4話
「先輩、一服、ご一緒していいすか?」
ああとかうんとか、とにかくあたしが返事をする前に、苑子は勝手に隣に座り、煙草に火を点ける。
あたしがこっちのデザイン会社に就職して、もう四年目の冬だ。苑子とは同期だけど、とある一件以来彼女はあたしのことを先輩と呼ぶようになった。
「ねえ、先輩って呼ぶのいい加減、やめない? 何回も言ってるけど」
「いやいやいや、人生の先輩じゃないすか。何言ってるんすか」
「たった二ヶ月じゃん」
「二ヶ月でも! つか、あんなことがあって、もう私は先輩に惚れたんっすよ!」
ああ、何だろう、悪い娘じゃないんだけどなあ。でもこのノリはちょっと体が受け付けない。
そもそも苑子の言うあんなことだって、別に大したことじゃない。
三年程前のことだ、他所の編プロとの合同プレゼンに臨んだあたしと苑子は、見事に仕事を勝ち取った。苑子はデザインを、あたしはキャッチコピーを担当した。
プレゼンが終わってから、二人で喫煙室に寄って、良かったね、頑張ったね、とお互いを褒めていたとき、他社のプレゼン参加者がいちゃもんをつけて来たから言い返した、それだけの話。
あたしはまだコクブくんと別れたショックを引きずっていて、丁度良い発散相手が欲しかっただけかもしれないけど。
「今でもめちゃくちゃ覚えてますよ!『どうせ色目でも使ったんだろう』とか見当違いのこと言ってきたあいつに、先輩がしてやったこと! 私、めちゃくちゃ嬉しかったんですから!」
……頼むから思い出させないでくれ、なんて言ってもわかんないんだろうなあ、この娘は。
あたしはただ、文句を言ってきた相手の顔に思いっ切り煙を吹き掛けて、
「てめえがちゃんと準備してこなかっただけの話だろ、自分の仕事が出来ない言い訳をあたしらのせいにするんじゃねえよ」
なんて言っちまったんだ。向こうもそれで部屋から出て行けばいいものを、「大体そんな髪の色してる女がまともに仕事なんか出来るわけねえだろ!」とか言い返してきたから、つい……ぷっつん、しちゃったんだよな。
だってそいつは、あたしの髪を傷付けた。
コクブくんが褒めてくれた、綺麗だねって言ってくれた、あたしの髪を。ばーさんの金色を。
「……だからさ、あたしの髪の色とあんたが無能なのは関係ねえだろ? そもそもお前、ちゃんと下調べしたのかよ。この会社はどういう傾向の企画を好むとか、調べりゃわかることを疎かにしてすることは負けた相手へのいちゃもんかよ! あたしらはこの仕事に命懸けた、あんたはどうなんだ!?」
ここまで言われてやっと、そいつは部屋から去っていった。
……後味が悪い。わかってる、どんなに八つ当たりしたってそれでコクブくんは戻ってくるわけじゃないって。
その日の夜は祝勝会も兼ねて酒に溺れた。社会人になってからあそこまで飲んだのは初めてで、あんなに吐いたのも、あんなに泣いたのも、初めてだった。
「あの日から、私は決めたんです! この人についていこうって!」
体育会系の人ってみんなこうなのかなあ。あたし、ちゃんと説明したんだけどな。苑子の為っていうより、自分の為に言い返したんだって。
「そこがまたカッコイイんじゃないっすか!」
溜息を吐くあたしに、元気良く答える苑子。ねえ、溜息見えてるよね? 煙草で濁ってるの、あたしにしか見えない?
