふたりはエレベーターを降りた。エレベーター前の館内図を確認し、稀世の元に戻ると、稀世が妙にもじもじしている。
「稀世さん、どうしました?具合悪いですか?」
「サブちゃん、ごめん。おトイレ・・・。」
「えっ!?看護師さん呼んできましょか?」
「あかん、もうやばいねん。ごめん、サブちゃん、トイレまで連れてって。」
「えっ、でも・・・。」
「デモもヘッチャも無いねん。もう、持たへん…。そこ、車いすマークのトイレあるから、中まで連れて行って。後は何とかするから。お願い。」
とトイレのマークを指さす。
急いで、車いすでトイレに駆け込み、車いすから稀世を洋式トイレの便座に座らせた。稀世のリングコスチュームはセパレートタイプでなく、ワンピースタイプのレオタードなので全部降ろさないとトイレができないらしい。
「ごめん、サブちゃん、背中のひもほどいて。」
「は、はい。」
震える指先で、背中の一番上の蝶々結びをほどき、五段ほど緩めた。
「後は、稀世さん、できますね。」
「アカン、ちょっとでも力入れたら、漏れてまう。サブちゃん、ごめん、目つぶってコスチューム降ろして。お願い。マッハ2でやって。」
と右手一本で便座サイドの手すりを持ちプルプル震える足で立ち上がった。
「えっ!?そんなん無理ですよ。」
「サブちゃん、私がお漏らしになってもええの!?早く!あぁ、もうアカン!」
三朗は、目をぎゅっと閉じ
「失礼します!」
と三角巾から左腕を抜き、一気にコスチュームを膝まで下した。ガタンと稀世が便座に座る音がすると同時に、液体が滴る音がトイレに響いた。
「サブちゃん、目つぶったまま、大きい声でなんか歌って!お願い!」
「は、はい!♪生駒山のてっぺんで、京の御所に最敬礼!神武以来のこの国に、生まれたからにゃ頑張るぞー!♪」
「あー、間に合った。二十五歳お漏らし娘にならんで済んだわ。サブちゃん、ありがとう。いい歌やったわ。もうちょっと目つぶっててな。目開けたらコブラツイストの刑やで。」
カラカラカラ。トイレットペーパーが巻き取られる音と、カサカサと拭く音。そして、しゅるしゅるとレオタードを挙げる音が三朗の耳に響いた。ほんの十数秒のことだが、恐ろしく長く感じた。
ジャーッ!トイレの水が流される音がして、
「はい、サブちゃんありがとう。もう目、開けてもうてええよ。背中のひも、くくってくれる?」
目を開けると、真っ赤な顔してうつむく稀世がいた。そして蚊の鳴くような声で呟いた。
「サブちゃん、このことは、まりあさんや仲間のみんなには絶対内緒にしとってな。お願い。」
三朗は、だまって何度も頷いた。再び、稀世を車いすに座らせ、手を洗わせると、8番の診察室へ移動した。ふたりが待っていると、救急車のサイレンが近づいてきた。バタバタと看護師たちが動き回る。
稀世と三朗の前に、救急車で到着した時に迎え入れてくれた初老の医師が立ち、
「安さん、意識戻って、良かったです。頭痛とか吐き気はありますか?」
「いえ、大丈夫です。」
「申し訳ないですが、緊急の手術を要する患者が来てしまったので、もう少し待ってていただけますか?長時間かかる手術ではないようなので、ご協力お願いします。」
「は、はい。わかりました。ここで待っていればいいですか?」
「はい。何かあれば、看護師に連絡させますので。ご協力感謝します。」
と言い残し、初老の医師は、緊急搬送口へと走っていった。
医師の姿が、廊下の暗闇に消えると稀世が言った。
「あーあ、とんでもない誕生日になっちゃたなぁー。試合は、勝てなかったし。サブちゃんにも迷惑かけちゃうし。あー、何よりもサブちゃんのお寿司食べられへんかったしなぁ…。あー、もう最悪!」
「稀世さん、「最悪」って言葉は、そうそう使うもんじゃないですよ。こうして、意識が戻って、文句が言えることは、二時間前を考えればラッキーですよ。レッツ、前向きシンキング!ですよ。」
「サブちゃんは、いつも優しいねんなぁ。サブちゃんがそういうんやったら、ラッキーな気がしてきたわ。」
「それで、ええんですよ。その方が、稀世さんらしいですしね。」
「ありがと。ところで、さっきのトイレで歌ってくれた歌ってなんなん?」
「あれ、僕の悪友で広君ってやつがおって、そいつのオリジナル曲で「頑張るぞ!」っていう歌。変な歌やったでしょ。でも、なんか、困ったときに歌うと不思議と元気出るんですよ。」
「うん、サブちゃんが歌ってくれたからかもしれへんけど、なんか、元気出る歌やったわ。また、聞かせてな。あぁ、次はおトイレ以外でな。」
と稀世が笑った。
「ようやく、稀世さんの笑顔が見れましたわ。やっぱ、笑顔が一番ええですよ。」
「そんな、照れるわ…。でもな、サブちゃんの事、信用してへんわけやないねんけど、確認だけさせてほしいねんけど?」
「えっ?何ですか?」
「若い娘が、男の人と一緒にトイレ入って、脱がしてもらうって、かなり変態やん?ほんまに、目つぶっててくれてたんやんな?」
稀世が顔を近づけて、耳元で小さな声で聞いた。
「も、も、も、もちろんです。」
「なんで、今、どもったん?なんか怪しいなぁ?ほんまは、目開けて見たん?」
「い、いや。み、見てません。ただ、稀世さんがこんな近くで囁かはるから、ドキドキしてしもて。」
「言い訳とちゃうやろなぁ。私の目を見て!もう一度、聞くで。ほんまに目つぶっててくれたんやね。」
目の前、5センチの稀世の顔に、三朗は血圧が上がり、もう何を言ってるのか、自分でもわからなくなった。
「は、はい。絶対見てません。ただ、稀世さんが、レオタード上げる間に、「目開けたら、コブラツイストの刑やで!」って言うから、「稀世さんの裸見て、おまけに、コブラかけてもらえるなら、ダブルラッキーかなって!」考えてたんで目あけるの忘れてました。すんません!」
「な、なに言うてんの!サブちゃん、そんなんほんまもんの変態やん!」
「さらに、ごめんなさい!コブラだけやなくて、稀世さんにお仕置きで「卍固め」や「首四の字」とか「ジャパニーズ・レッグロール・ホールド」もかけてほしいと考えてしまってました。」
「えっ?卍と首四と回転足折り固めって…。ほかにもなんか考えてたんとちゃうの?」
「は、はい。あと、「縦四方固め」、「上四方固め」かけてもろて、最後に「M字ビターン」で決めてほしいと考えてました。あぁ、僕、何、心の中の声、自白してしもたんやろ!ごめんなさい!ほんまにごめんなさい。今の発言全部、撤回させてください。」
「サブちゃん、縦四,上四,にさらにMビタ!?サブちゃん、ドMなん?最後には「撤回させてくれ」って何どっかの政治家の失言みたいに言うてくれてんの。以前から、私に、そんな技かけられんの想像してたん?」
「は、はい。い、いや。そ、そんなん想像したことはありません。こ、今回が、初めてです。信じてください。」
「サブちゃん、今、最初に「はい」って言うたやん。正直に言わんとほんまにお仕置きやで!」
「じ、実は、以前から考えてました。しょちゅう、稀世さんに、技かけてもらうの想像してました。プロレスファンとしては、好きな女の子に技かけてもらうのって、世界中の女子プロレスファンの「男の夢」やないですか。堪忍してください。ぼ、僕、本気で、き、稀世さんの事、好きやから。」
冷汗たらたらで言い訳する三朗に対し、稀世も真っ赤な顔して聞き返した。
「「男の夢」って…。サブちゃん、私、こんなおデブやから、男の人に好きって言われたん初めてで、めっちゃ、ドキドキしてんねんけど。サブちゃん、今、私の事、「好きや」って言うてくれたけど、それは、「レスラーとして?」それとも「女の子として?」どっちなん?」
「ど、ど、ど、どっちもです!」
(わぁ、言うてしもた。アカン!もう嫌われた。もう出禁になってしまうんとちゃうか。あぁーっ。)目をつぶったまま、三朗は天井を仰いだ。少しの間が開き、
「こんな私のどこが好きなん?」
「ぜ、全部です。稀世さんの全部が好きです!」
極度の緊張で、声が裏返った。
「えっ!?」
「全部!全部!全部が大好きです!」
もう、自分で何言ってんのか全く分からない。三朗のひっくり返った声が、病院の廊下に響き渡る。
「臀部!?臀部ってお尻の事?」
「!?いや、ちゃいます。臀部やなくて全部。全体の全部でお尻の臀部やないです。もちろん、全部の中には臀部も入ってますが。(あーっ、またやってしもた。)」
「いやっ!サブちゃんのエッチ!」
パシッ!稀世の平手が、三朗の頬に飛んだ。(あぁ、終わってしもた。さよならや。ロンググッバイや。あぁ、何やってんねや僕・・・。)三朗の瞳から自然と涙が溢れた。
「こりゃ、お仕置きが必要やな。まあ、最後やから、サブちゃんに選ばしたるわ。何がいい?」
「えっ?最後って。やっぱり。すんません。僕、僕、僕、失礼しました。あぁ、最後やったら、何にしよ。うーん」
「あー、もう、何言うてんの。もごもご言うて。男らしくない奴には、口封じの刑や!」
(口封じの刑って?)三朗が、思ったとたんに、天井を仰いでいた三朗の顔は、稀世の右手で顔を稀世の顔の正面に向かされた。(正面からのヘッドバット!?それも口への頭突きで歯、折っての口封じ!?)身構えて、目を閉じた。予想していた衝撃の代わりに、唇に柔らかく、温かい感触。(んんん?この初めての感触は?)三朗が恐る恐るゆっくりと目を開けると、そこには1センチの距離に稀世の顔があった。一秒、二秒、三秒。まだ1センチ先に稀世の顔がある。五秒、十秒、十五秒。(夢なのか?人間死ぬ直前に見る、願望夢なのか?夢なら、覚めんとってくれ!)と三朗も稀世の首に手を回し、強く抱きしめた。十八秒、十九秒、二十秒。ゆっくりと稀世の顔が離れ、顔全体が見えるようになってきた。ゆっくりと酸素が三朗の口に入り、脳へ周り、現実の世界に戻ってきた。50センチの距離で稀世の顔と背景の廊下の非常灯が目に入り、ここは天国でなく、病院の廊下の待合席であることに意識が戻った。
「はい、嘘つきサブちゃんに、「口封じの刑」の「マウストゥーマウスホールド稀世スペシャル」よ!はい、お仕置きタイムおしまい。ありがとうね。」
