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“正義とは、常に謙虚かつ厳正なる自問の果てに得られた答えでなければならぬ”
軍神シグマールの教え
序
暁の街道と、そう呼ばれる道がある。
大陸を東西に結ぶ長大な街道は、起工時当初、全面祝福にて清められ、耐久性を増した赤煉瓦を用いての敷設が行われたという。それより歳を経ること早、数紀。旅人のゆく足に、馬車の車輪と荷馬の蹄に轍を刻まれ…そして時には、進められる軍馬の蹄に晒されて、流石に魔法と祝福にて清められた煉瓦も削られ磨耗して、今では、より廉価な石畳に改められた部分がほとんどになっていた。
大陸諸王国が、相互の通商更に繁くあらんとして、共に手を携えて働くことができた平和な時代の、それは名残の大事業。街道の敷設の技術は、ドワーフの協力の許に各国に提供され、街路樹として植えられた様々な果樹は、エルフの手によりその祝福の許に植えられた。それがため、基礎工事の部分は未だに崩れもみせずに堅牢であるし、街路に沿って植えられた様々な果樹は、季節を問わず旅人の飢えと渇きを救い、この偉大なる街道をゆく者達の旅路を確かなものとして今に至る。
この偉業を提唱し、各国間の折衝を進めた賢王の名は今も世に伝わるが、その王を輩出した国の血はもう、絶えて久しい。流れ、もしくは降り積もり、そして重ねた星霜に、様々なものが虚しくなってゆく。だが、この街道のような真なる偉業を為した王の名は、名のみとはいえ確かに数紀を経た後も語り継がれて今に至る…。
その偉業たる街道は、東の方より伸び来たり、西へと向かう。
当時、昼夜を問わず施工にあたる人夫達のため、灯火の絶えることなく工事は突貫で進められたという。まるで、東より太陽に先がけて暁の至る…。そう思われ言祝がれたことが、この街道の暁と称される所以だった。
その道をゆく旅人達の中に、一騎の騎影があった。
春もまだ浅い暁の街道をゆくのは一人の騎士。白い鎧を革製の丈夫なマントで覆い、丈高い黒鹿毛の軍馬の背に揺られつつ、山がちな街道を一人ゆく。鎧を纏った騎士の身を背にしつつも、軍馬はその歩みに乱れも疲れの気配も見せてない。鍛えられた、それこそ、その馬体の重さと等量の金にも代え難い軍馬である、ということが、見る者には即座にわかる。そういう馬であった。
騎士もまた、愛馬を労わりつつ、決して道を急がせることはない。ゆったりと風を愛でるように瞳を細め、風の来し方から行く末までへと、まるで想いと共に瞳馳せる様に見やっていた。
その風貌はまだ、若い。
金色の髪を風になぶらせ、空の蒼のような澄んだ瞳を細めて、己が髪をなぶった風のゆく末を、穏やかとも長閑ともとれる眼差しで見詰めている。それでいて、鞍上にて揺られるに任せているようなゆったりとした居住まいに隙がない。
それは一流の戦士の佇まいだ。
一朝いかなる変事のある時も、瞬息の対応にて戦いへと臨む。
それでいて、肩肘を張らず、無駄な力の入った気配は一切ない。見る者が見れば、それだけで手練と伺える若い騎士の備えはむしろ、世に言われる“騎士”の佇まいにはどこか遠い。
封建国家の基礎を成す地方領主こそが騎士であり、この大陸のほとんどの国において、騎士とは少なくとも村ひとつ程度の封土を所有している者を指す。それは、子々孫々まで伝えられる領土であり、村の自衛のための軍備を私有することも認められている。つまりは、騎士は“領主様”であり、身分の低い騎士ほど、領主面をしたがるものだった。大仰に威を張り、肩肘を張り、居丈高に振舞おうとする…。それは、大陸の東西いずれでもあまり変わることがない。
が、この若い騎士は違う。違った。
融通無碍。
空虚な威など張ることもない。
それは、立ち居振る舞いとして己を律しているというよりも、底にもっと実利的なものを秘めている振る舞いだった。どんな予期せぬ変事に突如見舞われたとて、積み上げてきた修練と業とを発揮できる、それは一流の戦士の佇まいに他ならぬ。
