アダムの傀儡
四階に上がった総介たちは、まずフロアの見取り図を確認した。
病室は半分程で、他はデイルームや浴室、ナースステーションなどで構成されていた。奥に大きな食堂がある。テナントとして入っていたレストランのようで『フィッシェ』と病院の中には不釣り合いなフォントで書かれていた。
「病室はいいから、まっすぐレストランに行こう。ラスボスはそこにいる」
「なぜレストランだと?」
「あそこが一番広い。広い空間でこそ、アダムの身体能力は真価を発揮する」
総介の提案に、村瀬は意見を言った。
「わからんぞ。どこかの病室に隠れていて、いきなり襲ってくるかも知れない」
「隠れる必要なんかないさ。勘違いしているようだから教えてやる。追い詰められているのは奴らじゃない。俺たちの方だぞ。ここはアダムのホームなんだ。有利な方が隠れる道理なんかない」
「新庄さんと優ちゃんは?」
「一緒にいるよ。俺たちをおびき寄せるためにわざわざさらったんだ。手元に置いときたいはずだ」
総介はレストランがある奥へと歩き始めた。その後を村瀬が追う。
「百武…さん」
「なんだ?」
「あんた、なにか格闘技か武術の心得があるのか?」
「なんでそう思う?」
「さっき、俺の蹴りを避けたろ。よほど戦い慣れてなきゃ、あんな動きはできない」
「偶々だよ。際どかった」
「それにしても……」
「寡黙なタイプと思ったが、いやに喋るじゃないか。緊張してるのか?」
「……少しな」
総介たちは隠密行動を取っているわけではないが、敵の真っ只中でお喋りするなど愚の骨頂だ。こんな状況で村瀬が話し掛けてきたのは、緊張を一時的にせよ傍らに避けたかったからに他ならない。
「お喋りは終わりだ」
総介の打ち付けるような声に、村瀬は避けていた強張りを再び取り込んだ。
レストランが近づいた。看板には、案内図に書かれていたのと同じフォントで『フィッシェ』と大きく書かれている。開放感を演出するためか、間切りがガラスの壁だった。そのおかげで、中の様子を見ることができた。
床に転がされている者が二人。目を凝らして見るまでもなく、新庄と優だった。二人ともまったく動かない。死んでいなければ気を失っているのだろう。
狐や狸を捕まえる罠のように、新庄と優を餌にして飛び込ませるつもりか? 馬鹿な。そんな見え透いた罠、すでに罠ではない。しかし……。
「……いるな」
総介が呟いた。
村瀬は足を止めた。総介の呟きに反応したからではない。格闘術を鍛錬してきた者の戦いに対する勘が、危険信号を発したのだ。
まるで空気中に微弱な電気が放出されているかのように、全身をビリビリと駆け巡る感覚。まだ対峙もしてないのに気が飲み込まれそうになるなんて、初めての経験だった。体は熱いが肝は冷たい。いつの間にか臆していることに気づき、村瀬は目だけを動かして総介を見た。彼が銃を抜くのを見て、慌てて倣った。
村瀬は射撃より刃物や徒手空拳による戦いを得意としていたが、この時はなんの躊躇いも抱かずに、飛び道具を頼った。
総介は違和感の正体を必死に考えていた。村瀬も感じている凄まじい威圧に気が張るも、生き物の気配がまるでなかった。
なにか変だ。なにかがおかしい。
「村瀬。俺と背中合わせになれ。動いているものが目に留まったら、構わず撃て」
総介の指示に、村瀬は無言で従った。先程の手合わせで、総介の戦闘センスを認めているからだ。
「ゆっくりだ。ゆっくり進め」
総介と村瀬は、歩調を合わせて優たちに近づいた。
韮崎は緊張の極致にいた。
目の前に展開されている光景が信じられなくて、ここは夢の中なのかと本気で疑った。
「戸川さん……これって……」
たまらず、隣で呆然としている戸川に声を掛けた。まともな返事を期待してではない。自分以外に正気を保っている人間がいることを確認するためだ。
この病室を開けたのはほんの一分前。敵の襲撃に怯えていた気持ちがぶっ飛んでしまうほどの禍々しいものが、視野に飛び込み脳に焼き付いてしまった。
二人の前には、何十人もの横たわる人の群れだった。ベッドに寝かせられる者はまだマシで、直に床に転がっている者や、さらにその上に被さっている者まで見られた。
全員、目が見開かれているのに、その瞳にはなにも映っていない。天井や壁の向こう側を眺めている。曇天よりも濁った目だ。
「この人たちは、みんな消息を断った人たちだ」
「こんなところに……」
生き物が放つ生命力がまるで感じられない。全員が魂を抜かれたように朦朧としているが、死んでいないことは胸が上下していることからわかる。
「まるで、麻酔薬を投与されたみたいだ」
「麻酔? 馬鹿な。こんな大勢に使える分の麻酔なんて……」