「(シューッ)・・・・。」
「サブちゃん!サブちゃん?大丈夫?」
「(シューッ!)・・・・。」
「ほんとにサブちゃん大丈夫?息してる?」
「き、稀世さん、これは、「刑」やなくて「ご褒美」ですやん・・・。」
「うん。私の事、大事にしてくれてるサブちゃんへのお礼。好きよ、サブちゃん。」
「!!!」
「安さーん。」
廊下に看護師の声が響いた。ふたりは慌てて、正面を向いて
「はい、なんでしょう?」
と稀世が返事をした。看護師が、廊下の向こうから小走りで走ってきた。
「お待たせして、ごめんなさいね。さっきの救急車、小さい女の子、頭切っちゃって、すごい出血で手術になるかもって、先生、慌てていったんだけど、処置室で三,四針縫うだけで済みそうなんで、あと二十分ほどで終わりますから、ここで、もう少しお待ちくださいね。(後ろを振り返り)佐々木さんのお父さんもこちらでお待ちください。」
と早口で言うと、後ろに立っていた、有名ベビー服のブランド物のクマのフードを被った赤ん坊を抱いた男が、「順番飛ばししてすいません。」と会釈して、隣のソファーベンチに座った。
まもなく、佐々木と呼ばれた男の娘が頭に包帯を巻かれた姿で、母親らしき女と診察室から出てきた。入れ替わりで、稀世が呼ばれ、三朗と共に、医師から脈、聴診、左肩の触診、CTの解説を受けた。
老齢医師から、稀世に直近、めまいやふらつき等感じることはないかとの質問が終わったのち、若干の沈黙の時間があり、咳払いをした。何やら、パソコンを操作すると、横のレーザープリンターから三枚のプリンタ用紙が出てきて手に取った。
医師は、ふたりの方に向き直り、大きく深呼吸をしたのちに、ゆっくりと話し出した。
「重大な告知」
医師は、銀縁の高級そうな眼鏡から老眼鏡にかけなおし、プリントを一枚当たり三十秒ほどかけて、目を通したのち、CTの画像をスクロールさせ、頭頂部と眼窩の上部の間を二往復させた。
「安さん、ご主人、今から重大なことをお伝えせねばなりません。落ち着いて、聞いてください。また、途中でご不明な点や十分理解できないことがあれば、その都度質問いただいて結構です。よろしいですか?」
重苦しい空気の中、稀世と三朗は黙って頷いた。
「先ほど、グレーの部分が脳で、白く脳を走っている線を血管だと説明しましたね。」
頷くふたり。医師は指し棒を伸ばし、脳の画像の中にぽつぽつとある、白い丸い部分を指し示した。
「これ、安さんの脳内に何ケ所か大きいものがあるんですが、脳内の動脈瘤です。「脳溢血」とか「くも膜下出血」という言葉を聞いたことがあると思うのですが、それらの原因になります。これら動脈瘤が脳の奥の方で破れてしまうと手術も難しく、死亡率は非常に高いです。また、仮に死亡に至らなくても、出血した血液が脳を圧迫して、身体に大きな障害が残すことが多いです。安さんの脳内には、破れると危険な大きさの動脈瘤が多数見られます。ここまで、よろしいですか?」
何もことばが出ず、ふたりは黙って頷いた。医師はCT画面をさらにスクロールさせ、並行してカルテのモニターでもう一つの画像を立ち上げた。
「こちらの画面は、MRIの画像になります。磁気を用いて撮影した、脳の画像と思ってください。CT画像のここと、MRI画像のここが同じ部位になります。大きく白く映っている影がありますね。ゴルフボールくらいの大きさがあります。これは、「髄膜種」と言われる「脳腫瘍」になります。厄介なことに、頭蓋底、言い換えると脳の深い部分で神経と血管を巻き込んでしまっています。こうなると、非常に手術は困難を極めます。当院では手術は不可能です。血管と神経を巻き込んで癒着していることから、手術により、血管や神経を傷つけてしまうと、身体機能だけでなく生命に大きな危険を与えます。ここまでよろしいですか?」
「・・・・」
「続けさせていただきます。脳内だけでも非常に危険な状況なのですが、血液検査の結果とMRIの画像分析から、「ステージ4のすい臓がん」、それも、他臓器への癒着浸潤があることが分かりました。腫瘍マーカー検査の数値から、肺への転移が確認されています。「肺がん併発、扁平上皮癌ステージ4」と診断しました。
厳しい話になりますが、一般的な患者様ですと余命は半年程度と予想されます。もちろん、個人差がありますので、一年以上生存される方もいますが、進行が進めば三ヶ月でお亡くなりになる方もおられます。通常、ここまで症状が進みますと、強い痛みが出るものなのですが、安さんの場合、先ほど言いました頭蓋底の髄膜種が痛みを感じる神経を巻き込み、その痛みの伝達がキャンセルされているものと推測されます。
安さんの場合、脳の動脈瘤が破裂するのは、極端な話、それは、明日かもしれません。ずっと破裂しないでいるかもしれません。今後受ける脳への衝撃や血圧の変化などによります。いつどうなるのかの結果を予想することは不可能です。
すい臓がんに関しては、抗がん剤、放射線療法で効果があれば延命できますが、ここまで進行していますと完治は難しいと思われます。手術で30%の確率で余命を半年程度伸ばすことは可能かもしれませんが、70%は変わらないか、逆に悪くなることがあります。医学的には、余命は半年。次の桜が見れるかどうかというところです。それ以上は、難しいとお伝えしなければなりません。
非常に厳しいお話になりますが、現状、痛みがないのであれば、痛みが出るまでの間の日常生活を大事にされることも選択肢の一つです。痛みが出だしたら、ホスピスで緩和治療を受けることも選択肢の一つです。可能性に賭けて、手術を受け余命を伸ばすことも選択肢の一つです。ただし、その場合の余生は、病院で過ごされることを覚悟いただきたいと思います。
この場で「幸い」という言葉を使うのは場違いかもしれませんが、現状、今日の脳震盪は、動脈瘤を破ることはありませんでした。そして脳腫瘍によるものでもありませんでした。レスリング中の衝撃を原因とする一時的なものであったと推測できますので、ご主人といっしょに、今後の方針については、話し合い下さい。
いきなりこんなことを言われても信じられないでしょうから、CTとMRIの画像データのDVD―Rと紹介状は用意させていただきますので、帰りに総合受付で、お受け取りください。お知り合いの病院や脳神経外科や他の内科やがんの専門医にセカンドオピニオンを聞いていただくのも一つの方法です。本日は、一応、健保扱いでお受けしておきますので、今後、労災扱いにされる場合には、本日の費用は、還付されますので、お勤め先とご相談ください。
今後、安さんの家に近い病院に転院するにしても、当院に通院していただくにしても、お困りのことや心配事がありましたら、専門のカウンセリングにお繋ぎしますので、地域連携室のソーシャルワーカーにご相談ください。何か、ご質問は、ございますか?」
「い、いえ、何もありません。ありがとうございました。」
「ご主人は、大丈夫ですか?」
「は、はい。」
「では、今日は、遅くなってしまい申し訳ありませんでした。約十分ほどお待ちいただいて、総合受付で本日の頭部打撲と脱臼に関する痛み止めの処方箋とCT、MRIのデータディスクと紹介状を受け取っていただき、本日分の清算を済ませてお帰りください。夜間、緊急入り口までタクシーが必要でしたら、総合窓口にパンフレットもありますので。では、ご主人、しっかりと支えになってあげてください。お疲れさまでした。」
あまりに大量な不幸の情報で意識が上の空になっている稀世の腕を取り、三朗は医師に一礼して廊下に出た。待合席には、もう誰もいなかった。非常灯ととびとびに点灯している照明を頼りに、総合受付前のベンチソファーにふたりで座った。ふたりの間に何の会話もない。時計を見ると午後十時三十分を示している。
「稀世さん、ちょっと待っててくださいね。まりあさんに連絡入れてきます。」
と言い残して、三朗は総合受付のロビーのはずれの電話スペースに移動した。
まりあの携帯に電話をかけたが、コール七回で留守番電話に切り替わってしまった。手短に経緯を伝え、時間が空いたら、連絡をもらえるようにメッセージを残した。念のため、ショートメッセージにも入れておいた。
三朗は、自動販売機で、お茶を買い、総合受付のロビー席で待つ、稀世に手渡した。
「ありがとう。サブちゃん。」
ペットボトルのキャップを開けようとするが、右手が小刻みに震え、うまくキャップが回せない。三朗が、手を重ねてキャップを開けてやると、稀世は、一気にボトル半分を飲み干した。三朗は、かける言葉が見つからず、沈黙の時間がゆっくりと流れた。
プルルルルル、三朗の携帯が鳴った。無人のロビーに呼び出し音が響いた。画面を見ると「まりあさん」と表示されていた。あわてて電話を取り、電話スペースへ小走りで移動した。
「もしもし。」
「あっ、サブちゃん?それとも稀世?まりあやけど。」
「僕です。三朗です。」
「ごめんね、本来なら私が行かなあかん状況なのに、サブちゃんにみんな任せちゃってて。ところで、メッセージもメールも確認したんやけど、本当なの?稀世の余命が半年って。」
「はい。信じらへんのですけど、医師からは、そのように伝えられました。門真では大きい総合病院の一つで、ベテランの先生やったんで、間違いはないかと…。」
「そうか、研修医の若ボンの誤診であることを期待したけど…。ところで、稀世の状態はどうなの?」
「脱臼は三角巾で腕を吊っていますが、変に動かさなければ痛みはないようです。事故によるめまいやふらつきは無いようですが、なんせ、心の部分が…。僕ではどうしたらええのか。一応、退院扱いなんですが、どこに送っていったらいいんでしょうか?」
「稀世の家、大正区のアパートやねんけど、送っていっても、稀世ひとりで置いていくわけにもいけへんしなぁ。稀世とちょっとしゃべらせてもらえる状況なん?」
「まりあさんの電話やったら、出はると思うんですけど…。」
「ちょっと、替わってもらえる?」
