アダム
男はこめかみから血を流している。弾はかすめただけだったようだ。
総介は銃で、男は鋭い視線でお互いを牽制した。
「うう……」
先に呻き声を漏らしたのは総介だった。拮抗状態になった時は、わずかでも気迫で負けた方に隙が生じる。
男は、総介が気後れした刹那を突いて突進した。
「くそがっ!」
総介は発砲した。ガアンと室内の空気を割る銃声は、撃った本人にさえ緊張を強いる。
今度はきちんと狙ったはずなのに、吐き出された弾丸が穿ったのは薄汚れた壁だった。
男はそのまま突っ込んできたが、目標は総介や少女ではなく窓だった。
向かってくると身構えていた総介は、虚を突かれて撃つこともできなかった。
男はすでに割れていたガラスを突き破り、外に飛び出した。一瞬の出来事で、目で追うのが精一杯だった。
「きゃあああっ!」
再び少女が悲鳴を上げた。だが、総介は一顧だにしなかった。窓から半身を乗り出し、様子を伺った。銃は構えたままだ。
男は地面に四つん這いになっていた。三階から落下したのにケガ一つしていない。
男は研いだばかりの刃物より鋭い眼を総介に向けた。蒼い月明かりに晒され浮かぶ男の姿は、伝説上の怪物を彷彿とさせた。
「もおっ! なんなのよっ」
床に転がっていた少女は、ようやく縄を解いて立ち上がった。総介が動かないでいるので怪訝に思った。
「……どうしたの?」
恐る恐る窓から首だけを出した。その途端……ゾワッと背中の肌が逆立った。男の双眸に射抜かれ、戦慄で頭の芯まで痺れた。
「ウソ……なんで生きてるの?」
先程は「死んだの?」と問うたクチから、今度は「なんで生きてるの?」という疑問が漏れ出た。
口を手を当て、思わず一歩下がってしまう。
男はもう一度総介に一瞥投げると、駆け出して闇の中に溶けていった。
「………………」
総介は通路まで戻り、殴り倒した男の状態を確認した。さっきまではなかった血溜まりが広がっており、絨毯にたっぷりと染み込んでいた。脈を取るまでもなく、倒れている男はすでに物言わぬ骸と化していた。
「打ちどころが悪かったか……?」
総介は少女にしたように手首を調べて、唖然とした。
コードがなかった。病気かと思うくらいに青白かったが、皮膚をいじった形跡はない。
「馬鹿な……」
すぐには受け入れられなかった。先程、総介を持ち上げた怪力からしてただの人間であるとは思えない。思えないが……。
「ねえ……」
背後からの控えめな呼び掛けに、総介の思考は中断された。
「そっちの人は……死んでるのよね」
「ああ……」
「あの人は、窓から飛び降りた人はなんで平気なの?」
「俺が殴り飛ばさなかったからかな」
「ふざけないでっ! ここは三階なのよ? 運がよくたって捻挫か骨折くらいはしてなきゃおかしいわ」
総介は答えず、立ち上がって少女を見つめた。相手が不快に思うほど食い入る目で。
「な、なによ?」
少女はたじろいだが、総介の手から出血しているのを見て慌てた。
「たいへんっ。ケガしてるじゃない。大丈夫?」
言われて初めて気がついた。見てみると、親指の付け根が切れており、血はそこから流れ出していた。
「ちょっと見せて……」
少女は総介の手を取ろうとした。
「触るなっ」
総介のいきなりの怒号に少女は固まった。
「……手当した方がいいと思って。怒鳴ることないじゃない」
「ちょっと切っただけだ」
総介はバツが悪そうに言った。二人きりの空間に重たい空気が充満していく。
「……飛び降りた男が無傷だったのな」
「え?」
「不思議でもなんでもない。奴はアダムだ」
アダム。伝承によると創造主によって創られた最初の人間である。それをもじって、かつて生産された人造人間にその名を冠した。以来、アダムは人造人間を指す名詞となった。
「ウソ……。だって……」
「アダムは人を襲わないか? そんな昔話を信じているのか?」
「………………」
総介の発言は衝撃的だったようで、少女は押し黙ってしまった。しかし、その目は明らかに反論を模索していた。たしかにすんなり受け入れられる内容ではないし、信じたくない気持ちも総介には理解できた。
「行くぞ。いつまでもここに留まるのはまずい」
「え?」
「普通、奴らは人を襲う時は単独で行動する。仕留めた獲物を独り占めしたいからだ。独占できなければ、最低でも二人以上襲わなくてはならないが、その分リスクも大きくなる」
