彼はいなくなった。
暦は五月に入る。
忙しい最中、宰相殿から手紙が届いた。
おかげ様で王国の政治を取り仕切ることができていますよという内容と、金鉱の開発を共同でしましょうという申し出だった。
俺はもちろん承諾の返事を書く。
王家への税金がなくなり、軍勢を動かした出費は痛いが長期的にみればとっても商売上手だったなと自画自賛する俺は、ペテルブルグまで荷を運ぶのが円滑に行えるように街道の整備もおこなう。
大儲けできるぞ!
扉を叩く音に、俺は書類をめくりながら返事をした。
入って来たのは婆様だ。
「お婆様、どうされましたか?」
「たまには仕事をしている孫の顔を見ようかと思ってね」
俺は彼女に椅子を勧め、秘書を呼んで紅茶を淹れてくれと頼む。
「フレデリク、公爵となって忙しいようね?」
「ええ、やることが一杯あります。これまでは王国の法を使っていればよかったですが、これからは独自で作成する必要もありますし、税も細かく対象を分けて……すみません。ついつい」
「いえ、いいのよ……それよりも、貴方、顔つきが厳しくなったわねぇ……」
「……そうですか? いつも難しいことを考えているからかな?」
それからしばらく世間話をして、運ばれてきた紅茶に手を伸ばした時、婆様が言う。
「本当に公爵になったのねぇ」
「ええ、これからは大陸の列強と経済で結びつくことで、彼らを後ろ盾にして独立を保ちます。その時間を確保する為の不戦条約です」
「……政治の話ばかりなのねぇ」
「いけませんか? 俺は公爵なのです」
「……偉くなったら人は変わるといいますが、まさか自分の孫までそうなるなんて……」
俺はムカムカする。
ご先祖や爺様や父上が苦労していたことを解決してやって、領地も増やして、金も増やしているのにそれを非難されているようで腹立たしい。
「婆様、俺は忙しいのです。お引き取りを」
「はいはい、老人の暇潰しに付き合わせて悪かったわね」
俺は苛々した気持ちを抱えて仕事に戻る。
それから市街地拡張の打ち合わせへと向かうべく、部屋を出たところで使用人の女性とぶつかった。
「きゃ!」
「痛いな!」
「公爵様! 申し訳ありません」
「気をつけてくれ!」
まったく、ついてない時は本当についてない。
俺は表で待たせておいた馬に乗り、急ぐために鞭をいれる。グンと加速した馬は屋敷から市街地へと続く下り坂を跳ぶように駆けた。
城壁の外、市街地拡張予定地でオリビエが俺を待っていた。
「公王陛下! こちらです」
「待たせたな!」
俺は馬から飛び降りて、兵士に馬を預ける。そしてオリビエに近づきながら周辺を眺めた。
「悪くない。南門の外側から始めるのだな?」
「は! 今、測量を始めたところです」
「うん、これからベリオットはさらに栄える。ふさわしい面積が必要だからな」
「さようです。土地の賃貸料はいくらにしましょう?」
「これまでと同じく一ヘクトあたり三リードでいいだろう」
しばらく現地で打ち合わせをこなっていると、測量をしていた者達と護衛の兵士が、野犬の群れの接近に驚いて声をあげていた。
「どうした?」
オリビエが溜息をついて答える。
「また野犬ですな……この辺りに増えていて……人が住む場所は餌も多く手に入るのでしょう」
「……餌を与える者もいるしな」
「さようです」
「間引きでは間に合いそうにないな……犬狩りを行おう」
「は……日にちは如何いたしましょう?」
「近々に行うよう手配せよ」
「承知しました」
俺は屋敷に戻ろうと思い、馬を連れてこいと兵士に命じる。
兵士が馬をひくが、馬は動かない。
「何をやっている! 忙しいのに」
俺は兵士を叱り、馬に乗って屋敷へと駆けた。
ったく、身体がいくつあっても足りない。
-レイ-
フレデリクは忙しい。
そして、なんだか怖い。
いつも、お金、お金、お金……以前の彼もお金のことを口にしていたけど、明るく話していた。でも今の彼は、お金のことを話す時は恐い顔になる。そして、いつも政治や経済のことを口にする。
難しい話は僕にはわからないけど、侯爵であった頃の優しい表情に戻ってほしい。
どうしたらそうしてもらえるかなと婆さんに相談してみたら、二人で仲良く散歩でもしながら話してみるのはどうかと言われた。
だから彼を誘おうと思っても、忙しそうで声をかけられない。
そして、彼から声をかけられるのは、眠る前に寝室に誘われる時だけだ。
僕は、彼の腕に包まれることは好きだけど、なんだか嫌だし怖いから、一人で寝るようになった。
