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山肌を削るように吹き下ろす硬い風。
冬の厳しさがまだ残る風を裂き、峠に甲高い咆哮が轟き渡る。猛禽の叫びによく似た鋭さと甲高さを持ちながら、その咆哮は余韻に至ると、虎や獅子の咆哮が持つような低い響きをも宿す。
グリフォン。
前半身に鷲の頭と猛禽の鋭い爪を持つ前脚。そして、後半身には力強い獅子のような後脚と尾とを持ち、背に荒鷲の猛々しい翼を持つこの魔獣は、主に山岳部に棲息する。後半身は、獅子のような毛皮であることもあれば、豹や虎のような模様の個体もいるという。そして、その見た目に相応しく、当然のように生態系の頂点近くに君臨し、森の獣や山の獣、時には同じような魔獣すらも餌として襲うことがある。
ただ、獲物として最も好むのが馬であった。特に、まだ狩りの下手な若い個体は、人間の抵抗を受けるという危険を冒してでも、動きの遅い荷馬を襲うことがよくあった。例え引く荷が軽くとも、軛に繋がれた家畜である荷馬は、狩りの経験の浅いグリフォンには、狙いやすいと思えてしまうものらしい。
況してや、手負いということであるのならば。てっとりばやく獲物にありつき、衰えた体力を補いたいとも思うのだろう。動きの遅い荷馬は、安易な獲物と見えるのだろう。
たとえ、その周囲にちっぽけな人間どもが群がっていようとて、大した脅威には見えぬのかもしれぬと、娘は荒くなってゆく呼気の合間、そんな想念を一瞬だけ過ぎらせた。
道は、峠にさしかかり最も狭くなっていた。
片側は、そのまま山頂へと登る急峻な崖。
もう片側は、なだらかに下る南に面した斜面であり、広葉樹の繁る林であった。
娘は、その林の中に潜み、ちょうど峠近くで行きあった隊商をやり過ごそうとしていたのだった。
その隊商を、手負いのまだ若いグリフォンが襲ったのだ。
隊商の長は、護衛を雇う費用を惜しんだのだろうか。数人の護衛の姿は確かにあったが、手負いの魔獣の存在に、瞬く間に戦意を失い逃げ散った。御者を失い、天敵の襲来に怯える馬達は、荷台の軛に囚われて逃げることも儘ならない。否、既に怯え果てて硬直してしまっているのだろう。
いくつかの馬車は既に転がされ、狭い峠道には隊商の荷が散ってもいた。
当然費やすべき金銭を支払わず、十分な護衛を雇わなかったことが、この隊商の長が犯した過ちだ。自業自得と、それを傍観していられる程度の冷静さを、娘は持ち合わせている筈だった。
けれど、大人達の都合に振り回され、命の危険に晒されている幼子の姿を認めた時…娘は反射的に動いていた。一度、街や村を出たならば。どんな危険が待ち構えているのかもわからぬのが、今の中原の現状だ。そんな世界でも、人には旅をせねばならぬ理由がいくつもある…。その旅を安全にゆくために、大きな隊商と旅程を共にするというのは、一人旅や少人数で旅路をゆく者達には当然の知恵でもある。
魔獣に今まさに襲われんとしていた小さな女の子は、母親と二人隊商と旅程を合わせて、その小さな歩幅で懸命にこの峠を越してきていた子だった。大人達の都合に振り回され、抗う術も持たぬいたいけない幼子が上げる悲鳴を聞いた時…娘にはもう、隠れてこの場をやり過ごすとなどという考えは、瞬時に消えていたのだった。
身を隠していた林の中から、文字通り矢継ぎ早に矢を放つ。
ただの矢ではない。娘は風の精霊に短く願い、その矢を的確にグリフォンの頭部へと集中させた。
今にも鋭い鉤爪にかけられそうになっていた小さな女の子を、騒ぎの混乱にはぐれかけていた母親が、半狂乱で抱き締める。我が子の危機に、思わずという態で庇う姿はやはり、母としての無償の、そして無条件の愛を示す姿だと、娘の胸に甘い痛みを疼かせた。
その母と子に鉤爪の容赦のない一撃を届かせる前。頭部…特に黄色く輝く瞳の近辺に立て続けに飛来した幾筋もの矢に、魔獣は猛々しく咆哮する。
「何をしている!早く逃げて!」
叱咤に等しい声を上げつつ、娘はフードを目深に被ったままに、峠道へと飛び出した。
いとけない悲鳴を聞き、背にしていた弓を構え、矢筒の矢をその弓につがえて瞬く間に幾筋も魔力の込められた矢を放った娘。娘は、風の精霊の力を借りて、樹間を縫うように矢を放っていた。人間達に姿をみとめられることもなく、グリフォンにも襲われにくいという安全圏を確保していたがためだ。だが、それでは一射一射にかなりの魔力を乗せることとなる。そして、姿の見えぬ邪魔者に、グリフォンがますます猛り立つのも伝わっていた。
このままでは、結局怒りはその母と子に向かうだろう。それがわかって娘は、小柄で細身のその体躯を、敢えてグリフォンの前へと晒してみせたのだ。
怒りのまま、本能の赴くままに暴れるその邪魔をした、ちっぽけな者の姿を新たにみとめ、グリフォンは再び独特の雄叫びを峠に轟かせた。その黄色く光る猛禽の瞳が、しっかりと娘を捉えて見開かれてゆく。