若くして、その振る舞いに至る手腕を如何に身につけたものだろうと、もし彼を見やる者の中に、手練の武芸者がいたならば思いを巡らせたかもしれぬが、ここは辺境の街道筋だ。まだ冷たさを硬さとして裡に秘めて吹く風と、厳しさが抜けきらぬ陽光ばかりが、その若い騎士を見守っていた。
ゆったりと歩ませられることに、むしろ思い切り走りたいと不満気に逸って乗り手たる騎士を急かすかに見える悍馬のたてがみを撫で、宥める様子も泰然としたものだった。そんな騎士を、既に何人かの旅人が会釈と共に追い越していた。
早朝である。
暁闇の薄紫が次第に消えゆき、騎士の瞳のような蒼が頭上に広がりかけていた。
早発ちの旅人達の姿も決して少なくはない。若い騎士や旅人達が後にしてきた宿場の町から先に向けて、この街道は難所とまでは言わぬものの、それなりに厳しい峠を控えた道となる。魔物の襲来も決して珍しいことではない。また、山道らしく天候が前触れもなく変わる事もある。自ずと人々は、陽のあるうちに峠を越さんと特に早発ちを多くする。そういう場所だった。
そういった道の途次にあって、騎士は景色へと馳せていた瞳をゆるりと前方へと向けた。
騎士が馬をうたせゆく遥か前。そこに騎士が、変事出来の気配を読み取っていたが故だ。
幾人かの旅人が息も絶え絶え、という風情で峠道を走り下りきたり、山道を上りゆく旅人達がその行く足を停めている。とうに登りにさしかかった道は、自然と旅人の行く足を遅くなさせる。そういう場所だった。決して道幅の狭くない街道が、足を停めた人々によって混み始める気配がそこにある。騎士が愛馬と共に至ったのは、まさにそうして人々が、躊躇いに歩を停めてしまった頃合だった。
不安げなざわめきを交わす旅人の中、騎士の姿を認めたそのうちの一人が、意を決したように若い騎士へ走り寄り、告げた。息が上がって汗に濡れているのは、その男が今まさに峠を逃げるように駆け下ってきた者達のうちの一人であるからだ。
男は言う。この先、峠の手前にて。手負いらしい一頭のグリフォンが、ちょうど峠を越さんとしていたキャラバンに襲いかかったのだ、と。隊商の一行はこの男を含めてなんとか逃げたが、騒ぎに子供が巻き込まれた。
旅人達にとっては、人数を備え、時には護衛も雇って道中の保全を心がける規模の大きな隊商というのはありがたい存在だ。隊商と足並みを揃えて旅をすれば、それだけ夜盗や強盗の類、野生の獣や魔獣に襲われる危険を少なくできる。
騒ぎに巻き込まれたという子供もまた、母一人子一人での二人連れの親子であったという。
グリフォンの襲撃に、雇った筈の護衛もろくな抵抗もできずに、ただただ荷を放り出して逃げるのが精一杯。そういう混乱の最中、母と子とがはぐれたとてそれは、是非もないことであったろう。
子の姿を求めて叫びを上げる母をのぞいて、混乱の中に誰にも省みられなかったその子供が、狂奔するグリフォンの爪にかかりそうになった時。どこからともなく現れた小柄な冒険者が、危険を顧みずその子供を助けたという。
助けられた子供と母親は、峠のこちらには下りてきていない。
そして…その冒険者はまだ、手負いのグリフォンと闘っているはずだ、と…。
「…承知」
短く、騎士は告げると、愛馬の首を優しく叩く。それだけで、悍馬は主の意を酌んだ。いななき、道を開けろとでもいうように、嬉々として逸る気配を隠しもしない。
「…間に合えよ!」
口許を吹き抜ける風を衝き、騎士の口許からその一言が零れ落ちた。それを合図に悍馬は、鎧を纏った騎士を背に、登り道すらものともせずに、旅人達の空けた道を疾駆する。
春まだ浅い峠道を、登攀路であることすら苦にもせずに疾駆する騎影。それを、気遣わしげないくつもの視線が見送っていた。
暁闇は今や、晴れ晴れとした蒼へと変じゆく。その蒼空の下に今、人馬は一体となって緩やかにであるが確かに勾配を増してゆく峠道を馳せ登りゆく…。