最近、アリアナが心配するようになった。
「お嬢、旦那様、皆から怖がられておりますよ」
「どういうことだ?」
「はぁ……それがちょっとした失敗を怒鳴られたり、すれ違う時に挨拶をしても無視されたり、忙しくされている時に声をかけたら怒られたりと……皆、旦那様はすっかりと変わったと」
「……あまりそういう話に付き合うな」
「付き合うわけじゃありません。耳に届くんです。屋敷の女達が、今日は声をかけづらくて黙っていたら何かあるなら早く言えと怒られた……なんて愚痴を話しているところを通りすぎたりしてですね」
僕は意を決して、フレデリクの執務室を訪ねる。
コンコンと扉を叩くと、秘書官が開けてくれた。
「あ、奥様」
「フレデリクに用だ」
「少々、お待ちを……公王陛下、お妃様がお見えです」
「忙しい。あとにしてくれと言ってくれ」
……。
「申し訳ありません。公王陛下は今――」
「わかった。取り次いでくれてありがとう」
僕は離れた。
屋敷から出て、厩舎に向かう。
馬に乗り、市街地を抜けて外に出た。
野犬たちが僕を見て近づいてくる。
この子たちを捕まえて、西の森と山がある土地へ離してやろうかとフレデリクに相談したけど、彼は忙しいから後でと言って、それっきりになっていた。
遠くの山々を眺めて、しばらく馬を駆ける。
僕は今、一人だ。
それは、この場所に限ってのことじゃないような気がしている。
僕みたいな醜い女でも、優しい表情で接してくれたフレデリクはいない。
親父たちも、開発だかなんだかで僕への手紙は来ない。オジキも訪ねて来なくなった。
アリアナがいる……でも、彼女は家族とは少し違う。
僕は気付けば泣いていた。
「くぅん」
犬が鼻を鳴らした。
僕は馬から彼らをみおろすと、尻尾を振りながら僕を見上げていた。
遊ぼうよ、と言っているみたいだ。
僕はしばらく彼らと一緒に馬を駆けさせる。
そして、暗くなる前に屋敷に戻った。
食堂にフレデリクがいて、夕食をとっていた。忙しいので合間で済ませるようになった彼は、美味しいとも言わないでさっさとご飯を口に運ぶ作業をしているようにしか見えない。
彼は僕に気付いて口を開いた。
「今日、何の用だったんだ?」
僕は、彼がそう言ってすぐに視線を食事に戻したことに悲しい。
「フレデリク、忙しいのはわかる。でも、イライラするのは駄目だぞ」
「イライラ? たしかにイライラしている……それだけか?」
「……それだけ? だけど……もう少し気をつけたほうがいいと思って――」
「気をつける。話は終わりだな?」
フレデリクが食事を終えて席を立つ。
僕は思わず、彼に歩み寄ってその手を握っていた。
「なんだ? 仕事があるんだ」
「フレデリク、どうしてそんなに冷たい?」
「別に冷たくしていないだろ……忙しいけど用事はなんだったのかと訊いたじゃないか? イライラするなと言いたいってことだろ? 気をつけるよ」
「僕が言いたいこと、ぜんぜんわかっていないぞ」
「レイが言いたいこと? ああ……もう仕事がたまっているんだ。この話はまた今度だ」
「僕が言いたいのは! フレデリクは公爵になっておかしくなっているってことだ!」
「おかしくなってる? 俺がおかしいって言うのか?」
「そうだ。どうして皆にありがとうって言わない。皆に、頼まない? 命令ばかりだ。一方的に話も終わらせる」
「忙しいんだ! 公国を安定させる為に一日だって惜しいんだ! 自立を確固たるものにしないといけないんだ! 王国がまた狙ってくる前に!」
「僕は難しいことはわからない。だけど、今のフレデリクは嫌いだ」
「難しいことがわからないのに口を出すなよ! もういい! 話は終わりだ!」
フレデリクがさっさと離れていった。
僕は立ち尽くす。
隣に、アリアナが立っていた。
「お嬢……喧嘩しちゃいましたやん……」
「……くやしい」
僕は涙をこぼす。
僕は頭が悪いから、言いたいこともちゃんと伝えられない。だから感情的になって、フレデリクも感情でぶつかってきてしまった。
くやしい……。
僕はでも、泣いてスッキリしたら謝ろうと思う。
その日の夜、フレデリクの寝室を訪ねた。
中から返事があった。
「なんだ!?」
「フレデリク……謝りにきたんだ」
「ああ、もう気にしていない!」
「顔を見て謝りたい」
「疲れて寝てるんだ。起こさないでくれ」
僕は、自分の部屋へ戻る。
僕が大好きなフレデリクはいなくなった……。
野犬たちのこと、相談したかったのに……。
仕方ない。
僕一人でやろう。