あの件についての話はいつだって堂々巡りになるので、話題を変えることにした。
「……苑子、カッコイイって言うんだね、そういうとき」
「へ? 別に普通じゃないっすか?」
「良いと思うよ、それ。あたしは好き」
なんで褒められたのかわからず、首を傾げながらもはにかんでみせる。
こういう反応は素直なんだよなあ。
ほんとに、まったく。
いつの間にか懐いてるところとか、しかもそのきっかけが煙草とか。今みたいに素直なところとか……ばーさんみたいな言葉を遣うところ、とか。
まるで、コクブくんみたい。
それに、結局あたしは救われてるんだ。
会社に入った頃なんか最悪で、全然仕事に身が入らなかった。ただ、それでも、コクブくんのことを考えない為には仕事に打ち込むしかなくて、だから休み時間も関係なく仕事しかしてこなかった。付き合いが極端に悪いくせに、仕事は出来るあたしは端的に言って嫌われ者だった。
「みんな、嫌ってなんかなかったっすよ。ただ、ちょっと話しにくかったのは、その、事実ですけど……でも、みんな先輩と話したかったんです!」
ありがとう。そう言葉を込めて、雑に頭を撫でる。
あたしには、コクブくんみたいに優しくは出来ないけど。でもこれが、あたしなりの優しさなんだ。
そう。結局あたしは、苑子があれから声を掛けてくれなかったら一人なんだ。
一人は、嫌だ。
だって一人は、こんなにも怖くて、こんなにも寂しい。
今、撫でられながら嬉しそうにしている苑子は本当に犬みたいで、きっと尻尾があったらぶんぶん振り回してるんだろうなんて思う。
でも、まるで捨て犬だったのはあたしで拾ってくれたのは苑子なんだよ。
どっちが飼い主で飼い犬なのかわかんない曖昧な関係。それがあたしたちの距離で、
あたしとコクブくんの、距離だった。
その電話は突然だった。
三年前にプレゼンで勝ち取った企画、それは街のラーメン屋さんを紹介する特集だったのだけれど、そこで取材したお店の知人が今度、新たに支店を出すらしい。
あのときの仕事ぶりを評価してくれて、是非うちで、お店に常備するパンフレット作ってあげてくれないかって話で。
あたしもそうだけど、苑子の喜びっぷりといったらもう、笑ってしまうくらいにすごかった。あのときいちゃもんをつけてきた野郎の会社名を叫びながら、
「ざまあみろーっ! 私たちは命懸けてやってんすよ、これがその証っす! ね、先輩!」
なんてはしゃぎまくっている。はしたないから、片足を椅子に上げるのはやめろって。
ただ、言ってることには同感だった。やっぱり頑張った仕事で認められたのは嬉しいし、何より、女を武器にしてないことを示せたと思うから。
そのラーメン屋のご主人の知り合いというのは定食屋を営んでいるらしい。女性でも入りやすくて、どんな客層にも受け入れられるお店を目指しているから、そこを重点的にアピールしてほしいという話だった。
こういう、あからさまに女を武器にするんじゃなくて、女性目線って特性を活かした仕事ならどんと来いだ。まあ、あたしも苑子もスモーカーだし、女の子っぽい女の子とは言い難いけどさ。でもこんな仕事なら、女の目線でモノを見ることには慣れている。
普段の要領でアポを取って、当日の流れを組む。もう緊張して電話で噛むこともなくなったし、四年という月日は確かにあたしを成長させた。
そして、当日。
昨日まで降っていた雨が嘘のように、空は抜けるようにどこまでも広がっていた。ああ、こんな日はきっと夕焼けも綺麗だ。早く取材を終わらせて会社に帰らないと。
夕日を見て思い出すのはもう、一人ではないから。
お店に着いて開口一番、ご主人が狼狽えるでもなく言った一言に、けれどあたしたちは狼狽えた。
「悪いねえ、今日相手してもらう予定だった奴が風邪引いて休みやがってさ、つっても俺が付きっきりってわけにもいかねえから、代わりっつったらあれだけど、代理を用意しといたから」
