牲に赴く羊
耳が刺激され、目を覚ました。頭がツンと痺れたように一気に覚醒し、跳ね起きた。
間髪を容れず臨戦態勢を取ると、周囲に異常がないか確認した。
太陽はとっくに姿を消し、代わりに月が我が物顔で空に君臨している。蒼い雫は闇に怯える者に与える慈しみだ。
総介は、警戒しながら現在の状況を整理した。
今、自分がいるのは今夜の寝床に定めたホテルで、目を覚ましたのはなにか物音が聞こえたからだ。ここまでを把握して、やっと思考能力が追いついた。臨戦態勢を取ったのは頭で考えた行動ではなく、身体に染み付いた本能がやらせたことだ。
時計を確認したが、ベッドに倒れこんでから一時間と経過していなかった。貴重な睡眠を邪魔された怒りで、眉間にしわが寄る。
今のはなんの音だったか……。嫌でも警戒心を抱かせる破壊音だった。
総介は、まず出入口の扉を少しだけ開けて、隙間から通路の様子を伺った。状況を確認する間もなく、背後から声が聞こえた。若い女の声だ。
「やめてっ! 離してよっ!」
外から?
総介は怪訝に思った。窓を開けっ放しにしていたせいで、外からの音が明確に聞こえたようだが、それにしても声が近い。ここは四階だ。路上でのトラブルなら、もっと控えめに聞こえるはずだが……。
窓から首を出した。扉の隙間から通路の様子を伺ったのと同じように、飽くまで悟られないように気配を殺しながらだ。
この部屋の真下。三階の部屋から灯りが漏れている。
さらに首を伸ばすと、窓ガラスが破れているのが見えた。どうやらさっきの破壊音は、ガラスを割った音だったらしい。
首を巡らして他の部屋を見た。灯りが点いている部屋はちらほらあるが、何事かと伺っている者など一人もいない。窓が閉まっているので聞こえないのか、聞こえてても我関せずを通しているのか。
総介は思案した。
フロントに連絡してみるか。いや、事情を話したところで客同士の問題には関与しないと冷たくあしらわれるのは目に見えている。口では心づくしをするようなことを言っていたが、お客様のために至れり尽くせりのサービスを振る舞うなんて化石のような精神だ。
それに、あのホテルマンの微笑みは薄っぺらくて、安心よりもむしろ警戒心を抱かせるものがあった。
「誰かっ! 誰か来てっ!」
女の叫びは先程より悲痛になっている。ただの痴話喧嘩ではない。
ここで下手に首を突っ込んでトラブルに巻き込まれるのは避けたかった。翌朝にはここを発って街から出ていく予定だった。無難に通り過ぎるに越したことはない。
しかし……。
「助けてっ! 誰かっ!」
悲鳴の逼迫の度合いが一気に高くなった。自分が泊まった部屋の真下で女が殺されでもしたら寝覚めが悪い。
「くそ……」
総介は膿を絞り出すように呟くと、部屋を飛び出した。
薄暗い通路を進んだ。一応、絨毯は敷かれているものの、あちこちに黒く変色したシミがこびりついている。それでも、足音を立てないよう気を配らなくていいだけありがたかった。
目的の部屋の前まで着いた。無駄だと思ったが、ドアノブを捻ってみた。やはり鍵が掛けられている。
室内から叫び声が聞こえなくなっていた、ただ、バタバタと抵抗する音は壁越しに耳に入ってきた。
おい、まさか……。
総介は、中途半端な正義感で動いたことに後悔し始めていた。
誘拐目的なら、室内にいるのは女に飢えて畜生以下に堕ちた馬鹿か、そうでなければ奴らだ。こんな時代に人質を取ったところで、交換できるものなどありはしない。目的は交換するものではなく、襲われている女自身だ。
このまま引き返そうか……。
感情に動かされてしまったが、アメリカンコミック・ヒーローのように登場しても、こっちは無敵の超人というわけではない。襲われた女には悪いが、天命だと思って諦めてもらった方が俺が長生きできる……。
悪魔の囁きに心が傾きかけたが、いきなり扉が開いた。
出てきた男は細いが身長が高く、一見すると女性的な雰囲気さえ漂わせていた。だが、同時に人を襲った後の血生臭い興奮も滲み出ており、室内で繰り広げられていた騒ぎが只事ではないことを雄弁に語っていた。
総介と出てきた男の目が合い、互いに固まる。時間にして一~二秒の間だったが、男は呆けたように総介を凝視したままだった。待ち構えている者がいるなんて思いもしなかったのだろう。
