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3話


 それからあたしたちは、いつだって一緒にいた。


 お互いの家の合鍵を作って、コクブくんを一人で待つ時間も楽しかった。勝手知ったるお前ん家の勝手(台所)――なんて言葉を昔、何かの漫画で読んだけど、冷蔵庫の残り物でご飯を作ったりするのも、あたしにだけ許された特権だと思うとわくわくした。


 クリスマスとかそういう記念日も、少し前のあたしなら馬鹿にしていたけど、二人で二人の為にいい思い出を作るって作業はこの上なく楽しくて。

 二人ともお金を持ってるわけじゃないから、贅沢なんてできないけど二人でいればどんなときも、どんな瞬間も、世界はキラキラして見えた。


 コクブくんと付き合い出してから、やさぐれてたときの友達とはすっかり疎遠になったんだけど、あたしの楽しそうにしている顔を見たら何も言えないって言われちゃったよ。


 そんなに楽しそうなんだ。でも、うん、悪くない。

 だって、たぶん。

 今なら世界中の人に自慢できる。コクブくんと出会えて良かったって。あたしは今、こんなに幸せなんだぞって。


 本当に、何度感謝しても足りない。恥ずかしくてまだ直接言えないけど、


 あたしと出会ってくれてありがとう、コクブくん。




 コクブくんと出会ってから、二年が過ぎた。


 もちろん今でも、何て言うのかな、互いにラブラブで依存するだけ、みたいな関係じゃなくて、心から必要としてる関係でいられてる。あたしにはなくてはならない人なんだ。


 最初は実家から逃げる為に選んだこの大学も、気が付けば四回生になって、就活に追われてる日々。この不況の中、運良く地元企業に内定は取れたんだけど、本音を言うとあたしはここで就職したい。少しでも離れ離れになんか、なりたくない。


 ……もしかしたら、ばーさんと重ねてるかもしれないってのは、わかってる。でも、それだけじゃないんだ。


 一度離れたら二度と会えないかもしれない、それだけじゃなくて、もっと前向きな理由で、二人の将来の為に傍にいたいんだ。

 他人が聞いたら呆れるかも知れないけど、でも。それは本当なんだ。


 その日も、面接が終わって家に帰ると、コクブくんが晩御飯の支度をして待っていてくれた。


 彼の作る料理には、彼の性格が出ていて、とても素朴な味付けで美味しい。たぶんあたしが作るより。女としてはちょっと悔しかったりもする。けどいつか、とびきり上手になってぎゃふんと言わせてやるんだ。


「お帰りなさい!」


 帰りを待ってくれる人がいるって、それだけでこんなに温かくなる。それが彼だということが、さらに嬉しくさせる。


「ただいま! ご飯、ありがと」


 上着を脱いだタイミングでお茶を煎れてくれる。何も言わなくても、それはお疲れ様の言葉と同じように自然に出てきて、こんな呼吸がとても愛おしい。コクブくんは誰より優しくて、誰よりあたしを笑顔にしてくれる。


 彼の作ってくれた料理を食べ終えて、二人揃って後片付け。彼が食器を洗って、あたしはそれを拭く。や、あたしだって洗うくらいできるんだけど、疲れてるからってさせてくれないんだ。あんまり楽を覚えさせると、あたしどんどんヤな奴になっちゃうよ、なんて言っても代わってくれなくて、あまつさえ、そんなあたしに惚れたとか平気な顔して()かすんだこの男は。


 なんだかなあ、こんなに可愛がられてご飯まで作ってくれて、まるであたしの方が犬になったみたいだ。ちょっと面白くない。


 ご飯が終わると、二人でずっと話をする。それは他愛のない話ばっかりだけど、この時間が一番安らげる。とてもゆったりとした時間が流れて、丁度良いお湯加減のお風呂に浸かってるみたいで、ずっとこのままでいたいって心から思うんだ。


 そうして、すっかり暗くなってから、コクブくんが家まで送ってくれるのが、いつものパターン。

 けれどこの日は違った。帰り支度を始めたあたしの後ろ姿に、コクブくんが消えそうな声で呟いたんだ。


 帰らないで。


 こんなことは初めてで。や、そりゃあ今までだって、帰ろうとするあたしを引き止めたことは何度もあったけど、こんな、すぐそこにいるはずの彼が目を離すと消えてしまうような、弱々しい止め方は初めてで。


 あたしはとても不安になった。


 だって、一緒にいたいと思って、こっちで就職口を探してるのはあたしで、それが叶わなかったらいなくなるのはあたしなのに。それにもしそうなったって別れるわけじゃないのに、なんで、なんで彼が消えそうに思えるの。