「ちょっと待ってくださいね。」
三朗は、ロビーに戻り、稀世に携帯を渡した。
「まりあさんから。」
稀世は、力なく右手で携帯を受け取り、右耳に寄せた。
「もしもし、稀世です。まりあさんすいません。迷惑かけちゃって。私のスマホ、着替えの方のバッグに入ってるんで私から連絡できないんで、みんなにも「大丈夫やったよ。」ってニコニコのグループラインに入れておいてもらえますか。」
「こっちこそごめんね。ほったらかしにしちゃって。サブちゃんから聞いたよ。大変やったなぁ。ショックやったよなぁ。今すぐにでも飛んで行ってやりたいねんけど、どうしてもまだ席外されへんねん。ほんま薄情なリーダーでごめんな。」
「いや、まりあさん、気にせんとってください。今日の共催の意味は、私もわかってますから。私のせいで、ニコニコのみんなに迷惑かけられへんし。」
「こんな時まで、気遣わしてしもて悪いなぁ。今回の大会で相手さんの方のスポンサーがうちらの事えらい気に入ってくれてな。もちろん、「稀世の試合もすごかった。」言うて評価高かったで!「今後は共催の交流戦をシリーズ化したい。」言うて、うちの社長もノリノリやねん。だから、今晩は、ごめんやで、ほんまに。ところで、サブちゃんから、稀世どこに送っていったらええんか聞かれたんやけど、大正のアパートに送ってもろたらええんか?」
「まりあさん、私のバッグってどうなってんのかな。リュックはサブちゃんからもらってんけど。私のバッグ、ニコニコの道具といっしょになってんねんやったら、部屋の鍵あれへんねん。スマホと鍵の入ったポーチ、バッグの中やから。」
「そっか、ちょっとサブちゃんに替わってもろてええか?」
「はい。ちょっと待ってください。」
稀世は三朗に携帯を返した。
「サブちゃん、ここまで迷惑をかけて、さらに申し訳ないねんけど、今晩、稀世、サブちゃんの家に泊めたってもらわれへんかな?」
「えっ?えええええ。」
「稀世、アパートの鍵とスマホ、着替えのバッグに入れてたみたいで、アパート帰っても入られへんし、着替えもない状態やねん。サブちゃんやったら信用できるし、今晩一晩、面倒見たってもらわれへんかな?」
「そ、そんなん、急に言われても。ぼ、僕はええですけど、稀世さんがなんて言うか?」
「ちなみに、サブちゃんの明日の仕事は何時からなん?明日、朝一に私が車でサブちゃんの店行くし、それまでお願いしたいねん。それとも、今の稀世をひとりでホテルに置き去りにするような薄情者なんか?」
「いや、ぼ、僕はええんですけど、稀世さんがいやかもしれないやないですか。」
「そこは、私が説得するから。ほんまやったら、私がついていてやらなあかんねんけど、これからのニコニコプロレスの将来が左右されてまう状況で、私もつらいねん。稀世は、サブちゃんの事悪いようには思ってないから、なんも話さんでも、一晩、一緒に居ってやってほしいねん。ところで、明日、何時や?」
「仕込みは七時から九時くらい。十時半から開店準備で十一時開店予定です。」
「そしたら、七時にサブちゃんの店行くわ。仕込みの間、稀世と話させて。一生のお願いや。」
「な、何度も言いますけど、ぼ、僕はええんですけど、稀世さんが何て言うか?」
「まあ、稀世にかわってんか。」
三朗は、困った顔をして稀世に携帯を渡した。その時、総合案内の照明が点灯し、
「安さん、安さーん。」
と声がかかった。三朗は、稀世を残し、窓口に向かった。処方箋を受け取り、この時間でもやっている調剤薬局の入っているドラッグストアを教えてもらった。紹介状を使ったアポの取り方と、脳神経外科と循環器外科、消化器系外科の専門科のある病院のリストと、そこのドクターの名前のメモを受け取り、今後の流れの説明を受けた。今晩、「頭痛」や「吐き気」が出た場合は、再度、来院することと、入浴はいいが、この三日間は激しい運動は厳禁の旨、医師からの伝言を受けた。今日の支払いを済ませて、ロビーへ向き直した。
「長い夜の始まり」
三朗が、稀世の元に戻ると、稀世がうつむいて目を合わさずに、携帯を返した。
「もしもし。」
「あぁ、サブちゃん。稀世には、サブちゃんとこに今日は泊まらせてもろて、明日七時に私が、そっちに行くことで話ついたしな。悪いけど、今晩、面倒見てやってな。くれぐれも、今の、稀世の気持ち組んでやって、優しくしたってな。襲ったりしたらあかんで!」
「そ、そ、そんなことしませんよ。稀世さん納得してるんですね?」
「そこは、大丈夫やから。帰ったら、ご飯とお風呂は準備したってな。着替えは、途中、コンビニかなんかあったら、下着だけは買ったって。後は、サブちゃんのジャージかシャツ貸したってな。もう一回言っとくけど、襲うなよ。(電話の向こうでまりあを呼ぶ声が聞こえる。)じゃあ、なんかあったら、また連絡ちょうだいな。」
一方的に電話を切られた。(ど、どうすればええんや?とりあえず、稀世さんに確認せなな。)
「き、稀世さん、まりあさんから、今晩、と、泊めてあげたってって言われたんですけど、うちでいいんですか?」
「はい、帰るところもないし、ホテルでひとりは、いややから。ごめんね、サブちゃん。とことん迷惑かけてしもて。」
「い、いや、迷惑やなんて。こ、こんな状況やなかったら、飛び跳ねてるとこですよ。あっ、すいません。不謹慎ですよね、今の無しにしてください。じゃあ、僕の店兼家は、歩いて、三分もかかんないんですけど、痛み止めの処方箋出てるんで、ドラッグセンター寄って行ってもいいですか?まりあさんから、稀世さんの、し、下着とか買いに行ったってって言われてるんやけど、ぼ、僕が選ぶより、き、稀世さんがえ、選んだ方がええと思いますんで、五分ほど、大回りになりますけど、いいですか?それとも、今の恰好で出歩くのが恥ずかしかったら、先に僕の家来て、ジャージかスウェットに着替えてから行きますか?あと、お腹もすいてるでしょうから、お弁当でも買わないとね。」
「気い使こてもろてありがとう。サブちゃん、一緒にお店行ってくれるんやったら、先に行っちゃお。晩御飯は、迷惑じゃなかったら、サブちゃんの作るおいなりさんが食べたいな。今晩の打ち上げの分、食べ損ねてしもたし。あかんかなぁ。」
「ぜ、全然いいですよ。冷蔵庫のたけのこご飯になるけど、ちょっとチンして詰めて冷ませればいいんで、帰って稀世さんお風呂入ってる間に準備できます。うん、是非とも、僕の作るお寿司食べてください。お願いします。」
「なにそれ。頭下げんのは、私の方でしょ。さあ、じゃあ、お買い物して、サブちゃんの家にレッツラゴーよ!」
無理して、明るく務める稀世が痛々しかったが、三朗から、暗い雰囲気を作るわけにもいかず、ふたりで病院を後にした。
午後十時四十三分。日曜日の夜半ということもあり、人気が無いので、男物のジャケットに、白いリングシューズで歩く稀世に目を向けるものはいなかった。ドラッグストアーの薬剤師も中年のおばちゃんだったので問題なく、稀世の下着も併せて購入することができた。
「昔はね、この辺り、この時間でも賑やかやったんですよ。通称ニコニコ商店街って言ってね、五十店くらいあったのが、今では二十六店。うちの店からこっち側まで、いくつか店あったんやけど、今はシャッター下りてるか、コインパーキングになってしもて。ちなみに、うちから、駅の方が生き残りの商店街で、こんな頼りない僕でも、商店街の青年部の部長やらしてもろてるんですよ。意外でしょ?」
と無理に、明るく振舞おうと、どうでもいいことを話しながら、約五分歩き、店に着いた。
(あぁ、これから、僕の家に稀世さんとふたりっきりや。なんか、気の利くこと言えるやろか。気まずい雰囲気になったらどうしたらええねんやろか。)と考えると、手が震え、鍵穴にうまくカギが入らず、カチャカチャと鳴った。
ようやく、店の鍵を開け、稀世をテーブル席に座らせ、冷たい緑茶を出した。
「お風呂つけて、ちょっと、上の部屋、片づけてきますんで三分待っとってください。」
稀世は黙って頷いた。三朗は、店のカウンターからバックヤードに入り、風呂の自動給湯のスイッチを入れ、階段で二階に上がり、リビングに散らかる、稀世に見せられないものを黒いビニール袋に放り込み、押し入れに隠した。やばいものが残っていないか、再度確認し、新品のスウェットの上下とTシャツとスリッパを持って稀世の待つ、一階の店舗に降りた。
店の鳩時計が「ポッポー」と時報を告げた。
「えっ?もう十一時?」
「いや、うちの鳩時計、五分進んでるから、ほんまは十時五十五分です。」
三朗は、着替えとスリッパを稀世に渡すと、
「あと五分ほどで、お風呂沸きますんで。うちはいつも40度なんやけど、稀世さんは?」
「うん、40度でええよ。」
「あっ、今気づいてんけど、シャンプーもボディーソープもトニック入りの男もんしかないんです。銘柄指定あったら、買ってきますよ?あっ、あと、洗顔系も無いです。すいません。ドラッグセンターで気づいてたら。」
「サブちゃん、気にせんといて。洗顔はリュックの中に入ってるから大丈夫。トニックシャンプーって使ったこと無いけど、シャンプーはシャンプーやろ。気い使いすぎんといて。あと、私からのお願いやねんけど、風呂上り、すっぴんの私見ても「ギャーッ!」って叫ばんといてな。」
「そ、そんなこと、絶対あれへんですよ。うん、無い。絶対無い。化粧してても、してなくても稀世さんやもん。全国の稀世さんファンの中で、唯一、すっぴんの稀世さん見れるって幸せですよ。」
「あほあほ。ただ、メイク落とすと、極端に子供っぽくなるから、サブちゃんに見られんのいややねん。」
(ふーん、子供っぽくなるんか。それはそれで、楽しみやな。)とすっぴんの稀世を想像していると、
「あー、サブちゃん、また、変な想像してんのとちゃうん。もういややー。」
「ご、ごめん、ごめん。ちょっとしか想像してへんから安心してください。」
「あー、やっぱり。サブちゃんのあほ。」
奥の部屋から、電子音が鳴った。(助かった。とりあえず、まずい会話は中断!)