「くそっ!」
仕掛けようと緊張していた分、総介の方が反応が早かった。
男のみぞおちに突きを食らわせた。しかし、至近距離からの発射でしかも態勢も重心移動もでたらめだ。力任せに殴っただけで急所も捉えていなかったため、たいしたダメージは与えられなかった。
男は少しバランスを崩しただけで、すぐに反撃してきた。
右手で総介の首を掴み、そのまま自分の頭上にまで持ち上げた。
「ぐええっ?」
総介の身体は完全に宙に浮いた。自分の体重で首が伸びそうだ。いや、それよりも信じられない握力で喉を圧迫され呼吸ができなかった。このままでは握り潰されてしまう。
「ぐっ、がっ……」
必死に足をばたつかせ蹴りを繰り出すが、宙に浮いたままではほとんど効果などなかった。
視界が白く濁り始め、意識が飛びそうになる。このまま気を失ったら、確実に殺されてしまう。
総介は残っている精神力を掻き集め、後ろの壁を両足で思い切り蹴った。
「むうっ?」
さすがに長身の男もバランスを崩した。総介は壁を蹴った勢いに乗って、男の下腹部には膝蹴りを見舞った。
「ごおっ⁉」
今度のは利いた。男はたまらず膝をつき両手で腹部を押さえながら前屈みに崩れ落ちた。
すかさず腰に差していた銃を抜いた。ピエトロ・ベレッタ92。かつてM9の名称でアメリカ軍に正式採用されたほどの信頼性を持つ銃だ。しかし、総介は撃つために抜いたのではなかった。グリップを、男のこめかみ向けて思い切り振り下ろした。一撃で男は昏倒したが、総介は構わず二度三度と執拗に打ちつけた。
総介が攻撃を止めた時には、男はピクリとも動かなくなった。
「うおおおっ!」
室内で女を押さえつけていたもう一人の男が、激昂の声を上げて総介に突進してきた。
「うわっ!」
総介は慌てて銃口を向け、そのまま引鉄を絞った。銃声が響いた。聞く者を萎縮させる凶暴な咆哮だ。
「だっ!」
男は強い力で突き飛ばされたように身体を回転させ、その場に倒れ込んだ。ろくに狙いもせず撃った狼狽え弾だったが、運よく命中してくれたようだ。
総介は男に銃口を向けたまま、素早く室内を観察した。ベッドには縛られた少女が横たわっていた。想像していたよりもかなり若い。
恐怖で顔面が蒼白になっていたが、意識ははっきりしているようだ。
「たっ、助けてっ」
起き上がろうとばたつくが、手が後に回されているのでなかなか上手くいかない。ベッドのスプリングがギイギイと錆びついた音を立てて耳障りだ。
「待ってろ。今解いてやる」
総介はM9をしまって少女に近づいた。しかし、縄を解く前に少女の手首にコードが刻まれていないか確認した。
「イタッ? なにするのよっ」
手首を捻られた少女は声を荒げたが、総介は無視した。
こちらは命を助けてやったのだ。少しくらい痛い思いをさせたところで文句を言われる筋合いはない。
少女の手首にコードはなく、手を加えて消した痕も確認できなかった。この少女はただの人間だ。総介は少女に対して、やっと警戒心を解いた。
「なにしてるの? 早く解いてよ」
「黙ってろ。今やってるじゃねえか」
救った者と救われた者の間に芽生える交流は、二人には生じなかった。少女はほっといても自力で脱出できたのではないかと思えるくらい強気だったし、総介は愛想がなさ過ぎた。
「死んだの?」
少女は倒れている男たちに視線を投げながら尋ねた。「殺したの?」と言わないところに、ほんのちょっとだけ気遣いが感じられる。
「さあな……」
総介にしてみれば、生きていようが死んでいようが、早くこの場を立ち去りたかった。
逃さないためだろうが、縄はやたらと固く結ばれていた。総介は舌打ちをした。仕方なくナイフを取り出し、結び目に当てがう。
その時、撃たれたはずの男がばっと立ち上がった。
「うぉっ⁉」
総介は驚愕しながらも、咄嗟に迎撃の姿勢を取ろうとした。しかし……。
「きゃあっ!?」
少女は驚いて後ろに仰け反った。
「バカッ!」
少女が邪魔で態勢が整えられない。肩を掴み強引に押しのけた。少女は派手に床に落ちたが、構っている余裕などなかった。収めたばかりのM9を再び抜いた。
「ううるぅ……」
男は犬が威嚇するように歯を剥き出しにして唸り声を上げた。なんとか飛び掛かられる前に銃を構えられたが、男の気迫に圧されて総介は思わず慄いた。




