勉強やら稽古やら悩みやら
びびった。
昨夜はいきなり押し倒されて、密着されて、裸になられて……俺も男だから反応し、上に乗られていざという時、痛いと言われて嫁は離れた……。
情けない。
レイにそういうことをさせてしまった自分が情けない。
そうだよな……そうなんだよ。
俺には覚悟がなかった。
翌朝、朝食の席で普通に挨拶をされて気まずさは感じないですんだ。
「おはよう! 昨日は悪かったな。痛かったから!」
ちょっといろいろとつっこみたいけど、挨拶を返す。
「おはよう。大丈夫か?」
「うーん……負傷してるから癒えるまでは一緒に寝ない」
「それは、そうしてくれていい」
朝食を食堂に運んできた使用人達がクスクスと笑っている。
笑うところじゃねんだよ! という気持ちをぐっとこらえて、水を飲みパンを千切りながら、出入り口に突っ立っているレイを対面に招こうとしたが、彼女は俺の隣に座った。
「これは食べ物か?」
「パン、知らないのか?」
「パン? これがパンか? 柔らかいぞ?」
「ああ……小麦が原料だからだ。君が知っているのはライ麦かな?」
レイは出来たてのパンを食べて、目を輝かせる。
「美味しい! すごく美味しいぞ!」
「領主をやっててよかったのは、小麦畑を屋敷の庭に作れたことだ」
「庭に畑があるのか?」
「庭というか、敷地の余った土地を畑にした。美味しいパン、食べたいから」
「僕は幸せ者だな? お前の妻になったらこのパンを毎日のように食べられるんだな?」
「もちろんだ。あ、でもたくさんは作れないんだ。今朝は君が来て初めての朝だから、料理長のアーサーに頼んで作ってもらった」
ここでちょうど、柔和な老人が食堂に現れる。
彼が料理長のアーサーだ。昔は中央大陸の大きな国で料理人をしていたと噂される彼が、故郷のこの島に帰ってきてくれたおかげで俺は美味しいものを食べることができている。
「アーサー、妻のレイだ」
彼は微笑むと一礼し、俺達の前まで料理を運んできた。
「切り分けましょう。ハムです」
パンにハムにスープ!
最高の朝食。
レイは杯に入った水を飲み、また喜ぶ。
「美味しい。水が美味しいな」
「君達が住む山々から流れてくる地下水を風力で汲みあげて、煮沸消毒してから飲み水にしているんだ。風車はそのまま畑回りの水路の装置を動かす動力にもなる。水路の水の流れがまた他の装置を動かす……レジト侯爵領は貧しいから、効率的に農作物を育てなくてはならないから」
「誰に教わった?」
「本だ。世界にはたくさんの知恵があり、それは本を介して得ることができる」
「すごいな。フレデリクはすごいんだな?」
ここで、レイの付き人の女性が一礼し、俺達に近づく。
「失礼しまっさ……お嬢、手で食べてはいけませんよって。旦那さまが恥をかきまっせ」
訛りがすごい付き人に、手でハムを掴んだレイが目をぱちくりさせる。
「……昨夜、僕はご飯を食べた時にお前に恥をかかせてしまったか?」
昨夜の宴で、彼女はたしかに手づかみであれこれと食べていたけど、俺達は気にしていなかった。美味しそうにモグモグと食べて葡萄酒をグビグビと飲む可愛い女性を好ましく見ていたのである。
気持ちいい食べ方をするなぁとさえ、思っていた。
だけど、たしかに彼女の付き人が言うように、これからはそうはいかないだろう。また、年明けに行われる披露宴でそんなことは駄目だ。
練習を始めようと思い、レイを誘う。
「ナイフとフォーク、使おう」
俺が手本をみせ、彼女が真似る。
そういえば、レイは訛りがないなと思って訊いてみた。
「レイの言葉、俺達の言葉に近いのはどうしてだ?」
「オジキに教わっていたからかもしれないな。子供の頃はオジキに育てられたんだ。オジキは部族から離れてリタニア人のなかで生活をしていた変わり者だ」
「そういう人もいるのか……」
「多くはないがいるぞ……でもオジキは、僕が僕と使うのを注意しなかったな……」