 その日あたしは帰らなかった。


 大学も四回生になれば、一限から講義に出ないといけないなんて日はそうそうないし、何よりこのままコクブくんを一人には出来なかった。


 その夜は、泊まったときはいつもそうするように、一つの布団に二人で潜った。

 ただいつもと違うのは、あたしがコクブくんを、後ろから抱きしめるように寝たことだけ。普段なら彼に包まれてあたしが眠るのだけど、今日は……今だけは。


 美味しいご飯も作ってあげられない、美味しいお茶も煎れてあげられない、満足に何もしてあげられないあたしに、出来ることは、それしかなかった。


 結局その夜は、一睡も出来なかった。


 朝、腕の中で規則的な寝息を立てていたコクブくんが静かに目覚めた。


「おはよ」

「おはようございます……ずっと、こうしててくれたんですね」


 辛くなかったですか? と顔を窺うコクブくん。大丈夫だよ、とあたし。うん、大丈夫。ちゃんと笑えてるはず。

 だから、ねえ、笑ってよ。

 笑ってるときの顔が、目尻に出来る皴を見るのが、一番好きなの知ってるくせに。


 いつものように、朝食の準備をしてほしかった。その間に、乱れた布団を畳みたかった。

 でもコクブくんはそうせずに、


「もうちょっと、そのままにしてもらって、いいですか」


 なんて呟くから、あたしは、この腕を離せない。

 ……ずるいよ、コクブくんのくせに。そんな声出されたら、あたしは、何も言えないじゃない。ずるいとか意地悪なのは、あたしの役目なのに。


「……僕、大学、辞めます」


 唐突なその告白は、眠ってないあたしの目を覚ますのには充分だった。


「親父が、怪我、したんです。別に命に別状とか、そんなことは全然ないんですけど……店、閉めたくないんです」


 何度か聞いたことがある。彼の実家は小料理屋を営んでいて、夫婦二人で切り盛りしていると。

 おしどり夫婦として有名なそのお店には常連さんも多く、たくさんの人の憩いの場になっていると。

 この話を聞いたときは、ああ彼の人柄はそこからきているんだなんて思うだけだったけど、まさか、そんなことになっていたなんて。


「お父さんのお店を継ぐってこと?」

「……小さい頃からずっと、両親を見てきました。大人になったらこのお店を継ぐんだってずっと思ってました。将来、そのときの為に、大学では経営学を学ぼうと思ってました。……今回の件は、それが少し早くなっただけだって、むしろ、やってやろう、くらいにも思ったんです」


 辛そうな声で語るそれは、たぶん本心なんだろう。コクブくんはこんなとき、嘘が()ける性格じゃない。そんなこと、誰よりも知ってる。

 ……そう、誰より知ってるんだ!


「でも、いきなりそんな世界に飛び込んで、通用するものじゃないでしょ!?」


 考え、甘いんじゃないの。


 言ったらダメだ、絶対口にしちゃいけない言葉だ、でも、でも!

 言わずにはいられなかった。だって、ここで止めないと、コクブくんは見えないところに行ってしまう。

 一度酷いことを言ってしまうと、関を切ったように言葉は止まらなかった。


「甘いよ、全然甘い! 何にも考えなしで、理想ばっかり口にして……最初からそうだった、いきなり初対面で一目惚れとか馬鹿じゃないのって思った、付き合ってからもそうで、一見あたしのこと何でもわかってるような優しいだけの言葉ばっかり選んで、でも本当はあたしの不安とか全然置いてけぼりで!」


 ほんとはちゃんとわかってた、いつもいつもあたしのこと一番に考えてくれて、自分なんかそっちのけで、全然優しくないあたしはコクブくんに釣り合ってないんじゃないかって、あたしの不安はいつも「あたしが」「あたしが」ばっかりで、


「行かないでよ……!」


 もう涙で背中も見えなかった。手は震えて、コクブくんの温もりもわからなかった。ただ、ひどく自分勝手な駄々を捏ねている自分を、冷静に見ている遠い自分だけがいた。


 この感覚は体が知ってる。こんなときに捏ねる駄々は、総じて叶わないって事実を。


「……僕、これでも、メニューの半分くらいは作れるんですよ。それに、最初は母さんが頑張ってくれるし、常連さんだってみんな優しいから大丈夫です」


 腕の中の動きで振り向いたのがわかった。コクブくんは今、困ったように、でも一番優しい顔で笑ってる。見なくてもわかるのに。そして頭に乗せた手は、まるで小さい子供をあやすように優しく撫でる。あたしの気持ちが高ぶると、いつだってコクブくんはこうするんだ。


「だから、大丈夫なんです」


 ああ、あたしがいなくても大丈夫だと、彼はそう言ってるんだ。

 そんなの嘘だってバレバレなのに。じゃなかったら、あたしを撫でる掌が、こんなに震えたりしないのに。


 それでも、いや、だからあたしは知ってるんだ。

 コクブくんが覚悟を決めて()いた嘘は、決して覆らないことを。


「今日これから学生課に行って、話、してきます。退学届、月末に処理されるみたいなんで……あと、もう少しですね」


 今日は、十一月の最後の週の最初の日。あたしたちに残された時間は、あと一週間。

 二人で過ごす七日間はすごく短く感じたのに、一人で過ごさなければいけないそのあとの日々を考えただけで、その時間はとてもとても、長く感じた。


 行ってきますと一言残して出て行くコクブくんを追う気力は、あたしにはもう、残っていなかった。




 コクブくんが大学を去ってから二日後、ポストに一通の封筒が来た。


「……ほんと、ヤんなっちゃうなあ」


 どんな皮肉だよ、これ。

 それはあたしが欲しくてたまらなかった、この地での内定の通知。


 あたしはまた、この人となら大丈夫という勝手な思い込みで、大切な居場所を失った。



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