「じゃあ、お風呂沸いたから、入ってきてください。フェイスタオルとバスタオルは洗濯済みのヤツ、棚に積んでますから適当に使ってください。使い終わったタオルは、そのまま洗濯機に放り込んどいてもろて結構です。脱衣所は、中から鍵かかるから、しっかりと掛けて入ってくださいね。」
「うん、じゃあ、お先に失礼するわ。私そんな長湯やないから。二十分くらいで上がると思うわ。」
「なんかあったら、中から声かけてください。」
稀世はリングブーツを脱ぐと、スリッパに履き替え、三朗のジャケットをたたみ、手渡した。
「サブちゃん、何度もごめん。背中のひもだけ、ほどいて。」
と稀世が背中を向けた。さっきの病院のトイレの事を思い出し、ドキドキしながら、コスチュームの背中のひもをほどいて緩めた。
「ありがとう。じゃあ。」
風呂に向かって、歩いていく稀世の背中を眺めていると、(あと半年で稀世さんがいなくなってしまうなんて・・・。)と思うと、また、涙が溢れた。(あかん、僕がうじうじしてどうすんねん。稀世さんの方が何百倍も辛いはずやねんから、しっかりせなあかん。)と、カウンターの奥の業務用冷蔵庫から、たけのこご飯と揚げを取り出し、たけのこご飯はレンジに入れ、揚げは手持ち鍋に煮切り醤油とみりんを入れ炊き、いなりずしの準備に入った。
十一時半前に稀世が風呂から上がってきた。稀世が言っていたように、メイクを落とすと、高校生に勘違いされてもおかしくないほど童顔の稀世がいた。湯上りで濡れた髪とバスタオルで頭をわしわししてる姿が、三朗にはたまらなくキュンときた。いつもの稀世と雰囲気が全く違うが、それはそれで、三朗には変化球でのストライクゾーンど真ん中だった。ぼーっと稀世の顔に見入っていると、
「あー、サブちゃん、また変なこと想像してんのとちゃうやろなぁ。サブちゃん、エッチなん、ようわかったし。」
「か、かわいい。す、すっぴんも、ど、「どストライク」です。うん、めちゃくちゃかわいいです。想像の百倍以上です。」
と真顔で三朗が言うもので、逆に稀世の方が照れてしまい、
「もう、サブちゃんのあほ。」
と言って、真っ赤になった。三朗も真っ赤になりながら、目を合わさずに言った
「リクエストのおいなりさん、できてますんで。店で食べるにはさみしいから、狭くて汚い所やけど、二階に上がってください。」
男の一人暮らしにしては、こ綺麗に片付いているリビングキッチンにふたりで上がり、四人掛けのテーブルに向かい合って座った。
「念のため、まりあさんにメール送っときますか?」
「うん、私から打つわ。サブちゃんのスマホ貸して。」
携帯を受け取り、「サブちゃんの家に着きました。これから、おいなりさんいただきます。まりあさんもお疲れ様です。お休みなさい。」と三朗に文書を確認させたのち、送信した。ふたりして、一緒に「いただきます」をして、食べ始めた。
「美味しーい。やっぱ、サブちゃんの作るたけのこご飯のおいなりさんは世界最強やわ!」
ひょいパク、ひょいパクと稀世がどんどん食べていく。
「ごめんなさい。店にある魚は全部使って、今日の差し入れ作ってしもたから、魚は全く残って無いんです。明日の朝、入るから、まりあさん来たら、お昼はきちんとしたうちの「握り」食べていってくださいね。」
「ごめんってなによ。何べんも言うけど、サブちゃんは、何も悪いことしてへんやろ。悪いのは、みんな私やねんから、なんでも、謝んのサブちゃんのあかんとこやで。それにしても、美味しいわ。あかん、お腹すいてたから、なんぼでもいけてしまうわ。」
「うん、ありがとうございます。なんぼでも食べてください。」
稀世ひとりで二十個以上は食べただろうか、三十個用意したおいなりさんの残りは一つになっていた。
「あー、お腹膨れた!サブちゃん、ありがと!」
(稀世さんもお腹膨れて、ちょっと元気出てきてくれたかな?)と三朗が思ったとき、「ピロリ―ン」と携帯に着信音が入った。
「あっ、まりあさんからや。先に読ませてな。」
と、稀世が携帯を先に取り、読み始めると同時に、みるみる真っ赤に顔が染まっていった。
「えっ、なに?なんやったん?」
三朗が携帯を取ろうとすると、
「サブちゃん、読んだらあかん!」
と抵抗するが、三朗は液晶画面に目をやった。「稀世へ。サブちゃんの変なおいなりさん食べたりしないように。お腹大きくなっても知らんで。サブちゃんも男やから気を付けて。明日、七時にね。まりあより」とあった。
「へ、変なおいなりさんって何?お腹大きくなっても知らんって?」
「私にそれ聞かんといてよ!サブちゃんのあほ!」
「あっ、ご、ごめんなさい。」
会話が途切れてしまった。一分、二分と無言の時間が過ぎる。沈黙に耐えられず、三朗が立ち上がると稀世がビクッと身構える。(えっ、そこまで警戒されてるの。僕。)
「大丈夫、大丈夫。安心してくださいね。何もしませんから。」
と両手を前にして、稀世と距離を取りながら三朗はテーブルを横に移動する。稀世の警戒心は解けることなく、常に三朗に正対するように、体を回転させていく。一定の距離を保ちながら、稀世の後ろに回る時には、稀世も立ち上がり、ファイティングポーズをとっている。(もう、まりあさん、なんちゅうメール送ってくれてんねん。めちゃくちゃ雰囲気悪くなってしもたやんか。)と思いながら、稀世の後ろにある冷蔵庫の中から、瓶ビールを二本とふたつのタッパー出した。シンクの横の食器棚からフロスト加工されたビアグラスをふたつ取り出し、テーブルに置いた。
「ごめんなさい、気が効けへんかったですね。おいなりさん食べる前に出すべきやったのに。」
と元の向かいの席に座りなおすと、ビールの栓を抜き、グラスに注いだ。フロスト加工の効果もあり、グラスの上部にきれいな泡が立ち上がった。三朗は、ブラウマイスター張りに、上手につぎ足しては、泡が引くのを待ち、きれいな7対3の泡比率のグラスを稀世の前に差し出して、タッパーを開けた。
「こっちは、マグロの切れ端のオリーブ油と醤油の漬け、こっちは、サーモンの切れ端の塩昆布とごま油の漬け。どっちもビールに合う思いますから、試してください。直箸でいいですから、遠慮なしにいってください。寿司屋の賄いです。」
稀世が、まずは、まぐろの漬けを一口、続いて、サーモンの漬けを一口。続いて、ビアグラスを一気に空けきった。
「プハーっ!サブちゃん、これ反則やなあ!超反則!一気に反則負けやわ!ビール、お替りええ?」
(あー、機嫌治ったみたい。よかった。まりあさんのせいでどうなるかと思った。)
「ええですよ、ええですよ。ビールは売るほどあるから、じゃんじゃん飲んでください。」
と稀世のグラスに注ぎ直した。稀世が三朗のグラスにも返杯した。あっという間に、テーブルの上に五本のビール瓶が並んだ。二階のキッチンの冷蔵庫のビールは空になった。稀世の機嫌も上々で、酔いが結構回ってきているようだったが、「まだ飲みたい。」というので、三朗が下の店の冷蔵庫にビールを取りに降りようとすると、下の階から「ポッポー、ポッポー、ポッポー」と鳩時計の時報が聞こえた。
急いで、ビールを四本両手に持ち、階段を駆け上がった。栓を抜き、ふたつのグラスに注ぎ、グラスを持ち上げ、三朗が言った。
「あー、間に合った。今、十一時五十五分。今日、最後になってしもたけど、稀世さん、二十五歳の誕生日おめでとうございまーす。カンパーイ!」
三朗がグラスを稀世のグラスに軽くあてた。一気に飲み干す三朗の前で、稀世は、グラスの泡を見つめて動かない。
「稀世さん、どうしました。あと、一分半で、誕生日終わってまいますよ。本当は、みんなでお祝いのところ、僕ひとりだけで申し訳ないですけど。あきませんか?」
会話が全く止まったまま、二階リビングのデジタル時計がピピッと十二時を告げた。
稀世が、黙って泣いている。
「わ、私、最後の誕生日、過ぎてしもた・・・。来年の誕生日は、無いねや。桜も見れるかどうかわからへんねや。いつ死ぬかわからんで、毎日びくびくしながら生きていかなあかんねや。みんなにある未来が私には無いんや。私、私・・・。」
テーブルに突っ伏して、大声で泣きだした。慰めの言葉が、見つからない三朗は、ただただ。おろおろするだけだった。意を決して、稀世に声をかけた。
「稀世さん、泣かんとってください。ぼ、僕が一緒にいます。稀世さんが、どんなになっても一緒にいます。こんな、僕でもよかったら、一緒にいさせてください。稀世さんが死んだら、僕も死んで一緒に行きますから。約束します。」
「あほ。もうほっといてよ!サブちゃんには、今の私の気持ち、わからんやろ。」
「すいません。わかりません。でも、稀世さんが、不安に思ったり、怖いと思うのを稀世さんひとりじゃなくて、僕も一緒に不安に思ったり、怖いと思わせてください。稀世さん、絶対ひとりにさせません。稀世さんが死んだら、僕も一緒に行きます。」
三朗は、必死にテーブルの上の稀世の右手を両手で握って、泣きながら稀世に叫んだ。
「サブちゃんのあほーっ!それが、私を困らせてんのが分からへんの!」
三朗の手を振り払った勢いで、テーブルの上のひとつのグラスが飛び、床に落ちて砕け散った。
「僕が、何を困らせたんですか。教えてください。謝るなら、謝ります。変えれるところがあったら、変えるよう努力します。いったい僕の何が稀世さんを困らせてるんですか。」
「じゃあ、サブちゃん、今すぐ、私の事、嫌いになって。いや、大嫌いになって。もう、私の前から消えて!」
「えっ、そんなんできません。嫌いになんか、なれる訳が無いやないですか。世界で一番好きな人なんですから。何でそんなこと言わはるんですか。病院で、「好きや」言うてくれはったやないですか。キスしてくれたやないですか。絶対、嫌いになんかなられへん。好きやったら、あかんのですか。」
「それが、重いのよ。私もサブちゃんの事が好き!大好き!今日、病院で初めて告白して、ファーストキスして。これが一昨日やったらどれだけ良かったか。何でよりによって、昨日なの。これからっていうときに、あと半年で死ぬって言われて、大好きなサブちゃんにも一緒に死ぬって言わせるこんな女最低やろ。サブちゃんには似合わへんわ。私は、サブちゃんにとって害でしかないのよ。だから、もう嫌いになって!」