細い街道へと踊り出て、倒れ付した母と子と魔獣の間に立ち塞がったその姿を、まぁるい瞳を見開くように、幼い女の子は見上げていた。
小柄な細身の身体を、深い緑色のマントが包んでいた。すらりと伸びる手脚の肌身は、艶めいた褐色。
左の前腕には弓射のために籠手を嵌め、腰には矢筒と短めの細剣が一振り下げてられている。街道の上に軽やかに立つその足許は、膝上までの柔らかそうな革のブーツに包まれていた。
娘を背後から見上げていた女の子には、そこまでを見取ることしかできはしない。
慌てて起き上がった母親に、抱き締められ抱き起こされて、その場から逃げることとなったからだ。
それでも、娘の耳には幼子があげたいとけない、ありがとう、の一言が…しっかりと届けられていた。
風吹き荒ぶ峠にて、それは儚く消え散ってもおかしくない、そんな小さな声だったけれど。娘と言葉と心を通わせる、風の精霊はきちんとその声を届けてくれた。
「…ありがとう。もう少しだけ…力を貸して…?」
流れるような、歌うような音域をもって響くその言葉は、精霊達と心交わすための言葉、精霊語だ。
娘の意を汲み、風の精霊達が舞い始める。楽しげに、囁くような笑い声を、娘の耳にだけ届けつつ。
街道から砂埃が巻き上がった。そのまま、それはグリフォンの黄色い瞳へと舞いかかる。
鷲の頭と瞳とを持つことからうかがえるように、グリフォンはその鋭い視覚にて獲物を捕捉し襲いかかる。頼りの瞳を傷められてはかなわぬと、怒り狂っていてもわかるのだろう。顔を背け、背の翼をはためかせ、舞い上がり襲い来る砂埃をかわしつつ、その馬ほどもある身体を一瞬浮かせて、娘とやや、距離をとった。そして、怒りの咆哮を響かせる。
空を舞う王者として、地べたでこのようにあしらわれるのは我慢がならぬ。若い魔獣の咆哮には、そんな苛立ちが込められていた。
そして、その翼を大きく大きく広げてみせた。風を孕み、飛び上がらんと…。
それを、娘は待っていたのだ。
「…今よ!おねがい…っ!」
再び、娘の花弁のような唇から歌うような抑揚の言葉が流れ出す。
それを聞き、風の精霊達は楽しげに舞い上がり…そして、グリフォンめがけて、一気に舞い降りてくる。その舞いそのものに強烈な気流を伴い、精霊達は踊る…。その踊りに、否応もなく巻き込まれたグリフォンの、大きく大きく広げられた翼は…下降気流をまともに受けて、地べたへと力づくで押し付けられる様を晒すこととなった。
これならば、大丈夫。あの母と子は無事に逃げられよう。
そう確信し、娘はその花びらのような唇に幽かに笑みを宿してみせた。
猛々しい、手負いの魔獣と一対一で向かい合う。細剣…レイピアこそ提げているけれど、娘の本領は弓を以っての遠間の闘いだ。樹木に隠れ、林に紛れて鴨撃ちにしてやれれば、グリフォンをいなすことは難しくない。
しかし、それはまだできない。
小さな娘を抱いて逃げる母親は、転んだ時に傷めたものか、その脚を引きずりがちにゆく。
今娘が安全圏へと戻ってしまえば、グリフォンは怒りのままに、逃げる者を追うだろう。
このまま、闘わねばならぬ。
娘は、きゅ、と花びらのような唇を噛んだ。グリフォンの振るう鉤爪を後ろに飛びすさって避けながら、再び風の精霊の力を借りて曲射を放つ。常識ではありえぬ軌道を描いて矢は流れ、飛び、鋭角にその軌道を不意に変え、背後からグリフォンの首を襲う。
峠に、魔獣の声が轟いた。苦々しい、痛みに苛立つ吼え声は、幽かとはいえ、娘の矢が魔獣に傷を負わせたことを意味している。が、娘の眼に喜色はない。
手負いのけものが、最も危険だということを、森に生きてきた娘はよぉく知っている。
魔獣の注意を己に引き付け、至近で風の精霊の力を狩りつつ矢を射放つ。十分な距離を稼げずに射た矢では、魔獣を追いやるほどの威力も乗せられはせぬ。それでも娘は懸命に、際どい間合いで爪を避け、一矢一矢を着実にグリフォンへと射かけていた。
呼気が、乱れる。母と子は、もう充分に逃げたろうか?
己が囮になってより、どれほど時を稼げたろう?
そんな想念すら宿すほど、娘は時間という感覚を失していたのだ。
そして娘は、そんな己を叱咤するようにまた、風の精霊達へと呼びかける。
「…風よ!」
歌うような娘の声に合わせ、再び砂塵が舞い上がる。しかし、グリフォンもまた己の翼を大きく大きくはためかせ、襲い来る砂塵を力業を以って跳ね返した。それは、小柄な娘の身体を大きく煽りたてるほどの風だ。
魔力を言葉に乗せ、風の精霊と心交わすことに気を取られていた娘の小柄な身体には、それは受け止めるには過ぎる力であったと言ってよい。大きく体勢を崩し、たたらを踏む娘に。魔獣の怒りの咆哮と、その鋭い鉤爪が振り上げられる…。