こんな荒れ果てた病院に残っているはずはない。そう思っていたら、一人が呻き声をあげてずるずると這いずりだした。
「ひいっ」
韮崎が情けない声を出す。しかし、笑う場面ではなかった。その緩慢ながらも不気味な動きは、ゾンビ映画でお馴染みの生ける屍を思い出させた。
「く…く、す、り」
「え? なに?」
「くす、りを……」
「た、助けないと……」
韮崎は、足元の男が喋ったことで意思の疎通ができると少し安心した。怖さで固まっていた義務感がむくむくと鎌首をもたげた。日頃から人命第一を諭されている刷り込みが発揮され、絡め取られそうな足を必死に動かして一人に近づいた。本人としては、ごく当然の行動だと思った。しかし、その瞬間、戸川から叱責が飛んだ。
「近づくなっ!」
韮崎は、まるで熱湯に手を突っ込んでしまったみたいに延ばしかけた手を引っ込めた。
「な、なんです。この人たち、まだ生きてるんですよ」
「馬鹿野郎。この中に一体でもアダムが紛れ込んでたら、反撃する間もなくやられちまうぞ。それに百武の話を信じるなら、こいつらは……」
そう言われて、韮崎は今度は後ずさった。確かにこれでは見分けようがない。一メートルも離れていない者が、アダムかそれに属する者でない保証などどこにもないのだ。周囲と同じ態でいるだけでいとも簡単に紛れることができる。人間と同じ姿というのがこれほどまでに脅威になるとは、今更ながら足元が覚束なくなる思いだ。
「では、どうすれば……まさか、全員がアダムの傀儡となってるわけはないし……」
「アダムの傀儡か。上手いことを言いますね」
いきなりの第三者の声に、韮崎は今度こそ心臓が止まりそうなほど驚いた。
「あんた……なんでここに」
戸川が言い終わらないうちに、声の主が放った貫手が韮崎の縮こまった心臓を貫いた。
総介と村瀬は、互いの背後を見張りながら新庄と優の目の前まで近づいた。
テーブルは奥に寄せられており、自由に動き回れるスペースが確保されていた。埃の被り具合から、以前からこのようになっていたのがわかった。かつては病院の憩いの場を担っていた場所は、殺風景な、ただの広い空間になっていた。
先程までビシビシ伝わってきた圧力が溶けたように消えていた。
総介は村瀬に二人のそばにいるよう指示をして、厨房やテーブルの下を確認した。
「誰もいない」
言いながら、村瀬の元に戻った。
「どうなってる?」
村瀬が質問してきたが、それは総介が知りたかった。
予想していた展開と違う。この敵はコソコソ隠れて不意討ちするようなタイプではない。だから、室内を調べたのも一応念のため行ったに過ぎない。
村瀬がしゃがんで二人の安否を確認している。
「どうだ?」
「…大丈夫。気を失っているだけだ」
二人とも生きていることに安堵するが、不安は消えない。敵はすぐ近くにいるはずなのに、なぜ姿が見えない。不気味な二律背反が、総介の神経を逆なでした。
「二人を起こせ。戸川たちと合流してここから脱出する」
不気味ではあるが、この状況を好機と捉えることにした。戦わずにこの場を離れられるなら、それに越したことはない。
村瀬が二人を揺らしたり頬を叩いて、目覚めさせた。
「う……」
意識を取り戻した新庄が呻いた。優も遅れて目覚めるが、とたんに拳を突き出し、脚をばたつかせ暴れ始めた。絹を裂く悲鳴が耳に障った。
「落ち着けっ! 大丈夫だ」
村瀬が彼女の手首を掴んで押さえつけた。
「大丈夫か?」
総介の姿を認めると、優は抵抗するのをやめ、目から大粒の涙を溢れ出させた。
「大丈夫か?」
総介がもう一度訊くと、優はコクコクと頷いた。
「怖かった……怖かったよぉ」
甲高い悲鳴とは一転して、優はくぐもった声で嗚咽を漏らした。気の済むまで泣かせてやりたかったが、あまり悠長にしていられない。
「急げ。戸川たちと合流するんだ。新庄さんを立たせろ」
村瀬は、まだ朦朧としている新庄の腕を肩に回した。
「優ちゃんは……」
「私なら平気……大丈夫です」
気丈にもゴシゴシと涙を拭って、優は自分の足で立ち上がった。そして訊いてくる。
「亜希は?」
「わからない。うまくいってれば戸川たちが保護しているかも知れないが、期待はできない」
総介は答えながらも、内心では見つからないことを願っていた。亜希が他の者と同じような処置を施されていたら、それはもう優の知っている亜希ではなくなっているはずだ。
これまで襲ってきた半獣なように変わり果てていたとしたら、優に会わせるのはあまりに残酷だ。
「しっ」
総介の葛藤は、村瀬の鋭い声に散らされた。
「どうした?」
「今、階段から足音が……」
総介は階段のある位置を見つめた。総介たちが登ってきた階段ではなく、レストランの手前にある方だ。