稀世が、立ち上がり、テーブルがひっくり返ると同時に、三朗は椅子から転げ落ちた。起き上がった、三朗の右手が真っ赤に染まっている。
「サブちゃん!」
三朗は、右手を左手で抑えながら、立ち上がった。血がぽたぽたと垂れている。右の手のひらに割れたグラスの大きな破片が二つ突き刺さっている。手のひらから滴る血で、見る見るうちに、三朗のジーンズの右足が赤く染まり、足元に血の水たまりができた。
「サブちゃん、手、出して。」
稀世は、三朗の手から、グラスの破片を取り除いた。その瞬間噴出した、血しぶきが稀世の顔にかかった。稀世は、三朗の手を取り、手首の動脈を探った。
「サブちゃん、左手でここ抑えといて。動脈圧迫止血っていうの。ちょっと待ってね。」
と稀世のリュックサックから、ファーストエイドキットを取り出した。
「サブちゃんごめんね。ちょっと滲みるよ。」
と消毒液を三朗の手のひらにかける。一瞬、表情がしかめっ面になる。
「痛い?」
「大丈夫。稀世さんに手にぎってもろて、右手も喜んでます。」
無理して、笑顔を作る三朗。
「あほ。こんなに血出てんのに、しょうもない冗談言いなや。」
ファーストエイドキットの白いポーチが血の付いた稀世の指で赤く色づいていく。「ワセリン、ワセリン。」とポーチの中をほじくり返す稀世。丸い白のポリ容器で青い蓋のワセリンが見つかった。
「あった。」
自由が利かない左腕の痛みも忘れ、左手で三朗の右の手のひらをハンカチで拭い、傷の深さを確認し、必死にワセリンのキャップをひねり、右の人差し指と中指でワセリンをすくうと三朗の手のひらの傷に深く塗り込んだ。さらにその上に厚めに塗り増しをした。
(お願い、止まって!)半透明のワセリンが三朗の手のひらに刻まれた二筋の切り傷の上に塗られた下から、血がうっすらと滲むが、吹き出ることなく止まった。稀世は、止血バンドをポーチから取り出し、三朗の右手首にきつく縛り、部屋のデジタル時計を確認した。十二時五分。
「サブちゃん、十五分になったら、声かけてね。止血バンド、一回緩めるから。痛みはどう?親指と薬指と小指は動く?」
無理やり、笑顔を作り、指を動かす。痛みはあるが、普通に指は曲がる。脂汗が額を濡らす。
「稀世さん、大丈夫。指は動くし、痛みも無いし、安心してください。」
「あほ!痛み無いはずないやろ、そんなに脂汗浮かべとって。(と、額をハンカチで拭う。さっき手のひらをふき取る時に着いた血が少し三朗のおでこに着く。)指は動くんやね?」
もう一度、稀世の前で、指を動かしてみる。思いっきり屈曲させ、伸ばすとワセリンの下の血のにじみが少し大きくなった。
「よかった。腱は傷ついてないみたい。でも、大きく動かすと、血のにじみが大きくなってるから、しばらく動かさんと指まっすぐしとって。ちょっと、ここのタオル使わせてもろてええかな?」
三朗が頷くと、稀世はタオルをシンクで水に浸し、強く絞った。絞る時に左肩に痛みが響き、顔がゆがんだ。その顔を三朗は見逃さなかった。
「稀世さんこそ、無理せんとってください。左肩抜けたとこなんやから。」
稀世は、黙って、絞ったタオルで、三朗のおでこと左手の血を拭き取っていった。三度、拭いては、タオルをすすぎ、左手の血痕もほぼ、拭い切れた。続いて、床に落ちた、ガラス片を拾い、新聞広告に包んでシンクのわきに置き、床の血溜まりを拭き始めた。すっかり真っ赤になったタオルを何度も拭いては、すすぎ、床と椅子に着いた血の跡を拭き取った。
十二時十五分。三朗の右手の止血バンドを緩めた。ワセリン下の血のにじみが大きくなることはなかった。切傷の上、傷口挟んで2センチ幅以外のワセリンを拭い、傷口以外の血を拭き取った。
「サブちゃん、お寿司握る時にエンボス手袋って使ってる?」
「うん、そこの棚の2段目に入ってます。」
「一枚、もらうで。」
稀世は、水道で自分の手を洗い、エンボス手袋を一枚取り出し、三朗の右手にかぶせ、輪ゴムで手首部分を止めた。
「指に、痺れ来てない?」
「うん、大丈夫です。」
「とりあえず、座ろか。」
ひっくり返ったテーブルと倒れた椅子を起こし、ふたりして座った。
「サブちゃん、ごめんね。私のせいで、サブちゃんのお寿司握る大事な手、ダメにしてしまうとこやったわ。何度も何度も迷惑ばっかりかけてしもて。こんな私やから、もう忘れて。サブちゃん、優しいから、すぐにいい人見つかるで。うちの研修生の夏子ちゃんとか。」
「稀世さん、それ、マジで言ってんねやったら怒りますよ。僕が好きなんは、稀世さんだけやから。そこは、変えられへん。さっきは、僕の言葉にデリカシーが足らんかったから、こっちこそごめんなさいです。」
「・・・・」
「昨日の今日で、無理してあれもこれも決めんでええやないですか。明日の朝には、まりあさんも来てくれはるし。今日は、もう休んでください。この奥、僕の部屋なんで。汚い部屋やけど、ベッドありますから。それと・・・。あっ、ちょっと待って。」
ウエットティッシュを左手で一枚抜き取り、稀世の顔にかかった三朗の血を拭き取りながら。
「せっかくの美人が、僕の血なんか顔に着けてたら、台無しですやん。ほら、いつもの別嬪さんの稀世さんに復活―っ!わーい、パチパチパチパチ。」
「サブちゃんのあほ。」
「じゃあ、僕、リビングのソファーで寝ますから。何かあったら、起こしてください。あ、おトイレと洗面は、この奥ですので。お手伝い必要やったら、喜んでお手伝いしますよ。今度は、目開けて稀世さんの恥ずかしい姿見させてもらって、コブラ、卍、レッグロックホールド、縦四方、上四方、最後にM字ビターンのお仕置きしてもらおかな。」
「サブちゃんのあほあほ。そんで、エッチ。変態。もう嫌い。」
稀世の顔に笑顔が戻った。
「やっぱ、稀世さんは、笑顔がいいですね。ほんと、向日葵みたいなその笑顔に僕は惚れたんです。泣いても一生。笑ろても一生やったら、できるだけ笑ろて生きていきましょ。
こんな僕ですけど、稀世さんの横に一生ずっと居たいです。本気で結婚したいと思ってます。結婚してほしいです。
カッコ悪い話ですが、ちなみに三十歳で童貞です。でも魔法使いじゃないんで、稀世さんの気持ちを知ることはできないんで、いつか言葉で聞かせてください。彼女はいままでナッシングです。今晩のキスがファーストキスです。めっちゃ、うれしかったです。興奮しました。そんな僕なんで、女の人の扱い、まったくの素人なんで気の利いたことはできないし、言えません。ごめんなさい。
返事は、急ぎません。いつまでも待ってます。今晩は、僕の気持ちだけは受け入れたってください。
さぁ、もう十二時半です。明日は、まりあさん来はるんで、六時起きですよ。寝不足はお肌の大敵やし、今日は、もう寝ましょう。」
三朗は、奥の自分の部屋に稀世を連れていき、間接照明を残し、部屋の天井照明を落とした。
「じゃあ、となりのリビングのソファで寝てますんで。」
と部屋を出て、襖を閉めた。
三朗は、一階のふろ場の脱衣場で血で汚れたトレーナーとジーンズを片手で苦労しながら脱ぎ、バケツに残り湯を入れて洗剤といっしょに放りこんだ。ジャージに着替え、二階に上がり、ソファーに横になった。しかし目がさえて、まったく眠れる気がしなかった。この五年間の稀世との思い出が頭の中を流れた。初対面から、一昨日迄の思い出はすべて楽しい思い出だった。午前一時を過ぎると、今日の病院でのシーンが何度も頭の中で繰り返された。
医師から伝えられた、「余命半年」との言葉が、何十回と反復された。涙が溢れてきて止まらなかったが、襖一枚隔てて、隣に稀世がいることを考えると、声を出すわけにもいかず、声を殺して泣いた。
午前一時半を迎えるころ、隣の部屋から稀世の声が聞こえた。
「サブちゃん、起きてる?」
あわてて、ジャージの袖で涙を拭いて、襖越しに返事した。
「は、はい。起きてます。どうしました?頭の痛みとか出ました?」
「ううん。私は大丈夫。サブちゃん、右手、どう?血止まってたら、ワセリン拭き取って、消毒しとかなあかんと思って。」
「だ、大丈夫ですよ。自分でやっときますんで。」
「あほ。そんなん言うても、右手やから、自分ででけへんでしょ。そっち行ってええ?」
「は、はい。すいません。」
赤く目を腫らせた稀世が、入ってきた。稀世も、ひとり声を殺して泣いていたに違いないと三朗は思った。ソファーに座り直す三朗を無視して、黙って、稀世は、血の跡の残る自分のファーストエイドキットのを持ち、黙って、エンボス手袋をつけた三朗の右手を手に取った。半透明のエンボス手袋の中で、ワセリンが内側に広がっているが、出血の様子はない。(よかった。血は、きちんと止まってる。)稀世は、ほっとして、三朗の右手首の輪ゴムを取り、エンボス手袋を外した。ウエットティッシュで手のひらや、指に残ったワセリンを丁寧に拭き取り、粉末系の消毒剤をふたつの切り傷に吹きかけ、傷部以外の粉を丁寧に拭きとった。新しいガーゼをあてがい、親指と人差し指の間から斜めに二回バンテージでくるくると掌に巻いた。続いて横向きに二回巻き、はさみでバンテージを切って手の甲側で留めた。
目を合わさず、無言の作業だったが、三朗は、稀世の温かい手の温もりを感じながら、泣き腫らした稀世の目元を見ながら、かけるべき言葉を探したが出てきた言葉は
「すいません。」
だけだった。
「指、動く?」
稀世は、バンテージが巻かれた右手を見て小さな声で呟いた。三朗は、小指から順番にゆっくりと動かして見せ、
「大丈夫です。痛みもありません。ありがとうございました。お昼は、きちんとしたお寿司握りますんで、食べたって下さいね。」
とゆっくりと答えた。稀世は、黙って頷いた。
「稀世さんの方は、具合はどうですか?頭痛やふらつきは無いですか?あと、余計なお世話かしれませんけど、さっき、ようさんビール飲んではるんで、おトイレは行っておいた方がええですよ。」