どうしてだろう? ただ、どうでもいい理由なんだろうとは思うが……
「フレデリク、これはどうやって食べたらいい? 器をもって飲めばいいか?」
スープの飲み方を訊かれている。
「スプーンを使え」
「スプーン?」
「これだ」
「わかった」
少しずつ慣れてくれればいいと思う。
-レイ-
朝食を終えて、軟弱が誘うのでついていくと、屋敷の離れにその人はいた。
婆さんだ。
軟弱の親父の母さんと聞いた。
彼女は僕を見ると、目から涙を溢し始めた。
びっくりして、軟弱の影に隠れてしまった。見た目が悪すぎてショックを与えたのかと心配になった。
婆さんが言う。
「よく来てくれたねぇ……フレデリクよ、こんな可憐な女性を妻にできたんだ。彼女を大事にしなさいよ」
「わかっています、お婆様。さ、レイ……」
僕は、可憐という言葉は悪い意味ではないんだなと感じて顔の強張りがとけた。そして婆さんの前に立ち、膝をおって挨拶をする。
「レイティーナハードミルメルハンジィだ。嫁に来た。レイと呼んでくれ」
「ありがとう。ありがとう……これでいつお迎えが来ても安心だわ」
「お迎え? どこかに行くのか?」
婆さんはどっかに行くのか?
「ほっほっほ。そういう意味ではないのよ。それより、そなたは侯爵の妻となったのだから、もう少し言葉の練習をしたほうがいいわね。今のままでもとてもお上手だけど、よけいな誤解をされて敵を作りたくはないでしょう?」
「そうだな……そうだ」
「フレデリク」
「はい」
「これからはわたくしが良いというまで、朝食後から昼までレイを預かります。ここでいろいろと教えましょう」
「お婆様、ありがとうございます」
「レイ、よろしい?」
僕は嬉しくて頷く。
僕に親切にしてくれるのは、オジキかアリアナくらいだった。そこに軟弱も加わって、さらにもうひとり増えたのはとってもありがたい。
「うん、よろしく頼む」
僕はこうして、婆さんからいろいろと教わることになった。
朝、フレデリクと一緒にご飯を食べて、婆さんのところに行って言葉や作法、常識やら価値観や宗教に関して勉強する。そして午後は自由時間なので、庭の畑を手伝ったり、フレデリクと馬に乗って遊びにいったり、アリアナ相手に剣や槍の稽古をしたりする。そして陽が沈み、夕食をとるんだけど、リタニア人達はすごい。
夜でも、明るい。
ランプ? 油を使ったランプという道具や、蝋燭が豊富にあるので夜でも文字を書いたり、本を読んだりできる。だから僕は、フレデリクの許可をもらって屋敷の書斎に入って本を読ませてもらう。
そうして、眠くなったら歯を磨いてもらって……歯を磨いてもらうのはすごく気持ちよかった。侯爵家には医術を使うことができる医師がいて、僕が眠る前に訪ねると歯を磨いてくれるのである。
舌の掃除もするものなのだと知った。そして、歯と歯の間を磨くのだということも知ることができた。
歯を悪くすると恐い。それで死んだ者もいた……とっても苦しんでいた。だから僕は歯をとっても大事にしていたつもりだけど、ここにきてさらに大事にできると嬉しい。
そしてベッドに入り、眠る。
温かくて柔らかいベッド。
お布団というものが、とっても素敵なものだと知った。
毛皮を身体に巻きつけて寝ていた生活は、なんだったのだろうかと思ってしまう。
でも、ひとつ気付いたこともある。
リタニア人が弱いのは、生活が楽だからだ。
ウラン族が統治する山々の者達が強いのは、厳しい環境を生き抜く必要があるからだ。
僕は弱くなってしまうのだろうか……。
戦うことしか取柄がない僕は、それでもあいつの妻でいさせてもらえるだろうか……部族とレジト侯爵領のためにというのはわかっている。だから、追い出されることはないかもしれない。でも、僕は優しいあいつが好きだから、優しくされなくなるのが嫌だ……。
妻となって七日目。
こんなことを考えていたら、眠れなくなってしまった。