001-マキちゃんと虫けらの末路
この話は、以下の作品のネタバレを含みます。
江戸川乱歩 著『芋虫』
フランツ・カフカ 著『変身』
江戸川乱歩著の『芋虫』を読み終えた。
戦争で両手両足を失った元軍人の男は、妻に両目を潰され、それでも妻を許し、芋虫のように這い井戸へ身投げをしてしまった。
そんな話だった。
僕は、妻の加虐性にほんのりと同調しつつ、それと同時に深い嫌悪感を覚えた。
その後、フランツ・カフカ著の『変身』に手を出したのは、芋虫のような体躯になってしまった男の末路に、身に覚えのない罪悪感を抱き、いたたまれなくなってしまったせいなのかもしれない。
図書室で借りたそれを、藍色のランドセルにしまう。ランドセルの中は、教科書とノートと資料集と本とでピッタリとおさまった。
ランドセルの蓋を金具でしっかりと締めて背負うと、背中にフィットする重みで背筋が伸びた。
小学校の校門を出てからは、ランドセルを背負った子供達が少しずつ各々の帰り道へ消え、まばらになっていく。
僕の家族は先祖代々地元民なため、みんなの住む集合住宅地や公務員住宅地とは少し離れた位置に家があった。そのため、集団登校の時期が終わると、登下校はいつも1人だった。
「マキー、一緒に帰ろーぜー!」
竹林で陰ったアスファルトの道を歩いていると、後ろからミキの声がした。
振り返ると、健康的に日焼けした人懐っこい笑顔のミキが走り寄ってくるところだった。ワンテンポ遅れて、ランドセルの金具部分がガチャガチャと音を立てる。
ミキのランドセルの蓋がしっかり締まっているところを、僕は今まで1度も見たことがなかった。
「あれっ、練習は大丈夫なの?サッカーの試合近いんじゃなかったっけ?」
「今日は自主練だから、早めに切り上げてきた。ってかマキは帰るのちょっと遅くない?今日、うさぎの餌やり当番じゃないだろ?」
「図書室で本読んでた」
「あー、なるほどね」
ミキは僕と同じ地元民で、帰る方向が同じの数少ない友人だった。
納得したような返事をしたミキの横顔を見て、まつげ長いなぁ、なんてどうでもいいことを思った。黒髪の短髪が日に当たり、少し茶色がかって見えた。
「今、何読んでんの?」
「フランツ・カフカの『変身』っていう話」
「うへー、なんか難しそう。どんな話なの?」
「両親と妹を養うために仕事をしていた男が、朝起きると毒虫になっていた、っていう話。仕事場に顔を出さない男を不審に思った会社の支配人や両親が男の部屋まで来るんだけど、毒虫の姿にみんなが驚くんだ。毒虫はみんなから距離を置かれて、今は妹が毒虫になった男の世話をしてる。
…っていうところまで読んだんだけど、この先、どんな話の展開になると思う?」
「そうだなぁ、毒虫がそのまま蛹になって羽化して蝶々になるとか?」
「それ、僕も考えた!それから?」
マキの表情がわずかに柔和したのを、ミキは見逃さなかった。
マキはあまり笑わない。
幼なじみのミキですら、マキの笑顔をほとんど見たことがなかった。それでも、色白で黒目がちな瞳が輝きを帯び、その薄い唇から弾んだような声が出るたびに、ミキは自分しか知らないマキを引き出したようで少しだけ優越感に浸った。
「そうだなー。《羽化した蝶々はヒラヒラと窓の外へ飛んでいきましたとさ、おしまい》って感じ?マキはそれからどうなると思った?」
「《…はっと目が覚めると、これはしたり、グレゴール・ザムザではないか。ところで、グレゴールである私が夢の中で蝶々となったのか、自分は実は蝶々であって、いま夢を見てグレゴールとなっているのか、いずれが本当か私にはわからない…》あっ、グレゴール・ザムザって毒虫になっちゃった男の名前ね」
「それ、荘子の『胡蝶の夢』じゃん。国語の資料集に載ってたやつ」
「知ってたかー。さすが、国語の予習バッチリじゃん」
「たまたまだよ。あっ、話戻るけど、そのグレゴールっていう主人公が毒虫になったのを皮切りに、周りの奴らも毒虫になっていって、いい奴は蝶々に、悪い奴は蛾になる展開とかどう?」
「小説っぽい展開、面白い」
その後も、小説の話の続き予想で盛り上がったり、学校の話をとりとめもなく話したりしながら、二人は帰り道の分岐点で別れたのだった。
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帰宅したマキは、学校の宿題に夕飯に入浴と帰宅後のルーティンワークを早々に済ませ、いそいそとベッドへ入り、本を開いた。
『変身』の続きが読みたくてウズウズしていたのだ。
話の続きが気になっていたのもあるが、明日ミキと話の結末について話をしたかったのもあった。
しかし、本を読み終えてからは、ふんわりと身を包んでいた高揚感が落ち着いてしまった。
毒虫となった男は毒虫のまま死に、男の家族は毒虫の死をきっかけに結束力を高め、希望に満ち満ちたところで話が終わったからだった。
「歪んだハッピーエンドだったなぁ…。」
芋虫といい、毒虫といい、ロクな死に方をしない。
小学生の僕は、もう少し未来の明るい作品を摂取した方が身体と心にいいのではないのだろうか、と子供ながらに思ってみたりする。
小説という現実逃避から現実逃避めいた考えを巡らせつつ、マキはベッドの横にある卓上ランプの明かりを消した。
最後まで読んでくれてありがとうございました。