あたしの後ろで「体調管理くらい、社会人の常識っすよ」と愚痴る苑子を、「代わりがいるってんだから文句言わないの」と宥める。もうすっかり姉貴面、いや先輩面か、板に付いてきたなあ、あたし。
そんなことを思っていたら、奥から人が出てきた。「遅くなってすいません!」って謝る声と一緒に、何かを引っ掛けた音がする。おっちょこちょいなんだな、とか思って待ってたら、
次の瞬間、あたしの頭はショートした。ボンッて音がもしかしたら苑子には聞こえたかもしれない。
奥から出てきた青年が、
「おせーぞ国分! 油売ってんな!」
あたしを置いて出て行った、コクブくんその人だったから。
ウソ、なんで。
だってあんたは、実家を継ぎに帰ったから、こんなとこにいちゃいけないのに。ていうか、こっちにいるんならなんで連絡の一つもくれないの、ウソ、なんで、どうして。
固まるあたしの目の前で、コクブくんも固まっていた。
混乱しながらも、同じことを考えているのがわかる。なんでって顔に書いてある。
「なんだねーちゃん、もしかして国分と知り合いか? だったら話は早ぇな! じゃあ国分、任せたからな!」
そう豪快に笑ってご主人は厨房に戻っていった。
……どうしよ、沈黙が気まずい。
何か言わなきゃいけないのに、そう思うほど言葉が出てこない。何かを言いかけては口をつぐんでしまう。それはコクブくんも同じで、時間だけが経っていく。
そんな状況を救ってくれたのは苑子だった。
「国分さん、でしたっけ? どうも初めまして。今日はこのお店の取材ということで伺ったんですけど、いくつかお話、聞かせて頂いても宜しいでしょうか。……何やら積もる話もあるようなので、それはまた後ほど、取材の後にでも」
「あ、はい、それでお願いします」
普段とは見違えるようにテキパキと、段取りを進めていく。その間に、あたしにだけわかるように笑いやがった。この顔は、良いパス出しましたよ先輩! の顔だ。
……ちくしょう、貸し一だな。今度、飯でも奢ってやらないと。
苑子の機転のおかげで、取材は滞りなく終わった。
その帰り、苑子が「先輩は直帰でいいっすよ!」と言ってきた。話、付けてこいってことだなこれは。これ以上甘えると飯だけじゃ済みそうにないけど、もういっか。飲みでもカラオケでも、フルコースで奢ってやるよ。
さあコクブくん覚悟を決めな。あたしも腹、括るからサ。
あたしたちは、遅くまで開いてる駅前の喫茶店で待ち合わせた。彼の仕事が終わるのを待つ間は何も手に付かなくて、これは直帰にしてもらって正解だったなと思う。
彼を待つ間に、煙草だけがどんどん減っていく。そろそろ本数減らさなきゃって思ってんのに、どんどん短くなっていく煙草を見てるのは心が痛んだ。
縋ってたんだ。
煙草がきっかけだったから。
やめてしまえばもう、彼との繋がりが消えてしまう気がして、だからあたしはやめられなかった。
……やだな、こんなに女々しいの。結局一人が怖いあたしは、こぼれ落ちたはずの温もりを拾おうとすることで、なんとか平静を保ってた。いつまで経っても「あたしが」「あたしが」ばっかりで、本当は全然、成長なんてしちゃいなかった。
いつもそう、コクブくんのことを考えると時間は止まって、あたしはあたししか見えなくなる。その証拠に――コクブくんが店内に入ってきたことにも、全然、気付かなかった。
「銘柄、変わってないんですね」
声に振り向くと、顔に遅くなってごめんなさいと貼り付けたコクブくんが立っていた。
――ああ、コクブくんだ。
あれから何度も、何度も何度も夢に見た、すっとぼけててバカ正直で素直で人を疑うことを知らなくて、誰より優しい、コクブくんがいる。
「……遅い」
「ごめんなさい」
謝りながら、あたしの正面に腰掛ける。どこまでも素直なのは変わってなくて、あたしは涙が出そうになった。
だって、どんなに願っても届かなかった四年という距離が、手を伸ばせば触れられる距離になったんだ。