再び、黙って頷き、トイレに向かった。(あー、なんもしゃべってくれへん。どうしたら、ええねやろ。まあ、右手の事を心配してくれてたのは、うれしかったけどなぁ。おっと、戻ってきたわ。何か話さな。)
「もう一時半ですから、ゆっくり休んでくださいね。六時まで、もう四時間半ですから。枕もとに、お水いるなら、冷蔵庫から好きなもん持って行ってもらってええですよ。」
「・・・」
唇は動いているが、声は小さすぎて聞こえない。
「えっ?何ですか?もう一回お願いできますか?」
「サブちゃん、お願いあんねんけど。」
蚊の鳴くような声で言った。妙に稀世はもじもじしている。(いったいなんやろか?変な話やなかったらええねんけど・・・)
「はい、なんですか?」
「さっきは、ごめんなさい。私、頭ン中、まだまだ子供で、サブちゃんに当たり散らして、ケガまでさせてしもて、ほんとにごめんなさい。サブちゃんの気持ちもめちゃくちゃ嬉しかってんけど、返せる言葉が見当たれへんかって。ひとつだけ、お願いしていい。」
「なんでも言うて下さい。僕にできることやったら、なんでも。」
「今晩だけ、一緒に寝てほしいねん。ひとりでおると、怖くて、怖くて、とても我慢できそうにないねん。さっき好き勝手、言うてしもたけど、横に居ってほしいねん。ごめん。私言うてんの無茶苦茶やわね。こんな私でごめん。サブちゃんの好意を好き勝手に使ってしもて。ごめん。」
「稀世さん、「ごめん」は、要らないですよ。横に居るだけでええなら、稀世さんが眠りに落ちるまで、横に居りますよ。それで、少しでも、心が落ち着くんやったら、喜んで一緒に居らせてください。」
「お願い。サブちゃん、ごめんね。」
「もう、「ごめん」はええですって。「ごめん」でもうお腹いっぱいですわ。」
「過去の告白」
三朗の部屋に移り、稀世はベッドに横になった。三朗は、稀世が横になったベッドの脇で床に膝座り状態になり、稀世の右手をぎゅっと握った。
「これで、いいですか。」
「うん、サブちゃんの手、暖かい。」
「ははは。ほんまは、寿司屋は冷たい手してなあかんのですけどね。パン屋やったら「太陽の手」って言ってパン生地の発酵が進む暖かい手が重宝されるんやけど、寿司屋はネタが温もってしまうって、あかんのですよ。」
「ふーん、でも、今日は、サブちゃんの暖かい手がうれしい。少し、話してもいい?」
「うん、ええですよ。眠くなるまでですよ。」
「うん。」
稀世は小さな声で話し始めた。
「えっとね、サブちゃん。さっき、サブちゃん、三十歳で童貞で彼女いたこと無いって言うてたやん。わたしも一緒やねん。」
「えーっ、うそー。稀世さんも三十歳で童貞やったんですか?」
「サブちゃんのあほ。茶化さんといて。なんで、私が三十歳はともかく童貞なんよ。こんなでも女の子やで。」
怒りながらも、稀世にクスクスと笑いが起きた。(あー、言った後、失敗したかと思ったけど、良かった。ちょっとは、ほぐれたかな?)
「すんません。冗談です。でも、ちょっとでも笑ってもらえてよかったです。」
「気遣い、ありがと。ほんま、サブちゃんはいつでも優しいねんな。一緒って言うのは、私も二十五歳で処女で彼氏歴無しやねん。気持ち悪いやろ。」
「それって、暗に僕の事「気持ち悪い」って言うてはります?」
「ううん、サブちゃんは私には、カッコええし、優しいし、世界で一番の男の人よ。気持ち悪いなんて全然ない。世の中の女が見る目無いって言うより、彼女いないで来てくれたことに感謝してる。過去に、彼女ひとりでもいたら、私みたいなデブで性格悪い女、好きになってもらうこと無かったと思うから。」
「同じ言葉、返させてもらいます。けど僕には、稀世さんに彼氏いたこと無いって言うのが信じられませんけどね。」
「うん、ずっとデブで劣等感のかたまりやったから。幼稚園の時におしくら饅頭で友達を、泣かすどころか骨折させてしもたり、小学三年生のころには40キロ超えてて、肩車してくれたお父さんがぎっくり腰になったり、中学校入ったときには水着でサイズ合うのが無くて「食い込みチャーシュー」って呼ばれたりで、性格も内向的になっちゃって、とても男の子に好きになってもらえる女の子じゃなかったの。」
「ふーん、意外ですね。今の、稀世さんしか知らないんで、いつもニコニコして、だれにでも優しく接してるやないですか。」
「それはね、ニコニコプロレス入ってからのもんやねん。サブちゃんにだけ言うけど、私、自殺しようとしたことあんねん。」
「えっ?」
「中学校入って、担任の先生が、面倒見のいい先生でな、私太ってたけど、背は高かったから「安、おまえ、バスケやってみいへんか?」って誘ってくれてん。みんなより、10センチぐらい高かったから、三年生に交じって一年からレギュラー取っててんで。想像できる?
クラブの仲間はみんな優しくて、女バスは、楽しかってん。そんで、よくあるパターンやけど、男バスのキャプテンって言うのが、学校でも人気者でね。一緒に部長会議とか出たくて、キャプテンに立候補したりね。その、男バスのキャプテンが、すごく優しくて、こんな私にも普通に優しく接してくれたんよ。」
「そりゃ、ちょっと、その男バスのキャプテンにジェラシー感じます。」
「何言うてんの。そんなん、中学校の時の話やん。サブちゃんの方が百倍ええよ。中学校の頃って、学校にひとりは居るやん。勉強も運動もできて、人望もあって、だれにでも優しい人気者って。男の子と話すことなんか、ほとんどなかったから、私すっかり勘違いしてしもてね、卒業式の日に、思い切って告白してん。
そしたら、あっけなくフラれてんな。当たり前やけど、その時の私には、それが当り前じゃなくて、「なんで?なんで?ずっと仲よくしてたやん。」って詰め寄ってんな。
そしたら、さぱっと「同じクラブ同士やし、しゃあないやん。そうでなかったら、しゃべることなんかないがな。」って言われて。そんで、おしまい。クラブの友達に慰めてもらおうと思ってんけど、私以外の同級生、みんな彼氏持ちで声かけられへんかって、ひとりぼっちで家に帰ってんな。家で、ぼっちでおったら、すごい孤独感に襲われて、突発的にもうどうでもよくなって、お風呂で手首切ってん。
卒業式の日に、勝手な思い込みで自殺って、最悪な女やろ。手首切って、湯船の赤色がだんだん濃くなっていくのを見てたら、急に死ぬのが怖くなってんけど、もう身体が言うこと聞けへんとこまで来ててん。「あぁ、このまま一人で死んでいくんやな。」って思ったら、頭に浮かぶのは、そのキャプテンや友達の事やなくて、お父さんとお母さんの事ばっかしやねん。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。って一万回くらい思って、目の前が暗くなってきた時に、お母さん帰ってきて、ぎりぎり助かってん。
後で、めちゃくちゃ怒られてんけど、それがすごくうれしくて。なんか変やろ。」
右手をぎゅっと握ったまま、三朗が両方の鼻の穴から鼻水を垂れ流して、泣いていた。驚いた稀世が慌ててフォローした。
「さ、サブちゃん、どうしたん。泣かんといてよ、こんな話で。もう十年も前の話やから。」
「い、いや、その時に僕がいてたら、そんな思いさせへんかったのにって思ったら、自然と涙が出てきて。それと、稀世さんのお母さんにありがとうって。」
「いやいやいや、そこまで言ってもらう話とちゃうし。でも、お母さんに「ありがとう」って言ってくれるサブちゃんにありがとうやわ。変な話やけど、その自殺未遂がきっかけで、お父さん、お母さん、特にお母さんにはすごく感謝してて、ますます好きになってたんやけど、なんか素直になれへんで、距離が開いてぎくしゃくしてしもててんな。いつか、きちんと「ありがとう」って言おうと思ってて。
高校の卒業式の日に、お小遣い貯めた分で、お父さんにはポロシャツ、お母さんにはブラウス買って、食事に誘って、最後に渡してお礼するって決めててん。」
「ええ話やないですか。稀世さんの優しいところ出てますよ。で、うまく渡せたんですか?」
「ううん。あかんかった…。卒業式の二日前に、お父さんとお母さん、無免許の年寄りの車のもらい事故でふたりともはねられて、いなくなってしもてん。」
「えっ?」
「中学校の卒業式は、フラれて自殺未遂。高校の卒業式は、両親の葬式で欠席。最悪の人生の節目やろ。あっ、サブちゃん、もう泣かんとってや。どうでもいい話やし。」
「うううううううう。」
「サブちゃん、泣かんといて。泣かすつもりでこんな話したんとちゃうねん。とりあえず、鼻拭いて。」
と稀世が、左手でハンカチを出すが、それは受け取らず、枕もとのティッシュを五,六枚一気に引き抜き、鼻を拭きゴミ箱にそっと入れた、
「たいへんやったなぁ。たいへんやったなぁ。そん時も、僕がそばに居ってあげれたら…。」
「うん、そん時、サブちゃんが隣に居ってくれたら、ずいぶんと違ってたかもしれへんなぁ。お父さん、お母さん同時に亡くして、大学進学は急遽諦めて、それまでのアパートも出なあかんことになって、親戚もおれへんかったから、しばらく友達んとこ泊まり歩いててんけど、それもでけへんようになって。
一年ぐらいたって、お父さん、お母さん残してくれた貯金も底をつきかけたころ、めちゃくちゃ心がすさんでてん。お父さん、お母さんの残してくれたお金使こて、グレてまうって最悪やろ。そんなんやからバチ当たってん。
難波の三角公園で、ヤンキー女のグループに絡まれて、リンチ状態になってんな。そりゃもうぼこぼこにされて死ぬかと思ったわ。そん時、助けてくれたんが、まりあさんやってん。六年前のまりあさん、今と違って、めちゃくちゃギラギラしててカッコよかってんで。うん、今思い起こしても、雰囲気違ってたな。まだ、アイスリボンかスターダム入り目指してはった時やったからな。
ぼこぼこにされて、荷物も通帳も財布も携帯も盗られて、野良猫みたいに、すべてを無くした私に優しく「給料はだされへんけど、住み込みで来るか?」って声かけてくれてん。」
「うん、うん。」