「なに? なにを言ってるの?」
「しかし、こいつらは組んで行動していた。しかも……」
総介の説明は訳がわからず、少女を不安にさせた。それだけに、話が途中で途切れたことが余計に気持ち悪かった。
「まだ仲間がいるかも知れないってことだ。行くぞ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
足早に立ち去る総介の後を、少女は慌てて追い掛けようとし、一度室内を見渡した。先程までの騒動が夢だったかのように静寂としている。しかし、紛うことなき現実であったことは、室内の荒れ方と、足元の死体が語っている。
ガラスが破れた窓から蒼い月光が射し込んでいた。月明かりを反射する鋭いガラスは、猛獣の牙のように見えた。
まるで敵陣に乗り込むような渋顔の総介についていくには、気を張る必要があった。
「私は彩羽優。今さらだけど、助けてくれてありがとう」
「…………」
総介はなにも答えなかった。
優は気分を害した。礼を言ったのに無視されるのは面白くない。紳士的な態度など期待していないが、この男は愛想がなさすぎた。
「ねえ。私はお礼を言って名乗ったのよ。あなた名前は? 名前くらいは教えてくれるでしょう?」
優は言いながら必死に足を動かした。なにしろ男の歩調はかなり速かった。
「……百武総介だ。おまえは娼婦か?」
あまりにも不躾な質問に、優は戸惑った。
「違うわよっ。百武さん、ものすごく失礼ね。私のこと、いくつに見えてるの?」
優と名乗った少女は、まだ幼いと言ってもいいくらいのあどけなさを残している。着ているものも、ニットにスエードスカートにデニムジャケットとシンプルだ。昔の資料を調べて、少ない素材を活かして一生懸命コーデしたという感じだった。せいぜい十五~六歳くらいだろう。
しかし、国が崩壊し法の力などないに等しくなってから久しい。取り締まる機関などとっくに解体され、あらゆる犯罪がはびこった。児童買春もご多分に漏れず、しかも生きるために自らを売りに出す少女は後を絶たない。血生臭いトラブルに巻き込まれたくなければ、自己防衛と独自に形成された自警団によって防ぐしかなかった。
「今時、売春するのに年齢なんか関係あるかよ」
「…あなたも私がウリをしてたら買うの?」
「俺はロリコンじゃねえよ」
その素っ気ない言い方で、優は総介のキャラが掴めてきた。この男に湿り気のある会話を求めても無駄だ。
むすっと黙りこくった優を横目で見て、総介は質問を続けた。
「だったら、なんであんな目に遭っていた。男にホイホイついていってホテルに入ったのなら、なにをされても文句は言えんぜ」
「誘拐されそうになっても?」
「相手は二人だったんだ。おかしいと思わなかったのか?」
「はじめは一人だったわよ。あなたが殴り倒した方。……逃げた男は部屋の中に隠れてたの」
「……なんにせよ、誘われるがままに男についていくのは不用心過ぎるな」
「危険は承知だった。でも、しかたなかったのよ。情報を得るためには……」
「情報?」
総介は怪訝な表情をつくった。
「百武さんは、この街に流れている噂知ってる?」
「……いや、俺は流れ者だ。この街には数日前に着いたばかりだし、明日には出ていくつもりだ。おまえのおかげで、今夜の寝床を探さなくちゃならなくなった」
「おまえじゃなくて名前で呼んでちょうだい。優でいい。あなたも総介でいいわよね?」
「勝手にしろ」
「泊まる所を探すなら、私の家に来てよ」
「おまえ……優の家に?」
「家と言っても施設なんだけどね。私、孤児なの。私のような孤児を集めて一緒に生活している施設があるのよ。そこなら、落ち着いて話せるし」
総介からしてみれば特に話すことなんかなかったが、寝床を確保できるのは魅力的だった。それに、孤児院ということは大人は少ないだろう。多少は安心して休めるかも知れない。
とっさに休息とトラブルを天秤に掛けた。僅差で休息の方に傾いた。それほど、先程の戦いで疲弊している。それに、面倒なことになったらさっさと逃げ出せばいい。
「わかった。世話になろう」
「そうこなくちゃ」
総介の思惑など考えもせず、優はちょっぴり弾んだ声を出した。