「そん時は、本物のマリア様に見えたわ。今では、マリア様って言うより、「二番目の私のお母ちゃん」って感じやけどね。だから、今日の事も、また、お母ちゃんに迷惑かけてしもた。って思うと申し訳なくって。」
「そうやったんですか。今日、稀世さんの試合の後、まりあさん、事ある毎に、ごめんな、ごめんなって僕に言うのは、そういう絆があるからやったんですね。今日、団体の今後のお話の予定が無かったら、稀世さんの横にいるのは、僕やなくてまりあさんやったんでしょうね。まりあさんのやさしさの根拠がよくわかりました。」
「サブちゃん?こんな私の話聞いてもらってるけど、退屈してへん?一方的に話しまくってるけど大丈夫?嫌やったり、飽きたりしたら言ってや。すぐやめるし。」
「ううん、稀世さんの事、よくわかってうれしいです。いつものみんなをにこやかにさせる明るさの背景に、いろんな苦労があったんやなって。グレずに、真っすぐ生きてる稀世さんのこと尊敬します。」
「尊敬なんかええよ。今の私があるんは、まりあさんとニコニコの仲間のおかげ。あと、もちろんサブちゃんもね。」
「やっぱ、僕は、おまけですか?」
「もーっ、じゃあもう一回、言いなおします。「今の私があるんは、まりあさんとサブちゃんとニコニコの仲間のおかげです。」でいい?それとも「サブちゃんとまりあさんと」に言いなおそか?」
「いやいや、十分です。まりあさんより前に出たら、そりゃだめでしょ。そんで、ニコニコ入ってからどうなったんか、続きも聞かせてほしいです。」
「えっとね、恥ずかしい話もいっぱいあんねんけどいいかな?まずね、私、プロレスって全然知らんと、まりあさんに着いて行ったもんやから、そこからが大変やったのよ。
みんなの食事作ったり、洗濯したり、ジムの掃除したりっていうお手伝いだけしたらええって思ってたら、「「研修生扱い」はトレーニングもせなあかん。」って言われて、最初の一ヶ月は、スクワット300回がでけへんで、ずっと居残り。デビュー後、ほかの団体の子からいろいろ聞いたんやけど、ニコニコは、ほかの団体で当たり前の「いじめ」や「しごき」が無いんやて。けど、入門当時は、十分、基礎トレを「いじめ」や「しごき」に感じてたわ。今考えたら、ただの基礎トレやねんけどね。
まりあさん、ケガで全日を退団した経験があったもんで、「ケガしない体づくり」が今も基本やねん。まりあさん、ジャイアント馬場やアントニオ猪木の時代に日本人の男子レスラーいっぱい育てたカール・ゴッチって言うレスラーの教育方針を尊敬してはってな、基礎練習はめちゃめちゃ厳しいねん。けど、そんなこと知らんかったから、みんな、ささっとスクワットしてスクラッチしてブリッジしてサンドバックやスパーリングに入る中、「私だけ毎日スクワットだけ。」って思って、毎晩泣いてたんよ。今なら、その意味が分かるんやけど。まあ、結果、受け身失敗して、みんなに迷惑かけてしもたから、えらそうなことは言われへんけどな。」
「今日のは、相手の意識飛んでんの察知して、稀世さんが一瞬力抜いたところに、相手が不完全な態勢で技かけてきたからで、稀世さんは悪くないやないですか?」
「いや、きっと、相手の子も私にケガさせてしもたと思って、今晩すごく落ち込んでると思う。自分も、相手も気持ちよく試合を続けるために、やっぱりそれなりのレベルに上がっていかんとね。それを、まりあさんはいつも言ってんねやと思う。」
「こんな時まで、相手を思いやるって、ほんと稀世さん、優しいですね。」
「そんなんとちゃうねん。プロレスラー、それもほんとのプロのプロレスラーはみんなそうやねん。ケガしてもあかんし、ケガさしてもあかんねん。」
熱く語る、稀世の声に覇気が戻ってきていると三朗は感じた。(この調子で、元気出てくれたらええねんけど。)
「でね、二ヶ月後やったかな?基礎トレメニュー全部できるようになって、受け身の練習始めたんが。もうちょっと、早くできるかなって思っててんけど、中学のバスケの後の四年のスポーツブランクは大きくて、「ただのデブ」に成り下がってたから厳しかったわ。
でも、まりあさんの教え方って、すごく「愛」があるんよ。言葉は、なんも知らん外部の人が聞いたらただの「パワハラ」やねんけど、うちの団体、若手でデビュー前に辞める子少ないんよね。もちろん、デビューしたら、実力不足やったり、ケガやったり、それこそ恋愛やったりでやめていく理由はいっぱいあんねんけど、よそと違って、みんな一度はマットに上がるっていうのは、まりあさんの教えがみんなに引き継がれてるからやと思うわ。」
「夏子ちゃんも稀世さんにすごく懐いてますもんね。」
「あの子は特別。ここだけの話やけど、なっちゃんね、入門前に男にこっぴどくフラれて、「次に付き合うなら、やさしくてかっこいい女の先輩」ってね。私も合宿の宿舎で夜這い掛けられたときは、そりゃびっくりしたわ。」
「えっ?夜這いって。」
「あっ、ごめん、今の無し。サブちゃん、変な想像も無しやで。幸い、私もデビュー4年たってたから、腕ひしぎで貞操は守ったから。信じてな。それと、改めて言うけど、変な想像したらあかんで。」
「は、はい。」
三朗は、無意識で目をそらせた。
「あーっ、サブちゃん、やっぱり、変なこと想像したやろ。」
「は、はい。い、いや、何も考えてません。」
「いや、絶対なんか想像してたやろ。露骨に目そらしたやんか。私の身の潔白の為に告白するけど、寝巻の上からおっぱいは触られたけど、それ以上は絶対になかったから信じてな。」
「お、お、お、おっぱいって。も、も、揉まれたんですか?」
「サブちゃんのあほ、あほ!何考えてんの。エッチやねんから。さっきも言ったけど、寝巻の上からちょっと触られただけ!はい、この話はここまで!」
「えーっ。」
「サブちゃん、すぐエロモード入るとこ嫌い。うちの団体、チーム内恋愛禁止やから、それ以上やってたらクビやわ。なっちゃんには、その件の後、チーム内ルールも話しして、今は全然ノーマルやから。なっちゃんの事、変な目で見たらんといたってよ。」
「は、はい。」
「もう、話逸れまくってしもたやないの。ちょっと、巻き戻してな。
基礎トレできるようになって、スパーリングできるようになるのにそこから二ケ月。そっから、半年、みっちり教わって、ようやくデビューできたのがちょうど五年前の二十歳の誕生日。ちょうど、ここ門真市立総合体育館やったんよね。サブちゃんと出会ったのもそれが最初。
ところで、サブちゃん、何がきっかけでうちの団体の試合見に来たん?」
稀世が改めて不思議な顔をして三朗に尋ねた。
「あん時はね、うち、ここでいう「うち」って言うのは向日葵寿司ってことなんですけど、あの日、常連さんが、息子の誕生日のプレゼント買うの忘れて、うちに持ち帰りのお寿司買いに来たんです。「プレゼントは買いに行かはらへんのですか?」って聞いたら、「パチンコですってもた。だから、「並」を「上」に見えるようにしてほしい。」って無茶言わはるんです。まあ、それは協力したんです。そんで「息子さん、プレゼント待ってはるんでしょ?何を頼まれてはったんですか?」って聞いたら、ポケモンのゲームソフトやっていうから、163号線迄歩いて、中古のゲーム屋さんででも買わはったら?」って言ったら。「寿司代払ったら、残り二千円しかない。中古でも買われへん。」って言わはるんですね。」
「そんじゃ、サブちゃん、お寿司代まけたったん?」
「いや、当時は、まだ親父生きてたから、そんな権限無いから、それはでけへんかったんです。そしたら、お客さんが、プロレスのチケット出して、三千円で買ってくれへんか?」ってなって。子供さんのこと考えたら、しゃあないやないですか。三千円渡して、初のプロレス観戦に行ったって流れです。あの頃、修行中やったから、三千円出すのも厳しかったんやけど、年に何回か家族でうちに食べに来てくれはる人やったから。」
「そん時から、サブちゃん優しかったんやなぁ。」
「いや、そんなんやないですけど。その日は、親父が夜は商店街の会合があるっていうことで、僕はまだひとりで握らせてもらえへんときやったから、一時半で店閉めて、親父に内緒で、体育館に行って、そこで初めて稀世さん見たんです。そう考えると、常連さんが、その日、パチンコで、すってはらへんかったら、稀世さんと知り合うことも、今日の一日も無かったのかもと思うと、常連さんに大感謝せなあきませんね。」
「サブちゃんらしいな。その考え方。パチンコへたくそ親父がキューピット様やなんて、そうそうある話とちゃうな。そんで、そんで?」
稀世が声を出して笑った。
「プロレス見るん初めてやったから、開場時間と開始時間の違いが判ってなかったんです。だから入場してからすること無いから、パンフレット買って隅から隅まで見てました。稀世さん、怒るかわからないですけど、デビュー戦のパンフの写真写り、現物と全然ちゃいましたよね。化粧ケバケバやったですよね。」
「あー、それ言わんとって。私の黒歴史やねん。デビュー戦用のポスターの写真撮るって言われて、頑張って化粧したんやけど、途中で、まりあさんや先輩レスラーが手伝ってくれて、ん?いや、おせっかい?いやいや、あれは、もはや邪魔…。そう邪魔されて、バブルメイク通り越して、デーモン閣下の悪魔メイクと言うか、「妖怪パープルアイシャドー&顔面白塗り娘」ってな顔になってしもて。ポスター貼ってもらうのに、アパートの大家さんやいつも行ってた定食屋さんから、「稀世ちゃんどれや?」って聞かれる始末で。あぁ、あの顔、サブちゃんにも見られてたんか。ショック大やな。」
「でもね、運よく前から三列目の通路側やったんですよ。入場の時、初めて生で見た稀世さんに「キュン死に」しそうになったんです。パンフレット三回見直しました。相手は金髪長髪でパンフ通りで間違いなかったから、飴ちゃんもらって間近で見た時「えーっ、現物、「どストライク」!」って思いましたよ。」
「えー、恥ずかしー。サブちゃん、やめてよー。」
と照れて、下を向き、手で顔を隠そうとするが、右手は三朗がぎゅっと握っているので顔の左側だけ隠し、そっと右目で見ると、
「今も「超どストライク」ですけどね。」
稀世を見つめて、三朗が笑った。
「サブちゃんのあほ。真顔でそんなん言わんといて。あほ、ばか、も―知らん。」
「おんなの人見て、ドキドキしたの、たぶん幼稚園の時の女の先生以来やったと思います。小学校以降、ずっと、おかんと学校の先生とお客さんと商店街のおばちゃんらくらいしか、女の人と顔合わせたり、口きくこと無かったんで。飴ちゃん、もらうときに、稀世さんが「応援してくださいね!」って僕の手に上下稀世さんの両手を重ねてくれた時が、僕の初恋のスタートやったんやと思います。そん時の、ミルキー今でも大事にとってますよ。」
「えーまじ?そんなん食べてしもてよ。んー、でも嬉しい。大事に持っててくれててありがとう。」
「うん、僕の宝物ですから。その後ドキドキして、試合はよく覚えてないんですけど、稀世さんが勝って、何かしなきゃって思って、横の席で名前入りのタオル振り回してる人にいろいろ聞いたんやったかな?「どうやったら出場レスラーに会えるんですか?」ってね。そしたら、「花束持って、関係者入り口行ったら、運がよければ控室連れて行ってもらえるかな。あとは手紙つけた花束持って、終了後の退場を待つかくらいやな。」ってアドバイスもらって、居ても立ってもおられへんようになって、二試合目、見んと、商店街の花屋に花束買いに行ったんですよ。行ってから、さっき三千円渡してしもて、三百円しか持ってないことに気付いたんですね。」
「三百円?そんで、どないしたん?」
「花屋のおばちゃんに、「ツケで行けるか?」って聞いたら、「無理したツケで買った花束より、気持ちのこもった一本の方がええよ。」って言われて、うちの店になぞらえて二百五十円の姫向日葵一本包んでもらって、向日葵一本の花言葉は、「一目惚れ」って教えてもろてん。ちなみに三本やったら「愛の告白」やってんけど、七百五十円が無かったから。今、考えたら、一本やったら「花束」やなくてただの「花」ですね。」
「えっ、サブちゃん、控室来た時、お寿司の桶持ってきてたやん。んー、あーっ!桶の中に入ってたひまわりってそれ?えー、包んでもらたって?えー、どうなってんの?私の記憶がおかしいのかな?」
「んー、絶対、笑わへんで聞いてくれます?」
「うん、笑わへん。約束する。」
「えっとですね、花屋出て、一分一秒でも早く体育館に戻りたくて前もろくに見んとダッシュして、店の前でいきなり車にはねられて、こけて、花の首から折れてしもたんです。さすがに、折れた花は縁起悪すぎる思て、諦めて自分の店に帰ろ思てぽつぽつ歩いてたら、ちょうど親父が会合の飲み直しで、店から出ていくのが見えたんです。こりゃ、千載一遇のチャンスやと思て、自分の店やけど、忍び込んで、こっそり特上握り二人前握って折れた姫向日葵の花を添えさしてもろたんです。縁起の悪い話ですいません。」
「えー、そんなバックエピソードがあったんや。デビュー戦のあと、控室にお寿司持ってこられたなんてニコニコプロレス始まって以来初めてやっていう話やったし、桶に向日葵寿司って名前入ってるから、それに合わせてのお花やろうってみんなで言っててん。」
「半分当たりで、半分外れです。「一目惚れ」って意味の向日葵一輪でした。もちろん、三百円しか持ってなかったって言うのが恥ずかしい現実でしたが。」
「ひゃひゃひゃひゃーっ!サブちゃん最高!」
「あー、笑わへんっていう約束やったやないですか?稀世さん、反則ですよー!」
「ごめんごめん、サブちゃん、怒らんといて。でも、「一目惚れ」って意味があったん?それ、作り話やなかったら、めちゃくちゃ嬉しい。ほんま、サブちゃん、ありがと。本当にありがとう。例のポスターの件が災いしたんか、普通、デビュー戦っていうと花束、五,六人は持ってくるんやけど、私ん時は、サブちゃんのお寿司だけやったから、「私、人気無いわ。」って落ち込んだんよ。あー、そんないい話があんねやったら、その時に聞きたかったわ。」
「い、いや、そ、そりゃ無理です。そもそも、よう、控室にそんなん持って行けたなって自分でもあとあとずっと不思議でしたんで。どこにそんな勇気あったんですかね?そんなんでしたから、話までは絶対に無理やったです。」
「うん、でも、今日、聞けて良かった。サブちゃん、ありがと。あっ、目に埃が入ってしもた。」
稀世が、左手で目を拭った。
朝刊配達のオートバイが表の道路を走る音が聞こえた。部屋のデジタル時計は、午前三時を示していた。とりとめのない話をお互いに繰り返し、柔らかく温かい時間が流れていった。話は、稀世のデビュー四年目の話に進んでいた。
「・・・で、こんな話やってん。めちゃくちゃやろ。」
「そうですね、普通やないと思います。稀世さんらしいといえばらしいですが。」
「あーん、サブちゃんの意地悪!もう、嫌い!そこは、「そんなことないですやん。」ってフォローしてくれるとこやろ。」
「すいません。「そこはそんなことないですやん。」」
「って、いまさら遅いわ。まあ、訂正したってことで許すわ。
さて、ここからが、いよいよメインディッシュの今回の大会のエピソードやねんけどな。だいたい半年前に、まりあさんと社長が交流戦の話持ってきて、日にちと会場の発表があってんな。開催日は、私の二十五歳の誕生日、場所はここ門真市立総合体育館。テンションアゲアゲやったわ。
サブちゃんとの出会いの場所であると同時に出会いとデビューのメモリアルデイってことで、大会の概要や、マッチメイクについての説明なんかなんも聞かんと賛成して、まりあさんに怒られてん。」
「そりゃ、大事な交流戦なんやから、もうちょっと真面目に考えなあきませんよね。そこは、まりあさんを支持します。」
「もーっ、そこは、サブちゃんには、私たちのメモリアルデイを支持してほしかったな。まあ、私の意見は別として、まりあさんがしっかりと今後の「大阪ニコニコプロレス」のためには、上位のインディーズとファンを共有していかないと興行の黒字化はできないし、スポンサーの共有は運営に絶対必要だってね。みんな、賛成でその試しの大会として、今回の門真大会が決まったんよ。チケットもいつもと比べると、いい感じで売れたし、小口のスポンサーも結構ついてくれて、「あー、元全日経験者のまりあさんのプロデュース力って凄いなぁ」ってみんなで言っててん。」
「せやね、今の「大阪ニコニコプロレス」はまりあさんあってのものですよね。元ヒールって聞いてるけど、その実、めちゃめちゃいい人ですやん。二十年以上現役って言うのもすごいけど、プライベートはどんなんなんですか?」
「えーっ、まりあさんに興味あんの?それって浮気?」
「い、いや、ちゃいますよ。稀世さんの上司でお母さん代わりって話やから、後々、ご挨拶したりあるやろし。って僕、何、先走ってんねやろか。すいません。」
稀世はその言葉に真っ赤になって、しばらく言葉に詰まった。
「あ、挨拶は、後の問題として、私が知ってる限りでは、シングルマザーで、子供さんは高校生の女の子ってとこくらいまで。元全日女子でやってて、子供できて二年休んで復帰。そんで大きいけがして引退。そこから二年リハビリで、その後、大阪ニコニコの立ち上げ時からのメンバーってくらいかな。メンバーみんなの頼れるお母さんであって、憧れの姐さんって感じ。」
「うん、その例えよくわかる。姐御肌ですよね。頼りになるって言う言葉で収まらない、そう、まさに大黒柱って感じのスケール感ですよね。」
「その、大黒柱に、この大会終わったら、若手の指導担当のサブリーダーになってみいひんか?って声かけてもろてんやんか。だから、二十五歳、デビュー五年の節目と合わせて、団体の中での新しい立ち位置を創るだけじゃなくて…。」
声が小さくなり、「もごもご」としか聞こえない。
「創るだけじゃなくて、なんですか?」
「(もごもご)…」
「えっ?何ですか?」
「サブちゃんと出会って丸五年。これも節目と考えて、大会終わったら、サブちゃんに告白しようと思ってたの。」
「えっ、なんですか?もう一回お願いします。」
「だから、サブちゃんに告白…。あー、二回も言われへんわ、サブちゃんのあほ―っ!」
「いや、聞こえてましたけど、もう一回聞きたくて。」
「サブちゃんのあほ、ばか、まぬけー。女の子にそんなこと何回も言わさんとってよ。めちゃめちゃ恥ずかしいやないの」
「嬉しいです。稀世さんにそない思ってもらえるなんて、考えても無かったんで。」
「でも、でも。」
稀世は、うつむき黙り込んでしまった。(えっ?またなんか地雷踏んでしもたかな?聞き直したんが明かんかったんやろか?)三朗は、なんで黙り込んでしまったのかわからずおろおろした。
三分の沈黙の後、稀世が小さな声で自問自答するように呟いた。
「みんな、私が悪いねん。身の程、忘れて、勝手に浮かれて「節目」って自分で思って「告白」しようなんて…。中学の時は、自分が自殺未遂。高校の時は、お父さん、お母さんが死んで、今度は、私の余命確定。それも半年。
せっかくサブちゃんから「好き」って言ってもらえて、「結婚しよう」とまで言ってもらえたのに、私が勝手に「節目」って思ったから今度もまた変なことになってしもた。ごめん、サブちゃん。ごめんね、サブちゃん。私が相手じゃダメなのよ。ごめんね。ごめんね。」
と布団の上に突っ伏して泣き出してしまった。
「稀世さん、僕はええんです。僕はええんです。少し休みましょう。」
「ごめんね。ごめんね。サブちゃん、ほんと、ごめんやで。」
「僕、朝までついてますから。横になってください。」
「ごめんね。迷惑ばっかりやけど、ひとりやと、真っ暗な闇の中に落ちていくイメージしかなくて、怖いねん。ずっと、横に居ってね。お願いやから。」
「大丈夫です。ずっと、一緒にいますから。」
と稀世をベットに寝かせ、右手を両手で握ったまま、「ついてますよ、ずっと横についてますから。」と優しく囁いた。
稀世は、あおむけになり目を閉じたが、眠りに落ちることはなかった。三朗も両ひざ立ちでベッドの横で稀世の右手をしっかりと握り、付き添い続けた。ふたりとも、眠りにつくことなく、窓の外が明るくなってきた。